さよなら、スタジオ有栖ちゃん ー仮面の優等生と秘密の練習会ー



「具体策、決めてなかったなと思って」

 翌朝。
 朝の引き締まった空気の中で、花壇に水をやりながら佐伯君が言った。

「練習するって決めたからには、いつどこで何をするか決めとかないと、だろ」
「……佐伯君、やっぱり優等生なんじゃ」
「ちがう。俺はやりたいことはしっかりやるタイプなの」

 佐伯君はレンガに腰掛ける私を振り返りながら否定した。
 端の方に積まれているレンガが椅子代わりにちょうど良いのだと、教えてくれたのは佐伯君だ。

「『いつ』は今じゃないですかね」
「今? 朝ってことか」
「はい。練習なら定期的に時間を設けた方が良いでしょうし、放課後じゃ佐伯君は部活が忙しいと思うので」

 写真部は週二日の緩やかな活動だけど、彼が所属しているバスケットボール部は毎日厳しい練習があるはずだ。

「練習だから、人目につかない方が望ましいですしね」

 朝の校庭や花壇の周りには、ほとんど人がいない。

「よし。じゃあ朝だな。場所は花壇。雨の日はナシな」

 小さく頷く。

「いいと思います」
「じゃああとは『何をするか』だな」

 はて、と私は首をひねった。
 決まっていたはずだ。

「私は誰かと仲の良いふりをしない、佐伯君は優等生のふりをしない、って言ってましたよね?」
「でもさ、それって、対象者がいない場所では難しくないか? 西条たちがいないのに仲良いふりをしないって、どうやって練習すんの?」

 はたと気づく。
 言われてみれば、まったくその通りだった。

「えっと、整理しましょうか。佐伯君は皆のイメージ通りの優等生であるふりをしている自分を『無理をしてるな』って感じているんですよね?」
「そう。有栖川は西条たちと友達のふりをしている自分を『無理をしている』って思ってるだろ」

 うんうん、と深く頷く。

「笑顔の仮面を貼り付けてるみたいな気がしちゃうんです」
「俺も。じゃあ……笑わなくていいってことか?」
「なるほど。笑わない」
「いや、笑いたいときは笑っていいけど……愛想笑いを無くす、とか」
「ああ、いいですね。そうしましょう」
「あとは、話したくないときは無理に話さなくていい」
「ですね……」

 口では返事をしたものの、なんだか胸のつかえが取れない。
 どこかしっくりこなかった。

「あの……消極的過ぎませんか?」
「たしかに」

 佐伯君も苦笑いを浮かべた。
 今の条件をそのまま当てはめると、ここではただ二人でむすっとした顔をして黙り込んでいるだけになってしまう。
 それが自分たちの「無理をしない練習」として良い効果を生むとは思えなかった。

「あ、じゃあ楽しい話をするってのはどう?」

 佐伯君が何かを閃いたような顔で提案してくる。

「例えば?」
「好きなことの話。部活の話はちょうど良いんじゃないかな。俺はバスケ、有栖川は……?」
「写真部です。それ、いいですね」

 写真のことなら、何時間でも話せそうな気がする。

「好きなことを話せば、無理じゃなくて自然に笑えそうだし。うん、いいな」
「はい。テーマを持って会話をするのは『無理をしない練習』にぴったりですね」
「よし。じゃあそんな感じで。毎日一個くらいはお互いに好きなネタを持って来よう」
「はい」

 さっきまでの不安が嘘のように消え去り、胸の奥がわくわくとした高鳴りで満たされていく。


 キーンコーンカーンコーン……


 予鈴だ。

「あ、行かなきゃ」

 慌てて立ち上がると、

「有栖川」

 佐伯君が呼び止めた。

「敬語、やめようぜ」
「え?」
「同い年だし。無理しない練習だから、敬語は無しにしないか?」
「あ、はい。……うんっ」

 彼の勢いに押されるようにして、返事をする。
 それを見た佐伯君は、どこか楽しそうに口元を緩めた。

「じゃ、また明日」
「うん、また明日……」

 私は小さく手を振り、教室に向かって走った。
 廊下を駆け抜けながら、バクバクと暴れる胸を押さえる。
 走ったせいで息が切れてドキドキしているのか、それとも、見たことのない新しい毎日が始まりそうな予感にドキドキしているのか、今の私にはよくわからなかった。



*



「じゃあ、うちのグループは日本庭園だね。『野面積(のづらづ)み』の写真を撮って、事前に調べたものと照らし合わせる、と」

 ロングホームルームの時間は、少し先に予定されている校外学習についての事前調査だ。
 もともとは遠足に「校外学習」というそれらしい名前をつけただけの行事だ。班ごとにやるべき調べ物も当日の課題も、それほど多くはない。

「写真いっぱい撮りたいよね」
「ねえ見て芹香。映えスポット検索してみた」

 当日向かう公園の情報をスマホで調べていた希美が、画面を芹香に向ける。

「全部回るのは無理だよね。記念公園は広いし」
「ねえねえ、有栖ちゃんはこっちとこっちどっちが良く撮れそうだと思う?」

 芹香がスマホの画面を私に見せてくる。

「ちょっと待ってね」

 画面に表示された園内マップを見ながら、頭の中で太陽の向きと方角を確認する。

「行ってみないとわからないけど、午前中ならこの大きな木の所、午後はこっちの噴水が綺麗に撮れそう」

 光の射し込む角度と時間帯を考え、逆光にならなそうな場所を指で示して提案した。

「いいね、じゃあそのプランで行こう。ありがとう有栖ちゃん」
「写真のことは、スタジオ有栖ちゃんに任せておけば安心だよね」

 二人が顔を見合わせて笑う。
 久々に目にした、芹香と希美の、何の含みもない素直な笑顔に胸の奥がホッと温かくなる。

「楽しみだね、校外学習」
「ね!」

 明るい声が、教室の空気の中に心地よく満ちていった。



*



「校外学習、来週だっけ?」
「うん」

 帰りの遅い父を待たずに、母と二人の夕食が始まった。湯気が立つお味噌汁を口に運ぶ母が、目を細めて聞いてくる。

「お弁当のおかず、何がいい?」
「何でもいいよ。お母さんのお弁当美味しいもん」
「またまたー。褒めたって、いつも以上のものは出ないわよ」

 そう言いながらも、母の目元は嬉しそうに和らいでいる。

「おやつは? 皆で買いに行くの?」
「お母さん、小学生じゃないんだから。みんなそれぞれで用意するの」
「そっか。じゃあお金あげるからスーパーで好きなの買って来なさい」

 私以上に嬉しそうな顔をする母を見ていると、胸の奥に安堵が広がる。
 自分の本当の気持ちがどうであれ、こうして「トモダチ」とうまくやって過ごしてさえいれば、お母さんは安心して笑ってくれるのだ。

「楽しみね」
「うん……」

 母の温かな視線から逃げるように、ご飯を黙々とかき込んだ。