正解のない教室


「じゃあ今はそれで」

 私たちは手をつないだ。

 未来の約束はしなかった。

 永遠も。

 絶対も。

 待つとも。

 別れないとも。

 ただ今は、
 付き合っている。

 それだけ。

 以前の私なら、
 不安定すぎて耐えられなかったと思う。

 今も怖い。

 でも。

 決まっていない未来を、
 決まっているふりをするよりは、
 少しだけ楽だった。

第六十五章 十七歳への手紙

 冬。

 三枝先生から連絡が来た。

〈フリースクールで企画をします。協力してもらえませんか。〉

 企画名。

〈十七歳の自分への手紙〉

 私は笑った。

〈先生、こういうの好きですね〉

〈仕事なので。〉

 美緒と相馬にも声がかかった。

 三人で参加した。

 会場には十五歳から十八歳までの生徒が二十人ほどいた。

 三枝先生が言う。

「今日は十七歳の自分へ手紙を書いてください」

 一人の男子が手を挙げる。

「今十六なんですけど」

「未来の自分へ」

「十七の人は?」

「今の自分へ」

「十八は?」

「過去の自分へ」

「十九は?」

 美緒が聞いた。

「あなた方ですね」

「どうするの?」

「過去へ」

 紙が配られる。

 私はペンを持った。

〈十七歳の葵へ。〉

 そこまで書いて止まった。

 何を言う。

 自分を信じて。

 違う。

 好きなことをして。

 違う。

 失敗を恐れないで。

 それも違う。

 私は書いた。

〈あなたはこれから、たくさん間違えます。〉

 少し考える。

 続ける。

〈友達を傷つけます。
 好きな人も傷つけます。
 父親と喧嘩します。
 自分で決めたことを後悔します。
 第一志望にも落ちます。〉

 ひどい手紙だ。

 少し笑った。

〈でも、間違えたから人生全部が間違いになるわけではありません。〉

 書く。

〈正しいことを言って人を傷つけることがあります。
 間違ったことをして誰かに救われることもあります。
 善意が迷惑になることもあります。
 反対されることが愛情のときもあります。
 応援されることが苦しいときもあります。〉

 さらに。

〈だから、簡単に決めないでください。
 あの人が正しい。
 この人が間違っている。
 私は正しい。
 私は間違っている。
 そんなふうに急いで採点しないでください。〉

 そして。

〈でも、決めなければならないときは決めてください。〉

 矛盾。

 でも書く。

〈怖くても。
 分からなくても。
 誰かに影響されていても。
 完全に自分だけの答えじゃなくても。
 そのとき選べるものを選んでください。〉

 最後。

〈あと、吹奏楽を辞める前にもう一回考えて。
 フルートは本当に好きだから。〉

 書いて笑った。

 結局そこ。

「書けた?」

 美緒が覗く。

「見るな」

「私見せる」

「何書いた?」

 美緒の手紙。

〈十七歳の私へ。
 相馬に告白して振られます。
 でも大丈夫。
 そのあともっと格好いい人に会います。〉

「え?」

「何」

「もっと格好いい人?」

「そこ?」

「誰?」

「秘密」

「彼氏?」

「秘密」

「いつから?」

「うるさい」

 相馬が来る。

「何?」

「美緒に彼氏」

「マジ?」

「まだ言ってない!」

 三人で騒ぐ。

 三枝先生が、

「静かに」

 と注意する。

 昔と同じだった。

 少しだけ。

第六十六章 届かない手紙

 企画の最後。

 一人の女子が手を挙げた。

「先生」

「はい」

「十七歳の自分に手紙書いても、届かないですよね」

「そうですね」

「意味あるんですか」

 会場が静かになる。

 三枝先生は答えなかった。

「どう思います?」

 女子に聞き返した。

「意味ないと思う」

「なぜ?」

「過去変わらないから」

「そうですね」

「じゃあ何で書くの?」

「私は」

 三枝先生は言った。

「過去の自分ではなく、今の自分が読むためだと思っています」

「今?」

「はい」

「意味分かんない」

「過去の自分に言いたいことは、今の自分が何を考えているかということでもあります」

 女子は納得していない顔。

「でも過去は変わらない」

「変わりません」

「じゃあ後悔しても無駄?」

 三枝先生は少し考える。

「後悔に意味が必要ですか」

「え?」

「悲しいことに意味は必要ですか」

「……」

「失敗にも?」

「……」

「意味がなくても、あるものはある」

 私はその言葉を聞いていた。

 私たちは、
 何でも意味にしたがる。

 失敗したから成長した。

 傷ついたから強くなった。

 落ちたから今の大学に出会えた。

 でも。

 傷つかないほうがよかったこともある。

 失敗しないほうがよかったこともある。

 無理に意味を作らなくてもいいのかもしれない。

「先生」

 私が手を挙げる。

「はい」

「じゃあ柴崎さんのことも?」

 空気が変わる。

 三枝先生は私を見る。

「はい」

「意味を探さなくていい?」

「私は、そう思うようになりました」

「先生が教師辞めたことも?」

「それは私が選んだことです」

「柴崎さんが亡くなったから?」

「きっかけの一つです」

「じゃあ意味になってる」

「違います」

 先生は静かに言った。

「私が意味を作ったんです」

「……」

「柴崎の死そのものに、私が勝手に意味をつけてはいけないと思っています」

 私は黙った。

「人の死を、自分の成長物語に使ってはいけない」

 静かな言葉。

「私は七年かかって、それに気づきました」

 会場の誰も喋らなかった。

 私は柴崎航平の曲を思い出した。

 未完成。

 続きを誰も書かなかった。

 それでよかった。

第六十七章 十九歳の問い

 企画の帰り。

 三人で歩いた。

「美緒」

「何」

「彼氏誰」

「まだ言う?」

「言う」

「大学の人」

「どんな?」

「普通」

「普通って」

「普通」

「相馬より格好いい?」

「比べる?」

「気になる」

「俺も」

「相馬まで」

 美緒が笑う。

「写真見る?」

「見る」

 見せてもらう。

「普通」

「でしょ」

「でも優しそう」

「優しい」

「好き?」

「うん」

 美緒が照れた。

 珍しい。

「いいじゃん」

「ありがと」

「いつから?」

「二か月」

「何で言わなかったの」

「タイミング」

「親友なのに」

「親友なら全部言わなきゃ駄目?」

 言葉に詰まる。

「そういう意味じゃない」

「冗談」

「美緒!」

 三人で笑った。

 駅。

 美緒は別方向。

「じゃあね」

「また」

 私と相馬が残る。

「留学いつ?」

「四月」

「あと三か月」

「うん」

「嫌だな」

「俺も」

「行くのに?」

「行きたいと嫌は両方ある」

「美緒みたい」

「影響された」

 ホーム。

 電車を待つ。

「相馬」

「何」

「十七歳のとき、何悩んでた?」

「弟」

「うん」

「先生殴ったこと」

「うん」

「自分が正しかったか」

「今は?」

「まだ分かんない」

「二年考えても?」

「うん」

「そっか」

「藤野は?」

「何が?」

「十七歳のときの問い」

 私は考える。

 自分の人生なのに、
 他人を失望させないことを優先しなければならないのか。

 あのころの私。

「今なら」

「うん」

「失望させてもいい、とは言わない」

「うん」

「失望させないほうがいい、とも言わない」

「じゃあ?」

「失望させるかもしれないって分かったうえで、それでも選ぶことはある」

「うん」

「逆に」

「うん」

「誰かを悲しませたくないから、自分の希望を諦めることもある」

「それもあり?」

「あり」

「昔の藤野なら怒りそう」

「怒る」

「今は?」

「本人が選んだなら」

 言ってから止まる。

「いや」

「何?」

「本人が選んだかどうかも、外から簡単に決められない」

「うん」

「だから」

「だから?」

「分かんない」

 相馬が笑った。

「結局それ」

「最強だから」

 電車が来る。

 ドアが開く。

 乗る。

 窓に自分の顔が映る。

 十九歳。

 十七歳のころより、
 答えが増えたと思っていた。

 でも実際には、
 問いが増えただけだった。

 それなのに。

 不思議と、
 前より生きやすかった。

 正解が増えたからではない。

 正解がなくても、
 人は生きていけると知ったから。

第六十八章 問いを持つ人

 年が明けた。

 三枝先生から年賀状が届いた。

 手書き。

〈今年の問い。
 「幸せになることは義務でしょうか」〉

「何これ」

 私は笑った。

 父に見せる。

「変な先生だな」

「元担任」

「知ってる」

「お父さんなら?」

「何が」

「幸せになることは義務?」

「違うだろ」

「即答」

「不幸でも生きてていい」

 私は父を見る。

「意外」

「何が」

「もっと、幸せになれって言うかと思った」

「幸せになってほしいとは思う」

「うん」

「でも、ならなきゃいけないと言ったら疲れるだろ」

 父が言った。

 この人、
 こんなことを言う人だっただろうか。

「お父さん」

「何だ」

「変わったね」

「老けた?」

「そうじゃなくて」

「お前も変わった」

「どこが?」

「面倒になった」

「前から」

「前より」

「最悪」

 父が笑う。

 私も笑った。

 私は年賀状の裏に返事を書いた。

〈今年の答え。
 義務ではないと思います。
 でも幸せになりたいと思うのも自由。
 幸せじゃない日があっても、それで人生が失敗になるわけではない。
 ――今日のところは。〉

 ポストへ入れる。

 冬の空。

 冷たい風。

 私は歩く。

 十九歳。

 もう十七歳ではない。

 でも。

 あの一年に持った問いは、
 まだ私の中にある。

 問いは答えを出したら消えるものではない。

 答えが変わるたび、
 問いも少し形を変える。

 自分の人生は誰のものか。

 正しいことをすれば人を傷つけてもいいのか。

 夢は諦めてはいけないのか。

 家族を悲しませてもいいのか。

 自分で選んだなら後悔してはいけないのか。

 好きな人の夢を止めてもいいのか。

 間違えた人はどこまで罰を受けるべきなのか。

 誰かを助けたいと思うことは、
 本当にその人のためなのか。

 幸せにならなければならないのか。

 たぶん。

 大人になるということは、
 答えをたくさん知ることではない。

 問いを持ったままでも、
 朝起きて、
 ご飯を食べて、
 誰かと話して、
 ときどき間違えて、
 それでも次の日へ行けるようになることなのかもしれない。

 私はまだ、
 そこまで大人ではない。

 でも。

 十七歳のころよりは、
 問いを怖がらなくなった。

 正解がないことより。

 誰かの正解を、
 考えずに自分のものにしてしまうことのほうが、
 今は少し怖い。

 だから私は、
 たぶんこれからも迷う。

 迷って。

 選んで。

 後悔して。

 変えて。

 また選ぶ。

 その繰り返し。

 そしていつか、
 十七歳の誰かに、

「どうすればいいですか」

 と聞かれたら。

 私はたぶん、
 すぐには答えない。

 その代わりに聞く。

「あなたは、どうしたい?」

 もしその人が、

「分かりません」

 と言ったら。

 私はきっと笑う。

 そして言う。

「じゃあ、一緒に考えよう」

 それだけは今のところ、
 かなり気に入っている答えだった。