『正解のない教室』
第一章 正しい人
十七歳になって最初に気づいたのは、大人は思っていたより頻繁に「正解」という言葉を使う、ということだった。
「今のうちに勉強しておくのが正解だよ」
「大学には行っておいたほうが正解」
「友達は選んだほうがいい」
「高校生の恋愛なんて深入りしないほうがいい」
「親の言うことは聞いておいたほうがいい」
どれも命令ではなかった。
だから厄介だった。
命令なら反抗できる。
「絶対にこうしなさい」と言われれば、「嫌だ」と返せる。
けれど、「あなたのためを思って」と言われると難しい。
正解という言葉は、命令より柔らかく、そして命令より逃げにくかった。
高校二年の九月。
月曜日の一時間目。
担任の三枝先生は黒板に大きく書いた。
〈あなたが大切にしているものを一つ挙げなさい〉
「今日は授業じゃありません」
三枝先生はそう言った。
教室が少しざわついた。
「先生、それ国語?」
後ろから声が飛ぶ。
「国語じゃない」
「じゃあ何?」
「ホームルーム」
「一時間目、現国ですよ」
「今日は変更」
「ラッキー」
誰かが言った。
三枝先生は笑わなかった。
三十八歳。国語教師。細い銀縁眼鏡をかけていて、いつも紺か灰色のシャツを着ている。
怒鳴ったところを誰も見たことがない。
それなのに、生徒からは少し怖がられていた。
怒らない人のほうが怖いこともある。
「紙を配ります」
前から白い紙が回ってきた。
名刺より少し大きい。
「名前は書かなくていい。あなたが大切にしているものを、一つだけ書いてください」
「人でもいいんですか?」
「いいです」
「物でも?」
「いい」
「お金」
男子が言って笑いが起きた。
「もちろん、お金でもいい」
三枝先生は真顔で答えた。
笑いが止まった。
私は紙を机に置いた。
シャープペンシルを持った。
大切なもの。
家族。
友達。
将来。
自分。
健康。
夢。
命。
いくらでも思いつく。
でも、一つと言われると何も書けなかった。
隣を見る。
親友の佐倉美緒はすでに書いていた。
手で隠している。
「見ないで」
「見てない」
「見てた」
「何書いた?」
「言わない」
「じゃあ私も言わない」
「まだ書いてないじゃん」
「これから書く」
私は紙にペン先を置いた。
そして、
〈期待を裏切らないこと〉
と書いた。
書いてから、少し変だと思った。
大切な「もの」ではない。
消そうか迷った。
けれど三枝先生が、
「後ろから集めて」
と言ったので、そのまま出した。
紙は教室の後ろから前へ運ばれた。
三枝先生は教卓で束を受け取った。
「今から読みます」
「え?」
何人かが声を上げた。
「匿名だから問題ないでしょう」
「先生も書いた?」
美緒が聞いた。
「書いてない」
「ずるい」
「そうですね」
三枝先生はあっさり認めた。
そして一枚目を開いた。
「家族」
二枚目。
「友達」
三枚目。
「自分」
次。
「猫」
笑い。
「サッカー」
「お金」
「睡眠」
「推し」
「自由」
「時間」
「おばあちゃん」
「彼女」
「スマホ」
「音楽」
「自分の部屋」
いろいろな答えが出た。
どれが誰のものなのか、だいたい想像できるものもあった。
やがて三枝先生の手が止まった。
「期待を裏切らないこと」
私は顔を上げなかった。
誰も笑わなかった。
三枝先生も何も言わなかった。
次の紙を読む。
「正しく生きること」
その瞬間だった。
「それ、無理じゃね?」
窓際の一番後ろから声がした。
声の主は相馬蓮だった。
九月からこのクラスに来た転校生。
まだ転校して一週間しか経っていない。
髪は校則ぎりぎりの長さで、制服のネクタイを少し緩めている。
転校初日の自己紹介は十五秒だった。
「相馬蓮です。よろしくお願いします」
それだけ。
前の学校について聞かれても答えなかった。
部活にも入らなかった。
休み時間はたいてい一人で本を読んでいる。
三枝先生が相馬を見る。
「何が無理なんですか」
「正しく生きること」
「なぜ?」
「正しいって、誰が決めるんですか」
教室が静かになった。
三枝先生は答えなかった。
相馬は続けた。
「国?」
「場合によります」
「学校?」
「場合によります」
「親?」
「それも場合による」
「じゃあ、自分?」
「それも場合によるでしょう」
相馬は笑った。
「ほら」
「何が、ほら、なんですか」
「正しいことなんて、誰にも決められない」
三枝先生は紙の束を机に置いた。
「では、人を殺すことは?」
一瞬、空気が変わった。
「正しくない」
誰かが言った。
「なぜ?」
「犯罪だから」
「戦争では?」
誰も答えなかった。
「死刑制度では?」
さらに静かになる。
三枝先生は相馬を見る。
「あなたの言う通り、簡単ではありません」
相馬は窓の外へ目を向けた。
「でも」
三枝先生は言った。
「だから考えなくていい、ということにはならない」
チャイムが鳴った。
「今日はここまで」
「え、それだけ?」
誰かが言った。
「それだけです」
三枝先生は紙を封筒に入れた。
そして教室を出ていった。
途端に騒がしくなる。
「何だったんだよ」
「授業つぶれたからよくない?」
「正解とか哲学じゃん」
「相馬、先生と喧嘩してた?」
「してないだろ」
私は自分の書いた言葉を思い出していた。
〈期待を裏切らないこと〉
なぜ、あんなことを書いたのだろう。
自分でも分からなかった。
その日の放課後、進路指導室に呼ばれた。
理由は分かっていた。
模試だった。
夏休みの全国模試。
私は第一志望に東京大学を書いていた。
判定はB。
「十分狙える」
進路指導の宮田先生は言った。
「二年のこの時期でBなら悪くない」
「はい」
「数学が上がったね」
「はい」
「英語は安定してる。国語も悪くない。あとは理科」
「はい」
「この調子で」
「はい」
私は「はい」を三回言った。
四回目を言いそうになったところで先生が笑った。
「そんな緊張しなくていいよ、藤野」
「してません」
「してるよ」
机の上に成績表がある。
校内順位、三位。
「お父さん、東大だったよね」
「はい」
「お母さんは?」
「早稲田です」
「すごい家だ」
「普通です」
「お兄さんも東大だった?」
「今、三年です」
「じゃあ藤野も続かないとな」
冗談だったのだと思う。
だから私は笑った。
「はい」
また言ってしまった。
進路指導室を出る。
廊下の窓からグラウンドが見えた。
サッカー部の掛け声。
吹奏楽部の音。
テニスボールの乾いた音。
高校生らしい放課後だった。
私はどこにも所属していない。
一年のときは吹奏楽部に入っていた。
フルート。
好きだった。
でも一年の冬に辞めた。
勉強との両立が難しくなったからだ。
正確には、父にそう言われたからだった。
「三年間しかできない部活と、一生を左右する受験と、どちらが大事だと思う?」
父はそう聞いた。
私は答えなかった。
「冷静に考えれば分かるだろ」
冷静に考えた。
だから辞めた。
正しい判断だった。
たぶん。
「藤野」
呼ばれて振り向く。
相馬だった。
「進路指導?」
「そう」
「怒られた?」
「なんで」
「呼び出されてたから」
「模試の話」
「ああ」
相馬は階段へ向かう。
私も同じ方向だった。
並んで歩く形になる。
「藤野って頭いいんだ」
「普通」
「三位だろ」
私は足を止めた。
「なんで知ってるの」
「廊下に貼ってあった」
「貼ってないよ」
「じゃあ美緒」
「美緒が言ったの?」
「違う」
「今、美緒って言った」
「佐倉」
「なんで美緒って呼んでるの」
相馬が笑った。
「そこ?」
「だって転校して一週間で」
「昨日、駅で会った」
「それで?」
「話した」
「それだけで?」
「名前で呼んじゃ駄目?」
「駄目じゃないけど」
なんとなく面白くなかった。
美緒は小学校からの親友だ。
それを転校してきたばかりの男子が突然「美緒」と呼ぶ。
私の知らないところで、私の友達と仲良くなる。
そんな些細なことが気になった。
「藤野は?」
「何」
「名前」
「藤野葵」
「知ってる」
「じゃあなんで聞くの」
「葵って呼んでもいい?」
「嫌」
「即答」
「藤野でいい」
「じゃあ藤野」
「何」
「東大行くの?」
「たぶん」
「行きたい?」
私は答えなかった。
階段を下りる。
「何、その質問」
「普通の質問」
「行きたいから志望してるんでしょ」
「じゃあ行きたいんだ」
「そう」
「何学部?」
「まだ決めてない」
「大学で何したい?」
「それもまだ」
「将来何になりたい?」
「……決めてない」
相馬はそれ以上聞かなかった。
靴箱まで来た。
「じゃあ、なんで東大?」
私はローファーを出した。
「選択肢が増えるから」
「誰が言った?」
「え?」
「それ」
「みんな言うでしょ」
「みんな?」
「先生とか、親とか」
「藤野は?」
「何」
「自分でもそう思う?」
私は靴を履いた。
「思うよ」
「そっか」
相馬は先に校舎を出た。
私はその背中を見た。
腹が立った。
理由は分からなかった。
家に帰ると、母が夕食を作っていた。
「おかえり」
「ただいま」
「模試の面談どうだった?」
「なんで知ってるの」
「学校から連絡来てたでしょう」
「ああ」
「どうだった?」
「普通」
「判定は?」
「B」
母の包丁が止まった。
「東大?」
「うん」
「すごいじゃない」
母は本当に嬉しそうだった。
「お父さん喜ぶわよ」
「そうかな」
「もちろん」
その日の夕食で父は言った。
「Bなら十分だ」
「うん」
「ただ油断するなよ」
「うん」
「兄貴だって二年の秋はAじゃなかったからな」
「そうなの?」
兄が答える。
「Cだった」
「意外」
「お前、俺を何だと思ってる」
「天才」
「嫌味?」
「褒めてる」
父が笑った。
「葵ならいけるよ」
兄が言った。
「お前、俺より真面目だし」
「真面目と頭の良さは違うでしょ」
「真面目が一番強い」
「そうだぞ」
父も言う。
「努力を続けられる人間が最後には勝つ」
私は味噌汁を飲んだ。
「うん」
家族は優しい。
父も母も兄も、私を応援している。
虐待なんてない。
怒鳴られることもない。
何かを無理やり強制されたこともない。
だからこそ私は、ときどき分からなくなる。
私は何に苦しいのだろう。
恵まれている。
成績もいい。
友達もいる。
家族仲も悪くない。
お金にも困っていない。
進学校に通っている。
大学にも行けるだろう。
なのに、夜になると、ときどき全部から逃げたくなる。
理由のない苦しさは、理由のある苦しさより説明が難しい。
部屋に戻る。
机を開く。
数学の問題集。
英単語。
化学。
今日やることは決まっている。
スマホが震えた。
美緒からだった。
〈今日のホームルーム、変じゃなかった?〉
〈変だった〉
〈相馬も変〉
〈それは思った〉
〈でも面白くない?〉
私は少し考えた。
〈別に〉
送信。
すぐ既読になる。
〈葵、相馬嫌い?〉
〈好きじゃない〉
〈まだ一週間だよ笑〉
〈美緒は好きなの?〉
送ってから後悔した。
既読。
返信が来ない。
一分。
二分。
五分。
問題集を開く。
一次関数でも二次関数でもない。
微分。
解ける。
私は問題を解いた。
スマホが震えた。
〈分かんない。でも気になる〉
胸の奥が少し痛んだ。
それが何なのか分からなかった。
〈そうなんだ〉
送信。
スマホを伏せた。
勉強を続けた。
午後十一時。
父がドアをノックした。
「まだやってるのか」
「うん」
「十二時までには寝ろよ」
「分かった」
「無理するな」
「うん」
優しい。
みんな優しい。
だから私は期待を裏切れない。
第二章 屋上の不正解
翌日の昼休み、美緒がいなくなった。
購買に行ったと思っていた。
十分経っても戻らない。
LINEを送る。
〈どこ?〉
既読にならない。
「佐倉なら屋上行ったよ」
クラスメートが言った。
「屋上?」
「相馬と」
私は立ち上がった。
自分でも驚くくらい勢いよく。
「葵、どうした?」
「別に」
弁当を置いたまま教室を出た。
屋上は通常立入禁止だ。
ただし扉の手前に小さな踊り場があり、そこまでは行ける。
階段を上る途中で声が聞こえた。
美緒だった。
「じゃあ本当に辞めたの?」
「うん」
相馬の声。
「高校?」
「前の学校」
「なんで?」
「合わなかった」
「それだけ?」
「それだけ」
「絶対嘘」
「なんで」
「それだけで高校辞めないでしょ」
「辞めるよ」
私は階段の途中で止まった。
盗み聞きしている。
戻ろうと思った。
そのとき相馬が言った。
「俺、人を殴ったんだよ」
足が止まった。
美緒も黙った。
「先生」
「え?」
「前の学校の先生、殴った」
「……マジ?」
「マジ」
「なんで?」
「それは秘密」
「退学?」
「自主退学」
「それで転校?」
「そう」
私はゆっくり後ろへ下がった。
踵が階段に当たる。
コツ、と音がした。
「誰?」
美緒の声。
逃げようと思った。
でも遅かった。
美緒が階段から顔を出す。
「葵?」
「……何してんの」
「こっちの台詞」
相馬も現れた。
「盗み聞き?」
「違う」
「聞いてた?」
「聞いてない」
「先生殴ったところから?」
「聞いてるじゃん」
相馬は笑った。
「最低」
「ごめん」
謝った。
すると相馬は少し驚いた顔をした。
「別にいいよ」
「でも」
「事実だし」
私は相馬を見る。
「本当に殴ったの?」
「うん」
「なんで?」
「美緒にも言ってない」
「だから?」
「言わない」
「先生殴るなんて最低じゃん」
言った瞬間、美緒が、
「葵」
と止めた。
でも遅かった。
相馬は怒らなかった。
「そうだね」
「理由があっても駄目でしょ」
「そうかもね」
「そうかもじゃなくて」
「じゃあ何が正解だった?」
「え?」
「殴らなければよかった?」
「当たり前でしょ」
「じゃあ、殴らずに見てればよかった?」
「何を」
相馬の表情から笑いが消えた。
「クラスのやつが、その先生に毎日馬鹿にされてた」
私は黙った。
「授業中、みんなの前で。お前は頭が悪い、お前みたいなのは大学に行けない、家も貧乏だからどうせろくな人生にならないって」
「……」
「そいつ、最初は笑ってたんだよ。みんなも笑ってた。俺も」
相馬は壁にもたれた。
「ある日、そいつが学校来なくなった」
「それで?」
「家行った」
「うん」
「手首切ってた」
美緒が息をのむ。
「死ななかったけど」
相馬は淡々と言った。
「次の日、先生に言った。謝ってくださいって」
「先生は?」
「冗談だったって」
相馬は笑った。
「本人も笑ってたんだから問題ないって」
「それで殴ったの?」
「うん」
「でも……」
私は言葉を探した。
「やっぱり殴るのは違うと思う」
「俺もそう思う」
意外な返事だった。
「じゃあ」
「でも、もう一回同じことが起きたら、また殴るかもしれない」
「矛盾してる」
「うん」
「それじゃ駄目じゃん」
「なんで?」
「正しくないから」
相馬は私を見る。
「藤野って、本当に正しいの好きだね」
胸に刺さった。
「悪い?」
「悪くない」
「じゃあ何」
「疲れない?」
何も言えなかった。
チャイムが鳴った。
美緒が、
「やば」
と言って階段を駆け下りた。
私も続こうとした。
「藤野」
相馬に呼び止められる。
「何」
「昨日の紙」
心臓が跳ねた。
「期待を裏切らないことって書いたの、藤野?」
「違う」
即答した。
「そっか」
「なんで私だと思ったの」
「なんとなく」
「違うから」
「分かった」
相馬は先に階段を下りた。
私は一人残った。
期待を裏切らないこと。
なぜあれを書いたのか。
初めて少しだけ分かった気がした。
私は、正しい人でいたいのではない。
たぶん。
誰にも嫌われない人でいたいのだ。
第三章 いい子
十七年間、私は「いい子」だった。
母によれば、赤ん坊のころから手がかからなかったらしい。
「葵は本当に育てやすかった」
親戚が集まるたび母は言う。
「夜泣きもしないし、人見知りもしないし」
幼稚園では先生の言うことをよく聞いた。
小学校では宿題を忘れなかった。
中学校では学級委員を三年間やった。
高校では遅刻ゼロ。
欠席ゼロ。
提出物忘れゼロ。
先生に怒られた記憶がほとんどない。
だから私は、怒られることに慣れていない。
嫌われることにも。
誰かの期待から外れることにも。
それは幸せなことだと思っていた。
九月二十日。
進路希望調査票が配られた。
第一志望。
第二志望。
第三志望。
学部学科。
私はペンを止めた。
第一志望には東京大学。
いつも通り。
問題は学部だった。
「まだ決めてない人は、とりあえずでいいからな」
担任ではなく進路担当の宮田先生が言った。
「ただし三年になってから急に変更すると大変だから、そろそろ考えること」
前の席の子が法学部と書いた。
斜め前は医学部。
美緒は芸術学部。
「決めたの?」
小声で聞いた。
「うん」
「美大行くの?」
「行きたい」
「初めて聞いた」
「初めて言った」
「親は?」
「まだ」
美緒は笑った。
「絶対反対される」
「じゃあどうするの」
「説得する」
「無理だったら?」
「それでも受ける」
迷いのない声だった。
「怖くない?」
「怖いよ」
「じゃあなんで」
「私の人生だから」
簡単に言った。
私の人生。
その言葉が妙に耳に残った。
「葵は?」
「東大」
「それは知ってる。何学部?」
「まだ」
「何したいの?」
また同じ質問。
相馬にも聞かれた。
「分かんない」
「じゃあさ」
美緒が言った。
「東大じゃなくてもよくない?」
心臓を指で押されたような感覚がした。
「なんで」
「だって、やりたいこと決まってないんでしょ」
「だからこそ東大なんじゃん」
「どういう意味?」
「選択肢が広がるから」
言った瞬間、相馬の声が頭の中で蘇った。
――誰が言った?
「それ、お父さんが言ってたやつ?」
私は美緒を見た。
「なんで知ってるの」
「前に葵が言ってた」
「そうだっけ」
「うん」
私は進路希望調査票に書いた。
〈東京大学 文科一類〉
父と同じだった。
紙を提出した瞬間、少し安心した。
正解を選んだ安心だった。
その夜。
父に進路希望の話をした。
「文一?」
「うん」
「いいんじゃないか」
父は嬉しそうだった。
「法曹も官僚もある。民間でも強い」
「うん」
「将来まだ決めてないなら、一番潰しが利く」
「そうだね」
「葵なら十分狙える」
母も、
「お父さんと同じね」
と言った。
兄は黙っていた。
夕食のあと、兄が私の部屋に来た。
「本当に文一?」
「うん」
「なんで?」
「何、その反応」
「いや」
兄はベッドに座った。
「お前、法律とか興味あったっけ」
「これから持つかもしれないじゃん」
「まあね」
「何が言いたいの」
「別に」
「じゃあ出てって」
「怒るなよ」
「怒ってない」
「怒ってる」
兄は立ち上がった。
ドアのところで振り返る。
「葵」
「何」
「俺みたいになるなよ」
「どういう意味?」
「そのまま」
「分かんない」
「ならいい」
兄は出ていった。
その夜、私は兄の名前を検索した。
藤野悠真。
東京大学。
検索結果には何も出なかった。
当たり前だ。
ただの大学生なのだから。
私は自分でも意味の分からないことをしていると思った。
十二時。
眠ろうとした。
でも眠れなかった。
廊下から音がする。
水を飲もうと思って部屋を出た。
兄の部屋から声がした。
電話している。
「だから辞めるって言ってる」
私は足を止めた。
「もう決めた」
小さな声。
「親にはまだ言ってない」
私は動けなかった。
「大学辞める」
聞き間違いではなかった。
兄は東大を辞めようとしていた。
第四章 兄の秘密
翌朝、兄はいつも通りだった。
「おはよ」
「……おはよう」
トーストを食べている。
母はコーヒーを淹れている。
父は新聞を読んでいる。
大学を辞める人の朝には見えなかった。
「今日、悠真遅いの?」
母が聞く。
「二限から」
「最近ちゃんと大学行ってる?」
「行ってるよ」
兄は嘘をついた。
私は兄を見る。
目が合う。
「何?」
「別に」
学校へ向かう電車の中でも考えた。
父に言うべきか。
母に言うべきか。
でも盗み聞きだ。
兄には兄の事情がある。
昼休み、美緒に相談しようと思った。
でも美緒は相馬と話していた。
最近、二人でいることが増えた。
私は席でパンを食べた。
「一人?」
前に誰かが座った。
相馬だった。
「美緒ならあっち」
「知ってる」
「じゃあ何」
「ここ空いてるから」
「他も空いてる」
「俺が嫌?」
「別に」
「便利な言葉だね、別に」
「うるさい」
相馬は焼きそばパンを開けた。
「機嫌悪い?」
「普通」
「普通って便利だね」
「何なの」
「相談ある?」
私は相馬を見る。
「なんで?」
「顔」
「どんな顔」
「相談したそうな顔」
「してない」
「じゃあいい」
黙って食べ始める。
私は迷った。
「友達がさ」
「うん」
「大学辞めようとしてる」
「友達?」
「そう」
「何歳?」
「二十」
「兄?」
「友達」
「へえ」
「……兄」
相馬が笑った。
「何」
「いや」
「笑わないで」
「ごめん」
「どうしたらいいと思う?」
「何が?」
「親に言ったほうがいいかな」
「なんで藤野が?」
「だって東大だよ」
「うん」
「辞めるなんてもったいないじゃん」
「本人は?」
「知らない」
「じゃあ聞けば」
「聞けない」
「なんで」
「盗み聞きしたから」
「また?」
「またって言わないで」
相馬は少し考えた。
「俺なら言わない」
「親に?」
「うん」
「でも手遅れになったら」
「何が手遅れ?」
「退学したら」
「それが本人の希望なら?」
「でも絶対後悔する」
「なんで分かる?」
「東大だよ?」
「東大辞めたら人生終わる?」
「そうじゃないけど」
「じゃあ何が問題?」
答えられない。
「もったいない」
「誰にとって?」
「本人に決まってる」
「本人がそう思ってないなら?」
私は黙った。
相馬はパンの袋を丸めた。
「藤野ってさ」
「何」
「他人の人生まで正解にしたいんだね」
「……何それ」
「悪い意味じゃなくて」
「悪い意味にしか聞こえない」
「じゃあ悪い意味」
「最低」
「ごめん」
「すぐ謝るよね」
「謝ったほうがいい場面だから」
「正しいから?」
「たぶん」
相馬が笑う。
私は腹が立った。
でも同時に、少しだけおかしかった。
「ねえ」
私は聞いた。
「相馬は大学行かないの?」
「分かんない」
「将来どうするの」
「分かんない」
「不安じゃない?」
「不安」
「なのに何で平気なの」
「平気じゃないよ」
相馬は窓の外を見る。
「でも分からないものを、分かったことにするほうが怖い」
その言葉だけは、しばらく残った。
放課後、私は吹奏楽部の前を通った。
フルートの音が聞こえた。
去年まで私が吹いていた曲だった。
ドビュッシー。
「葵?」
部室から後輩が出てきた。
「あ、久しぶり」
「どうしたんですか?」
「通っただけ」
「戻ってきたのかと思いました」
「まさか」
「戻ってくださいよ」
「受験あるから」
「まだ二年ですよ」
「二年だから」
私は笑った。
「じゃあね」
「先輩」
「何?」
「先輩のフルート、好きでした」
私は何も言えなかった。
「また吹いてください」
「うん」
嘘をついた。
帰宅すると父と兄がリビングにいた。
空気が違った。
母は泣いていた。
「葵、部屋行ってなさい」
父が言った。
私は立ち止まった。
「何?」
「いいから」
兄が私を見る。
「聞いた?」
「何を」
「俺、大学辞める」
父が机を叩いた。
「悠真!」
私はびくっとした。
父が怒鳴るところを久しぶりに見た。
「なんで」
私は兄に聞いた。
「やりたいことがある」
「何?」
「料理」
一瞬、意味が分からなかった。
「料理?」
「調理師になりたい」
父が笑った。
笑ったというより、息を吐いた。
「馬鹿馬鹿しい」
「本気だよ」
「大学卒業してからやればいい」
「四年無駄じゃん」
「東大卒という資格は一生残る」
「資格じゃない」
「同じようなものだ」
「俺にはいらない」
「今はそう思ってるだけだ!」
父の声が家に響いた。
「二十歳のお前に何が分かる!」
「じゃあ何歳になったら自分の人生決めていいんだよ」
「そういう話じゃない!」
「じゃあどういう話だよ!」
母が泣いている。
私は動けなかった。
兄が父を見る。
「父さんは俺が東大だから嬉しいだけだろ」
「違う」
「俺じゃなくて、東大生の息子が好きなんだよ」
「いい加減にしろ!」
父の手が上がった。
私は反射的に、
「やめて!」
と叫んだ。
父の手が止まった。
沈黙。
兄が笑った。
「ほら」
父を見る。
「正解から外れるとこれだ」
兄は家を出ていった。
ドアが閉まる。
母が追いかけようとした。
「放っておけ」
父が言った。
「頭を冷やせば戻ってくる」
私は父を見た。
いつも正しい父。
尊敬していた父。
今も間違っているとは思えなかった。
東大を辞めて料理人になる。
もったいない。
どう考えても、もったいない。
なのに。
兄の言葉も間違っているとは思えなかった。
私は初めて、二つの正解の間に立った。
第五章 正解裁判
翌日、兄は帰ってこなかった。
母によれば友人宅に泊まったらしい。
父は何も言わなかった。
朝食の食卓には空席が一つあった。
私は学校へ行った。
教室に入ると、黒板に大きな文字があった。
〈正解裁判〉
「何これ」
美緒が言った。
相馬が黒板を見ている。
三枝先生が入ってきた。
「席についてください」
ホームルームが始まる。
「来月、文化祭があります」
知っている。
「二年B組の企画がまだ決まっていません」
それも知っている。
「そこで提案があります」
三枝先生は黒板を指した。
「正解裁判をやりませんか」
教室がざわつく。
「何それ」
「裁判?」
「劇?」
「違います」
三枝先生は説明した。
来場者に「答えのない問い」を提示する。
賛成と反対に分かれて議論する。
最後に観客が投票する。
「例えば」
三枝先生が黒板に書いた。
〈親友がカンニングしているのを見た。先生に言うべきか〉
「密告じゃん」
「言わないでしょ」
「でも不公平」
「友達なくすよ」
すぐに声が上がった。
三枝先生は次を書く。
〈夢のためなら、安定した将来を捨ててもいいか〉
私は息を止めた。
兄の顔が浮かんだ。
さらに。
〈好きではない相手と、相手を傷つけないために付き合い続けるのは優しさか〉
〈一人を救うためなら、百人に迷惑をかけてもいいか〉
〈家族の期待を裏切っても、自分のしたいことを選ぶべきか〉
私は黒板を見つめた。
「先生」
手を挙げた。
「はい、藤野」
「これ、先生が考えたんですか」
「一部は」
「一部?」
「皆さんにも考えてもらいます」
紙が配られた。
〈あなたが答えを知りたい問いを書いてください〉
私はペンを持った。
今度は迷わなかった。
〈自分の幸せのためなら、家族を悲しませてもいいですか〉
書いた。
紙を折った。
名前は書かなかった。
集められた紙の中に、その問いは混ざった。
誰にも私のものだとは分からない。
それなのに、提出した瞬間、不思議な感覚がした。
誰にも言えなかったことを、初めて言葉にした気がした。
放課後。
「藤野」
三枝先生に呼び止められた。
「少しいいですか」
誰もいない教室。
夕陽が机を赤くしている。
「文化祭の実行委員をお願いしたいんですが」
「私?」
「はい」
「なんで」
「向いていると思うからです」
「美緒とかのほうが」
「佐倉さんにも頼みます」
「相馬は?」
「彼にも」
「三人?」
「三人」
「なんでその三人なんですか」
三枝先生は少し笑った。
「一番、正解について悩んでいそうだから」
私は先生を見る。
「先生」
「はい」
「正解ってあると思いますか」
「ありますよ」
意外だった。
「あるんですか」
「一足す一は二です」
「そういうことじゃなくて」
「人を傷つけてはいけない。それも正解でしょう」
「でも相馬は人を殴った」
「そうですね」
「友達を守るために」
「はい」
「じゃあ、それは正解ですか、不正解ですか」
三枝先生は答えなかった。
「先生なのに分からないんですか」
「教師は答えを全部知っている人ではありません」
「じゃあ何なんですか」
「問いを渡す人です」
「ずるい」
「そうですね」
先生は笑った。
「大人はずるいんです」
「認めるんだ」
「藤野さん」
「はい」
「正解を選ぶことと、後悔しないことは同じだと思いますか」
「……分かりません」
「私も分かりません」
先生は鞄を持った。
「だから文化祭までに考えてみてください」
「先生」
「はい」
「もし」
私は言いかけた。
「もし?」
「家族が反対しても、やりたいことをやっていいと思いますか」
三枝先生は私を見た。
少し長い沈黙だった。
「誰の話ですか」
「友達」
「お兄さん?」
「なんでみんな分かるんですか」
三枝先生が笑った。
「藤野さんは嘘が下手だから」
「最悪」
「いいことです」
「先生ならどうします?」
「決めません」
「逃げた」
「違います」
三枝先生は言った。
「他人の人生の答えを決めない。それだけは、私が教師として決めていることです」
私はその言葉を理解できなかった。
でも、なぜか覚えておこうと思った。
その夜、兄からLINEが来た。
〈葵〉
〈何〉
〈父さん怒ってる?〉
〈めちゃくちゃ〉
〈だよな〉
〈帰ってくれば〉
〈まだ無理〉
〈お母さん泣いてる〉
既読。
返信が来ない。
私はもう一度送った。
〈本当に大学辞めるの?〉
〈辞める〉
〈後悔しない?〉
しばらくして返信。
〈するかも〉
私は画面を見る。
〈するかもしれないのに辞めるの?〉
〈うん〉
〈意味分かんない〉
返信。
〈葵は後悔しない人生にしたい?〉
〈当たり前じゃん〉
〈無理だよ〉
腹が立った。
〈なんで〉
〈何を選んでも、選ばなかったほうを想像するから〉
私は返せなかった。
兄から続けて届いた。
〈だから俺は、後悔しても自分で選んだって言えるほうにする〉
スマホを置いた。
机の上には東大の赤本があった。
兄が二年前に使ったもの。
父が私のために取っておいた。
表紙に兄の字で書いてある。
〈絶対合格〉
その文字を見ながら、私は初めて考えた。
東京大学に行かなかった自分を。
想像できなかった。
怖かった。
そしてもっと怖かったのは、
東京大学に行きたい自分も、
うまく想像できなかったことだった。
第六章 好きという不正解
文化祭実行委員の最初の集まりは、三人とも乗り気ではなかった。
「なんで俺」
相馬が言った。
「先生に聞いて」
私が答える。
「葵はやるんでしょ」
美緒が言う。
「頼まれたから」
「それ、やりたいって意味?」
「違う」
「じゃあ断れば?」
「別に嫌じゃないから」
相馬が笑った。
「出た、別に」
「うるさい」
三人で放課後の教室に残った。
文化祭まで一か月。
企画名は仮に「正解裁判」。
「まず問いを選ぶ」
私は三枝先生から預かった紙の束を机に置いた。
「クラス全員から集めたやつ」
「何枚?」
「三十四」
「全員出したんだ」
「匿名だからね」
美緒が一枚ずつ読む。
「友達の秘密を守るためなら嘘をついてもいい?」
「普通」
相馬。
「普通で悪い?」
私。
「悪くない」
次。
「努力しても才能がないなら諦めるべき?」
「重い」
「いいじゃん」
「次」
「親に言えない恋愛はやめるべき?」
美緒の手が止まった。
「これいい」
「なんで?」
「面白そう」
「美緒が書いた?」
「違う」
「本当?」
「本当」
相馬が美緒を見る。
美緒も相馬を見る。
私はなぜか紙を取り上げた。
「次」
「何で飛ばすの」
「時間ないから」
相馬が笑う。
「藤野、分かりやすい」
「何が」
「別に」
「真似しないで」
紙をめくる。
〈自分の幸せのためなら、家族を悲しませてもいいですか〉
私の問いだった。
三人とも黙った。
「これ」
相馬が言う。
「いいんじゃない」
「重くない?」
「だからいい」
美緒も頷く。
「これ文化祭でやろうよ」
「……うん」
自分で書いた問いなのに、怖くなった。
答えを聞きたい。
でも聞きたくない。
「じゃあ一つ目はこれ」
私はノートに書いた。
そのとき美緒が言った。
「私、親に美大行きたいって言った」
「え」
「昨日」
「どうだった?」
「反対された」
笑っていた。
「お父さんに、絵で食べていける人なんて一握りだって」
「それは……」
正論だと思った。
でも言えなかった。
「お母さんには、趣味にしておけばって」
「美緒は?」
「受けるよ」
「反対されても?」
「うん」
「学費出してもらえなかったら?」
「奨学金」
「そんな簡単じゃないよ」
「分かってる」
「卒業して仕事なかったら?」
「分かってるって」
美緒の声が少し強くなった。
「葵は反対?」
「反対じゃないけど」
「けど?」
「心配」
「ありがとう」
「本当に分かってる?」
「何が?」
「美大出ても就職できるとは限らないし」
「葵」
美緒が私を見る。
「今、それ言ってほしくない」
私は黙った。
「ごめん」
「うん」
気まずい沈黙。
相馬が立ち上がった。
「飲み物買ってくる」
教室を出ていく。
美緒は窓の外を見た。
「葵ってさ」
「何」
「私が失敗したら嫌?」
「当たり前じゃん」
「なんで?」
「友達だから」
「じゃあ成功するかもしれないことは?」
「え?」
「そっちは考えない?」
「考えるけど」
「葵が言うのって、いつも失敗する可能性ばっかりだよね」
胸が痛かった。
「心配だから」
「うん。分かってる」
「じゃあ」
「でも、心配されすぎると」
美緒は言った。
「信じてもらえてないみたい」
私は何も言えなかった。
相馬が戻ってきた。
缶ジュースを三本持っている。
「はい」
「頼んでない」
「奢り」
美緒にはミルクティー。
私にはレモンティー。
「なんで好み知ってるの」
「美緒に聞いた」
また胸がざわついた。
「ありがとう」
美緒が笑う。
相馬も笑った。
二人の間に、私の知らない時間がある。
その事実が嫌だった。
そのとき初めて認めた。
私は相馬が嫌いなのではない。
美緒を取られるのが嫌なのだ。
友情にも独占欲がある。
そんなこと、教科書には書いていなかった。
第七章 親友の告白
文化祭まで三週間。
美緒に呼び出された。
放課後の美術室だった。
「葵に言っておきたいことがある」
「何?」
「私」
美緒は何度も息を吸った。
「相馬のこと好き」
知っていた。
たぶん。
それでも実際に言われると違った。
「そうなんだ」
「うん」
「付き合ってるの?」
「まだ」
「告白する?」
「した」
「え?」
「昨日」
「どうだった?」
「返事待ってって」
「そっか」
私は笑った。
ちゃんと笑えたと思う。
「応援してる」
「ありがとう」
美緒が抱きついてきた。
「葵に言うの怖かった」
「なんで」
「分かんない」
「私、そんな怖い?」
「違う」
美緒は離れた。
「葵も相馬のこと好きなのかなって」
時間が止まった気がした。
「は?」
「違う?」
「違うよ」
即答。
「絶対違う」
「ならよかった」
「なんで私があいつを」
「結構話してるじゃん」
「実行委員だから」
「喧嘩もするし」
「嫌いだから」
「好きと嫌いって近いって言うよ」
「古い」
美緒は笑った。
私も笑った。
でも胸の奥に小さな棘が残った。
私は相馬が好きなのか。
考えた。
違う。
たぶん。
では、なぜ美緒が相馬を好きだと聞いて苦しいのか。
親友を取られるから。
それだけだ。
そういうことにした。
帰り道。
駅で相馬に会った。
「美緒から聞いた?」
相馬が言った。
「何を」
「告白」
「……聞いた」
「そっか」
「返事するの?」
「するよ」
「いつ」
「明日」
「どうするの」
「それ言う?」
「別にいいじゃん」
「藤野には関係ない」
その通りだった。
腹が立った。
「美緒を傷つけたら許さないから」
「何それ」
「親友だから」
「じゃあ好きじゃなくても付き合えって?」
「そういう意味じゃない」
「断ったら傷つくだろ」
「それは……」
「じゃあどうすれば正解?」
また正解。
「自分で考えれば」
「そうする」
相馬は歩き出した。
「相馬」
「何」
「美緒のこと嫌い?」
「嫌いじゃない」
「じゃあ好き?」
「好きだよ」
「じゃあ」
「友達として」
私はなぜか安心した。
そして、その安心に気づいて愕然とした。
「藤野」
「何」
「今、安心した?」
「してない」
「した顔だった」
「してない」
「そっか」
相馬は笑った。
私は自分が嫌になった。
翌日。
美緒は学校を休んだ。
相馬はいつも通り登校した。
昼休み。
「断った?」
私は聞いた。
「うん」
「昨日?」
「うん」
「それで休んだんじゃん」
「そうかも」
「最低」
「じゃあどうすればよかった?」
「もうそれやめて」
「何」
「何が正解って聞くの」
「聞いてない」
「同じじゃん」
相馬は黙った。
「美緒、泣いた?」
「少し」
「最低」
「それ二回目」
「だって」
「俺が付き合えばよかった?」
「そうじゃない」
「じゃあどうすればよかった?」
「だから!」
私は声を上げた。
クラスの何人かがこちらを見る。
声を落とす。
「分かんないよ」
「俺も分かんない」
相馬は言った。
「だから、好きじゃないのに好きって言うより、傷つけても本当のこと言うほうを選んだ」
「美緒は傷ついた」
「うん」
「それでいいの?」
「よくない」
「じゃあ」
「よくないことしか選べないときもあるだろ」
私は黙った。
相馬は教室を出た。
私は追わなかった。
その日の夜、美緒から電話が来た。
「ごめん、今日休んだ」
「大丈夫?」
「全然」
笑っていた。
でも泣いた声だった。
「相馬から聞いた?」
「うん」
「振られました」
「……うん」
「人生初失恋」
「うん」
「もっと慰めてよ」
「何て言えばいいか分かんない」
「相馬最低って言って」
「相馬最低」
「棒読み」
「相馬は最低」
「もっと」
「世界最低」
「ありがとう」
美緒が笑った。
しばらく沈黙。
「ねえ葵」
「何」
「相馬、好き?」
「またそれ?」
「ちゃんと答えて」
「好きじゃない」
「本当?」
「本当」
「じゃあもし好きになっても」
美緒は言った。
「私に遠慮しないでね」
「ならないから」
「もしもの話」
「分かった」
「約束」
「うん」
電話を切った。
私はベッドに横になった。
天井を見る。
親友が好きだった人を好きになる。
それは正しいのか。
間違っているのか。
そんな問いを考えている時点で、
私はもう答えを知っていたのかもしれない。
私は相馬蓮が気になっていた。
そして、その事実を、
誰よりも自分自身に知られたくなかった。
第八章 文化祭まで十八日
兄が家を出た。
正式に。
大学は休学した。
退学ではなかった。
「一年だけ待つ」
父との妥協だった。
兄は調理師学校への入学準備を始めた。
同時にレストランでアルバイトをするらしい。
母はまだ納得していない。
父もほとんど口をきかない。
家族四人だった食卓は三人になった。
空席を見るたび、私は兄の問いを思い出した。
――後悔しない人生にしたい?
もちろん、そうしたい。
でも最近、後悔しないことが人生の目的なのか分からなくなってきた。
文化祭の準備は進んだ。
正解裁判で扱う問いは五つに絞った。
〈自分の幸せのためなら、家族を悲しませてもいいか〉
〈親友を傷つける真実と、親友を守る嘘なら、どちらを選ぶか〉
〈才能がないと分かっていても、夢を追い続けるべきか〉
〈嫌いな人がいじめられていたら助けるべきか〉
〈大切な人のためなら、ルールを破ってもいいか〉
「最後のやつ、相馬じゃん」
美緒が言った。
「俺?」
「先生殴ったやつ」
「ああ」
美緒は失恋から一週間で、表面上は元に戻っていた。
相馬とも普通に話している。
強いと思った。
私なら無理だ。
「相馬はルール破っていい派?」
「場合による」
「ずる」
「何でも場合によるだろ」
「葵は?」
「破らない」
「絶対?」
「絶対とは言わないけど」
「じゃあ場合によるじゃん」
「……そうだね」
三人で笑った。
以前なら笑えなかったと思う。
正解が曖昧になることが怖かった。
今は少しだけ面白い。
準備が終わったのは午後七時だった。
美緒は美術予備校があるため先に帰った。
教室には私と相馬だけが残った。
「帰る?」
「これ終わったら」
「手伝う」
「いい」
「二人なら早い」
模造紙を切る。
相馬が定規を押さえ、私がカッターを動かす。
「曲がってる」
「相馬が定規動かすから」
「動かしてない」
「動いた」
「人のせい」
「事実」
「正解?」
「正解」
笑った。
静かな教室。
外はもう暗い。
「藤野」
「何」
「最近、変わったね」
「どこが」
「前より笑う」
「前から笑ってる」
「俺といるとき」
手が止まった。
「何それ」
「事実」
「自意識過剰」
「正解?」
「不正解」
「じゃあよかった」
また笑う。
胸が苦しくなる。
美緒の顔が浮かんだ。
私はカッターを置いた。
「帰る」
「急だな」
「疲れた」
「送る」
「いい」
「駅まで同じ」
「なら勝手に」
二人で学校を出た。
秋の夜だった。
風が少し冷たい。
「藤野」
「何」
「俺、前の学校で」
相馬が言った。
「先生殴った話しただろ」
「うん」
「あれ、全部じゃない」
「何が?」
「友達が手首切ったって言ったけど」
「うん」
「そいつ、俺の弟」
私は足を止めた。
「弟?」
「一個下」
「同じ高校だったの?」
「中高一貫」
「今は?」
「学校辞めた」
「……そうなんだ」
「家からあんまり出ない」
「それで転校したの?」
「俺がいると、あいつが思い出すから」
「何を」
「学校のこと」
相馬は前を向いたまま歩く。
「俺が先生殴ったせいで、弟のこと学校中に広まった。手首切ったことも」
「でも」
「守ったつもりだった」
相馬が笑った。
「結果、もっと傷つけた」
私は何も言えなかった。
「だから分かんないんだよ」
「何が」
「正しいことしたのか」
駅の明かりが見えた。
「相馬」
「うん」
「弟は何て言ってるの」
「俺と話さない」
「そっか」
「一年くらい」
「そっか」
「だから」
相馬は言った。
「誰かのためにやったことって、一番厄介なんだよ」
「なんで」
「間違ってても、自分は正しかったって思いたくなるから」
私は父を思い出した。
兄を思い出した。
そして自分を思い出した。
美緒を心配して、美大なんて危ないと言った自分。
「心配だから」
「うん」
「あなたのためだから」
「うん」
「失敗してほしくないから」
「うん」
全部、優しさだと思っていた。
でも優しさは、ときどき相手から選ぶ権利を奪う。
「難しいね」
私は言った。
「何が」
「人間」
「でかい話になったな」
二人で笑った。
改札の前。
「じゃあ明日」
「うん」
相馬が行こうとする。
「相馬」
「何」
「私は」
言葉が出そうになった。
好き。
その二文字。
でも美緒の顔が浮かぶ。
「何?」
「……何でもない」
「そっか」
相馬は帰った。
私は改札の前に一人残った。
言わなかった。
正しい判断だったと思った。
親友を傷つけないために。
でも電車の窓に映る自分は、
なぜか少し泣きそうな顔をしていた。
第九章 投票
文化祭当日。
正解裁判の教室には、予想以上の人が集まった。
高校生。
中学生。
保護者。
卒業生。
問いを一つ提示するたび、観客は二つに分かれる。
「友達のカンニングを先生に言う?」
言う四十二。
言わない五十八。
「夢のためなら安定を捨てる?」
捨てる六十一。
捨てない三十九。
数字になると正解があるように見える。
でも六十一対三十九だからといって、六十一が正しいわけではない。
最後の問いになった。
私が書いたもの。
〈自分の幸せのためなら、家族を悲しませてもいいか〉
教室が静かになった。
私は司会だった。
「『いい』と思う方は青、『いけない』と思う方は赤のカードを上げてください」
カードが上がる。
青。
赤。
青。
赤。
集計。
「青、四十八」
美緒が数える。
「赤、五十二」
ほぼ半分だった。
私はその数字を黒板に書いた。
四十八対五十二。
「では理由を聞きます」
最初に手を挙げたのは中学生くらいの女の子だった。
「家族でも他人だから、自分の人生を決める権利はないと思います」
青。
次は父親くらいの男性。
「家族は本人のためを思って反対することもある。自分だけ幸せならいい、という考え方は違うと思う」
赤。
高校生。
「悲しませてもいいと思う。でも、その結果家族と縁が切れても受け入れる覚悟が必要」
青。
母親。
「親になれば分かると思います。子どもが失敗する道に行こうとしていたら止めたい」
赤。
私は聞いていた。
どれも正しい。
どれも間違っている。
最後に三枝先生が後ろから言った。
「司会者はどう思いますか」
「え?」
「藤野さん」
全員が私を見る。
「私は……」
逃げたかった。
でも文化祭の教室に、父がいることに気づいた。
母もいた。
そして後ろに兄がいた。
いつ来たのか分からなかった。
三人とも私を見ている。
「私は」
声が震えた。
「前まで、家族を悲しませるのは駄目だと思っていました」
父の顔を見る。
「今も、できれば悲しませたくありません」
兄を見る。
「でも」
言葉を探す。
「誰かを悲しませないことを人生の一番上に置いたら、その人がいなくなるまで、自分の人生を始められない気がします」
教室は静かだった。
「だから」
私は青いカードを持った。
「私は、悲しませてもいいと思います」
父の表情が変わった。
「ただ」
続ける。
「悲しませていい、じゃなくて……悲しませてしまうことがあっても、自分で選ぶしかない、だと思います」
自分でも何を言っているのか分からなくなった。
「そのかわり、失敗したときに『親が反対したから』とか、『誰かに言われたから』って言わない。成功しても失敗しても、自分で引き受ける」
兄が笑った。
父は笑わなかった。
「それが今の私の答えです」
拍手が起きた。
私は驚いた。
拍手されるようなことを言ったつもりはなかった。
相馬が教室の端にいた。
目が合った。
親指を立てた。
私は少し笑った。
文化祭終了後。
父が私を待っていた。
「葵」
「うん」
「さっきの話」
「うん」
「悠真のことか」
「それだけじゃない」
「そうか」
父はしばらく黙った。
「お父さん」
「何だ」
「私、東大行かないかもしれない」
初めて口にした。
自分でも驚いた。
父の顔が固まった。
「どういう意味だ」
「まだ分かんない」
「じゃあ何でそんなこと」
「分からないから」
「葵」
「私、何したいか考えたい」
「東大に行ってから考えればいい」
いつもの答え。
「それも一つだと思う」
「なら」
「でも、それ以外も考えたい」
「何を?」
「分かんない」
「分からないことのために可能性を捨てるのか」
「捨てるかどうかもまだ決めてない」
「じゃあ何を言いたいんだ」
私は父を見る。
「自分で決めたい」
父は黙った。
私は怖かった。
父に失望されたくない。
嫌われたくない。
でも言った。
「私、お父さんの正解じゃなくて、自分の正解を探したい」
父は何も答えなかった。
そのまま帰った。
私は泣きそうだった。
「藤野」
相馬が来た。
「大丈夫?」
「聞いてた?」
「ちょっと」
「盗み聞き」
「お互い様」
私は笑った。
涙が出た。
「何で泣くの」
「分かんない」
「正しいこと言ったのに?」
「正しいか分かんない」
「じゃあいいじゃん」
「何が」
「分かんないって言えたから」
相馬が隣に立った。
「それ、結構すごいよ」
私は涙を拭いた。
「相馬」
「うん」
「私」
また言葉が出かかった。
好き。
でも止めた。
「やっぱり何でもない」
「また?」
「うん」
「藤野」
「何」
「それ、いつまで続ける?」
「何が」
「何でもないってやつ」
相馬は私を見る。
逃げられなかった。
「俺は」
相馬が言った。
「藤野のこと好きだよ」
世界が止まった。
文化祭の片付けの音だけが遠くで聞こえる。
「……何で」
「何でって?」
「美緒は」
「美緒には言った」
「何を」
「藤野が好きだって」
「いつ?」
「告白断ったとき」
「え?」
頭が追いつかない。
「美緒、知ってるの?」
「うん」
「私だけ知らなかった?」
「たぶん」
「最低」
「ごめん」
「なんで謝るの」
「怒ってるから」
「怒ってるよ」
「じゃあ正解」
「何が」
「謝ったこと」
私は笑った。
泣きながら笑った。
「返事は?」
「待って」
「どのくらい?」
「分かんない」
「分かった」
「怒らないの?」
「何で」
「好きって言われて待たせるの」
「藤野が決めることだから」
その言葉が妙に嬉しかった。
「じゃあ待って」
「うん」
「ちゃんと考える」
「うん」
「美緒のことも」
「うん」
「自分のことも」
「うん」
相馬はそれ以上何も言わなかった。
私たちは並んで、誰もいなくなった教室を見た。
黒板にはまだ数字が残っている。
四十八対五十二。
正解は決まらなかった。
それでよかった。
たぶん私たちは、
答えを出すために問いを持つのではない。
問いを持ったまま、
誰かと話すために生きているのかもしれない。
でもそのときの私はまだ知らなかった。
文化祭の翌週、
三枝先生が学校からいなくなることを。
そして先生が最後に私たちへ残した問いが、
私たち三人の関係だけでなく、
クラス全員を二つに割ることになることを。
その問いは、たった一行だった。
〈正しいことをした人が誰かを死なせたとき、その人は間違っていたと言えるのか〉
私たちの「正解裁判」は、
まだ終わっていなかった。
第二部 正しさの代償
第十章 先生がいない
文化祭の翌日は月曜日だった。
三枝先生は来なかった。
一時間目の現代文が始まる五分前、教室に入ってきたのは学年主任の高瀬先生だった。
「三枝先生は本日お休みです」
それだけなら、誰も気にしなかったと思う。
教師だって風邪をひく。
体調を崩す。
家庭の事情もある。
でも高瀬先生は続けた。
「しばらく私が二年B組の担任を代行します」
教室がざわついた。
「しばらくって?」
誰かが聞いた。
「どのくらいですか」
「まだ分かりません」
「病気?」
「個人的な事情については話せません」
「昨日まで普通だったじゃん」
「そうですね」
「文化祭のせい?」
「関係ありません」
高瀬先生の答えは早かった。
早すぎる気がした。
私は美緒を見る。
美緒も私を見ていた。
相馬だけは窓の外を見ていた。
「では、今日は自習にします」
プリントが配られた。
夏目漱石の文章だった。
誰も集中していない。
LINEのクラスグループが動き続けている。
〈三枝どうした〉
〈昨日なんかあった?〉
〈正解裁判まずかった?〉
〈保護者からクレームとか?〉
〈あれ結構攻めてたし〉
〈家族悲しませてもいいとか教育的にどうなの笑〉
私はスマホを伏せた。
昨日。
三枝先生は最後まで学校にいた。
文化祭の片付けもしていた。
私が父と話しているところも見ていた。
「お疲れさま」
帰るとき、そう言われた。
「先生」
「はい」
「正解裁判、やってよかったですか」
「藤野さんはどう思いますか」
「また質問で返す」
「教師ですから」
「ずるい」
「大人ですから」
先生は笑った。
それが最後だった。
少なくとも、その時点では。
二時間目の休み時間。
「ねえ」
美緒が私の席に来た。
「絶対何かあるよね」
「うん」
「相馬」
美緒が呼ぶ。
相馬は本から顔を上げた。
「何」
「三枝先生」
「知らない」
「昨日何か話した?」
「話してない」
「葵は?」
「ちょっと」
「何て?」
「正解裁判やってよかったかって」
「先生は?」
「私に聞き返した」
「いつものやつ」
「うん」
相馬が本を閉じた。
「一つ気になる」
「何?」
「黒板」
私たちは黒板を見る。
何もない。
「昨日の最後」
相馬が言う。
「俺たち片付け終わったあと、三枝先生、一人で教室に戻ってきた」
「見たの?」
「忘れ物して戻ったとき」
「何してた?」
「黒板に何か書いてた」
私は息を止めた。
「何て?」
「見えなかった」
「消したの?」
「俺が入ったら消した」
「なんで?」
「知らない」
その日の放課後。
私は教卓の引き出しを開けた。
「葵、それ駄目じゃない?」
美緒が言う。
「分かってる」
「じゃあやめなよ」
「でも気になる」
「相馬に影響されてる」
「何で俺」
相馬は教室の後ろにいた。
引き出しにはチョーク、赤ペン、名簿。
何もない。
「ほら」
美緒が言う。
「帰ろ」
「待って」
教卓の奥に紙が挟まっていた。
折りたたまれたコピー用紙。
「何それ」
「分かんない」
開く。
手書きだった。
三枝先生の字。
一行だけ。
〈正しいことをした人が誰かを死なせたとき、その人は間違っていたと言えるのか〉
三人とも黙った。
「何これ」
美緒が言った。
相馬が紙を取る。
「先生が書いた?」
「たぶん」
「何でこんなの」
「分かんない」
「昨日書いてたの、これかな」
相馬が呟いた。
私は紙を見つめた。
誰かを死なせた。
比喩には見えなかった。
「三枝先生」
私は言った。
「誰か死なせたのかな」
美緒が、
「やめてよ」
と小さく言った。
「そんなわけないじゃん」
「でも」
「考えすぎ」
「じゃあ何でこんなの書くの」
「授業で使うつもりだったとか」
「それなら隠さない」
「隠したとは限らないでしょ」
相馬が紙を折った。
「調べる?」
「何を」
「三枝先生」
「どうやって」
「ネット」
「出てくる?」
「分かんない」
私たちは図書室へ行った。
検索する。
〈三枝 高校教師〉
大量に出る。
下の名前を入れる。
〈三枝直人 教師〉
ほとんど何もない。
「学校名入れたら?」
美緒が言う。
検索。
現在の学校の記事ばかり。
文化祭。
学校案内。
昔の広報誌。
「前の学校知らない?」
「知らない」
「先生の経歴、学校のサイトにないかな」
調べる。
大学卒業後、県内私立高校勤務。
その後、現在の高校。
「県内私立ってどこ」
「いっぱいある」
相馬が別の検索をしていた。
「これ」
画面を見せる。
七年前の記事だった。
小さな地方ニュース。
〈高校二年男子生徒、校舎から転落し死亡〉
「何これ」
「三枝先生の前の学校かもしれない」
「何で?」
「学校名」
相馬が別のページを見せる。
七年前の学校広報。
教員紹介。
そこに若い三枝先生の写真があった。
「……いた」
私は記事を読む。
十七歳。
高校二年生。
放課後、校舎四階から転落。
警察は事故と自殺の両面から調査。
遺書は見つからなかった。
「これだけ?」
「うん」
「三枝先生と関係あるとは限らないじゃん」
美緒が言う。
その通りだった。
同じ学校にいただけ。
「名前」
私は言った。
「亡くなった生徒の」
記事には出ていない。
未成年だからだろう。
さらに検索した。
学校名。
死亡。
教師。
七年前。
すると古い掲示板が出た。
〈あの学校、先生の指導が原因らしい〉
〈担任が進路のことで追い詰めたって聞いた〉
〈違う。家庭の問題〉
〈亡くなった子、成績良かったよ〉
〈東大志望だったらしい〉
私は手を止めた。
「東大」
美緒が私を見る。
胸がざわついた。
もちろん私とは関係ない。
七年前。
知らない生徒。
知らない学校。
でも十七歳。
高校二年。
成績が良くて。
東大を目指していた。
「これ以上やめない?」
美緒が言った。
「なんか嫌」
私もそう思った。
でも相馬は画面を見続けていた。
「これ」
「まだある?」
「三枝先生の名前」
掲示板の書き込み。
〈担任、三枝って先生だったらしい〉
時間が止まった。
「本当か分かんないよ」
美緒がすぐ言った。
「匿名掲示板だし」
「うん」
「デマかもしれない」
「分かってる」
でも私は、あの問いを思い出していた。
〈正しいことをした人が誰かを死なせたとき、その人は間違っていたと言えるのか〉
その紙を三枝先生は文化祭の翌日に残した。
そして学校に来なくなった。
第十一章 七年前の十七歳
調べないと決めた。
その日の帰り道、三人でそう決めた。
「先生の過去だし」
美緒が言った。
「勝手に調べるのよくない」
「うん」
私も答えた。
相馬も、
「分かった」
と言った。
翌日、私は一人で調べた。
自分でも最低だと思った。
でも気になった。
図書館で七年前の新聞を検索した。
九月十七日。
〈高校生が校舎から転落、死亡〉
名前は伏せられている。
翌日の記事。
〈学校「いじめ確認されず」〉
三日後。
〈遺族、学校に調査要求〉
私は記事を読む。
遺族は学校側に「教員による過度な進路指導があった」と訴えていた。
学校側は、
〈通常の教育指導の範囲内〉
と回答。
さらに一週間後。
〈第三者委員会設置へ〉
その後の記事が見つからない。
「何してるの」
後ろから声がした。
振り向く。
相馬だった。
「何でいるの」
「藤野が図書館入るの見えた」
「ストーカー」
「それはこっちの台詞」
画面を見られた。
「あ」
「……ごめん」
「約束したよね」
「相馬も調べた?」
沈黙。
「調べたんだ」
「少し」
「人のこと言えないじゃん」
「うん」
二人で笑った。
笑っていいことではないのに。
「名前分かった」
相馬が言った。
「誰の」
「亡くなった生徒」
「どうやって?」
「昔の学校新聞」
スマホを見せる。
死亡事故の半年前の記事。
〈全国模試優秀者 柴崎航平さん〉
写真がある。
眼鏡をかけた男子生徒。
笑っている。
十七歳。
「柴崎航平」
私は名前を読む。
「第一志望、東京大学文科一類」
相馬が言った。
私と同じだった。
「偶然だよ」
「うん」
「先生のこと、何か書いてあった?」
「これ」
別の記事。
〈二年生進路講演会〉
担当教員として三枝直人の名前。
記事には三枝先生の言葉が載っていた。
〈進路は偏差値だけで決めるものではない。自分が何をしたいのかを考えてほしい〉
「今と同じ」
「うん」
私は少し安心した。
追い詰めるような先生には見えない。
「でも」
相馬が言った。
「これも見つけた」
第三者委員会の報告書についての記事。
〈生徒への指導に不適切な点は認められなかった〉
私は息を吐いた。
「じゃあ三枝先生悪くないじゃん」
「学校の調査では」
「第三者委員会でしょ」
「うん」
「なら」
「遺族は納得しなかった」
「なんで」
「航平の母親がインタビュー受けてる」
記事。
〈息子は担任の先生を信頼していました。だからこそ、その言葉を重く受け止めたのだと思います〉
意味が分からなかった。
「何を言われたの?」
「記事にはない」
「じゃあ」
「もう一つある」
地域紙。
小さな記事だった。
母親の証言。
〈息子は亡くなる前夜、「先生に東大を受けるなと言われた」と話していました〉
私は画面を見た。
「受けるな?」
「うん」
「何で」
「分からない」
「成績良かったんでしょ」
「そうみたい」
「じゃあ何で」
相馬は答えない。
そのとき、背後から声がした。
「何をしているんですか」
振り返る。
三枝先生だった。
私は椅子から立ち上がった。
「先生」
「こんにちは」
いつも通りの声。
「学校は?」
「休んでいます」
「なんでここに」
「本を返しに」
先生は私たちの画面を見る。
柴崎航平の記事。
隠しても遅かった。
「調べたんですね」
「ごめんなさい」
私はすぐ謝った。
「謝る必要はありません」
「でも」
「公開されている記事です」
先生は椅子を引いた。
「座ってもいいですか」
私たちは頷いた。
三枝先生が向かいに座る。
「先生」
相馬が聞いた。
「柴崎航平って生徒、先生のクラスだったんですか」
「はい」
「担任?」
「はい」
「先生のせいで死んだんですか」
「相馬」
私は止めた。
「いいんです」
三枝先生は言った。
しばらく黙った。
「分かりません」
「分からない?」
「七年間考えました。でも分かりません」
「何があったんですか」
先生は窓の外を見る。
図書館の向こうに公園がある。
小さな子どもが走っていた。
「柴崎は優秀な生徒でした」
「東大志望」
「そうです」
「文一」
「はい」
私を見る。
「藤野さんと同じですね」
「はい」
「ただ、彼には別にやりたいことがありました」
「何?」
「音楽です」
胸がざわついた。
「ピアノをやっていました」
「音大?」
「行きたがっていました」
「親が反対?」
「はい」
私は兄を思い出した。
そして自分を。
「私は彼に言いました」
三枝先生の声が低くなる。
「東大を受けなくてもいいんじゃないか、と」
「それだけ?」
「それだけです」
「じゃあ先生悪くないじゃん」
私は言った。
三枝先生は私を見る。
「そう思いますか」
「だって本人は音楽やりたかったんでしょ」
「はい」
「先生は背中押しただけじゃん」
「そうです」
「それで何で」
「翌日、彼は亡くなりました」
沈黙。
「遺書はありませんでした」
「じゃあ関係ないかもしれない」
「そうかもしれません」
「事故かもしれない」
「そうかもしれません」
「なら先生のせいじゃない」
「そうかもしれません」
先生は全部否定しなかった。
「でも」
先生は言った。
「亡くなる前夜、彼は母親にこう言ったそうです」
私は息を止めた。
「先生に東大を受けなくていいと言われた。自分は先生にも見放された、と」
「違うじゃん」
私は思わず言った。
「先生、そういう意味じゃないでしょ」
「はい」
「音楽やっていいって意味でしょ」
「はい」
「じゃあ航平くんが勘違いしたんじゃん」
言ってから気づいた。
死んだ人を責める言葉になった。
三枝先生は怒らなかった。
「そうかもしれません」
「先生」
「でも藤野さん」
「はい」
「人に言葉を渡すということは、意味まで決められることではないんです」
私は黙った。
「私は正しいことを言ったつもりでした」
先生は言う。
「今でも、進路指導として間違っていたとは思っていません」
「なら」
「でも」
先生の声が少し震えた。
「正しい言葉で人が救われるとは限らない」
図書館は静かだった。
「正しい言葉が、人を傷つけることもある」
相馬が先生を見る。
「それで学校辞めるんですか」
「まだ辞めていません」
「休んでるだけ?」
「はい」
「なんで今?」
先生は少し笑った。
「文化祭です」
「正解裁判?」
「はい」
「何かあった?」
「藤野さんの問いです」
私は驚いた。
「私?」
「自分の幸せのためなら、家族を悲しませてもいいか」
「……はい」
「柴崎が私に聞いた問いと、ほとんど同じでした」
背中が冷たくなった。
「先生」
「私は七年前、彼に答えました」
「何て?」
「いい、と」
先生は目を閉じた。
「君の人生なんだから、親を悲しませても自分のしたいことをすればいい、と」
私が文化祭で出した答えと同じだった。
「そして彼は翌日死んだ」
先生は立ち上がった。
「だから少し、教師を続けていいのか考えています」
「そんな」
「先生」
相馬が呼ぶ。
「はい」
「それ、逃げじゃないですか」
私は相馬を見る。
「相馬!」
「だって」
相馬は先生を見る。
「先生が辞めたら、その生徒が死んだ意味が変わるんですか」
三枝先生は黙った。
「先生、自分が悪かったって決めたいだけじゃないですか」
「相馬」
「悪かったことにしたほうが楽だから」
「やめなよ」
「藤野だって思うだろ」
「思わない」
「俺は思う」
相馬の声が強くなる。
「俺も弟のことでずっとそうだったから」
三枝先生が相馬を見る。
「俺が先生殴ったから弟が引きこもった。俺が余計なことしたから全部壊れたって」
「……」
「でも、本当は分かんない」
相馬は言った。
「俺が殴らなくても弟は学校辞めたかもしれない。もっとひどいことになったかもしれない。逆に、殴らなかったら普通に戻れたかもしれない」
拳を握る。
「分かんないんですよ」
「そうですね」
「なのに自分が原因だって決めるのも、勝手じゃないですか」
三枝先生はしばらく相馬を見ていた。
「厳しいですね」
「すみません」
「謝らなくていい」
先生は少し笑った。
「考えてみます」
図書館を出ていった。
私はその背中を見送った。
「相馬」
「何」
「言いすぎ」
「うん」
「でも」
「うん」
「たぶん先生に必要だった」
相馬は答えなかった。
第十二章 正しい噂
翌朝には、三枝先生の過去が学校中に広がっていた。
匿名のSNSアカウントが投稿していた。
〈二年B組担任・三枝直人教諭は、前任校で生徒自殺に関係していたとの情報〉
古い新聞記事の画像。
三枝先生の名前。
柴崎航平の学校。
すべてが一つの投稿にまとめられていた。
「誰が流したの」
美緒が青い顔で聞いた。
「知らない」
「葵たち昨日調べたんでしょ」
「私たちじゃない」
「本当に?」
「本当」
クラスのグループLINEも荒れていた。
〈マジだったんだ〉
〈だから休んでんの?〉
〈正解裁判とかやばくね〉
〈人死んでるのに正解とかやってたの?〉
〈先生の自己満じゃん〉
〈いや関係ないだろ〉
〈学校説明しろよ〉
情報は速かった。
事実より速かった。
昼には保護者から学校へ問い合わせが殺到した。
午後、緊急ホームルームが開かれた。
校長が来た。
「インターネット上で、本校教員に関する情報が拡散されています」
教室は静かだった。
「学校として事実関係を確認しています」
「先生は人を自殺させたんですか」
男子が聞いた。
「そのような事実が確認されたわけではありません」
「でも前の学校で生徒死んだんでしょ」
「それは事実です」
「担任だった?」
「個人情報に関わるので」
「ネットに出てます」
「インターネット上の情報をすべて事実と考えないでください」
「じゃあ嘘なんですか」
校長は答えなかった。
私は手を挙げた。
「三枝先生はいつ戻るんですか」
「未定です」
「先生、辞めるんですか」
「決まっていません」
「学校が辞めさせるんですか」
「藤野さん」
高瀬先生が止める。
「今は」
「先生は悪いことしてないです」
口から出た。
教室中が私を見る。
「葵」
美緒が小さく言った。
「七年前の第三者委員会でも、不適切な指導はなかったって」
校長の表情が変わった。
「なぜそれを」
「新聞に出てます」
「藤野さん」
「先生は、生徒がやりたいことをやっていいって言っただけです」
「葵」
今度は相馬が止めた。
「でも」
「それ以上言わないほうがいい」
「なんで」
「本人から聞いた話だろ」
私は気づいた。
先生が私たちに話したことまで言おうとしていた。
「ごめん」
座る。
ホームルームが終わった。
その日の放課後。
私のSNSにメッセージが来た。
知らないアカウント。
〈あなた、三枝先生を庇ってる人?〉
無視した。
次。
〈人殺し教師の味方するんだ〉
次。
〈亡くなった生徒の気持ち考えたことある?〉
手が震えた。
私は何もしていない。
ただ先生は悪くないと言っただけだ。
それなのに怖かった。
「葵」
美緒がスマホを覗く。
「何これ」
「分かんない」
「ブロックしなよ」
「うん」
ブロック。
すぐ別のアカウント。
〈正義ぶってんじゃねーよ〉
「なんで」
私は呟いた。
「私、間違ったこと言った?」
美緒は答えなかった。
「先生悪くないじゃん」
「うん」
「調査でも問題なかった」
「うん」
「なのに何で」
「葵」
美緒は言った。
「今、それ言わないほうがいい」
「なんで」
「燃えるから」
「でも事実じゃん」
「事実でも」
「事実なのに言っちゃ駄目なの?」
美緒は黙った。
そのとき私は初めて知った。
正しいことを言えばいいわけではない。
正しいことを言うにも、
場所と時間と相手がある。
でもそれなら。
言ってはいけない正しさは、
本当に正しさなのだろうか。
第十三章 被害者の母
三日後。
学校の正門前に女性が立っていた。
五十代くらい。
細い人だった。
報道記者が二人いる。
「誰?」
「分かんない」
生徒たちが遠巻きに見る。
私は通り過ぎようとした。
女性と目が合った。
「藤野葵さん?」
足が止まった。
「はい」
「少しお話できますか」
「誰ですか」
「柴崎です」
心臓が跳ねた。
「柴崎航平の母です」
何も言えなかった。
「あなたが三枝先生を庇っている生徒さんですね」
「……はい」
「少しだけ」
近くの喫茶店へ行った。
美緒と相馬もついてきた。
四人で座る。
柴崎さんはコーヒーを頼んだ。
私たちは何も頼まなかった。
「怖がらなくて大丈夫」
女性は言った。
「責めに来たわけじゃありません」
「はい」
「三枝先生から話を聞いたんですか」
「少し」
「そう」
コーヒーが来る。
女性は砂糖を二つ入れた。
「航平はね」
静かに話し始めた。
「本当に先生が好きだったんです」
「……はい」
「家でも三枝先生の話ばかりしていました」
意外だった。
「先生だけは分かってくれるって」
「じゃあ」
「だから苦しかったんだと思います」
「何がですか」
「先生に『東大を受けなくてもいい』と言われたこと」
「でもそれは」
「分かっています」
女性は私を見た。
「三枝先生が悪意で言ったわけではない」
「なら」
「でもね」
女性は言った。
「悪意がなければ、人を傷つけても責任はないんでしょうか」
私は答えられなかった。
「航平は、先生に認めてもらいたかった」
「でも先生は音楽を」
「ええ」
「夢を応援した」
「そうです」
「なら」
「葵さん」
初めて名前で呼ばれた。
「人は、自分が欲しい言葉だけを正しく受け取れるわけではないんです」
三枝先生と同じことを言った。
「航平は先生から『東大に行かなくてもいい』と言われて、『お前には無理だ』と受け取った」
「そんな」
「私も最初はそう思いました」
女性はコーヒーを一口飲んだ。
「でも、死んだ子には確認できない」
沈黙。
「だから七年間、答えが出ないんです」
「先生を恨んでるんですか」
相馬が聞いた。
女性は相馬を見る。
「恨んでいました」
「今は?」
「分かりません」
「許した?」
「それも分かりません」
「じゃあ何で学校に」
「先生に会いに来ました」
「会えました?」
「いいえ」
女性は少し笑った。
「逃げられました」
「先生は逃げてない」
私は言った。
女性が私を見る。
「すみません」
「いいんですよ」
「でも先生、ずっと考えてます」
「知っています」
「なら」
「だから会いたいんです」
「何を言うんですか」
女性はしばらく黙った。
「もう、航平の人生を背負わないでください」
予想と違った。
「え?」
「先生は七年間、息子の死を背負っている」
「はい」
「でも」
女性は言った。
「それは私には、少し傲慢にも見えるんです」
「傲慢?」
「自分の一言で人の生死が決まったと思っている」
相馬が顔を上げた。
図書館で彼が言ったことと同じだった。
「航平には、先生の知らない苦しみもありました」
「どんな?」
「家庭です」
女性は笑った。
「私です」
「……」
「私は航平に東大へ行ってほしかった」
声が震えた。
「夫もそうでした」
「だから音大を反対した?」
「はい」
「先生より」
私は言いかけた。
止めた。
でも女性は分かった。
「私のほうが息子を追い詰めたのかもしれない」
「そんな」
「かもしれない、です」
女性は言った。
「でも私も七年間、自分が殺したのかもしれないと思って生きてきました」
誰も何も言えなかった。
「三枝先生も自分が殺したと思っている」
女性は窓を見る。
「夫も、自分が悪かったと言っている」
静かな声だった。
「みんな自分が殺したことにしたがるんです」
「なんで」
美緒が聞いた。
「分かりません」
女性は答えた。
「理由がないより、理由があったほうが耐えやすいからかもしれません」
私はその言葉を覚えた。
「でも本当は」
女性は続けた。
「航平がなぜ死んだのか、誰にも分からない」
コーヒーはもう冷めていた。
「一つだけ分かるのは」
女性が言った。
「航平は死ぬ前の日まで生きていた、ということです」
当たり前の言葉だった。
でも胸に刺さった。
「音楽を聴いて、友達と笑って、夕飯を食べて、私と喧嘩して」
女性の目に涙が浮かんだ。
「なのに私たちは、死んだ理由ばかり探して、あの子が生きていたことを忘れてしまった」
私は何も言えなかった。
女性は涙を拭いた。
「ごめんなさい」
「いえ」
「あなたたちは十七歳なんですよね」
「はい」
「航平と同じ」
女性は笑った。
「だからお願いがあります」
「何ですか」
「正解を探すために、生きることを忘れないでください」
その言葉を残して、
柴崎さんは帰っていった。
第十四章 美緒の不正解
その週の日曜日。
美緒から電話が来た。
「家出した」
「は?」
「今、駅」
「どこの?」
「いつもの」
「待ってて」
私は家を飛び出した。
駅前のベンチに美緒がいた。
大きなリュック。
「何したの」
「喧嘩」
「親と?」
「うん」
「美大?」
「うん」
「帰ろ」
「嫌」
「美緒」
「今日だけ」
「どこ泊まるの」
「分かんない」
「うち来る?」
「いいの?」
「お母さんに聞く」
電話した。
母は驚いたが、
「事情はあとでいいから連れてきなさい」
と言った。
家に向かう。
「何があったの」
「作品捨てられた」
「え?」
「お父さんに」
「絵?」
「うん」
美緒は笑った。
「予備校の課題」
「なんで」
「こんなもの描いてる暇あったら勉強しろって」
「ひどい」
初めて迷わず言えた。
「でしょ」
「うん」
「私もキレた」
「何したの」
「お父さんのゴルフクラブ捨てた」
「え?」
「粗大ゴミ置き場」
「美緒」
「一本だけ」
「一本でも駄目でしょ」
「やっぱり?」
「やっぱり」
「三十万だって」
「最悪じゃん」
「うん」
美緒は笑った。
私も笑ってしまった。
「笑い事じゃない」
「葵も笑ってる」
「だって」
しばらく二人で笑った。
それから美緒が泣いた。
「私さ」
「うん」
「本当に絵やりたいのかな」
「え?」
「分かんなくなった」
私は足を止めた。
「あんなに言ってたじゃん」
「だから」
「美大行くって」
「うん」
「親に反対されてもって」
「うん」
「じゃあ」
「意地になってるだけかもしれない」
美緒は言った。
「反対されたから、絶対行くって」
「……」
「もし親が最初から『いいよ』って言ってたら、こんなに必死になったかな」
答えられなかった。
「葵」
「何」
「自分の正解って、どうやって分かるんだろうね」
私は笑った。
「私に聞く?」
「だよね」
二人で歩いた。
家に着く。
母が温かいココアを作ってくれた。
父は何も聞かなかった。
美緒は私の部屋に泊まった。
布団を二つ並べた。
電気を消したあと、美緒が言った。
「葵」
「何」
「相馬に告白された?」
心臓が跳ねた。
「……なんで」
「やっぱり」
「知ってたんでしょ」
「まあね」
「相馬から聞いた?」
「うん」
「最低」
「私も知ってるの黙ってたから同罪」
「何で言わなかったの」
「葵が自分で決めることだから」
またその言葉。
「美緒は嫌じゃないの」
「嫌だよ」
即答だった。
「え」
「嫌に決まってるじゃん」
「じゃあ」
「でも付き合うなとは言わない」
「何それ」
「私も分かんない」
暗闇の中で美緒が笑った。
「葵が相馬と付き合ったら、たぶんしばらくムカつく」
「うん」
「二人でいるの見たら泣くかもしれない」
「うん」
「でも、だから付き合うなって言ったら、それも違う」
「……うん」
「だから勝手にして」
「何その言い方」
「本音」
しばらく沈黙。
「美緒」
「何」
「私、相馬好きだと思う」
「知ってる」
「いつから?」
「葵より先に」
「最悪」
「葵、自分のこと分からなすぎ」
「うるさい」
「付き合えば」
「いいの?」
「それ聞くのやめて」
「でも」
「私に許可取ったら」
美緒は言った。
「うまくいかなかったとき、私のせいにできるでしょ」
胸を突かれた。
「そんなこと」
「しない?」
「……分かんない」
「だから自分で決めて」
「怖い」
「私も怖い」
「何が」
「美大」
「うん」
「行くかどうか」
「うん」
「でも」
美緒は言った。
「怖いからって誰かに決めてもらったら、ずっとその人のせいにする気がする」
私は天井を見る。
「美緒」
「何」
「十七歳って面倒くさいね」
「ほんと」
「早く大人になりたい」
「大人も同じじゃない?」
「最悪」
二人で笑った。
第十五章 父の正解
美緒が泊まった翌朝。
父が駅まで車で送ってくれた。
美緒を家に帰すためだった。
「ありがとう」
美緒が降りる。
「困ったらいつでも来なさい」
父が言った。
「はい」
美緒は頭を下げた。
車が動く。
私は助手席。
「お父さん」
「何だ」
「美緒には優しいんだね」
「何だそれ」
「家出しても怒らない」
「他人の子だからな」
「自分の子だったら?」
「怒る」
「なんで」
「心配だからだ」
またその言葉。
「心配って便利だね」
父が私を見る。
「どういう意味だ」
「何でもできるじゃん」
「何が」
「心配だから反対する。心配だから止める。心配だから怒る」
「当たり前だろ」
「本人が嫌でも?」
「子どもには分からないことがある」
「大人なら分かるの?」
「子どもよりはな」
「三枝先生も?」
父の顔が固くなった。
「その話はやめろ」
「なんで」
「学校から聞いた。お前、先生の件で余計なことをしているらしいな」
「余計なことって?」
「過去を調べたり」
「誰から」
「学校だ」
「別に悪いことしてない」
「葵」
「公開されてる記事読んだだけ」
「そういう問題じゃない」
「じゃあどういう問題?」
「お前には関係ない」
腹が立った。
「そればっかり」
「何が」
「子どもには分からない。関係ない。大人になれば分かる」
「事実だ」
「じゃあ何歳から自分で考えていいの?」
兄と同じことを言っていた。
父も気づいたのだろう。
黙った。
「お兄ちゃんが料理人になるのも」
「その話は」
「お父さんが嫌なだけじゃん」
「違う」
「何が違うの」
「悠真の将来を考えている」
「本人の将来でしょ」
「家族だ」
「家族なら人生決めていいの?」
父が車を路肩に止めた。
「葵」
「何」
「最近のお前はおかしい」
その一言が痛かった。
「前はそんなことを言う子じゃなかった」
私は父を見る。
「どんな子だった?」
「もっと素直だった」
「素直?」
「人の話を聞けた」
「今も聞いてる」
「屁理屈ばかり言うようになった」
「考えてるだけ」
「相馬とかいう子の影響か?」
頭に血が上がった。
「なんで相馬が出てくるの」
「最近よく一緒にいるそうじゃないか」
「学校がそんなことまで言ったの?」
「母さんから聞いた」
「関係ない」
「友達は選べ」
その瞬間。
何かが切れた。
「それ」
「何だ」
「お父さんの正解でしょ」
「葵」
「私の友達まで決めないで」
「決めてない」
「選べって言ったじゃん」
「忠告だ」
「同じだよ」
「違う」
「同じ!」
初めて父に怒鳴った。
自分の声に自分で驚いた。
「私、ずっとお父さんの言う通りにしてきた」
「そんな言い方」
「吹奏楽だって辞めた」
「それはお前が決めたことだろ」
「お父さんが受験とどっちが大事か考えろって言ったから!」
「最後に決めたのはお前だ」
言葉が止まった。
父の言う通りだった。
「ほら」
父は言った。
「人のせいにするな」
悔しかった。
涙が出た。
「最低」
「葵」
「最低」
車を降りた。
「待ちなさい」
ドアを閉めた。
走った。
後ろから父の声がした。
振り返らなかった。
駅のトイレで泣いた。
父は間違っている。
そう思いたかった。
でも最後の言葉だけは正しかった。
吹奏楽部を辞めたのは私だ。
父に言われた。
でも最後に退部届を書いたのは私。
私は今まで、自分で選ばなかったのではない。
誰かの正解を選ぶという選択を、
自分でしてきたのだ。
そのほうが楽だった。
失敗しても、
「言われたから」
と言えるから。
私は初めて気づいた。
正解を求めていたのは、
間違えた責任を取りたくなかったからだ。
第十六章 答えをくれない人
学校を休んだ。
初めてだった。
欠席ゼロが途切れた。
母には体調が悪いと言った。
本当は元気だった。
昼まで寝た。
午後、家を出た。
行く場所はなかった。
気づいたら兄が働いているレストランの前にいた。
ガラス越しに兄が見える。
白いシャツ。
黒いエプロン。
皿を運んでいる。
楽しそうだった。
店が落ち着くまで待った。
午後三時。
兄が出てきた。
「葵?」
「久しぶり」
「学校は?」
「休んだ」
「優等生が?」
「うるさい」
「どうした」
「お父さんと喧嘩した」
「仲間」
「嬉しくない」
近くの公園へ行った。
自販機でジュースを買う。
「大学どうしたの」
「休学」
「本当に辞める?」
「たぶん」
「調理師学校?」
「来年から」
「後悔してる?」
「もう?」
「うん」
「毎日してる」
意外だった。
「え?」
「東大行っとけばよかったかなって、一日一回くらい思う」
「じゃあ戻れば」
「でも料理してるときは、こっちでよかったって思う」
「どっちなの」
「両方」
「意味分かんない」
「人生そんなもんじゃね」
兄はジュースを飲む。
「葵は?」
「何」
「東大」
「分かんない」
「いいじゃん」
「何が」
「初めて聞いた」
「何を」
「分かんないって」
私は笑った。
「みんな同じこと言う」
「誰」
「三枝先生とか相馬」
「相馬?」
「友達」
「男?」
「そう」
「彼氏?」
「違う」
「好き?」
「うるさい」
「好きなんだ」
「黙って」
兄が笑った。
「で、何悩んでんの」
「全部」
「雑」
「進路も、相馬も、お父さんも」
「うん」
「何が正しいのか分かんない」
「正しい必要ある?」
「あるでしょ」
「なんで」
「間違えたくないから」
「無理だよ」
また。
「みんなそれ言う」
「みんな賢いな」
「じゃあどうすればいいの」
「知らん」
「役に立たない」
「葵」
兄は言った。
「お前、答え欲しいんじゃなくて責任取ってくれる人探してない?」
父との喧嘩を思い出した。
「……そうかも」
「なら誰にも聞かないほうがいい」
「でも怖い」
「怖いよ」
「お兄ちゃんも?」
「めちゃくちゃ」
「そう見えない」
「格好つけてるから」
兄は笑った。
「俺さ」
「うん」
「料理人になって失敗したら、父さんに一生言われると思う」
「ほら見ろって?」
「そう」
「嫌だね」
「超嫌」
「じゃあ戻れば」
「それはもっと嫌」
「なんで」
「失敗するのが嫌なんじゃない」
兄は言った。
「自分で選ばなかった人生で成功するほうが、俺は怖い」
私は意味を考えた。
「成功しても?」
「うん」
「贅沢」
「そうかも」
「でも」
私は少し分かる気がした。
東大に入る。
卒業する。
大企業に入る。
安定する。
もし全部うまくいったとして。
その人生を私は好きになれるのだろうか。
「葵」
「何」
「東大行きたければ行けばいいんだぞ」
「分かってる」
「父さんが言ったから行かない、も父さんに決めてもらってるのと同じだからな」
胸に刺さった。
「分かってる」
「本当に?」
「今分かった」
「じゃあいい」
兄は立ち上がった。
「仕事戻る」
「うん」
「学校行けよ」
「明日は」
「相馬に会いたいだろ」
「うるさい」
兄は笑って戻っていった。
私は一人で公園に残った。
スマホを見る。
相馬からメッセージが来ていた。
〈大丈夫?〉
美緒からも。
〈生きてる?〉
私は美緒に、
〈生きてる〉
と返した。
相馬には少し迷って、
〈会いたい〉
と送った。
送信した瞬間、
心臓がものすごい速さで鳴った。
取り消したくなった。
でもしなかった。
一分後。
〈どこ?〉
私は場所を送った。
三十分後。
相馬が来た。
「遠い」
「ごめん」
「電車賃請求する」
「払わない」
相馬が隣に座る。
「学校休んだ?」
「うん」
「初?」
「初」
「悪い子」
「そう」
「どう?」
「何が」
「悪い子になった感想」
「別に世界終わらなかった」
「だろ」
「でも出席率下がった」
「そこ気にする?」
「する」
二人で笑った。
沈黙。
「相馬」
「うん」
「この前の返事」
「うん」
「する」
「今?」
「うん」
心臓がうるさい。
「私」
息を吸う。
「相馬が好き」
言った。
世界は終わらなかった。
雷も落ちなかった。
美緒が現れることもなかった。
ただ相馬が笑った。
「うん」
「何それ」
「嬉しい」
「もっと何か言って」
「俺も好き」
「知ってる」
「じゃあ何言えばいいんだよ」
「分かんない」
二人で笑った。
「付き合う?」
相馬が聞いた。
私は一瞬、
美緒を思い出した。
父を思い出した。
正しいか。
間違っているか。
考えそうになった。
でもやめた。
「付き合う」
「うん」
「でも」
「何」
「美緒が傷つくかもしれない」
「うん」
「それは嫌」
「うん」
「でも付き合いたい」
「うん」
「矛盾してる」
「してるね」
「いいのかな」
相馬が笑った。
「俺に聞く?」
「……聞かない」
「正解」
「それも言わないで」
「ごめん」
私は笑った。
十七歳。
初めての彼氏ができた。
それは誰かを少し傷つけるかもしれない選択だった。
だから私は、
嬉しいだけではいられなかった。
でもたぶん、
嬉しいだけではいられないことと、
選んではいけないことは、
同じではない。
第十七章 炎上
翌日学校へ行くと、
私と相馬が付き合ったことを美緒は一秒で見抜いた。
「付き合った?」
「なんで分かるの」
「距離」
「距離?」
「微妙に遠い」
「普通近くなるんじゃない?」
「意識しすぎて遠くなるタイプ」
相馬が笑った。
「さすが」
「笑うな」
私は美緒を見る。
「ごめん」
「なんで謝るの」
「だって」
「やめて」
「でも」
「葵」
美緒は笑った。
「おめでとう」
少しだけ目が潤んでいた。
私は抱きしめた。
「ごめん」
「だから謝るなって」
「ありがとう」
「それでいい」
その瞬間だった。
教室の後ろで誰かが叫んだ。
「やば」
スマホを見ている。
「何?」
「三枝の件」
新しい投稿。
今度は動画だった。
七年前の映像。
学校説明会らしい。
若い三枝先生が映っている。
音声。
〈本人が望まない進路を保護者が強制することは、教育ではありません〉
切り取られていた。
投稿文。
〈生徒を親から引き離す思想を持つ教師。死亡した生徒にも同様の指導か〉
再生数は十万を超えていた。
コメント。
〈洗脳じゃん〉
〈教師が家庭に口出すな〉
〈子供に親を裏切れって教えてる〉
〈こういう教師が一番危険〉
〈人一人死んでるんだぞ〉
私は手が震えた。
「違う」
「葵」
「こんなの違う」
動画の前後がない。
三枝先生の意図が分からない。
でも短い映像だけ見れば、
確かにそう聞こえる。
「反論しないほうがいい」
相馬が言った。
「なんで」
「今何言っても燃える」
「でも嘘じゃん」
「完全な嘘じゃない」
「切り取ってる」
「そうだけど」
「先生何も悪くないのに」
「藤野」
「私、投稿する」
「やめろ」
「なんで」
「先生が望んでる?」
止まった。
「確認してないだろ」
「でも」
「先生のためって言って、先生が望んでないことするの?」
何も言えなかった。
弟のために教師を殴った相馬。
その結果、弟はさらに傷ついた。
「……分かった」
スマホを置いた。
でもその日の午後、
別の誰かが投稿した。
〈三枝先生を守ろう〉
在校生らしい匿名アカウント。
〈先生は悪くありません。私たちに自分で考えることを教えてくれた先生です〉
賛同が広がった。
ハッシュタグまでできた。
〈#三枝先生を辞めさせるな〉
一方で、
〈#被害者を忘れるな〉
というタグもできた。
二つの正義が衝突した。
先生を守りたい人。
亡くなった生徒を守りたい人。
どちらも自分を正しいと思っている。
コメント欄は地獄だった。
〈先生を擁護する奴は人殺しの味方〉
〈遺族はいつまで被害者面してるの〉
〈教師一人に責任押しつけるな〉
〈死人は反論できない〉
〈親が追い詰めたんだろ〉
〈憶測で遺族叩くな〉
私はスマホを閉じた。
「気持ち悪い」
美緒が言った。
「みんな正しいこと言ってるつもりなんだよね」
「たぶん」
「正義って怖いね」
相馬が言った。
「悪意なら止められるけど」
「うん」
「正義は止まらない」
私は思った。
誰かを傷つける人は、
自分が悪い人だと思っているとは限らない。
むしろ、
自分は正しいと信じているときのほうが、
人は遠くまで行けるのかもしれない。
第十八章 最後の授業
三枝先生が学校に戻ってきたのは、
炎上から一週間後だった。
朝のホームルーム。
教室の扉が開く。
「おはようございます」
一瞬、
誰も反応できなかった。
それから拍手が起きた。
誰が始めたのか分からない。
教室中が拍手した。
三枝先生は困った顔をした。
「やめてください」
拍手が止まらない。
「本当に」
先生が笑った。
少し痩せていた。
拍手が止まる。
「皆さんに話があります」
教室が静かになる。
「私は今月末で、この学校を退職します」
「え」
声が漏れた。
「なんで!」
「先生悪くないじゃん!」
「学校に辞めさせられた?」
三枝先生は手を上げた。
「私が決めました」
「逃げるんですか」
相馬だった。
先生は相馬を見る。
「そうかもしれません」
「先生」
「でも」
三枝先生は笑った。
「逃げることが、いつも間違いだとも思わなくなりました」
相馬は黙った。
「私は教師を辞めます」
「何するんですか」
「まだ決めていません」
「無職?」
「そうですね」
笑いが起きた。
「先生なのに」
「先生も人生迷うんです」
「何歳?」
「三十八」
「十七の倍以上じゃん」
「年齢はあまり関係ありません」
また笑い。
三枝先生は黒板へ向かった。
チョークを持つ。
〈正解〉
大きく書く。
「最後に授業をします」
「今?」
「はい」
「現国?」
「いいえ」
三枝先生は振り返る。
「正解について」
教室が静かになった。
「皆さんに最初に聞きます」
先生は言った。
「正解は必要だと思いますか」
何人かが手を挙げる。
「必要」
「なんで?」
「ないと困るから」
「何に?」
「生きるのに」
「他には?」
「ルールとか」
「そうですね」
先生は黒板に書く。
〈必要〉
「では正解がないほうがいいと思う人」
相馬が手を挙げる。
美緒も。
私は迷ってから挙げた。
「相馬君」
「正解があると、それ以外が間違いになるから」
先生が頷く。
「佐倉さん」
「正解が一個だと、選べないから」
「藤野さん」
私は考えた。
「正解があると」
少し迷う。
「自分で考えなくて済むから」
先生が笑った。
「それは、ないほうがいい理由ですか」
「はい」
「なぜ?」
「楽だから」
「楽ならいいのでは?」
「でも」
私は言った。
「楽なほうを選び続けたら、自分で選んだことが何もなくなる気がする」
三枝先生は黒板に書いた。
〈自分で考える〉
「皆さん」
先生はチョークを置いた。
「私は教師になったとき、正しいことを教える人になろうと思っていました」
誰も喋らない。
「でも今は違います」
先生は言った。
「正しいことを疑える人を育てるのが、教師の仕事だったのではないかと思っています」
「だった?」
誰かが聞いた。
「辞めるので過去形です」
笑い。
「先生」
私が手を挙げる。
「はい」
「柴崎航平さんのこと」
空気が変わった。
「先生、もう自分のせいだと思わないんですか」
三枝先生は長く考えた。
「思います」
意外だった。
「今でも?」
「はい」
「じゃあ」
「同時に、私のせいではないとも思います」
「矛盾してる」
「そうですね」
先生は笑った。
「人間は矛盾したまま生きられるんです」
「それでいいんですか」
「いいかどうかは分かりません」
「また」
「答えをくれない先生なので」
教室に小さな笑いが起きる。
「ただ一つ」
三枝先生は言った。
「七年前の私は、答えを出そうとしすぎました」
「どういう意味?」
「柴崎に『自分のやりたいことをやればいい』と言いました」
「はい」
「それは正しいと思っていた」
「今は?」
「今なら」
先生は少し考えた。
「『君はどうしたい?』と聞きます」
私は胸を突かれた。
「答えを渡すのではなく?」
「はい」
「でも本人が分からないって言ったら?」
「一緒に考える」
「いつまで?」
「分かるまで」
「卒業しちゃうかも」
「それでも」
三枝先生は笑った。
「人の人生に答えを出すよりはいい」
チャイムが鳴った。
誰も立たなかった。
三枝先生も動かなかった。
「授業終わり?」
「終わりです」
「最後?」
「最後ではありません。月末まではいます」
「じゃあ最後の授業じゃないじゃん」
「題名です」
「詐欺」
笑いが起きた。
三枝先生も笑った。
私も笑った。
そのときは、
先生が辞めることを悲しいと思った。
でも同時に、
少し嬉しかった。
先生も正解を捨てたのだと思ったから。
第十九章 十七歳の選択
十一月。
進路希望調査の再提出があった。
私は紙を前にしていた。
第一志望。
東京大学。
前回と同じ文字を書こうとして、
手が止まった。
「まだ?」
美緒が聞く。
「うん」
「私、決めた」
「美大?」
「うん」
「本当に?」
「今のところ」
「今のところ?」
「変わるかもしれない」
「いいの?」
「いい」
美緒は笑った。
「変わったら変える」
「そんな簡単に」
「人生なんだから変わるでしょ」
強くなったと思った。
いや。
前から強かったのかもしれない。
強い人とは迷わない人ではなく、
迷ったまま動ける人なのかもしれない。
「相馬は?」
「進学」
「大学?」
「たぶん」
「どこ?」
「心理学」
「意外」
「弟のこともあるし」
「弟のため?」
「違う」
相馬は言った。
「俺が知りたいから」
その言葉が嬉しかった。
「藤野は?」
二人が私を見る。
「分かんない」
「まだ?」
「うん」
「じゃあ空欄?」
「それは怒られる」
「東大でいいじゃん」
相馬が言う。
「え?」
「今行きたいなら」
「でも分かんない」
「分かんないなら、今の第一志望書けばいいだろ」
「東大行ったらお父さんの言う通りになる」
「それ関係ある?」
兄と同じだった。
「父親が言ったから東大やめるなら、それも父親基準じゃん」
「分かってる」
「藤野が行きたいなら行けばいい」
「でも」
「行きたくないならやめればいい」
「簡単に言うね」
「決めるのは藤野だから」
私は紙を見る。
東京大学。
嫌いではない。
興味もある。
でも父が望むからという理由を除いたとき、
自分がどれくらい行きたいのか分からない。
「先生」
宮田先生のところへ行った。
「何?」
「第一志望、未定って書いていいですか」
「駄目」
「ですよね」
「候補は?」
「東大」
「なら東大でいいだろ」
「でも」
「志望調査は契約書じゃない」
「え?」
「変えていいんだよ」
当たり前のことを言われた。
「今の希望を書けばいい」
「変えていい?」
「もちろん」
私は席に戻った。
第一志望。
〈東京大学 文科一類〉
書いた。
前回と同じ。
でも意味は違った。
父が望む大学。
ではなく。
今の私が候補にしている大学。
それだけ。
紙を提出した。
不思議なくらい軽かった。
第二十章 弟
十二月。
相馬から突然連絡が来た。
〈弟に会う〉
私はすぐ返した。
〈今日?〉
〈うん〉
〈大丈夫?〉
〈分かんない〉
〈行ってらっしゃい〉
それ以上書かなかった。
頑張って。
謝って。
仲直りして。
いくらでも言葉はあった。
でも全部、私の正解だった。
夜十時。
相馬から電話。
「もしもし」
「藤野」
「うん」
「会った」
「うん」
「話した」
「うん」
「殴られた」
「え?」
「弟に」
「大丈夫?」
「痛い」
「何で」
「俺が謝ったから」
「意味分かんない」
「俺も」
相馬が笑った。
「弟がさ」
「うん」
「勝手に謝るなって」
「うん」
「兄ちゃんが先生殴ったこと、別に怒ってないって」
「じゃあ何で」
「俺が勝手に『俺のせいでお前はこうなった』って思ってるのがムカつくって」
柴崎さんの言葉を思い出した。
自分が原因だと思うことも傲慢。
「弟、何て?」
「学校辞めたのは自分で決めたって」
「うん」
「引きこもってるのも、今はそうしたいからだって」
「うん」
「俺のせいにするなって」
「そっか」
「俺、馬鹿だった」
「うん」
「そこ否定しろよ」
「馬鹿だったね」
「ひど」
二人で笑った。
「でも」
相馬の声が少し震えた。
「一年ぶりに弟と話した」
「よかったね」
「うん」
「泣いてる?」
「泣いてない」
「声」
「鼻水」
「同じ」
「違う」
私は笑った。
「藤野」
「何」
「ありがとう」
「私何もしてない」
「それがよかった」
「何それ」
「何も言わなかったから」
私は少し嬉しかった。
答えを渡さないことも、
誰かのそばにいる方法なのかもしれない。
第二十一章 父からの手紙
年末。
父から封筒を渡された。
「何これ」
「読め」
「今?」
「部屋で」
自室で開ける。
手紙だった。
父の字。
私は父から手紙をもらったことがない。
〈葵へ。
この前は悪かった。
直接言うとうまく話せそうにないので書く。
お前に「前はもっと素直だった」と言ったことを後悔している。
あれは、「前のお前のほうが私にとって都合がよかった」という意味だったのかもしれない。
悠真のことでも考えた。
私は父親として正しいことをしているつもりだった。
今も、大学は卒業したほうがいいと思っている。
料理人になることには反対だ。
これは変わっていない。
ただ、反対することと、決めることは違うのだと最近思う。
悠真の人生は悠真のものだ。
葵の人生は葵のものだ。
そんな当たり前のことを、私は分かっているつもりで分かっていなかった。
東大に行ってほしい。
これは父親としての希望だ。
でも、お前が行かないと決めても、私はお前の父親だ。
そこだけは覚えておいてほしい。〉
最後まで読んだ。
泣いた。
どうして泣くのか分からなかった。
嬉しい。
悲しい。
安心。
申し訳なさ。
いろいろ混ざっていた。
階下へ行く。
父はテレビを見ていた。
「読んだ」
「そうか」
「ずるい」
「何が」
「手紙」
「直接だと喧嘩になる」
「うん」
私は父の隣に座った。
「お父さん」
「何だ」
「私、まだ東大志望」
「そうか」
父の顔が明るくなる。
「でも変えるかもしれない」
少し曇る。
「分かった」
「反対する?」
「内容による」
「するんだ」
「反対する自由は父さんにもある」
私は笑った。
「確かに」
「でも最後はお前が決めろ」
「うん」
「失敗したら」
「ほら見ろって言う?」
「言うかもしれん」
「最低」
「そのくらい許せ」
二人で笑った。
父は変わっていない。
私も急には変われない。
でもそれでいいのだと思った。
理解し合うということは、
同じ答えになることではない。
違う答えのまま、
一緒にいられることなのかもしれない。
第二十二章 三枝先生の最後の日
三枝先生の退職の日。
クラス全員で花を渡した。
「先生、次何するんですか」
「まだ決めていません」
「本当に?」
「本当に」
「ニート?」
「しばらく」
「三十八歳ニート」
「響きが悪いですね」
笑い。
美緒が描いた先生の似顔絵を渡した。
「似てない」
先生が言う。
「美大志望に言います?」
「撤回します」
「遅い」
相馬は何も渡さなかった。
代わりに、
「先生」
と言った。
「はい」
「ありがとうございました」
「こちらこそ」
それだけ。
私は最後になった。
「先生」
「はい」
「聞いていい?」
「どうぞ」
「辞めるの、正解だと思います?」
三枝先生は笑った。
「まだそれを聞きますか」
「最後だから」
「分かりません」
「やっぱり」
「藤野さんは?」
「何が?」
「東大」
「まだ志望してます」
「そうですか」
「意外?」
「少し」
「先生、東大行かなくてもいいって言うと思った」
「言いません」
「なんで」
「あなたが決めることだから」
「みんなそれ言う」
「いい人たちですね」
「答えくれない人ばっかり」
「そのほうがいい」
先生は鞄を持つ。
「藤野さん」
「はい」
「最初のホームルーム、覚えていますか」
「大切なもの書いたやつ?」
「はい」
「覚えてる」
「あなた、何を書きました?」
私は先生を見る。
「知ってたの?」
「字で分かりました」
「最悪」
「何でした?」
私は答えた。
「期待を裏切らないこと」
「今も?」
少し考える。
「大切ではある」
「はい」
「でも一番じゃない」
「一番は?」
私は考えた。
家族。
美緒。
相馬。
自分。
夢。
どれも違う気がした。
「分かんない」
三枝先生が笑った。
「いい答えです」
「それ正解?」
「不正解かもしれません」
「先生」
「はい」
「ありがとうございました」
「こちらこそ」
先生は教室を出た。
廊下を歩いていく。
誰も追わなかった。
先生の人生だから。
その背中が角を曲がって見えなくなったとき、
私は少し泣いた。
第三部 私たちの不正解
第二十三章 十八歳まで百日
年が明けた。
私たちは高校三年生になる。
受験。
進路。
恋愛。
友情。
家族。
正解を考えている暇なんてないくらい、
毎日は速くなった。
でも私は知ってしまった。
忙しくても問いは消えない。
むしろ選ばなければならない瞬間ほど、
問いは大きくなる。
ある日、美緒が言った。
「美大、やめるかも」
「え?」
「デザイン系の普通の大学も考えてる」
「親に言われた?」
「違う」
「じゃあ何で」
「私が考えた」
美緒は笑った。
「前なら『夢を諦めるの?』って言ったでしょ」
「言ったかも」
「今は?」
「美緒が決めれば」
「つまんない」
「何で」
「もっと反対して」
「じゃあ美大行け」
「嫌」
「面倒くさい」
二人で笑った。
相馬は心理学部を目指して勉強を始めた。
「英語無理」
「単語やれ」
「嫌」
「大学行くんでしょ」
「藤野教えて」
「一時間千円」
「彼氏割」
「ない」
「冷たい」
付き合って三か月。
まだ手をつないだだけ。
キスもしていない。
美緒には、
「中学生?」
と言われた。
でも急ぐ必要はない。
誰かが決めた高校生らしさに合わせる必要もない。
そう思えるようになった。
兄は調理師学校への入学を決めた。
父はまだ反対している。
でも時々、兄の働くレストランへ母と食べに行っているらしい。
兄には内緒だ。
私は知っている。
家族は簡単には変わらない。
でも壊れたように見えても、
別の形になることはある。
そして私は、
まだ東大を第一志望にしていた。
父のためではない。
反抗するためでもない。
今のところ、
私が行ってみたいから。
来年変わるかもしれない。
明日変わるかもしれない。
それでいい。
十八歳まで、
あと百日。
十七歳の私はまだ、
人生の正解を一つも知らない。
ただ、
正解を知らないことを、
以前ほど怖いとは思わなくなっていた。
そんな私たちに、
春、
最後の問いがやってくる。
それは誰かの過去でも、
先生の人生でも、
家族の希望でもなかった。
私自身が、
自分の正解を選んだ結果、
大切な人を傷つけてしまったとき。
それでも私は、
「自分で選んだから」
と言えるのか。
そして、
自分で選んだことなら、
本当に後悔してはいけないのか。
その答えを知るまで、
私はもう少しだけ、
十七歳でいなければならなかった。
第二十四章 自分で決めたなら
三年生になった。
クラス替えがあった。
私は三年A組。
美緒は三年C組。
相馬は三年D組。
二年間ほとんど毎日同じ教室にいた三人が、初めて別々になった。
「終わった」
クラス発表の掲示板の前で美緒が言った。
「何が」
「友情」
「クラス違うくらいで?」
「葵、新しい友達できたら私のこと忘れるタイプ」
「美緒でしょ、それ」
「私は一途」
「相馬に振られて三か月で二組の男子格好いいって言ってた人が?」
「恋愛と友情は別」
相馬が横で笑った。
「俺も忘れられそう」
「相馬は別に」
「彼氏なのに?」
「毎日LINEするでしょ」
「美緒ともするじゃん」
「じゃあ同じ」
「俺、親友と同じ枠?」
「嫌?」
「ちょっと」
「面倒くさい」
三人で笑った。
何も変わらないと思っていた。
クラスが違っても。
進路が違っても。
卒業しても。
私たちは私たちだと思っていた。
十七歳は、ときどき永遠を簡単に信じる。
その永遠が壊れるまで。
新しいクラスでは、私はすぐに学級委員に推薦された。
「藤野さん、お願い」
「向いてるよ」
「去年も委員やってたんでしょ?」
断ろうと思った。
昔の私なら引き受けた。
期待されたから。
だから今度は断る。
そう考えた瞬間、少しおかしいと思った。
期待されたから引き受けるのも。
期待されたからこそ断るのも。
結局、他人を基準にしている。
「やります」
私は言った。
やりたいかと聞かれれば、少しやりたかったから。
「ありがとう」
新しい担任の田島先生が言った。
数学教師。
二十九歳。
三枝先生とはまるで違う。
「では副委員長は――」
新しい高校生活が始まった。
受験生という名前がついた。
廊下には、
〈第一志望合格へ〉
〈夏を制する者は受験を制す〉
〈現役生は最後まで伸びる〉
というポスターが貼られた。
去年なら安心したかもしれない。
正しい道が示されている感じがしたから。
今は少し怖かった。
みんな同じ方向へ走っている。
そこから外れたらどうなるのだろう。
四月の終わり。
美緒からメッセージが来た。
〈話したい〉
放課後、駅前のファミレスに集まった。
相馬はいなかった。
「相馬は?」
「呼んでない」
「なんで?」
「葵に話したいから」
美緒は鞄から一枚の紙を出した。
大学のパンフレット。
「ここ受けようと思う」
都内の私立大学だった。
芸術系ではない。
社会学部。
「社会学?」
「うん」
「デザインは?」
「やめる」
「完全に?」
「うん」
私は美緒を見る。
「何があった?」
「別に」
「別にって」
「考えた結果」
「本当に?」
「本当」
でも目を合わせない。
「親?」
「違う」
「じゃあ何」
「葵」
美緒が少し苛立った声を出した。
「私が決めたって言ってるじゃん」
「でも」
「自分で決めればいいんでしょ?」
言葉が止まった。
「ずっとそう言ってたじゃん」
「私は――」
「親の正解じゃなくて、自分の正解を選ぶんでしょ?」
「そうだけど」
「じゃあ私が選んだ」
「……うん」
「ならいいじゃん」
何かがおかしい。
でも何がおかしいのか分からなかった。
「分かった」
私は言った。
「応援する」
「ありがとう」
美緒は笑った。
その笑顔が、
どうしても本物に見えなかった。
第二十五章 選んだ理由
美緒の進路変更の理由を知ったのは、一週間後だった。
本人からではない。
美緒の母親からだった。
日曜日の午後。
母と買い物に出たスーパーで偶然会った。
「あら、葵ちゃん」
「こんにちは」
「いつも美緒がお世話になって」
「こちらこそ」
母親同士が話し始める。
「美緒ちゃん、進路決まったんですって?」
私の母が言った。
「ええ、やっと」
美緒のお母さんが笑った。
「本当に安心しました」
「社会学でしたっけ」
「そうなんです。ようやく現実を見てくれて」
胸がざわついた。
「美大は諦めたんですか?」
私が聞いた。
「そうなの」
嬉しそうだった。
「お父さんと何度も話し合ってね」
「話し合った?」
「ええ」
「美緒、自分で決めたって」
「もちろん最後は本人が決めたのよ」
その言い方。
聞き覚えがあった。
父が私に言った言葉。
――最後に決めたのはお前だ。
「でもよかったわ」
美緒のお母さんは続ける。
「絵なんて仕事にできる人はほんの一部でしょう?」
私は何も言えなかった。
「社会学なら就職先も広いし」
「そうですね」
母が答える。
「本人も納得してる?」
私は聞いた。
「もちろん」
「本当に?」
「葵?」
母が止める。
美緒のお母さんは少し困った顔をした。
「最初は嫌がってたけどね」
「……」
「でも親として言うべきことは言わないと」
「何を言ったんですか」
「葵」
「何を?」
美緒のお母さんの笑顔が消えた。
「美大へ行くなら学費は自分で出しなさいって」
胸の奥が冷たくなった。
「それ、選べないじゃん」
「え?」
「高校生が何百万も自分で払えない」
「だから奨学金という方法もあるでしょう?」
「じゃあ」
「葵」
母が腕を掴んだ。
「やめなさい」
「でも」
「家庭によって考え方は違うの」
美緒のお母さんも少し硬い声になった。
「私たちは美緒の将来を考えて――」
「心配だから?」
口から出た。
沈黙。
母が私を強く引いた。
「すみません」
その場を離れた。
帰り道。
「失礼でしょう」
母に怒られた。
「でも」
「でもじゃない」
「美緒、納得してない」
「あなたに分かるの?」
「分かる」
「どうして?」
「友達だから」
「友達なら全部分かるの?」
言葉に詰まった。
「美緒ちゃん本人が決めたなら」
「決めさせられたのかもしれない」
「それをあなたが決めるの?」
足が止まった。
母は私を見る。
「本人が自分で決めたと言っているんでしょう?」
「……うん」
「なら、まず本人の言葉を信じなさい」
「でも」
「あなたが納得できないからって、本人の選択を偽物にするのも違うでしょう」
何も言えなかった。
家に帰る。
すぐ美緒に電話した。
出ない。
LINE。
〈話したい〉
既読。
返信なし。
〈今日お母さんに会った〉
既読。
五分後。
〈だから?〉
〈学費の話聞いた〉
既読。
〈美緒、本当に社会学行きたい?〉
長い時間。
〈行きたい〉
〈本当に?〉
〈しつこい〉
〈美大行きたかったんじゃないの?〉
〈前はね〉
〈今は?〉
〈行かない〉
〈親に言われたから?〉
既読。
返事がない。
〈美緒〉
返事。
〈葵には関係ない〉
胸が痛んだ。
〈友達でしょ〉
〈だから何?〉
〈本当は行きたいなら〉
途中まで書いて消した。
もう一度。
〈自分の人生でしょ〉
送信。
すぐ返ってきた。
〈それ言うと思った〉
〈何〉
〈葵って最近そればっかり〉
意味が分からなかった。
〈何が〉
〈自分で決めろ、自分の人生、自分の正解〉
〈間違ってる?〉
返信が止まった。
一分。
三分。
五分。
〈正しいよ〉
続けて。
〈だから疲れる〉
私は画面を見つめた。
〈どういう意味?〉
〈もういい〉
〈よくない〉
〈葵〉
〈何〉
〈正しいこと言えば何言ってもいいと思ってる?〉
手が止まった。
七年前の三枝先生。
柴崎航平。
正しい言葉。
傷つく人。
〈そんなつもりない〉
〈知ってる〉
〈じゃあ〉
〈だから余計きつい〉
それを最後に、
美緒から返信は来なかった。
第二十六章 親友だから
翌日、美緒の教室へ行った。
「美緒いる?」
クラスメートが奥を指した。
美緒は友達と話していた。
私に気づく。
笑顔が消えた。
「話したい」
「昨日話した」
「LINEじゃなくて」
「今無理」
「放課後」
「予備校」
「終わったあと」
「遅い」
「じゃあ明日」
「葵」
美緒がため息をついた。
「今は話したくない」
「なんで」
「そういうところ」
「何が?」
「話したくないって言ってるのに、話そうとするところ」
周囲の視線。
「心配してるから」
「出た」
「何」
「心配」
美緒は笑った。
嫌な笑い方だった。
「葵が一番嫌ってた言葉じゃん」
「でも本当に」
「親もそう言うよ」
「一緒にしないで」
「何が違うの?」
「私は美緒のやりたいことを――」
「勝手に決めないでよ!」
教室が静かになった。
美緒の声が響いた。
「私が何したいか、葵が決めないで!」
「決めてない」
「決めてる!」
「美大行きたいって言ってたじゃん!」
「変わったの!」
「親に反対されたからでしょ!」
「それも含めて私が決めたの!」
「そんなの自分で決めたって言わない!」
言った瞬間。
美緒の顔が変わった。
私は気づいた。
言ってはいけない言葉だった。
「……そう」
美緒が言った。
「じゃあ葵が決めて」
「違う」
「私の人生、葵が決めれば?」
「そういう意味じゃない」
「じゃあどういう意味?」
「私はただ」
「私が葵の思う通りにしないから嫌なんでしょ」
「違う!」
「同じだよ」
美緒の目に涙が浮かぶ。
「親と同じ」
「違う」
「同じ!」
美緒は教室を出ていった。
追おうとした。
でも足が動かなかった。
親友だから分かる。
親友だから心配。
親友だから助けたい。
それは全部、
父が私に言った言葉と同じだった。
家族だから。
お前のためだから。
心配だから。
私はいつの間にか、
自分が嫌っていた人になっていた。
第二十七章 正解中毒
昼休み。
相馬に全部話した。
「俺は美緒が怒るの分かる」
最初の一言だった。
「相馬まで?」
「までって何」
「私が悪いってこと?」
「悪いとかじゃなくて」
「じゃあ何」
「藤野、最近ちょっと正解にこだわりすぎ」
「前からでしょ」
「種類が変わった」
「何が」
「前は、親とか先生が言う正解」
「うん」
「今は、自分で決めるのが正解って思ってる」
私は黙った。
「自分で決めなきゃ駄目。人に決められたら駄目。自分の人生を生きなきゃ駄目」
「それ間違ってる?」
「ほら」
「何」
「すぐ正しいか間違いかになる」
腹が立った。
「じゃあどうすればいいの」
「知らない」
「またそれ」
「知らないものは知らない」
「相馬は楽だよね」
「何が?」
「何でも分かんないで済ませられて」
相馬の表情が変わった。
「それどういう意味」
「私はちゃんと考えたいの」
「俺が考えてないって?」
「そうは言ってない」
「言ってるだろ」
「相馬はいつも逃げるじゃん」
「何から」
「答えから」
言ってから後悔した。
でも止まらなかった。
「弟のことだってそう」
「弟?」
「結局、分かんないって言って」
「藤野」
「先生殴ったことも正しかったか分かんない。弟が学校辞めた理由も分かんない」
「やめろ」
「全部分かんないで済ませてる」
「やめろって」
「それって逃げじゃん」
相馬が机を叩いた。
教室中が静かになった。
「何も知らないくせに」
低い声だった。
「聞いたじゃん」
「話したことだけだろ」
「なら何」
「俺が弟のことでどれだけ――」
言葉を止める。
「もういい」
相馬が立つ。
「待って」
「今話したくない」
美緒と同じ言葉。
「相馬」
「追ってくんな」
教室を出ていった。
私は一人になった。
美緒を怒らせた。
相馬も怒らせた。
どうして。
私は間違ったことを言ったのだろうか。
美緒には、自分の人生を選んでほしかった。
相馬には、逃げずに考えてほしかった。
二人のため。
そう思った瞬間、
吐き気がした。
――あなたのため。
私が一番嫌いだった言葉。
私はそれを、
別の形で使っていた。
第二十八章 間違っているのは誰
三日間、美緒とも相馬とも話さなかった。
LINEもない。
昼休みは一人で食べた。
新しいクラスの子が、
「一緒に食べる?」
と誘ってくれた。
「ありがとう」
一緒に食べた。
普通に楽しかった。
それが少し悲しかった。
美緒がいなくても。
相馬がいなくても。
世界は普通に続く。
私は二人がいなければ生きていけないわけではない。
二人も私がいなくても生きていける。
大切な人とは、
必要な人ではないのかもしれない。
必要だから一緒にいるのではなく、
必要でなくても一緒にいたい人。
そんなことを考えた。
放課後、旧二年B組の教室へ行った。
今は一年生が使っている。
誰もいなかった。
去年の文化祭。
正解裁判。
ここで私は言った。
自分で選ぶ。
自分で責任を取る。
あのときは、それが答えだと思った。
スマホを出す。
三枝先生の連絡先は知らない。
でも学校のメールアドレスは退職後も一時的に転送されると聞いていた。
メールを書いた。
〈先生。
自分で決めることが正解だと思っていました。
でも、それを友達にも押しつけてしまいました。
どうすればよかったですか。〉
送信。
一時間後。
返信。
〈藤野さん。
私に答えを聞くのは久しぶりですね。〉
少し笑った。
続き。
〈どうすればよかったかは分かりません。
ただ、一つ質問します。
佐倉さんは、あなたに答えを求めていましたか。〉
胸に刺さった。
求めていなかった。
美緒はただ、
「社会学部に行く」
と言っただけ。
私は勝手に、その選択を救おうとした。
次。
〈相馬君は、あなたに自分の過去を評価してほしいと言いましたか。〉
求めていない。
〈人は、ときどき「助けたい」と「変えたい」を混同します。
私もそうでした。
相手を助けることと、自分が正しいと思う方向へ相手を動かすことは、似ていますが違います。〉
私は何度も読んだ。
〈先生ならどうしますか〉
送った。
返信。
〈聞きます。〉
〈何を?〉
〈何をしてほしい? と。〉
それだけだった。
第二十九章 何をしてほしい?
翌朝。
美緒の教室へ行った。
「美緒」
こちらを見る。
逃げなかった。
「一個だけ聞いていい?」
「何」
「今、私に何してほしい?」
美緒は驚いた顔をした。
「何それ」
「分かんないから」
「……」
「謝ってほしいなら謝る」
「うん」
「放っておいてほしいならそうする」
「うん」
「話聞いてほしいなら聞く」
「うん」
「でももう、美大行けとか社会学行けとか言わない」
美緒が黙る。
「何してほしい?」
長い沈黙。
「プリン」
「え?」
「駅のケーキ屋の」
「何で」
「高いやつ」
「五百円するじゃん」
「謝罪」
「分かった」
「二個」
「調子乗るな」
美緒が笑った。
私も笑った。
でも次の瞬間、
美緒が泣いた。
「葵」
「うん」
「私、美大行きたい」
「うん」
「まだ行きたい」
「うん」
「でも怖い」
「うん」
「お金も」
「うん」
「就職も」
「うん」
「親と喧嘩するのも嫌」
「うん」
「だから社会学にしようと思った」
「うん」
「それって自分で決めてない?」
私は首を振った。
「分かんない」
「前なら違うって言った」
「うん」
「今は?」
「美緒が決めたなら、美緒が決めたんだと思う」
「親に言われてても?」
「うん」
「影響されてても?」
「うん」
「なんで」
「誰にも影響されないで決めるなんて無理だから」
言いながら自分で気づいた。
私だってそうだ。
父。
母。
兄。
三枝先生。
美緒。
相馬。
みんなに影響されている。
その全部が混ざって、
私の選択になる。
「自分で決めるって」
私は言った。
「誰の意見も聞かないことじゃないのかも」
美緒が涙を拭く。
「遅い」
「ごめん」
「本当に遅い」
「プリン二個買う」
「三個」
「増えてる」
笑った。
「葵」
「何」
「私、まだ決めない」
「うん」
「夏まで両方考える」
「うん」
「美大も社会学も」
「うん」
「それでいい?」
私は言いかけた。
いいよ。
でも止めた。
「美緒はどう思う?」
美緒が笑った。
「ムカつく」
「先生に教わった」
「三枝先生?」
「うん」
「元教師ニート」
「今何してるんだろ」
「知らない」
二人で笑った。
「で」
美緒が言う。
「相馬は?」
「まだ」
「喧嘩したまま?」
「うん」
「原因私?」
「違う」
「何言ったの」
「弟のこと」
美緒の顔が曇る。
「それは葵が悪い」
「分かってる」
「最低」
「分かってる」
「プリンじゃ無理だね」
「何ならいい?」
「知らない」
私は相馬にLINEした。
〈話したい〉
既読になった。
返信。
〈今は無理〉
胸が痛んだ。
でも、
〈分かった〉
それだけ返した。
待つ。
それも、
私が今まで一番苦手だったことだった。
第三十章 待つということ
一週間。
相馬から連絡はなかった。
学校ですれ違っても、
「おはよう」
だけ。
別れたのかもしれない。
でも確認しなかった。
相馬が話したいと思うまで待つ。
三日目には、
それが正しいのか不安になった。
四日目には、
私からもう一度謝るべきだと思った。
五日目には、
このまま自然消滅する気がした。
六日目。
美緒に言った。
「もう連絡していいかな」
「知らない」
「冷たい」
「葵が決める」
「それ禁止」
「便利なのに」
「本当にどう思う?」
「連絡したければすれば」
「待つって言ったし」
「約束したの?」
「してない」
「なら連絡してもいいじゃん」
「でも相馬は今無理って」
「一週間前でしょ」
「うん」
「今は分かんないじゃん」
私は気づいた。
待つことも、
一度決めたら守り続けなければならない正解ではない。
その夜。
〈まだ話したくない?〉
送った。
十分後。
〈少しなら〉
駅前で会った。
相馬は少し痩せて見えた。
「久しぶり」
「学校で会ってる」
「ちゃんと話すの」
「うん」
「ごめん」
最初に言った。
「弟のこと」
「うん」
「言っていいことじゃなかった」
「うん」
「相馬が逃げてるって言ったのも」
「うん」
「ごめん」
「分かった」
「許す?」
「まだ分かんない」
以前なら怖かった答え。
今は頷いた。
「分かった」
二人でベンチに座った。
「俺も悪かった」
相馬が言った。
「何が?」
「藤野のこと、正解中毒みたいに言った」
「それは合ってる」
「合ってるんだ」
「最近分かった」
少し笑う。
「でもさ」
相馬は前を見る。
「俺、藤野に言われて腹立ったの、図星だったから」
「え?」
「逃げてた」
「弟のこと?」
「うん」
「でも」
「分からないって言えば考えなくていいときもある」
私は黙る。
「弟と話したあとも、俺、本当は先生に会いに行こうか迷ってた」
「前の?」
「殴った先生」
「なんで」
「謝るため」
「行った?」
「行ってない」
「行きたい?」
「分かんない」
相馬が苦笑する。
「ほら、また分かんない」
「分かんなくてもいいんじゃない」
「藤野がそれ言う?」
「成長した」
「一週間で?」
「人間は伸びる」
「受験ポスターみたい」
二人で笑った。
少し沈黙。
「藤野」
「うん」
「俺たち、付き合ってる?」
胸が跳ねた。
「私はそのつもり」
「俺も」
「じゃあ付き合ってる」
「簡単だな」
「何か問題?」
「一週間連絡してなかった」
「恋人って毎日連絡しなきゃ駄目?」
「知らない」
「じゃあいいじゃん」
「うん」
相馬が手を差し出した。
私は握った。
一週間ぶり。
手は温かかった。
「相馬」
「何」
「私たち別れることもあるよね」
「急だな」
「いつか」
「あるんじゃない」
「怖くない?」
「怖い」
「じゃあ」
「別れたくないから付き合わないって変じゃない?」
「そうだけど」
「藤野」
「何」
「終わるかもしれないものって、始めちゃ駄目なの?」
私は相馬を見る。
何も言えなかった。
友情も。
恋愛も。
夢も。
家族も。
永遠だから大切なのではない。
終わる可能性があっても、
今大切だから大切なのだ。
そんな簡単なことを、
私は十七年間知らなかった。
第三十一章 模試
六月。
全国模試。
私は東大D判定を取った。
人生で初めてだった。
紙を見た瞬間、
頭が真っ白になった。
数学で大失敗した。
国語も悪い。
英語だけはいつも通り。
校内順位は二十一位まで落ちた。
「まあ、この時期だから」
田島先生は言った。
「夏で戻せる」
「はい」
「第一志望変える?」
「……」
以前なら即答した。
変えません。
でも今回は迷った。
「少し考えます」
「分かった」
家に帰る。
父に見せた。
「D?」
「うん」
父の表情が曇る。
「何があった」
「数学」
「塾増やすか」
「まだいい」
「夏期講習は?」
「考える」
「葵」
「何」
「本当に東大行きたいのか?」
以前なら父は、
「頑張れ」
と言ったはずだった。
「分かんない」
「そうか」
「怒らないの?」
「何を」
「D判定」
「模試だろ」
「前なら怒った」
「そうだったか?」
「怒ったよ」
「忘れた」
「ずるい」
父が笑う。
「葵」
「うん」
「東大じゃなくてもいいぞ」
ずっと聞きたかった言葉。
なのに。
聞いた瞬間、
涙が出た。
「何で泣く」
「分かんない」
「行きたいのか?」
「分かんない」
「じゃあ泣くな」
「無理」
父がティッシュを渡す。
「お父さん」
「何だ」
「私、東大行きたいのかもしれない」
「そうか」
「お父さんが行けって言うからじゃなくて」
「うん」
「行かなくていいって言われたら」
「うん」
「行きたくなった」
「面倒くさいな」
「自分でも思う」
二人で笑った。
私はその夜、
初めて自分で赤本を買った。
兄のお下がりではない。
新品。
レジで三千円近く払った。
高いと思った。
でも嬉しかった。
これは私の赤本だった。
第三十二章 夢を諦める権利
七月。
美緒が美大を受けないと決めた。
「本当に?」
「うん」
「社会学?」
「そこもやめた」
「え?」
「教育学部」
「また変わった」
「悪い?」
「全然」
「美術教育やりたい」
「先生?」
「かもしれない」
「美術の?」
「まだ分かんない」
美緒は笑った。
「絵を仕事にするんじゃなくて、絵を好きな子に関わる仕事もいいかなって」
「絵は?」
「描くよ」
「趣味?」
「趣味って言葉、前は嫌いだった」
「なんで」
「本気じゃないみたいだから」
「今は?」
「趣味で本気でもいいじゃん」
私は笑った。
「美緒のお母さん喜んだ?」
「微妙」
「なんで」
「教育学部なら国立行けって」
「親ってすごいね」
「正解が次々出てくる」
二人で笑った。
「でもさ」
美緒が言う。
「夢を諦めるって、悪いことなのかな」
「どうしたの急に」
「夢は諦めるなってよく言うじゃん」
「うん」
「でも、もうやりたくなくなった夢を続けるのも変じゃない?」
「そうだね」
「昔の自分との約束って、守らなきゃ駄目?」
私は考えた。
「破っていいんじゃない」
「なんで?」
「昔の自分、今の自分より偉くないから」
美緒が笑った。
「それいい」
「でしょ」
「メモする」
「著作権あるよ」
「親友割」
「ない」
私たちは笑った。
十七歳の夢は、
一生の契約ではない。
変えていい。
諦めてもいい。
また始めてもいい。
それは敗北ではなく、
今の自分が昔の自分に投票し直すことなのかもしれない。
第三十三章 柴崎航平の曲
夏休みの初日。
三枝先生からメールが来た。
〈もし時間があれば、三人で来ませんか。〉
場所は小さなコンサートホールだった。
私。
美緒。
相馬。
三人で行った。
「三枝先生、音楽始めた?」
美緒が言う。
「まさか」
ホールの前に先生がいた。
「久しぶりです」
「先生、痩せた?」
「働いてないので健康です」
「逆じゃない?」
「最近は塾で国語を教えています」
「教師辞めて教師?」
「学校を辞めただけです」
先生らしかった。
「今日何?」
私が聞く。
「聞いてほしい曲があります」
ホールへ入る。
観客は五十人ほど。
小さなピアノコンサート。
プログラムを見る。
最後。
〈作曲 柴崎航平「未完成」〉
息が止まった。
「これ」
「はい」
三枝先生が言った。
「柴崎君が高校二年のときに作った曲です」
「なんで」
「お母様が楽譜を保管していました」
「演奏するの?」
「はい」
ステージに若いピアニストが出てきた。
最後の曲。
未完成。
静かな音から始まった。
私は音楽に詳しくない。
でも途中で、
変なところで音が途切れる。
また始まる。
少し明るくなる。
そして、
本当に途中で終わった。
最後の和音がない。
拍手していいのか分からない沈黙。
やがて拍手。
私は泣いていた。
隣を見る。
美緒も。
三枝先生も。
相馬だけは泣いていなかった。
でも目が赤かった。
コンサートのあと。
柴崎さんがいた。
「来てくれたのね」
「はい」
「どうでした?」
「分かりません」
私は答えた。
「でも、すごく」
言葉を探す。
「生きてる感じがしました」
柴崎さんが笑った。
「ありがとう」
「完成させないんですか」
美緒が聞いた。
「誰かが続きを作るとか」
「しません」
「なんで?」
「航平がどんな続きを書いたか、誰にも分からないから」
私は楽譜を見る。
「未完成のまま?」
「はい」
「悲しくないですか」
「前は悲しかった」
柴崎さんは言った。
「でも最近は、未完成だから航平らしいと思えるようになりました」
「どういう意味?」
「十七歳だったから」
胸が痛んだ。
「十七歳で完成している人なんていないでしょう?」
誰も答えなかった。
「夢も、考えも、性格も、人生も」
柴崎さんは笑った。
「全部途中だった」
私は思った。
私も途中だ。
美緒も。
相馬も。
十七歳だけではない。
三十八歳の三枝先生も。
父も。
母も。
兄も。
たぶん人間は、
死ぬまで完成しない。
それなのに私たちは、
今すぐ完成した答えを求める。
「柴崎さん」
私は聞いた。
「今、航平さんが生きてたら何してたと思います?」
女性はしばらく考えた。
「分かりません」
笑った。
「東大に行ったかもしれない」
「はい」
「音大かもしれない」
「はい」
「どっちも行かなかったかもしれない」
「はい」
「ピアノをやめていたかもしれない」
「はい」
「会社員になってたかもしれない」
「はい」
「結婚してたかもしれないし、してなかったかもしれない」
「はい」
「分からない」
柴崎さんは言った。
「だから最近、想像するのをやめました」
「寂しくないですか」
「寂しいですよ」
「じゃあなんで」
「私が作った航平の人生で、本当の航平を上書きしたくないから」
その言葉を、
私はずっと忘れないと思った。
第三十四章 十七歳最後の日
私の誕生日は八月二日。
十八歳になる前日。
美緒と相馬が家に来た。
「十七歳最後の日パーティー」
美緒がケーキを持ってきた。
「普通誕生日当日じゃない?」
「十八歳は大人だから祝わない」
「法律的にはもう成人だね」
相馬が言う。
「じゃあ十七歳送別会」
「何それ」
三人でケーキを食べた。
母が写真を撮った。
父は、
「勉強は?」
と言って母に怒られた。
夜。
三人で近所の公園へ行った。
ブランコ。
「十七歳どうだった?」
美緒が聞く。
「最悪」
相馬。
「何で」
「先生殴った過去バレるし、弟に殴られるし」
「彼女できたじゃん」
「それはよかった」
「私?」
美緒が言う。
「失恋した」
「ごめん」
相馬。
「もういい」
「美大やめた」
「うん」
「親と喧嘩した」
「うん」
「でもまあ、悪くなかった」
「葵は?」
二人が私を見る。
「疲れた」
「何に?」
「正解に」
二人が笑った。
「最初から最後までそれ」
「本当に」
私は空を見る。
夏の夜。
星はほとんど見えない。
「ねえ」
「何」
「十八歳になったら何か分かるかな」
「何が」
「人生」
相馬が笑う。
「一日で?」
「成人だから」
「無理でしょ」
「じゃあ二十歳?」
「無理」
「三十?」
「無理」
「三十八でも三枝先生分かってなかった」
美緒が言った。
「じゃあ一生?」
「たぶん」
私は笑った。
「それ、嫌じゃない?」
「前は嫌だった」
「今は?」
「ちょっと安心する」
「なんで?」
「答え出なくても、私だけじゃないから」
時計を見る。
午後十一時五十分。
「あと十分」
美緒が言う。
「何か十七歳のうちにやり残したことない?」
「ない」
「本当に?」
「たぶん」
相馬を見る。
目が合う。
「何」
「別に」
「キスしてないじゃん」
美緒が言った。
「は?」
「十七歳のうちにしとけば?」
「美緒!」
「私帰ろうかな」
「待って」
「お邪魔でしょ」
「違う!」
相馬が笑っている。
「笑うな」
「ごめん」
美緒が少し離れた。
「五分だけあっちいる」
「本当に行かなくていい!」
「青春して」
走っていった。
「最悪」
私は顔が熱かった。
相馬が隣に座る。
「する?」
「何を」
「キス」
「聞く?」
「勝手にしたら怒るだろ」
「……うん」
「じゃあ聞く」
「……」
「嫌?」
「嫌じゃない」
「じゃあ」
「待って」
「何」
時計を見る。
十一時五十七分。
「何で時間見るの」
「十七歳で初キスって、ちょっと普通すぎない?」
「そこ?」
「十八歳になってからにする」
「三分?」
「うん」
「何が違うんだよ」
「私が決めた」
相馬が笑った。
「分かった」
三分待った。
十一時五十九分。
美緒が遠くから叫ぶ。
「あと一分!」
「うるさい!」
「十!」
「まだ十秒じゃない!」
「九!」
「適当!」
「八!」
笑った。
「七!」
相馬も笑っている。
「六!」
私は思った。
十七歳。
たくさん間違えた。
「五!」
人を傷つけた。
「四!」
泣いた。
「三!」
怒った。
「二!」
好きになった。
「一!」
スマホの時計が変わる。
午前零時。
「十八歳!」
美緒が叫んだ。
「おめでとう!」
相馬が言った。
「おめでとう」
「ありがとう」
私は十八歳になった。
何も変わらなかった。
世界も。
私も。
相馬を見る。
「じゃあ」
「うん」
「今?」
「うん」
私たちは初めてキスをした。
三秒くらい。
美緒が遠くから、
「長い!」
と叫んだ。
「三秒!」
「十分!」
「見てたの?」
「見てない!」
「どっち!」
三人で笑った。
私は思った。
これが正解かどうかは、
知らない。
でも。
知らなくても、
嬉しいことは嬉しい。
それで十分な瞬間もある。
第三十五章 正解を捨てる
十八歳になっても、
受験は待ってくれない。
夏休み。
毎日十時間勉強した。
東大を目指す。
今度は自分で決めた。
だから楽になると思っていた。
ならなかった。
むしろ苦しかった。
自分で決めたからこそ、
逃げ場がない。
八月末。
数学の問題集を閉じた。
「無理」
机に突っ伏す。
スマホを見る。
美緒から写真。
美術館に行っている。
〈勉強しろ〉
送る。
〈今日は休み〉
〈受験生〉
〈葵こそ休め〉
相馬から。
〈英単語死ぬ〉
〈生きろ〉
〈会いたい〉
〈勉強しろ〉
〈彼女が冷たい〉
〈受験生だから〉
私は笑った。
そして突然思った。
自分で選んだ道なのに、
嫌になる。
これは間違った選択なのか。
以前ならそう考えた。
でも違う。
好きなことでも嫌になる。
自分で選んだ道でも逃げたくなる。
正解でも苦しいことはある。
不正解でも楽しいことはある。
感情は採点表ではない。
その夜、
私は赤本を閉じて寝た。
予定より二時間早く。
罪悪感があった。
でも眠った。
翌朝、
少し元気だった。
たったそれだけ。
人生はたぶん、
そういう小さな選択の連続なのだ。
第三十六章 もう一度、正解裁判
九月。
文化祭。
私たちは三年生になっていた。
三年A組の企画は喫茶店。
美緒のクラスはお化け屋敷。
相馬のクラスは演劇。
去年の教室の前を通る。
二年B組。
今年の企画名が貼ってあった。
〈正解裁判Ⅱ〉
「え?」
私は立ち止まった。
教室へ入る。
黒板。
赤と青のカード。
去年と同じ。
「三枝先生の企画、残ってる」
美緒が来た。
「誰がやったんだろ」
「今の二年生じゃない?」
司会の生徒が言う。
「次の問いです」
私たちは後ろに立った。
黒板に書かれる。
〈自分で選んだ人生なら、後悔してはいけないか〉
私は息を止めた。
青。
〈後悔してもいい〉
赤。
〈後悔すべきではない〉
「投票してください」
カードが上がる。
青が圧倒的だった。
私も青を上げた。
美緒も。
相馬も。
「では理由を」
一人の男子生徒が言った。
「自分で選んでも失敗するから」
女子生徒。
「後悔したら選び直せばいい」
保護者。
「自分で選んだ以上、責任は取るべき。でも後悔することとは別」
中学生。
「後悔しない人生ってつまらなそう」
笑いが起きる。
司会者が言った。
「では最後に、反対側の意見」
赤を上げていた老人が手を挙げた。
「私は、後悔しないと決めることも必要だと思います」
教室が静かになる。
「人生には選び直せないこともある」
老人は言った。
「だから、自分が選んだ道を正解にしていく覚悟も必要ではないでしょうか」
私は考えた。
それも分かる。
青も正しい。
赤も正しい。
そして、
どちらも完全ではない。
投票結果。
青七十三。
赤二十七。
司会者が黒板に書く。
私は去年の四十八対五十二を思い出した。
「葵」
美緒が言った。
「去年なら、どっち上げた?」
「赤かも」
「私は青」
「相馬は?」
「カード上げなかったかも」
「ずる」
「今は?」
「青」
三人とも同じ。
でも理由は違う。
それでいい。
教室を出ようとしたとき、
入口に見覚えのある人がいた。
「先生」
三枝先生だった。
「お久しぶりです」
「何してるの!」
「文化祭です」
「見れば分かる」
「招待状をいただきました」
「誰から?」
「今の二年生から」
先生は黒板を見る。
「続いてるんですね」
「先生のせい」
「責任重大ですね」
私は聞いた。
「先生」
「はい」
「今、正解ってあると思う?」
三枝先生が笑った。
「一足す一は?」
「二」
「では、あります」
「それ前も言った」
「答えも変わらないことがあります」
「人間のは?」
「さあ」
「ずるい」
「大人ですから」
「それも変わってない」
三枝先生が笑う。
「藤野さん」
「はい」
「あなたは?」
私は黒板を見る。
正解。
不正解。
二つの文字。
「あると思う」
美緒が私を見る。
相馬も。
「ただ」
私は続けた。
「一個じゃない」
「はい」
「それに、変わる」
「はい」
「人によっても違う」
「はい」
「昨日正解だったものが、今日違うこともある」
「はい」
「だから」
少し考える。
「正解って、答えじゃなくて」
「何ですか」
「そのときの自分が、選ぶために作るものなのかも」
三枝先生は答えなかった。
「何?」
「いえ」
「正解?」
「採点してほしいですか」
「いらない」
「なら、しません」
先生は笑った。
私も笑った。
第三十七章 結果
一月。
共通テスト。
二月。
東京大学二次試験。
試験会場へ向かう朝。
父が言った。
「頑張れ」
母が言った。
「忘れ物ない?」
兄からLINE。
〈落ちても料理人募集〉
〈絶対嫌〉
美緒。
〈受かったらプリン〉
〈落ちたら?〉
〈プリン〉
相馬。
〈終わったら会おう〉
〈うん〉
私は試験会場へ入った。
怖かった。
手が震えた。
自分で選んだ道。
だから後悔しない。
そんなことは思わなかった。
落ちたら後悔する。
もっと勉強すればよかったと思う。
別の大学にすればよかったと思うかもしれない。
それでも受ける。
後悔しないためではなく。
今、
受けたいから。
試験が始まった。
私は問題用紙を開いた。
春。
合格発表。
番号を探した。
何度も。
上から。
下から。
もう一度。
なかった。
私は東京大学に落ちた。
第三十八章 不正解の日
何も感じなかった。
最初は。
スマホを見る。
自分の受験番号。
もう一度掲示を見る。
ない。
「葵?」
母から電話。
「どうだった?」
「落ちた」
声にした瞬間、
涙が出た。
「そっか」
母はそれだけ言った。
「ごめん」
口から出た。
「何が?」
「落ちた」
「謝らなくていい」
「でも」
「帰っておいで」
電話を切る。
父には自分から連絡できなかった。
相馬から。
〈どうだった?〉
〈落ちた〉
既読。
〈会いに行く〉
〈来なくていい〉
〈分かった〉
美緒。
〈結果出た?〉
〈落ちた〉
〈プリン買った〉
私は泣きながら笑った。
家へ帰る。
父がいた。
「おかえり」
「ただいま」
「残念だったな」
「うん」
それだけ。
「怒らないの?」
「何を」
「落ちた」
「受験だから落ちる人もいる」
「お父さん受かったじゃん」
「一浪した」
「え?」
初めて聞いた。
「現役で落ちた」
「聞いてない」
「言ってないからな」
「お兄ちゃんは?」
「現役」
「ムカつく」
父が笑った。
「どうする」
「私大」
併願していた早稲田大学に合格していた。
「浪人もできるぞ」
「考える」
「そうしろ」
「お父さんなら?」
「俺の答え聞きたいか?」
私は少し考えた。
「参考には」
「浪人」
「やっぱり」
「でもお前はお前だ」
「分かってる」
部屋へ戻る。
赤本がある。
一年間使った。
ページは折れ、
書き込みだらけ。
私は泣いた。
悔しかった。
自分で選んだ。
だから悔しくない。
そんなわけがない。
自分で選んだからこそ、
悔しい。
「正解じゃなかった」
呟いた。
でもすぐに思った。
本当に?
合格したら正解。
落ちたら不正解。
そんな単純な話なのか。
分からない。
分からないまま、
私はその日を終えた。
第三十九章 後悔
三日間、
ほとんど何もしなかった。
四日目。
美緒が来た。
「プリン」
「遅い」
「賞味期限昨日」
「駄目じゃん」
「嘘。今日」
「最低」
二人で食べた。
「浪人する?」
「分かんない」
「早稲田?」
「分かんない」
「いいね」
「何が」
「分かんないって言えるようになった」
「先生みたい」
「褒めてる」
「美緒は?」
「教育学部受かった」
「知ってる。おめでとう」
「ありがとう」
「国立?」
「うん」
「親喜んだ?」
「めちゃくちゃ」
「美緒は?」
「私も嬉しい」
「ならよかった」
少し沈黙。
「葵」
「何」
「後悔してる?」
「してる」
即答した。
「何を?」
「もっと数学やればよかった」
「うん」
「秋に二日くらい遊んだ」
「二日?」
「うん」
「それ後悔する?」
「する」
「怖」
「あと、第一志望下げればよかったかなとか」
「うん」
「最初から私立に絞ればとか」
「うん」
「吹奏楽続けても結果同じだったんじゃないかとか」
「それは分かんない」
「全部分かんない」
「うん」
「でも」
私はプリンを食べる。
「受けなきゃよかったとは思わない」
「じゃあいいじゃん」
「そういうもの?」
「知らない」
二人で笑った。
「後悔しても、選択全部を否定しなくていいのかも」
私は言った。
「どういう意味?」
「数学もっとやればよかったって後悔と、東大受けたこと自体の後悔は別」
「なるほど」
「だから」
「うん」
「後悔って一個じゃない」
「葵、面倒くさい哲学者みたいになったね」
「三枝先生のせい」
「訴える?」
「負けそう」
笑った。
夕方。
相馬から電話。
「会える?」
「うん」
駅へ行く。
相馬は心理学部に合格していた。
「おめでとう」
「ありがとう」
「東京?」
「うん」
「よかった」
「藤野は?」
「まだ決めてない」
「浪人?」
「それも」
「早稲田?」
「それも」
「そっか」
相馬は何も勧めなかった。
「聞かないの?」
「何を」
「どうするのって」
「今聞いた」
「どっちがいいと思うって」
「俺が決める?」
「参考」
「藤野が来年東大行きたいなら浪人」
「うん」
「大学でやりたいことあるなら早稲田」
「普通」
「普通で悪い?」
「悪くない」
「あと」
「何」
「浪人したら会う時間減る」
「自分都合」
「早稲田なら近い」
「それで早稲田勧める?」
「勧めない」
「なんで」
「それで決められたら嫌だから」
私は笑った。
「成長したね」
「誰目線」
「彼女」
「上から」
二人で歩いた。
「相馬」
「うん」
「私、早稲田行くかもしれない」
「うん」
「東大諦めるかもしれない」
「うん」
「それって逃げかな」
「逃げでもいいんじゃない」
「え?」
「三枝先生言ってただろ」
「逃げるのがいつも間違いじゃない?」
「うん」
「でも」
「藤野」
「何」
「逃げたのか、選んだのかって、そんな大事?」
足が止まった。
「どういう意味?」
「早稲田行って楽しかったら、逃げたかどうかどうでもよくない?」
「でも」
「浪人して東大受かっても、あのとき早稲田行けばよかったって思うかもしれない」
「うん」
「どっちも分かんない」
「うん」
「なら今選ぶしかない」
私は相馬を見る。
「それ、昔の私みたい」
「自分で決めろって?」
「うん」
「違うよ」
「何が?」
「決められないなら、決められないまま期限まで悩めばいい」
私は笑った。
「それでいい?」
「知らない」
「正解?」
「知らない」
「便利だね」
「最高」
私は相馬の手を握った。
第四十章 卒業
三月。
卒業式。
体育館。
名前を呼ばれる。
「藤野葵」
「はい」
返事をした。
卒業証書。
高校三年間。
いや、
私にとっては十七歳だった一年間が、
異様に長かった。
式が終わる。
校庭で写真。
美緒。
相馬。
三人で並ぶ。
「最初の写真覚えてる?」
美緒が言った。
「何」
「二年の文化祭」
「ああ」
「あのとき相馬のこと好きだった」
「知ってる」
「私も好きだった」
「知ってる」
「俺モテる」
「黙れ」
二人で言った。
笑う。
「これから別々だね」
美緒が言う。
「うん」
「寂しい?」
「ちょっと」
「ちょっと?」
「かなり」
「素直」
「成長した」
相馬が言う。
「俺たちも別れるかもな」
「卒業式に言う?」
「だって大学違うし」
「まだ私決めてない」
「そうだった」
美緒が笑う。
「別れても三人で会おうね」
「それ地獄じゃない?」
「元彼と元彼を好きだった親友」
「昼ドラ」
「高校生だったのに」
三人で笑った。
校門を出る前。
私は振り返った。
校舎。
二年B組の窓。
あの教室で、
私は最初に紙へ書いた。
〈期待を裏切らないこと〉
今なら何を書く。
考えた。
分からない。
やっぱり分からない。
でも、
それでいい。
校門を出た。
誰も、
「これが正解」
とは言わなかった。
第四十一章 選ばなかった道
卒業から一週間。
私は早稲田大学への進学を決めた。
浪人しない。
東大をもう一度受けない。
父に言った。
「そうか」
「反対?」
「少し」
「少し?」
「お前なら来年受かるかもしれないと思う」
「うん」
「でも早稲田もいい大学だ」
「お母さんと同じだしね」
「それは関係ない」
「本当?」
「少しある」
父が笑う。
「決めたのか」
「うん」
「後悔するぞ」
私は笑った。
「すると思う」
「するのか」
「たぶん」
「それでも?」
「うん」
「そうか」
父は頷いた。
「なら行ってこい」
「ありがとう」
部屋に戻る。
赤本を本棚へ入れた。
捨てなかった。
東大に行かなかった人生。
それが私の人生になる。
でも、
東大へ行ったかもしれない私は、
たぶん一生どこかにいる。
選ぶということは、
選ばなかった自分を殺すことではない。
ときどき思い出すこと。
あっちだったらどうだったかな、と。
それでいい。
選ばなかった道を想像することと、
今の道を否定することは、
同じではない。
第四十二章 誰かの正解
四月。
大学生になった。
入学式。
知らない人ばかり。
新しい教室。
新しい先生。
新しい友達。
「どこ高校?」
「東京」
「第一志望?」
初対面の子に聞かれた。
一瞬止まる。
「違う」
「私も」
その子が笑った。
「どこ落ちた?」
「東大」
「え、頭いいじゃん」
「落ちたから同じ」
「確かに」
二人で笑った。
それだけだった。
高校時代、
あんなに大きかった東大が、
大学に入った瞬間、
少し小さくなった。
不思議だった。
世界は、
自分がいる場所によって大きさを変える。
美緒は国立大学の教育学部。
相馬は私立大学の心理学部。
三人のグループLINEは今も動いている。
〈大学どう?〉
美緒。
〈迷子〉
私。
〈友達ゼロ〉
相馬。
〈ざまあ〉
美緒。
〈藤野は?〉
〈一人できた〉
〈裏切り〉
〈早く作れ〉
私は笑った。
授業が始まる。
最初の講義。
教授が黒板に書いた。
〈あなたにとって幸福とは何か〉
思わず笑った。
「何かおかしい?」
教授に聞かれた。
「すみません」
「では、そこのあなた」
「はい」
「幸福とは何ですか」
教室中が私を見る。
高校二年の私なら、
正しい答えを探した。
高校三年の私なら、
自分の答えを探した。
今の私は。
「分かりません」
そう答えた。
教室が少し笑う。
教授も笑った。
「では、この授業で考えてください」
「はい」
ノートを開く。
一番上に書いた。
〈幸福とは何か〉
その下。
〈分からない。〉
さらに、その下。
〈だから考える。〉
ペンを置いた。
窓の外は春だった。
最終章 正解のない教室
それから一年後。
私は十九歳になった。
三枝先生から突然メールが来た。
〈久しぶりに、正解裁判をしませんか。〉
場所は高校ではなかった。
小さな市民ホール。
三枝先生は今、
フリースクールで国語を教えていた。
「結局先生じゃん」
美緒が言った。
「学校の先生ではありません」
「同じでしょ」
「違います」
「こだわるね」
相馬も来た。
三人とも少し変わっていた。
美緒は髪を短くした。
相馬は眼鏡をかけた。
私は――
「葵、太った?」
「美緒」
「二キロ?」
「帰る」
「嘘、かわいい」
「遅い」
三人で笑った。
ホールには中学生と高校生が集まっていた。
テーマ。
〈正解〉
三枝先生が私たちを紹介した。
「この企画を最初にやった生徒たちです」
「元生徒です」
相馬が言う。
「今は大学生」
美緒。
「偉くなりました」
私。
「なってません」
先生。
笑い。
最後の問い。
三枝先生が黒板に書く。
〈自分の人生は、自分のものか〉
会場が静かになった。
「自分のものだと思う人」
ほとんど全員が手を挙げた。
私も。
美緒も。
相馬も。
「では」
三枝先生が続ける。
「自分の人生なら、何をしても自由ですか」
手が減った。
「他人を傷つけても?」
さらに減る。
「家族を捨てても?」
何人か下ろす。
「夢を諦めても?」
また変わる。
「誰かの期待通りに生きても?」
私は手を止めた。
三枝先生がこちらを見る。
「藤野さん」
「何で私」
「答えてください」
「また?」
「卒業生代表」
「勝手に決めないで」
笑い。
私は前に出た。
十九歳。
あのときより二歳年上。
でも何も完成していない。
「自分の人生は自分のものか」
私は黒板を見る。
「私は、そうだと思います」
何人か頷く。
「でも」
続ける。
「自分だけのものではないとも思います」
会場が静かになる。
「家族とか、友達とか、好きな人とか」
美緒を見る。
相馬を見る。
「私が何かを選んだら、誰かが喜んだり、悲しんだりする」
父を思い出す。
兄を思い出す。
「だから『私の人生なんだから口出ししないで』だけでは、たぶん生きられない」
三枝先生を見る。
「でも、誰かが悲しむからって、全部その人の言う通りにもできない」
柴崎航平を思う。
会ったことのない、
永遠に十七歳の人。
「じゃあどうすればいいのか」
少し笑った。
「分かりません」
会場から笑い。
「本当に分からない」
私は言った。
「でも、たぶん」
黒板に書く。
〈話す〉
「これしかないのかなと思います」
親と。
友達と。
先生と。
恋人と。
そして自分と。
「相手の答えを変えるためじゃなくて」
もう一つ書く。
〈聞く〉
「自分が正しいって証明するためでもなくて」
もう一つ。
〈変わる〉
「話して、聞いて、それで自分の答えが変わってもいい」
美緒が笑っている。
「一回決めたことを変えてもいい」
相馬も。
「夢を諦めてもいい」
兄。
「夢を変えてもいい」
父。
「親の言う通りにしてもいい」
母。
「反対してもいい」
三枝先生。
「逃げてもいい」
柴崎さん。
「後悔してもいい」
私は黒板を見る。
「ただ」
最後に書いた。
〈誰かの正解を、自分の正解だと思い込まない。〉
書いてから、
少し考えた。
消した。
会場がざわつく。
「消すの?」
美緒が言った。
「うん」
「なんで」
「これも正解っぽいから」
笑いが起きた。
私は黒板を全部消した。
話す。
聞く。
変わる。
全部消した。
真っ白な黒板。
「これでいい」
私は言った。
三枝先生が聞く。
「何もないですよ」
「うん」
「答えは?」
「ない」
「本当に?」
「今は」
私はチョークを置いた。
「必要になったら、そのとき書く」
会場は静かだった。
誰かが拍手した。
拍手が広がる。
でも私は、
それが正しい答えだったから拍手されたとは思わなかった。
たまたま今、
そこにいた人たちに届いただけ。
明日なら違うかもしれない。
十年後なら、
私は自分の言葉を恥ずかしいと思うかもしれない。
それでいい。
ホールを出る。
三人で駅へ向かう。
「葵」
美緒が言った。
「何」
「今日の話、結局何が言いたかったの?」
「分かんない」
「長々喋ったのに?」
「うん」
「詐欺」
相馬が笑う。
「でもさ」
「何」
「正解がないっていうのが正解なんじゃない?」
「それも違う」
「なんで?」
「正解あることもあるから」
「例えば?」
「一足す一」
三人で声を合わせた。
「二」
笑った。
駅前。
信号が赤になる。
三人で止まる。
美緒が聞いた。
「ねえ、十七歳に戻れるなら戻りたい?」
「嫌」
相馬が即答。
「私も」
美緒。
二人が私を見る。
私は考えた。
十七歳。
父に嫌われるのが怖かった。
兄の人生を間違いだと思った。
美緒を傷つけた。
相馬を傷つけた。
三枝先生の正解を求めた。
東大へ行こうとした。
落ちた。
泣いた。
笑った。
恋をした。
友達と喧嘩した。
仲直りした。
何度も答えを出した。
何度も変えた。
「戻りたくない」
私は言った。
「なんで?」
「疲れるから」
二人が笑った。
「でも」
信号が青になる。
「十七歳の私に、一個だけ言えるなら言いたい」
「何?」
歩き出す。
私は考える。
頑張れ。
大丈夫。
自分を信じろ。
好きなことをしろ。
後悔するな。
どれも違う。
だから私は、
たぶんこう言う。
「そんなに急いで、正解にならなくていいよ」
美緒が笑った。
「いいじゃん」
相馬も。
「それ正解?」
私は笑った。
「知らない」
三人で横断歩道を渡った。
誰かが決めた正しい歩き方なんてない。
ただ赤では止まり、
青になったから進む。
それくらいの正解なら、
あってもいい。
その先で右へ行くか、
左へ行くか。
立ち止まるか。
引き返すか。
誰かと歩くか。
一人になるか。
それは、
そのとき考えればいい。
十九歳の私は、
まだ何者でもない。
将来何をするのかも、
誰と生きるのかも、
今の恋がいつまで続くのかも、
何一つ知らない。
でも。
分からない未来を、
以前ほど怖いとは思わない。
答えのない問題を、
白紙のまま提出する必要もない。
締め切りまで、
考え続ければいい。
途中で書き直してもいい。
消してもいい。
誰かの答えを見てもいい。
真似してみてもいい。
違うと思えばやめればいい。
そして、
どうしても分からないときは。
分からない。
そう書けばいい。
たぶん人生は、
採点されない。
少なくとも、
最後まで生きている私には、
まだ採点できない。
だから今日も私は、
答えのない教室を出る。
次の問いを持ったまま。
誰かの正解ではなく。
自分だけの正解ですらなく。
まだ名前のついていない、
これから変わっていく答えと一緒に。
春の風が吹いた。
美緒が前を歩く。
相馬が隣を歩く。
「葵、早く!」
「置いてくぞ」
「待って」
私は走った。
正しい方向かどうかなんて、
確かめなかった。
今はただ、
二人のいるほうへ走りたかった。
それが今日の私の答えだった。
明日の答えは、
まだ知らない。
第四十三章 正しい告発
卒業式まで、あと十二日だった。
その日、私は田島先生に呼び出された。
「藤野、ちょっといいか」
放課後だった。
進路指導室には誰もいなかった。
田島先生は扉を閉めた。
「座って」
「はい」
机の上に一枚の紙が置かれていた。
模試の成績表だった。
私のものではない。
名前。
杉原直人。
三年A組。
私と同じクラス。
ほとんど話したことはない。
静かな男子だった。
「杉原君がどうかしたんですか」
「藤野は、これを見たことある?」
紙を渡される。
十一月の校内模試。
数学百点。
「ないです」
「本当に?」
「はい」
「杉原と仲いい?」
「普通です」
「普通って?」
「同じクラスというだけです」
先生はしばらく黙った。
「分かった」
「何なんですか」
「いや」
「先生」
「何?」
「何か疑ってます?」
田島先生は眼鏡を外した。
「数学の問題が事前に漏れていた可能性がある」
「え?」
「十一月の校内模試」
「誰から?」
「それを調べてる」
「杉原君が?」
「まだ分からない」
「じゃあ何で私に?」
「学級委員だったから。何か変わったことがなかったかと思って」
「ありません」
「そうか」
私は紙を返した。
立ち上がる。
「藤野」
「はい」
「このことは、まだ誰にも言わないで」
「分かりました」
廊下へ出た。
歩きながら思った。
杉原直人。
どんな人だっただろう。
毎日同じ教室にいた。
一年間。
なのにほとんど知らない。
席は窓側。
昼休みはいつも参考書を読んでいた。
部活には入っていない。
文化祭では会計係だった。
それくらい。
靴箱へ向かう。
「藤野」
振り返った。
杉原だった。
「今、田島に呼ばれてた?」
「うん」
「何の話?」
答えられなかった。
「進路」
嘘をついた。
「そっか」
杉原は笑った。
「東大どうだった?」
胸が少し痛んだ。
「落ちた」
「あ」
「大丈夫」
「ごめん」
「杉原は?」
「受かった」
「どこ?」
「医学部」
「すご」
「地方だけど」
「それでもすごいじゃん」
「ありがとう」
杉原は少し笑った。
その笑顔を見ながら、
私は田島先生の言葉を思い出していた。
問題が漏れた。
数学百点。
医学部合格。
「じゃあ」
杉原が去る。
その背中を見た。
もし。
もし本当に不正をしていたら。
医学部合格はどうなるのだろう。
学校は大学へ連絡するのだろうか。
推薦ではない。
校内模試だから大学入試そのものには関係ない。
でも調査はされるだろう。
私は知らないふりをした。
それが正しいと思った。
まだ何も分かっていない。
決めつけるべきではない。
その日の夜。
知らないアドレスからメールが届いた。
〈藤野さんへ。
杉原君のことで、先生に何か聞かれましたか。〉
差出人の名前はなかった。
第四十四章 匿名
返信しなかった。
十分後。
もう一通。
〈杉原君は悪くありません。〉
心臓が速くなる。
〈誰ですか〉
送った。
返事。
〈名前は言えません。〉
〈なら話せません〉
〈お願いします〉
〈何を?〉
〈先生に何も言わないでください〉
私はスマホを置いた。
知らない人。
匿名。
杉原は悪くない。
先生に何も言うな。
意味が分からない。
十分ほど考えた。
〈事情を説明してください〉
返事はすぐだった。
〈問題を渡したのは私です。〉
息が止まる。
〈あなたは誰?〉
〈言えません〉
〈どうして杉原君に?〉
しばらく返信がなかった。
〈助けたかったからです。〉
その一文。
助けたかった。
嫌な言葉だった。
〈何から?〉
〈杉原君は医学部に行かなければならなかったから〉
〈どういう意味?〉
〈家の事情です〉
〈本人は問題を見たの?〉
返事が止まる。
〈見たんですか〉
五分。
〈はい〉
私は目を閉じた。
見た。
なら不正だ。
単純な話に思えた。
〈それは不正です〉
送る。
〈分かっています〉
〈なら先生に話してください〉
〈できません〉
〈なぜ〉
〈杉原君の合格が取り消されるかもしれない〉
〈校内模試ですよ〉
〈学校が大学に連絡すると言っています〉
そこまで調査が進んでいるのか。
〈あなたは学校の人?〉
返事がない。
〈先生?〉
既読表示はない。
メールだから分からない。
〈誰なんですか〉
十分後。
〈卒業まで黙っていてください。お願いします。〉
それきりだった。
私は眠れなかった。
正しいことは簡単だった。
不正は不正。
報告する。
終わり。
でも。
なぜ杉原は医学部に行かなければならなかったのか。
誰が問題を渡したのか。
なぜ私に連絡したのか。
翌朝。
教室へ入る。
杉原がいた。
いつも通り参考書を読んでいる。
「おはよう」
「おはよう」
私は自分の席へ行った。
聞けばいい。
問題を見た?
それだけ。
でも聞けなかった。
昼休み。
美緒と相馬を呼んだ。
三人で屋上へ行った。
全部話した。
「それ先生に見せたほうがいい」
美緒が言った。
「メール?」
「うん」
相馬は黙っていた。
「相馬は?」
「分かんない」
「また?」
「だって、匿名だろ」
「うん」
「嘘かもしれない」
「でも杉原が疑われてるのは本当」
「なら余計、藤野が動かないほうがよくない?」
「どうして?」
「捜査官じゃないんだから」
「でも」
「先生が調べてるんだろ」
「うん」
「任せれば」
美緒が言った。
「でもメール来てるの葵だよ」
「だから何?」
「何か知ってると思われてるんじゃない?」
「私は何も知らない」
「相手はそう思ってないかも」
三人とも黙る。
「ねえ」
私は言った。
「もし杉原が問題見てたら、どう思う?」
「不正」
美緒は即答した。
「相馬は?」
「不正だろ」
「じゃあ告発する?」
美緒が止まった。
「それは……」
「何?」
「事情による」
「不正なのに?」
「不正だけど」
「ほら」
私は言った。
「正しいこと分かってるのに、できない」
相馬がため息をつく。
「正しいことって何」
「不正を報告する」
「それはルールとしてだろ」
「じゃあルール守らなくていい?」
「そうじゃない」
「じゃあ何」
「藤野」
相馬が私を見る。
「また正解探してる」
「だって」
「誰かに決めてほしい?」
何も言えなかった。
決めてほしかった。
ものすごく。
誰かに、
告発しろ。
あるいは、
黙っていろ。
と言ってほしかった。
そして私は、
その通りにしたかった。
第四十五章 杉原直人
放課後。
杉原を呼び止めた。
「話せる?」
「何?」
「二人で」
空き教室へ入った。
扉を閉める。
「十一月の模試」
杉原の顔が変わった。
それだけで分かった。
「数学の問題、事前に見た?」
沈黙。
「杉原」
「誰から聞いた?」
「答えて」
「田島?」
「違う」
「じゃあ誰」
「見たの?」
杉原は椅子に座った。
長い沈黙。
「見た」
胸が沈む。
「全部?」
「数学だけ」
「誰から?」
「言えない」
「なんで」
「迷惑かける」
「もうかかってる」
「藤野には関係ない」
「私にメール来た」
杉原が顔を上げた。
「メール?」
「知らない人から」
「何て?」
「問題渡したのは自分だって」
杉原の顔が青くなった。
「見せて」
「嫌」
「頼む」
「誰なの」
「……」
「杉原」
「姉」
「え?」
「俺の姉」
想像していなかった。
「お姉さん?」
「この学校の卒業生」
「でもどうやって問題を」
「塾」
「塾?」
「模試作ってる会社でバイトしてた」
「大学生?」
「うん」
「そこから持ち出した?」
「たぶん」
「たぶんって」
「俺は聞いてない」
「でも見た」
「うん」
「なんで?」
杉原は黙った。
「医学部に行かなきゃいけない家の事情って何?」
「そこまで言ったのか」
「うん」
杉原が机を見る。
「父親が医者」
「うん」
「祖父も」
「うん」
「病院継げって」
私は息を吐いた。
「それだけ?」
杉原が私を睨んだ。
「それだけって何」
「いや」
「藤野にはそれだけなんだ」
「違う」
「親に期待されるの嫌だったんだろ?」
驚いた。
「なんで知ってるの」
「有名じゃん」
「何が」
「文化祭」
「あ」
「正解裁判」
「見てた?」
「いたよ」
「知らなかった」
「だろうな」
杉原が笑った。
「藤野は自分のことで精いっぱいだったから」
少し刺さった。
「ごめん」
「謝らなくていい」
「それで?」
「何が」
「医学部」
「俺は行きたかった」
「本当に?」
「その質問嫌い」
美緒と同じだった。
「ごめん」
「父親に言われたから行きたいと思ったのかもしれない」
「うん」
「小さい頃から病院で育ったからかもしれない」
「うん」
「医者以外の仕事を知らなかっただけかもしれない」
「うん」
「でも行きたい」
「うん」
「それじゃ駄目?」
「駄目じゃない」
「ならいい」
「でも問題は見た」
「うん」
「どうして」
杉原は黙る。
そして言った。
「怖かった」
「何が?」
「落ちるのが」
「模試で?」
「ずっとA判定だった」
「うん」
「一回でも下がったら父親が何言うか」
「怒る?」
「怒らない」
「じゃあ」
「がっかりする」
私は何も言えなくなった。
「怒られるほうが楽なんだよ」
杉原は言った。
「分かる?」
「少し」
「父親は怒鳴らない。殴らない。勉強しろともほとんど言わない」
「うん」
「ただ成績見て、『直人ならもっとできると思ってた』って言う」
胸が痛んだ。
「姉はそれで壊れた」
「え?」
「医学部二浪して、三年目に受験やめた」
「……」
「今は大学行ってるけど」
「それでお姉さんが?」
「たぶん俺を助けようとした」
「問題渡して?」
「うん」
「でも」
「分かってる」
杉原が遮った。
「間違ってる」
「……」
「俺も分かってた」
「じゃあなんで見たの」
「藤野」
「何」
「間違ってるって分かってたら、人間は間違えないの?」
答えられなかった。
「俺、見たよ」
「うん」
「姉から送られてきたファイル開いた」
「うん」
「最初は閉じようと思った」
「うん」
「でも一問だけ見た」
「うん」
「一問見たら、もう同じだと思った」
「……」
「だから全部見た」
杉原が笑った。
悲しい笑い方だった。
「百点だった」
「うん」
「嬉しかった」
「……」
「それが一番嫌だった」
私は何も言えなかった。
第四十六章 罰
「先生に言うの?」
杉原が聞いた。
「分からない」
「言っていいよ」
「え?」
「もう調べられてるし」
「でも」
「俺がやったのは本当だから」
「大学は?」
「分かんない」
「合格取り消されたら?」
「仕方ない」
その言葉に、
私は腹が立った。
「仕方なくないでしょ」
「じゃあどうしろって」
「そんな簡単に」
「簡単じゃない!」
杉原が初めて大きな声を出した。
「俺だって怖いよ!」
「……」
「医学部受かったんだよ」
「うん」
「六年間行くつもりだった」
「うん」
「医者になるつもりだった」
「うん」
「全部なくなるかもしれない」
杉原の目に涙が浮かんだ。
「怖いに決まってるだろ」
「じゃあ」
「でも俺がやった」
「うん」
「だから罰受ける」
「それが正しい?」
「知らないよ!」
声が響いた。
「俺に聞くなよ!」
私は黙った。
「みんな聞くんだよ」
杉原が言う。
「どうしたい。何がしたい。自分で決めろ」
「……」
「そんなの分かんないよ」
「うん」
「まだ十八だぞ」
「うん」
「何で全部自分で決めなきゃいけないんだよ」
私は胸を突かれた。
「親の言う通りにするな」
「うん」
「先生に従うな」
「うん」
「自分で考えろ」
「うん」
「でも間違えたら自己責任」
「……」
「それって楽か?」
何も言えなかった。
「俺は父親の言う通り医者になりたかった」
「うん」
「それでよかったんだよ」
「うん」
「なのに姉は、直人は自分の人生を生きろって言う」
「うん」
「先生は自分で進路を決めろって言う」
「うん」
「友達は医者なんて大変だからやめろって言う」
「うん」
「全員違う正解持ってくる」
杉原は泣いていた。
「もう誰か決めてくれよって思う」
その言葉。
私はずっと言えなかった。
でも何度も思っていた。
誰か決めて。
私の代わりに。
「杉原」
「何」
「分かる」
「何が」
「私もそうだった」
「今は違うだろ」
「今もあるよ」
「……」
「東大落ちて、浪人するか早稲田行くか」
「うん」
「誰か決めてほしい」
「……」
「自分で選ぶの、疲れる」
杉原が少し笑った。
「正解裁判の人が?」
「だから疲れた」
二人で笑った。
おかしな時間だった。
不正をした人。
それを知った人。
本来なら、
もっと緊張する場面だったと思う。
「杉原」
「うん」
「先生に自分から話したら?」
「……」
「告発じゃなくて」
「うん」
「自分で」
「怖い」
「うん」
「大学に連絡されたら」
「うん」
「父親にも」
「うん」
「姉も」
「うん」
「全部壊れる」
「かもしれない」
「それでも?」
私は答えられなかった。
それでも言え。
とは言えない。
私が失うわけではないから。
「何をしてほしい?」
私は聞いた。
杉原が顔を上げる。
「何?」
「私に」
「……」
「先生に言ってほしい?」
「……」
「黙っててほしい?」
「……」
「一緒に行ってほしい?」
杉原の目から涙が落ちた。
「一緒に来て」
私は頷いた。
「分かった」
第四十七章 職員室まで
職員室まで、
二分もかからない。
でもその日は、
十分くらい歩いた気がした。
「やっぱやめる」
杉原が三回言った。
一回目。
「分かった」
私は止まった。
「止めないの?」
「止めてほしい?」
「分かんない」
「じゃあ待つ」
二分。
「行く」
歩く。
二回目。
「無理」
「分かった」
止まる。
「藤野」
「何」
「イライラしない?」
「する」
「するんだ」
「するよ」
「じゃあ何で」
「私が決めることじゃないから」
「……」
三回目。
職員室の十メートル手前。
「帰りたい」
「帰る?」
「……」
「杉原?」
「五分だけ」
「うん」
廊下の窓から校庭を見る。
運動部が練習している。
卒業まで十二日。
高校生活が終わる。
その十二日前に、
杉原の人生は大きく変わるかもしれない。
「藤野」
「何」
「正直に言ったら、許されると思う?」
「分かんない」
「先生は?」
「分かんない」
「大学は?」
「分かんない」
「父親は?」
「分かんない」
「何も分かんないじゃん」
「うん」
「役に立たない」
「ごめん」
杉原が笑った。
「でも」
「何」
「ちょっと楽」
「何が」
「分かんないって言われるの」
私は杉原を見る。
「絶対大丈夫とか言われるより」
「うん」
「怖いけど」
「うん」
「嘘じゃないから」
五分。
杉原が歩き出した。
職員室。
田島先生がいた。
「先生」
「杉原?」
「話があります」
先生が私を見る。
「藤野も?」
「一緒に来てもらいました」
「そうか」
会議室へ移動した。
杉原が全部話した。
姉から問題を受け取ったこと。
見たこと。
模試で百点を取ったこと。
姉が問題を持ち出したこと。
田島先生は途中で一度も止めなかった。
全部聞いたあと。
「分かった」
と言った。
「大学に連絡しますか」
杉原が聞いた。
「私一人では決められない」
「そうですか」
「校長と相談する」
「はい」
「お姉さんにも話を聞く必要がある」
「はい」
「模試会社にも」
「はい」
「かなり大きな問題になる」
「はい」
杉原の声が震える。
「覚悟はしてる?」
その質問。
私は田島先生を見る。
杉原はしばらく黙った。
「してません」
先生が少し驚いた。
「怖いです」
「うん」
「合格取り消されたくないです」
「うん」
「姉にも迷惑かけたくない」
「うん」
「父親にも知られたくない」
「うん」
「できれば、何もなかったことにしたい」
「うん」
「でも」
杉原は泣きながら言った。
「やったことは消せないので」
先生は頷いた。
「分かった」
それだけだった。
会議室を出る。
杉原が私を見る。
「終わった」
「まだ」
「何が」
「これからでしょ」
「そうだな」
「うん」
「藤野」
「何」
「ありがとう」
「何もしてない」
「それがよかった」
意味が分からなかった。
「何もしてないのが?」
「うん」
「役に立ってないじゃん」
「だから」
杉原が笑った。
「俺の代わりに正しくなろうとしなかった」
その言葉を、
私は長い間覚えていた。
第四十八章 正義の値段
杉原の件は、
卒業式まで学校中に広まった。
誰が漏らしたのか分からない。
〈三年A組の医学部合格者がカンニング〉
〈模試問題を事前入手〉
〈大学に通報されるらしい〉
SNS。
匿名アカウント。
掲示板。
噂は事実より速かった。
そして事実より派手だった。
〈入試問題も買ったらしい〉
〈親が医者で金払った〉
〈学校が隠蔽してる〉
全部嘘。
でも広がった。
杉原は学校を休んだ。
三日。
四日。
五日。
「かわいそう」
美緒が言った。
「でも不正したのは本当」
相馬。
「分かってる」
「難しいな」
「うん」
ネットでは正義が増殖していた。
〈医者になる資格なし〉
〈一生受験禁止にしろ〉
〈こういう奴が患者殺す〉
〈親の病院も調べろ〉
私はスマホを閉じた。
「何でここまで言えるんだろ」
美緒が言った。
「顔見えないから?」
「それだけかな」
相馬が言う。
「悪い奴って決まったら、何言っても正義になるからじゃない?」
私は思い出した。
柴崎航平。
正しい言葉。
人を傷つける正義。
「不正した人を批判するのは間違い?」
私が聞く。
「間違いじゃない」
美緒。
「じゃあどこから間違い?」
「分かんない」
「医者になる資格なしは?」
「言いすぎ」
「一生受験禁止は?」
「言いすぎ」
「じゃあ、模試の点を無効にしろは?」
「それは普通」
「大学へ知らせろは?」
美緒が止まる。
「それは……」
相馬が言った。
「結局、罰って誰が決めるんだろうな」
法律。
学校。
大学。
社会。
被害を受けた人。
本人。
「悪いことしたら罰を受ける」
私は言った。
「それ自体は分かる」
「うん」
「でも、どれくらい?」
誰も答えられなかった。
正義には、
値段表がない。
第四十九章 姉
卒業式の五日前。
杉原から連絡が来た。
〈姉が藤野さんに会いたいって〉
駅前の喫茶店。
杉原の姉、
杉原麻衣は二十二歳だった。
想像より普通の人だった。
眼鏡。
黒いコート。
小さなリュック。
「ごめんなさい」
最初に言われた。
「何がですか」
「メール」
「ああ」
「突然」
「どうして私に?」
「直人が話してたから」
「私のこと?」
「文化祭の正解裁判」
またそれ。
「直人、あれ見て帰ってきて、珍しく学校の話したんです」
「何て?」
「正解って何だろうって」
「……」
「それで藤野さんの名前を覚えてた」
「そうなんですね」
「だから」
「私なら黙ってくれると思った?」
「違います」
「じゃあ」
「助けてくれると思った」
胸がざわついた。
「何を?」
「直人を」
「問題を渡しておいて?」
言葉が強くなった。
「はい」
「それ助けたことになるんですか」
「なりません」
即答だった。
「分かってます」
「じゃあ何で」
「私も分からない」
「……」
「父が怖かったんです」
「お父さん?」
「直人が模試で失敗したら、また同じことになると思った」
「同じ?」
「私と」
麻衣さんはコーヒーを見る。
「私は医学部に行きたくなかった」
「はい」
「でも父に言えなかった」
「はい」
「二浪しました」
「聞きました」
「二年目の受験が終わった夜、自殺しようとしました」
私は息を止めた。
「できなかったけど」
「……」
「それで初めて父に言いました。医者になりたくないって」
「はい」
「父は泣きました」
「怒らなかった?」
「怒らなかった」
麻衣さんが笑った。
「それが一番つらかった」
杉原と同じだった。
「ごめんって言われました」
「……」
「そんなに嫌なら言ってくれればよかったって」
「はい」
「でも言えるわけない」
「どうして?」
「父の人生だったから」
「え?」
「祖父の病院を継いで、ずっと働いて」
「はい」
「自分のやりたいこと全部諦めて、私たちを育てた」
「はい」
「だから私も応えなきゃって」
私は自分の父を思った。
「直人も同じになると思った」
「だから問題を?」
「はい」
「でも」
「馬鹿でした」
麻衣さんが言った。
「本当に」
「……」
「弟を助けたいって思って」
「はい」
「弟が不正しないと取れない点を取らせた」
「はい」
「結果、もっと苦しめた」
麻衣さんの目から涙が落ちた。
「私、正しかったと思ってたんです」
その言葉。
「父みたいにならないって」
「はい」
「父は子どもに自分の正解を押しつけた」
「はい」
「だから私は、直人を自由にする」
「はい」
「それが正しいって」
私は黙って聞いた。
「でも結局」
麻衣さんが笑う。
「私も直人に、自分の正解を押しつけてた」
私は美緒を思い出した。
美大へ行け。
自分の人生を生きろ。
私が言った。
「藤野さん」
「はい」
「直人はどうなりますか」
「分かりません」
「医学部」
「私には」
「そうですよね」
「ごめんなさい」
「いえ」
しばらく沈黙。
「でも」
私は言った。
「杉原君、自分で先生に話しました」
「はい」
「怖いって言いながら」
「はい」
「だから」
言葉を探す。
大丈夫。
言えない。
正しいことをした。
それも違う。
「杉原君、ちゃんと怖がってました」
「え?」
「逃げたいって言ってました」
「はい」
「何もなかったことにしたいって」
「はい」
「それでも話しました」
「……」
「私は、それしか言えません」
麻衣さんは泣いた。
「ありがとうございます」
何に対するありがとうかは、
分からなかった。
第五十章 父親
卒業式の三日前。
杉原が学校へ来た。
「大学、どうなった?」
私は聞いた。
「連絡しないって」
「え?」
「学校が」
「なんで」
「校内模試の不正は入試とは直接関係ないから」
「そうなんだ」
「でも模試の成績は無効」
「うん」
「姉は模試会社のバイト辞めた」
「うん」
「会社から学校に謝罪が来た」
「うん」
「それで終わり」
「医学部行ける?」
「今のところ」
杉原は笑った。
でも嬉しそうではなかった。
「よかったじゃん」
言ってから迷った。
「よかった、でいいのかな」
「いいんじゃない」
「杉原は?」
「分かんない」
「そっか」
「父親に言った」
「全部?」
「うん」
「どうだった?」
「謝られた」
姉と同じ。
「何て?」
「俺のせいだって」
「うん」
「それで腹立った」
「なんで」
「俺が問題見たのに」
「うん」
「父親が全部自分のせいにするから」
「……」
「それも違うだろって」
「うん」
「だから言った」
「何を?」
「父さんのせいでもある。でも俺のせいでもあるって」
私は杉原を見る。
「すごいね」
「何が」
「それ言えるの」
「姉にも言った」
「何て?」
「勝手に助けるなって」
「怒った?」
「泣いてた」
「そっか」
「俺も泣いた」
「そっか」
杉原が窓の外を見る。
「藤野」
「何」
「俺、医者になる」
「うん」
「やっぱり」
「うん」
「父親に言われたからじゃない」
私は黙る。
「って言いたいけど」
杉原が笑った。
「たぶん父親に言われたからでもある」
「うん」
「姉のこともある」
「うん」
「自分で決めた部分もある」
「うん」
「全部混ざってる」
「うん」
「それでいいよな」
私は答えようとした。
でも止めた。
「杉原は?」
「俺はいいと思う」
「じゃあいいんじゃない」
「それだけ?」
「それだけ」
杉原が笑った。
「藤野変わったな」
「前は?」
「面倒くさかった」
「今もでしょ」
「今も」
「最悪」
二人で笑った。
「医者になったら」
私は言った。
「この話忘れないでね」
「何で」
「患者に正しいこと言いすぎないように」
「難しいな」
「禁煙してください、とか」
「それは言う」
「運動してください」
「言う」
「甘いもの控えて」
「言う」
「正論ばっか」
「医者だから」
「嫌われるよ」
「でも言わなきゃいけない正解もあるだろ」
私は笑った。
「確かに」
「正解全部捨てたら医療できない」
「そうだね」
「だから面倒なんだよ」
杉原は言った。
「正解って」
その言葉が、
妙に残った。
第五十一章 言わなければならない正解
杉原と話した夜。
私は三枝先生へメールした。
〈正解には、人を傷つけても言わなければならないものもありますか。〉
返信は翌朝だった。
〈あります。〉
珍しく断言。
〈例えば?〉
〈赤信号では止まる。
飲酒運転をしない。
人を殴らない。
試験問題を盗まない。〉
私は笑った。
〈では、なぜ正解を疑う必要があるんですか。〉
返信。
〈正解を疑うことと、正解を捨てることは違うからです。〉
その一文を何度も読んだ。
〈分かりません〉
〈私も完全には分かりません。〉
〈先生なのに〉
〈元です。〉
〈ずるい〉
しばらくして長い返信。
〈藤野さん。
「正解なんてない」という言葉は魅力的です。
自由になれる気がします。
しかし、それも危険な言葉です。
正解がないから何をしてもいい、という意味ではありません。〉
続く。
〈誰かの正解を疑うこと。
自分の正解も疑うこと。
それでも必要な場面では選ぶこと。
そして、自分の選択によって傷つく人がいるなら、その事実から逃げないこと。
おそらく私たちにできるのは、その程度です。〉
私は返信した。
〈それが先生の正解?〉
返事。
〈今日のところは。〉
笑った。
今日のところは。
それくらいが、
ちょうどいいのかもしれない。
第五十二章 卒業式の前夜
卒業式の前夜。
兄が帰ってきた。
珍しく店が休みだった。
「明日卒業?」
「うん」
「おめでとう」
「まだ」
「もういいだろ」
「早稲田行くことにした」
「聞いた」
「お父さんから?」
「母さん」
「反対しない?」
「何で俺が」
「東大落ちた」
「知ってる」
「料理人になる?」
「ならないだろ」
「分かんないよ」
「包丁握ったことある?」
「家庭科」
「無理」
「失礼」
兄が冷蔵庫を開ける。
「葵」
「何」
「父さんから聞いた」
「何を」
「俺のこと謝ったって」
「ああ」
「余計なことすんな」
「私じゃない」
「お前が何か言ったんだろ」
「少し」
「やっぱり」
「嫌だった?」
兄はしばらく黙った。
「分かんない」
「そっか」
「でも」
「何」
「ちょっと嬉しかった」
「何が」
「父さんが」
兄は冷蔵庫から麦茶を出す。
「俺が大学辞めたこと、まだ気にしてたんだなって」
「気にしてたよ」
「知らなかった」
「お兄ちゃんも話せばよかったじゃん」
「誰に」
「お父さん」
「無理」
「なんで」
「お前は簡単に言うな」
また。
私は黙った。
「ごめん」
「でも」
兄が言う。
「今なら少し話せるかもな」
「なんで?」
「時間」
「時間?」
「十年近く経ったから」
「そんなに?」
「それくらい」
「時間が解決した?」
「してない」
「じゃあ」
「時間が離してくれた」
「何から?」
「当時の自分から」
兄は言った。
「二十歳のときは、大学辞めたことが人生全部だった」
「うん」
「二十五くらいでも、まだでかかった」
「うん」
「今は」
「うん」
「人生の一部分」
私は東大の赤本を思い出した。
「私もそうなるかな」
「何が」
「東大落ちたこと」
「なるだろ」
「いつ?」
「知らん」
「五年?」
「知らん」
「十年?」
「知らん」
「役に立たない」
「人生相談料取るぞ」
「いらない」
兄が笑う。
「葵」
「何」
「明日卒業式だろ」
「うん」
「高校生活、正解だった?」
私は笑った。
「何その質問」
「最近のお前好きそう」
「嫌いになった」
「じゃあ聞く」
少し考えた。
「分かんない」
「三年間もあったのに?」
「うん」
「じゃあ失敗?」
「それも分かんない」
「楽しかった?」
「楽しかった」
「ならいいじゃん」
兄は麦茶を飲んだ。
私は思った。
もしかすると、
人生の評価なんて、
それくらい雑でいいのかもしれない。
第五十三章 卒業証書
翌朝。
制服を着る最後の日。
鏡を見る。
三年前より、
少しだけ大人に見える。
でもたぶん、
顔が変わっただけ。
玄関。
「葵」
父が呼ぶ。
「何」
「写真」
「今?」
「今」
「学校で撮るじゃん」
「家でも」
父と母。
私。
三人で並ぶ。
「お兄ちゃんは?」
「寝てる」
「起こそう」
「いいよ」
シャッター。
一枚。
父が画面を見る。
「目つぶってる」
「誰が?」
「俺」
「もう一枚」
二枚。
三枚。
四枚。
「もういい!」
「最後」
「何枚撮るの」
「卒業だから」
父が言った。
少し寂しそうだった。
「お父さん」
「何」
「私、大学行ったら家出るかもしれない」
「聞いてない」
「今言った」
「駄目だ」
「なんで」
「通える」
「一人暮らししたい」
「金が」
「バイトする」
「危ない」
「出た」
「何が」
「心配」
「親だから当然だ」
昔なら腹が立った。
今も少し腹が立つ。
「話し合おう」
私は言った。
「何を」
「一人暮らし」
「駄目だ」
「話し合いになってない」
「じゃあ大学入ってから」
「分かった」
私は靴を履く。
「行ってきます」
「葵」
父。
「何」
「卒業おめでとう」
「まだ式前」
「いいんだよ」
「ありがとう」
家を出た。
駅へ向かう。
途中で美緒と合流。
「おはよ」
「おはよう」
「泣く?」
「泣かない」
「私は泣く」
「まだ始まってない」
「もう寂しい」
相馬が後ろから来る。
「おはよう」
「遅い」
「時間通り」
「女子は十分前」
「知らないルール」
三人で学校へ向かった。
いつもの道。
三年間歩いた道。
今日で最後。
そう思うと、
電柱まで少し違って見える。
「ねえ」
美緒が言った。
「卒業したくない」
「さっきから早い」
「だって」
「大学楽しみじゃない?」
「楽しみ」
「じゃあ」
「楽しみと寂しいは両方あるでしょ」
私は笑った。
「そうだね」
嬉しいなら悲しくない。
好きなら嫌いじゃない。
正しいなら間違っていない。
昔の私は、
感情まで二択だと思っていた。
でも違う。
卒業は嬉しい。
卒業は寂しい。
未来が楽しみ。
未来が怖い。
相馬が好き。
いつか別れるかもしれない。
父が好き。
父に腹が立つ。
兄を尊敬している。
兄みたいにはなりたくない。
全部、
同時に本当だ。
校門が見える。
美緒が走る。
「最後に一番!」
「何の?」
相馬も走る。
「子どもかよ」
そう言いながら追う。
「葵!」
「待って!」
私も走った。
校門。
三人でほとんど同時に入った。
「私一番」
「俺」
「私でしょ」
「写真判定」
「誰が撮ってるの」
笑う。
その日の卒業式で、
私は卒業証書を受け取った。
そこには、
三年間の成績も、
失敗も、
喧嘩も、
恋愛も、
後悔も書かれていなかった。
ただ、
卒業した。
という事実だけが書かれていた。
それを見て、
私は少し安心した。
人生には、
採点されない部分のほうが、
ずっと多いのかもしれない。
第五十四章 白紙
卒業式が終わったあと。
私は一人で二年B組へ行った。
今は別の学年の教室。
誰もいない。
黒板。
机。
窓。
二年前。
三枝先生が黒板に書いた。
〈正解〉
あの日から、
私はずっと答えを探していた。
チョークを一本取る。
黒板に書く。
〈正解とは何か〉
眺める。
答えを書く。
〈自分で選ぶこと。〉
違う。
消す。
〈後悔しないこと。〉
違う。
消す。
〈他人を傷つけないこと。〉
それだけでもない。
消す。
〈責任を取ること。〉
何の責任を、
どこまで取れるのか。
消す。
黒板が白く戻る。
「何してるの」
振り返る。
美緒と相馬。
「探した」
「ごめん」
「何書いてた?」
「正解」
「また?」
「最後」
美緒がチョークを取った。
〈楽しいこと。〉
「それが正解?」
「今は」
相馬も書く。
〈分からない。〉
「逃げた」
「最強の答え」
二人が私を見る。
「葵は?」
「書いたけど全部消した」
「じゃあ白紙?」
「うん」
美緒が言う。
「提出したら零点だね」
「人生なら?」
「知らない」
相馬が笑う。
「採点する人いないだろ」
三人で黒板を見る。
〈楽しいこと。〉
〈分からない。〉
そして、
私の場所だけ白紙。
私はチョークを取った。
今度は書いた。
〈まだ考えている。〉
「それ?」
美緒。
「うん」
「正解?」
私は笑った。
「今日のところは」
窓の外から、
春の風が入ってきた。
黒板の粉が少し舞った。
私たちは教室を出た。
黒板には三つの答えが残った。
楽しいこと。
分からない。
まだ考えている。
どれが正しいのか。
誰も決めなかった。
そして、それでよかった。
少なくとも――
その日の私たちには。
第五十五章 正解を選ばなかった人
大学に入って二か月が過ぎた。
六月。
高校生だったころは、大学へ行けば何かが決まると思っていた。
何を勉強するのか。
何になりたいのか。
どんな人間なのか。
でも大学は、高校より自由なぶん、分からないことが増えた。
「出席取らないって最高」
隣の席で真奈が言った。
入学式の日、
「第一志望?」
と聞いてきた子だ。
「でも休んだら分かんなくなるよ」
「葵、真面目」
「普通」
「高校でも委員長とか?」
「学級委員」
「やっぱり」
「何それ」
「正解っぽい顔してる」
「どんな顔」
「先生に好かれる顔」
少し前なら、
褒め言葉だと思った。
今は微妙だった。
「それ嫌かも」
「なんで?」
「いろいろあって」
「何が?」
「長い」
「四年間ある」
「そんなに仲良くなる予定?」
「嫌?」
「嫌じゃない」
真奈は笑った。
大学では、
私の過去を誰も知らない。
正解裁判も。
三枝先生も。
美緒との喧嘩も。
相馬とのことも。
東大に落ちたことも。
言わなければ、
私はただの藤野葵だった。
それが少し嬉しかった。
講義が終わる。
スマホを見る。
兄から着信が三件。
珍しかった。
電話をかける。
「もしもし」
「葵?」
「何」
「今どこ」
「大学」
「今日帰れる?」
「帰るけど」
「早めに」
「何かあった?」
沈黙。
「父さんが倒れた」
世界が止まった。
「え?」
「病院」
「何で」
「心筋梗塞」
「……」
「今は意識ある」
「死ぬの?」
自分でも驚くほど直接的な言葉だった。
「今すぐどうこうじゃない」
「どこの病院?」
兄から聞いた。
電話を切る。
「葵?」
真奈が私を見る。
「ごめん、帰る」
「何かあった?」
「父が」
それだけ言って走った。
駅まで。
電車。
病院。
ずっと考えた。
父が死ぬ。
その可能性を、
私は一度も本気で考えたことがなかった。
父は正解を押しつける人だった。
父は謝る人でもあった。
父は私に東大へ行ってほしかった。
父は最後に、
お前が決めろと言った。
父は一人暮らしに反対した。
父は卒業式の朝、
何枚も写真を撮った。
全部同じ父だ。
病院に着く。
母がいた。
「お母さん」
「葵」
「お父さんは?」
「処置終わった」
「会える?」
「もう少ししたら」
母の顔が真っ白だった。
兄が自販機から水を買ってきた。
「大丈夫?」
「たぶん」
「たぶんって」
「医者がそう言ってる」
「お父さん、何て?」
「まだ話してない」
待った。
一時間。
二時間。
ようやく面会。
父はベッドにいた。
鼻に管。
点滴。
「お父さん」
「大学は?」
最初の言葉がそれだった。
「休んだ」
「授業」
「いいよ」
「よくない」
「死にかけた人が言う?」
「死んでない」
少し安心した。
「怖かった?」
聞いた。
「何が」
「倒れたとき」
「覚えてない」
「そっか」
「葵」
「何」
「母さんを頼む」
「何それ」
「念のため」
「やめてよ」
「念のためだ」
「嫌」
「葵」
「そういうのやめて」
涙が出た。
「勝手に死ぬ前提で話さないで」
「死ぬとは言ってない」
「同じじゃん」
「違う」
「お母さんのことはお父さんが自分で面倒見て」
父が笑った。
「分かった」
私は泣きながら笑った。
その夜。
病院の廊下で、
兄が言った。
「父さん、仕事辞めるかもって」
「なんで?」
「医者に言われたらしい」
「仕事しすぎ?」
「ストレスもあるって」
「辞めればいいじゃん」
私は即答した。
兄が私を見る。
「何」
「簡単に言うな」
「だって体のほうが大事でしょ」
「父さんにとって仕事は体と同じくらい大事かもしれない」
「でも死んだら終わりじゃん」
「そうだけど」
「なら辞めるべき」
言ってから気づいた。
また。
べき。
兄が笑った。
「まだやってるな」
「何を」
「人の人生決めるやつ」
「でも今回は命だよ」
「うん」
「正解あるでしょ」
「あるかもな」
「じゃあ」
「でも決めるのは父さん」
「……」
「俺たちは言うだけ」
私は病室の扉を見る。
自分の人生なら自分で決める。
そう思ってきた。
でも。
もしその選択で死ぬかもしれないなら。
家族はどこまで止めていいのだろう。
私は初めて、
父が私を止めたかった気持ちを、
ほんの少しだけ理解した。
第五十六章 家族の権利
父は二週間で退院した。
医師から、
働き方を変えるよう強く言われた。
でも一か月後。
父は仕事に戻ると言った。
「駄目」
夕食の席。
私は即答した。
「医者が言ったでしょ」
「働くなとは言われてない」
「減らせって」
「減らす」
「どれくらい」
「考える」
「お父さん絶対戻るじゃん」
「戻るよ」
「前みたいに働く」
「それはしない」
「信用できない」
父の眉が動いた。
「葵」
母が止める。
「だって」
「父さんも考えてるから」
「考えてたら戻らないでしょ」
「お前に決められることじゃない」
父が言った。
「家族でしょ」
「だから?」
「死んだら私たちが悲しむんだよ」
「分かってる」
「分かってない」
「分かってる」
「なら」
「葵」
父の声が強くなった。
「俺の人生だ」
その言葉。
私が何度も言った言葉。
返せなかった。
「仕事が好きなんだ」
父は言った。
「分かるか」
「分かんない」
「俺は仕事を辞めて毎日家にいるほうがつらい」
「死ぬより?」
「そういう比較をするな」
「するよ!」
声が大きくなった。
「死んだら終わりじゃん!」
「だから気をつけると言ってる!」
「前も気をつけてたんでしょ!」
父が黙った。
「葵」
母。
「もうやめなさい」
「お母さんはいいの?」
「よくない」
「なら止めてよ」
「止めてる」
「もっと!」
「どうやって?」
母が私を見る。
「会社に電話する?」
「……」
「退職届を勝手に出す?」
「それは」
「家から出さない?」
「……」
「車の鍵を隠す?」
何も言えない。
「どこまでやればいいの?」
母の声は静かだった。
「家族だからって、本人の人生を全部取り上げていいの?」
「でも」
「私も怖い」
母の目に涙が浮かんだ。
「また倒れるんじゃないかって毎日怖い」
「うん」
「仕事なんて辞めてほしい」
「うん」
「でも」
母は父を見る。
「この人から仕事まで取ったら、それは本当にこの人のためなのか分からない」
父が俯く。
「だから話すしかないの」
母は言った。
「何回でも」
私は黙った。
話す。
聞く。
変わる。
昔、黒板に書いた言葉。
簡単だった。
言葉にするだけなら。
でも本当の家族は、
話しても分かり合えない。
聞いても納得できない。
何度話しても同じところに戻る。
「お父さん」
「何だ」
「週何日?」
「最初は三日」
「残業」
「しない」
「絶対?」
「努力する」
「絶対って言って」
「無理だ」
「なんで」
「何が起きるか分からない」
「じゃあ」
「でも帰るようにする」
「……」
「月一回病院」
「二回」
「一回」
「二回」
「医者が一回でいいと言ってる」
「じゃあ一回」
「薬」
「飲む」
「忘れたら?」
「母さんに怒られる」
「私も怒る」
「分かった」
それで終わった。
完全には納得していない。
父も。
私も。
でも家族の話し合いは、
全員が納得するまで続けるものではないのかもしれない。
納得できないまま、
とりあえず明日を始める。
そういう決着もある。
第五十七章 善意
大学では夏休み前のレポートが始まった。
真奈と図書館で勉強していた。
「葵ってさ」
「何」
「相談されやすそう」
「そう?」
「うん」
「昔は」
「何」
「相談されると答え出そうとしてた」
「今は?」
「なるべく出さない」
「何それ」
「いろいろあって」
「またそれ」
真奈が笑った。
「じゃあ相談」
「何?」
「大学辞めようと思ってる」
私はペンを落とした。
「え?」
「辞める」
「なんで」
「やりたいことないから」
「まだ一年じゃん」
「うん」
「早くない?」
「そう?」
「せめて一年」
言いかけて止まる。
真奈が笑う。
「答え出してるじゃん」
「ごめん」
「別にいいけど」
「何があった?」
「美容師になりたい」
「美容師?」
「専門行く」
「前から?」
「高校のときから」
「じゃあ何で大学来たの」
「親」
「反対された?」
「うん」
「それで大学?」
「うん」
「今度は自分で?」
「そう」
私は考える。
言葉を選ぶ。
「何してほしい?」
真奈が笑った。
「何それ」
「相談なんでしょ」
「うん」
「聞いてほしいだけ?」
「たぶん」
「じゃあ聞く」
「意見言わない?」
「欲しかったら言う」
「成長してる」
「何も知らないくせに」
「顔」
「顔で分かる?」
「正解っぽい顔」
「まだ言う」
真奈は笑った。
「親には?」
「まだ」
「怖い?」
「超怖い」
「そっか」
「葵ならどうする?」
来た。
答え。
「私なら?」
「うん」
「言う」
「辞めるって?」
「うん」
「すぐ?」
「たぶん」
「なんで」
「黙って辞めたらもっと揉めそうだから」
「なるほど」
「でも私なら、だからね」
「分かってる」
「真奈が同じにする必要ない」
「分かってるって」
真奈はノートを閉じた。
「なんか楽」
「何が?」
「葵に相談するの」
「そう?」
「うん」
「答えくれないのに?」
「答えくれないから」
昔なら、
役に立たないと言われた気がしただろう。
今は少し嬉しかった。
でも。
三日後。
真奈は親に話した。
そして家を追い出された。
第五十八章 私が言ったから
夜十一時。
真奈から電話。
「葵」
泣いていた。
「どうした?」
「家出された」
「家出?」
「追い出された」
「え?」
「大学辞めるなら勝手にしろって」
「今どこ?」
「駅」
「待ってて」
私は家を出た。
父に言う。
「友達が困ってる」
「何時だと思ってる」
「分かってる」
「どこ」
駅名を言う。
「送る」
「大丈夫」
「駄目だ」
車で送ってもらった。
真奈は駅前にいた。
キャリーケース。
泣いていた。
「葵」
「大丈夫?」
「全然」
「今日はうち来る?」
「いいの?」
「たぶん」
父が車から降りる。
「友達?」
「はい」
真奈が頭を下げる。
「すみません」
「事情はあとでいい。乗りなさい」
美緒が家出したときと同じ。
家に連れて帰った。
母が布団を出した。
真奈は私の部屋。
「ごめん」
「いいよ」
「私」
「うん」
「葵に言われたから話した」
心臓が止まった。
「え?」
「葵が、私なら言うって」
「でも」
「分かってる」
「真奈が決めたんでしょ」
「うん」
「私、言ったよね。私ならって」
「分かってる」
「同じにしなくていいって」
「分かってるって!」
真奈が泣いた。
私は黙った。
「ごめん」
真奈が言う。
「葵のせいにしたいだけ」
「……」
「自分で言った」
「うん」
「自分で大学辞めるって」
「うん」
「でも」
「うん」
「こんなことになると思わなかった」
「うん」
「だから誰かのせいにしたい」
私は何も言えなかった。
「ごめん」
「いいよ」
「よくない」
「いい」
「葵悪くないのに」
私は三枝先生を思い出した。
柴崎航平。
先生は言った。
東大を受けなくてもいい。
航平は違う意味で受け取った。
言葉を渡した人。
言葉を受け取った人。
責任はどこにあるのか。
「真奈」
「何」
「私もごめん」
「なんで」
「簡単に言った」
「何を」
「親に言うって」
「でも私が聞いた」
「うん」
「葵ならどうするって」
「うん」
「なら葵悪くない」
「でも」
「ほら」
真奈が涙を拭く。
「正解探してる」
「え?」
「どっちが悪いか」
私は止まった。
「別に決めなくてよくない?」
真奈は言った。
「私が決めた」
「うん」
「葵が背中押した」
「うん」
「親が怒った」
「うん」
「全部本当」
私は何も言えなかった。
「誰か一人悪者にしなくても」
真奈が言った。
「いいんじゃない?」
私は笑った。
「真奈のほうが分かってる」
「何が」
「いろいろ」
「今日家追い出された人だけど」
二人で笑った。
笑いながら泣いた。
第五十九章 正しい親
翌朝。
真奈の母親から電話が来た。
真奈ではなく、
私に。
「藤野さん?」
「はい」
「真奈、そちら?」
「はい」
「代わって」
「ちょっと待ってください」
「何?」
「真奈さん、今」
「娘です」
「はい」
「あなたには関係ないでしょう」
強い声。
怖かった。
「そうですけど」
「代わってください」
「分かりました」
真奈に渡す。
「お母さん」
真奈は電話を持って部屋を出た。
十分。
二十分。
三十分。
戻ってくる。
「どうだった?」
「帰る」
「大丈夫?」
「分かんない」
「一緒に行く?」
「大丈夫」
「でも」
「葵」
「何」
「一人で行く」
「……うん」
「ありがとう」
真奈は帰った。
夜。
メッセージ。
〈家入れた〉
〈よかった〉
〈大学辞める話は保留〉
〈うん〉
〈親と話す〉
〈うん〉
〈たぶん100回くらい〉
〈頑張れ〉
書いて。
消す。
〈無理しないで〉
これも違う。
結局。
〈聞くよ〉
送った。
返信。
〈ありがとう〉
それから真奈は、
大学をすぐには辞めなかった。
夏休みに美容学校のオープンキャンパスへ行った。
母親も一緒に。
秋。
大学を一年で退学すると決めた。
親は最後まで反対した。
でも学費を一部出すことになった。
「なんで?」
私が聞く。
「お母さんが」
真奈は笑った。
「反対だけど、失敗したとき帰ってこられるようにしておきたいって」
「いいお母さんじゃん」
「最悪だよ」
「なんで」
「最後まで反対」
「でも出してくれる」
「そこがムカつく」
「複雑」
「親ってそういうもん?」
「たぶん」
私は父を思った。
兄を思った。
「正しい親って何だろうね」
真奈が言う。
「知らない」
「子どもの夢を応援する親?」
「それだけじゃない気がする」
「反対するのも愛?」
「それも正解っぽくて嫌」
「確かに」
二人で笑った。
「じゃあ」
真奈が言う。
「親も分かんないんだ」
「たぶん」
「大人なのに?」
「大人だからじゃない?」
「何それ」
「分かんないまま決めなきゃいけないことが増える」
「最悪」
「うん」
「子どものほうが楽?」
「それも違う」
「じゃあいつ楽になるの」
「ならないんじゃない?」
「聞かなきゃよかった」
真奈は笑った。
第六十章 大人の正解
秋。
私は十九歳になっていた。
大学の授業で、
「自己決定」
について扱った。
教授が言った。
「人は、自分の意思だけで選択していると思いますか」
誰も手を挙げない。
「家族、文化、経済状況、教育、性別、地域、時代。私たちの選択はさまざまな条件に影響されています」
ノートに書く。
〈自分の意思だけではない〉
「では、完全に自由な選択など存在しないのでしょうか」
学生が答える。
「ないと思います」
「なぜ?」
「必ず何かに影響されるから」
教授が頷く。
「では、影響されている選択は、自分の選択ではないのでしょうか」
私は美緒を思い出した。
親に反対されて、
進路を変えた。
杉原。
父に期待され、
医学部へ進んだ。
真奈。
親に反対され、
大学を辞める。
私。
父に東大を期待され、
東大を目指し、
落ちて、
早稲田へ来た。
「そこの人」
教授が私を指す。
また。
「はい」
「どう思います?」
教室中が見る。
「影響されても」
私は言った。
「自分の選択だと思います」
「なぜ?」
「影響されないのは無理だから」
「では自己決定とは?」
難しい。
考える。
「最後に自分で決めること」
言ってから、
昔と同じだと思った。
「本当に?」
教授が聞く。
「……分かりません」
笑い。
「例えば」
私は続けた。
「選べるものが一個しかなかったら」
「はい」
「それを選んでも、自分で決めたことになるのか」
「いい問いですね」
「お金がなくて進学できない人が、就職を選んだら」
「はい」
「それは自分で決めたと言えるのか」
「あなたはどう思います?」
「分かりません」
「また?」
教室が笑う。
私も笑った。
「でも」
続ける。
「自分で決めたかどうかだけで、その人を評価するのは違う気がします」
教授が頷く。
「なぜ?」
「選べる数が、人によって違うから」
その瞬間。
私は文化祭の自分を思い出した。
自分の人生だから、
自分で決める。
私はそう言った。
でも。
自分で決められること自体が、
恵まれている場合もある。
選べない人もいる。
家族。
お金。
病気。
環境。
責任。
私は、
自分で決めろという言葉さえ、
誰かを傷つけることがあるのだと、
ようやく分かった。
「先生」
「はい」
「自分で決められない人は、どうすればいいんですか」
教授は少し考えた。
「周囲が選択肢を増やす」
「周囲?」
「社会でも、家族でも、友人でもいい」
「それでも選べなかったら?」
「一緒に考える」
三枝先生と同じだった。
「それでも?」
「待つ」
「いつまで?」
「待てるところまで」
「それでも決められなかったら?」
教授が笑った。
「あなた、難しい学生ですね」
教室が笑う。
「すみません」
「褒めています」
教授は言った。
「決められないまま期限が来ることもあります」
「はい」
「そのときは?」
今度は教授が私に聞いた。
私は考える。
「とりあえず選ぶ」
「はい」
「あとで変える」
「変えられなかったら?」
「……」
「選び直せないこともあります」
「はい」
「そのときは?」
答えられない。
教授は言った。
「だから人間は、他人の選択にもう少し慎重であるべきなのだと私は思います」
静かな教室。
「外から見れば簡単な正解でも、本人にとってはそうではないことがある」
私はノートに書いた。
〈他人の人生は、外から見るほど簡単ではない。〉
その下。
〈自分の人生も。〉
そして。
〈だから話す。〉
少し考えて消した。
代わりに。
〈だから、簡単に答えを出さない。〉
そう書いた。
第六十一章 父の辞表
十一月。
父が仕事を辞めた。
突然だった。
「え?」
夕食。
「来年三月で退職する」
「なんで」
「決めた」
「体?」
「それもある」
「仕事好きだったじゃん」
「好きだ」
「じゃあ」
「好きなまま辞める」
意味が分からなかった。
「もったいなくない?」
「もったいない」
「後悔するよ」
「するだろうな」
「なら」
父が笑った。
「葵」
「何」
「お前、昔の俺みたいだぞ」
止まった。
「最悪」
「だろ」
「でも本当にいいの?」
「分からん」
「何するの?」
「しばらく何もしない」
「暇になるよ」
「そうだな」
「お母さん困るよ」
「もう困ってる」
母が台所から言う。
「毎日家にいられたら困る」
「ひどいな」
「趣味作って」
「考える」
「料理」
「悠真に習うか」
「やめて」
兄が言いそうな言葉が想像できた。
「どうして辞めることにしたの?」
私は聞いた。
父はしばらく考えた。
「倒れたから」
「やっぱり」
「それだけじゃない」
「何?」
「倒れてから」
父が言う。
「仕事へ行くたび、母さんとお前の顔を思い出す」
「うん」
「前は仕事をすることが家族のためだと思ってた」
「うん」
「今は、家に帰ることも家族のためなのかもしれないと思う」
「……」
「どっちが正しいかは知らん」
「うん」
「だから今回は、帰るほうを選ぶ」
私は泣きそうになった。
「泣くな」
「泣いてない」
「顔」
「お父さんこそ」
「泣いてない」
母が笑った。
父も笑った。
私も笑った。
人は変わる。
でも。
父が間違っていたから変わったのではない。
昔の父も、
そのときの父だった。
仕事を選んだ父。
家族を選んだ父。
どちらかが偽物なのではない。
人間は、
昨日と違う答えを選べる。
それは矛盾ではなく。
たぶん、
生きているということなのだ。
第六十二章 別れるかもしれない
十二月。
相馬が言った。
「留学したい」
「どこ?」
「カナダ」
「いつ?」
「来年」
「どれくらい?」
「一年」
頭が止まった。
「一年?」
「うん」
「長い」
「うん」
「何で?」
「心理学のプログラム」
「行きたいの?」
「行きたい」
「そっか」
言葉が続かない。
「藤野」
「何」
「嫌?」
「嫌」
即答。
相馬が少し驚く。
「行かないでほしい」
「……」
「一年会えないんでしょ」
「途中で帰るかも」
「でも」
「うん」
「嫌」
「そっか」
「止めないの?」
「何を」
「私が嫌って言ってる」
「聞いてる」
「それでも行く?」
「たぶん」
胸が痛んだ。
「自分の人生だから?」
嫌味だった。
「そういう言い方するなよ」
「だってそうじゃん」
「藤野」
「私が悲しくても行くんでしょ」
「うん」
その「うん」が痛かった。
「最低」
「そうかも」
「そこ否定してよ」
「でも嘘になる」
「……」
「俺、行きたい」
「私より?」
「比べられない」
「比べて」
「無理」
「じゃあ私と別れても?」
相馬が黙った。
私は自分で言って、
自分で傷ついた。
「それは嫌」
「じゃあ行かないで」
「それも嫌」
「何それ」
「藤野と別れたくない。でも留学もしたい」
「両方は無理かもしれない」
「うん」
「なら選んで」
言った。
相馬の顔が変わった。
「今?」
「いつでもいい」
「藤野」
「私か留学」
「それ、選ばせるの?」
「だって」
「俺が藤野に、東大か俺か選べって言ったらどうする?」
何も言えなかった。
「違う」
「何が」
「東大と恋人は」
「俺には同じくらい大事かもしれない」
「……」
「藤野が決めるなよ」
胸が刺された。
「分かった」
立ち上がる。
「帰る」
「待って」
「今話したくない」
昔、
美緒が言った。
相馬が言った。
今度は私が言った。
「分かった」
相馬は追わなかった。
それがまた腹立たしかった。
第六十三章 選ばれたい
美緒に電話した。
「相馬が留学する」
「へえ」
「一年」
「長いね」
「止めてくれない?」
「誰を?」
「相馬」
「なんで私が」
「友達でしょ」
「葵の彼氏でしょ」
「だから」
「私に何してほしいの」
聞き覚えのある質問。
「……分かんない」
「じゃあ聞く」
「うん」
「葵は相馬に行ってほしくない?」
「うん」
「ならそう言った?」
「言った」
「相馬は?」
「行きたいって」
「じゃあ終わりじゃん」
「何が」
「意見が違う」
「それだけ?」
「それだけ」
「どうすればいいの」
「話せば」
「話した」
「もっと」
「何回?」
「知らない」
「美緒」
「何」
「私、選んでほしい」
初めて口にした。
「何を?」
「留学じゃなくて私」
涙が出た。
「自分の人生より私を選んでほしい」
「うん」
「それって最低?」
「知らない」
「重い?」
「重い」
「即答」
「でも思うのは自由でしょ」
「言っていい?」
「言えば」
「相馬困る」
「困らせちゃ駄目なの?」
私は止まった。
「好きな人を困らせることもあるでしょ」
「うん」
「家族だって友達だって」
「うん」
「葵さ」
「何」
「最近、他人を傷つけないことまで正解にしようとしてない?」
言葉が止まった。
「傷つけないなんて無理だよ」
美緒は言った。
「私、葵と相馬が付き合ったとき傷ついた」
「……」
「でも今は二人とも友達」
「うん」
「葵が東大受けたとき、お父さん嬉しかった」
「うん」
「落ちて悲しかった」
「うん」
「だから何?」
「……」
「人を傷つけることと、人を大事にしないことは同じじゃないよ」
私は泣いた。
「美緒」
「何」
「賢くなったね」
「大学生だから」
「私も」
「葵は面倒くさいまま」
「うるさい」
二人で笑った。
「ちゃんと相馬に言いな」
「何を」
「選んでほしいって」
「嫌」
「なんで」
「格好悪い」
「恋愛なんて大体格好悪い」
「美緒、彼氏いる?」
「いない」
「説得力ない」
「切るよ」
「待って」
「じゃあ言え」
「……うん」
翌日。
相馬に会った。
「昨日ごめん」
「俺も」
「何が?」
「言い方」
「うん」
「でも留学は」
「分かってる」
私は息を吸う。
「私を選んでほしい」
相馬が黙る。
「留学やめてほしい」
「うん」
「一年も離れたくない」
「うん」
「向こうで好きな人できるかもしれない」
「それは藤野もだろ」
「私は作らない」
「分かんないだろ」
「今はそう思ってる」
「うん」
「だから行かないでほしい」
全部言った。
「でも」
続ける。
「相馬が行きたいのも分かってる」
「うん」
「だから」
声が震える。
「私が嫌って言ったことも持っていって」
「え?」
「それでも行くか決めて」
相馬が私を見る。
「いいの?」
「よくない」
「どっち」
「行ってほしくない」
「うん」
「でも私が嫌がったことを理由に、私のせいで諦めたってあとで言われるのも嫌」
「言わない」
「分かんないじゃん」
「うん」
「だから相馬が決めて」
相馬は長く黙った。
「分かった」
「今決めないで」
「うん」
「ちゃんと考えて」
「うん」
「私のことも」
「もちろん」
「留学も」
「うん」
「それで」
怖かった。
「行くなら」
「うん」
「行って」
言えた。
それは、
相馬を応援したからではない。
物分かりのいい彼女になったからでもない。
私は行ってほしくない。
本当に。
でも。
相馬の選択を、
私の正解だけで塞ぎたくなかった。
第六十四章 相馬の答え
一か月後。
相馬から呼び出された。
最初に告白された公園。
「決めた」
「うん」
「行く」
胸が痛んだ。
「そっか」
「ごめん」
「謝らないで」
「でも」
「謝られたら、私が正しいみたいになる」
「難しいな」
「うん」
私は泣いた。
「泣くの?」
「泣くよ」
「怒る?」
「怒ってる」
「そっか」
「すごく」
「うん」
「相馬なんか嫌い」
「それは嘘」
「今は少し本当」
「そっか」
相馬も泣いていた。
「一年」
「うん」
「待つ?」
「分かんない」
「え?」
「一年後も好きか分かんない」
「そこは待つって言えよ」
「正直に言えって教わった」
「誰に」
「藤野」
「最悪」
二人で泣きながら笑った。
「じゃあ」
相馬が言う。
「別れる?」
その言葉。
胸が締めつけられる。
「今?」
「遠距離嫌なら」
「嫌」
「じゃあ」
「でも別れたくない」
「俺も」
「なら今は付き合う」
「今は?」
「未来のこと決めない」
「ずるくない?」
「いいの」
「正解?」
「知らない」
相馬が笑った。
「じゃあそれで」
「うん」
「向こうで好きな人できたら?」
「言う」
「嫌」
「じゃあ聞くな」
「でも隠されるのも嫌」
「面倒くさい」
「うるさい」
「藤野もできたら言えよ」
「できない」
「分かんないだろ」
「今はそう思う」
第一章 正しい人
十七歳になって最初に気づいたのは、大人は思っていたより頻繁に「正解」という言葉を使う、ということだった。
「今のうちに勉強しておくのが正解だよ」
「大学には行っておいたほうが正解」
「友達は選んだほうがいい」
「高校生の恋愛なんて深入りしないほうがいい」
「親の言うことは聞いておいたほうがいい」
どれも命令ではなかった。
だから厄介だった。
命令なら反抗できる。
「絶対にこうしなさい」と言われれば、「嫌だ」と返せる。
けれど、「あなたのためを思って」と言われると難しい。
正解という言葉は、命令より柔らかく、そして命令より逃げにくかった。
高校二年の九月。
月曜日の一時間目。
担任の三枝先生は黒板に大きく書いた。
〈あなたが大切にしているものを一つ挙げなさい〉
「今日は授業じゃありません」
三枝先生はそう言った。
教室が少しざわついた。
「先生、それ国語?」
後ろから声が飛ぶ。
「国語じゃない」
「じゃあ何?」
「ホームルーム」
「一時間目、現国ですよ」
「今日は変更」
「ラッキー」
誰かが言った。
三枝先生は笑わなかった。
三十八歳。国語教師。細い銀縁眼鏡をかけていて、いつも紺か灰色のシャツを着ている。
怒鳴ったところを誰も見たことがない。
それなのに、生徒からは少し怖がられていた。
怒らない人のほうが怖いこともある。
「紙を配ります」
前から白い紙が回ってきた。
名刺より少し大きい。
「名前は書かなくていい。あなたが大切にしているものを、一つだけ書いてください」
「人でもいいんですか?」
「いいです」
「物でも?」
「いい」
「お金」
男子が言って笑いが起きた。
「もちろん、お金でもいい」
三枝先生は真顔で答えた。
笑いが止まった。
私は紙を机に置いた。
シャープペンシルを持った。
大切なもの。
家族。
友達。
将来。
自分。
健康。
夢。
命。
いくらでも思いつく。
でも、一つと言われると何も書けなかった。
隣を見る。
親友の佐倉美緒はすでに書いていた。
手で隠している。
「見ないで」
「見てない」
「見てた」
「何書いた?」
「言わない」
「じゃあ私も言わない」
「まだ書いてないじゃん」
「これから書く」
私は紙にペン先を置いた。
そして、
〈期待を裏切らないこと〉
と書いた。
書いてから、少し変だと思った。
大切な「もの」ではない。
消そうか迷った。
けれど三枝先生が、
「後ろから集めて」
と言ったので、そのまま出した。
紙は教室の後ろから前へ運ばれた。
三枝先生は教卓で束を受け取った。
「今から読みます」
「え?」
何人かが声を上げた。
「匿名だから問題ないでしょう」
「先生も書いた?」
美緒が聞いた。
「書いてない」
「ずるい」
「そうですね」
三枝先生はあっさり認めた。
そして一枚目を開いた。
「家族」
二枚目。
「友達」
三枚目。
「自分」
次。
「猫」
笑い。
「サッカー」
「お金」
「睡眠」
「推し」
「自由」
「時間」
「おばあちゃん」
「彼女」
「スマホ」
「音楽」
「自分の部屋」
いろいろな答えが出た。
どれが誰のものなのか、だいたい想像できるものもあった。
やがて三枝先生の手が止まった。
「期待を裏切らないこと」
私は顔を上げなかった。
誰も笑わなかった。
三枝先生も何も言わなかった。
次の紙を読む。
「正しく生きること」
その瞬間だった。
「それ、無理じゃね?」
窓際の一番後ろから声がした。
声の主は相馬蓮だった。
九月からこのクラスに来た転校生。
まだ転校して一週間しか経っていない。
髪は校則ぎりぎりの長さで、制服のネクタイを少し緩めている。
転校初日の自己紹介は十五秒だった。
「相馬蓮です。よろしくお願いします」
それだけ。
前の学校について聞かれても答えなかった。
部活にも入らなかった。
休み時間はたいてい一人で本を読んでいる。
三枝先生が相馬を見る。
「何が無理なんですか」
「正しく生きること」
「なぜ?」
「正しいって、誰が決めるんですか」
教室が静かになった。
三枝先生は答えなかった。
相馬は続けた。
「国?」
「場合によります」
「学校?」
「場合によります」
「親?」
「それも場合による」
「じゃあ、自分?」
「それも場合によるでしょう」
相馬は笑った。
「ほら」
「何が、ほら、なんですか」
「正しいことなんて、誰にも決められない」
三枝先生は紙の束を机に置いた。
「では、人を殺すことは?」
一瞬、空気が変わった。
「正しくない」
誰かが言った。
「なぜ?」
「犯罪だから」
「戦争では?」
誰も答えなかった。
「死刑制度では?」
さらに静かになる。
三枝先生は相馬を見る。
「あなたの言う通り、簡単ではありません」
相馬は窓の外へ目を向けた。
「でも」
三枝先生は言った。
「だから考えなくていい、ということにはならない」
チャイムが鳴った。
「今日はここまで」
「え、それだけ?」
誰かが言った。
「それだけです」
三枝先生は紙を封筒に入れた。
そして教室を出ていった。
途端に騒がしくなる。
「何だったんだよ」
「授業つぶれたからよくない?」
「正解とか哲学じゃん」
「相馬、先生と喧嘩してた?」
「してないだろ」
私は自分の書いた言葉を思い出していた。
〈期待を裏切らないこと〉
なぜ、あんなことを書いたのだろう。
自分でも分からなかった。
その日の放課後、進路指導室に呼ばれた。
理由は分かっていた。
模試だった。
夏休みの全国模試。
私は第一志望に東京大学を書いていた。
判定はB。
「十分狙える」
進路指導の宮田先生は言った。
「二年のこの時期でBなら悪くない」
「はい」
「数学が上がったね」
「はい」
「英語は安定してる。国語も悪くない。あとは理科」
「はい」
「この調子で」
「はい」
私は「はい」を三回言った。
四回目を言いそうになったところで先生が笑った。
「そんな緊張しなくていいよ、藤野」
「してません」
「してるよ」
机の上に成績表がある。
校内順位、三位。
「お父さん、東大だったよね」
「はい」
「お母さんは?」
「早稲田です」
「すごい家だ」
「普通です」
「お兄さんも東大だった?」
「今、三年です」
「じゃあ藤野も続かないとな」
冗談だったのだと思う。
だから私は笑った。
「はい」
また言ってしまった。
進路指導室を出る。
廊下の窓からグラウンドが見えた。
サッカー部の掛け声。
吹奏楽部の音。
テニスボールの乾いた音。
高校生らしい放課後だった。
私はどこにも所属していない。
一年のときは吹奏楽部に入っていた。
フルート。
好きだった。
でも一年の冬に辞めた。
勉強との両立が難しくなったからだ。
正確には、父にそう言われたからだった。
「三年間しかできない部活と、一生を左右する受験と、どちらが大事だと思う?」
父はそう聞いた。
私は答えなかった。
「冷静に考えれば分かるだろ」
冷静に考えた。
だから辞めた。
正しい判断だった。
たぶん。
「藤野」
呼ばれて振り向く。
相馬だった。
「進路指導?」
「そう」
「怒られた?」
「なんで」
「呼び出されてたから」
「模試の話」
「ああ」
相馬は階段へ向かう。
私も同じ方向だった。
並んで歩く形になる。
「藤野って頭いいんだ」
「普通」
「三位だろ」
私は足を止めた。
「なんで知ってるの」
「廊下に貼ってあった」
「貼ってないよ」
「じゃあ美緒」
「美緒が言ったの?」
「違う」
「今、美緒って言った」
「佐倉」
「なんで美緒って呼んでるの」
相馬が笑った。
「そこ?」
「だって転校して一週間で」
「昨日、駅で会った」
「それで?」
「話した」
「それだけで?」
「名前で呼んじゃ駄目?」
「駄目じゃないけど」
なんとなく面白くなかった。
美緒は小学校からの親友だ。
それを転校してきたばかりの男子が突然「美緒」と呼ぶ。
私の知らないところで、私の友達と仲良くなる。
そんな些細なことが気になった。
「藤野は?」
「何」
「名前」
「藤野葵」
「知ってる」
「じゃあなんで聞くの」
「葵って呼んでもいい?」
「嫌」
「即答」
「藤野でいい」
「じゃあ藤野」
「何」
「東大行くの?」
「たぶん」
「行きたい?」
私は答えなかった。
階段を下りる。
「何、その質問」
「普通の質問」
「行きたいから志望してるんでしょ」
「じゃあ行きたいんだ」
「そう」
「何学部?」
「まだ決めてない」
「大学で何したい?」
「それもまだ」
「将来何になりたい?」
「……決めてない」
相馬はそれ以上聞かなかった。
靴箱まで来た。
「じゃあ、なんで東大?」
私はローファーを出した。
「選択肢が増えるから」
「誰が言った?」
「え?」
「それ」
「みんな言うでしょ」
「みんな?」
「先生とか、親とか」
「藤野は?」
「何」
「自分でもそう思う?」
私は靴を履いた。
「思うよ」
「そっか」
相馬は先に校舎を出た。
私はその背中を見た。
腹が立った。
理由は分からなかった。
家に帰ると、母が夕食を作っていた。
「おかえり」
「ただいま」
「模試の面談どうだった?」
「なんで知ってるの」
「学校から連絡来てたでしょう」
「ああ」
「どうだった?」
「普通」
「判定は?」
「B」
母の包丁が止まった。
「東大?」
「うん」
「すごいじゃない」
母は本当に嬉しそうだった。
「お父さん喜ぶわよ」
「そうかな」
「もちろん」
その日の夕食で父は言った。
「Bなら十分だ」
「うん」
「ただ油断するなよ」
「うん」
「兄貴だって二年の秋はAじゃなかったからな」
「そうなの?」
兄が答える。
「Cだった」
「意外」
「お前、俺を何だと思ってる」
「天才」
「嫌味?」
「褒めてる」
父が笑った。
「葵ならいけるよ」
兄が言った。
「お前、俺より真面目だし」
「真面目と頭の良さは違うでしょ」
「真面目が一番強い」
「そうだぞ」
父も言う。
「努力を続けられる人間が最後には勝つ」
私は味噌汁を飲んだ。
「うん」
家族は優しい。
父も母も兄も、私を応援している。
虐待なんてない。
怒鳴られることもない。
何かを無理やり強制されたこともない。
だからこそ私は、ときどき分からなくなる。
私は何に苦しいのだろう。
恵まれている。
成績もいい。
友達もいる。
家族仲も悪くない。
お金にも困っていない。
進学校に通っている。
大学にも行けるだろう。
なのに、夜になると、ときどき全部から逃げたくなる。
理由のない苦しさは、理由のある苦しさより説明が難しい。
部屋に戻る。
机を開く。
数学の問題集。
英単語。
化学。
今日やることは決まっている。
スマホが震えた。
美緒からだった。
〈今日のホームルーム、変じゃなかった?〉
〈変だった〉
〈相馬も変〉
〈それは思った〉
〈でも面白くない?〉
私は少し考えた。
〈別に〉
送信。
すぐ既読になる。
〈葵、相馬嫌い?〉
〈好きじゃない〉
〈まだ一週間だよ笑〉
〈美緒は好きなの?〉
送ってから後悔した。
既読。
返信が来ない。
一分。
二分。
五分。
問題集を開く。
一次関数でも二次関数でもない。
微分。
解ける。
私は問題を解いた。
スマホが震えた。
〈分かんない。でも気になる〉
胸の奥が少し痛んだ。
それが何なのか分からなかった。
〈そうなんだ〉
送信。
スマホを伏せた。
勉強を続けた。
午後十一時。
父がドアをノックした。
「まだやってるのか」
「うん」
「十二時までには寝ろよ」
「分かった」
「無理するな」
「うん」
優しい。
みんな優しい。
だから私は期待を裏切れない。
第二章 屋上の不正解
翌日の昼休み、美緒がいなくなった。
購買に行ったと思っていた。
十分経っても戻らない。
LINEを送る。
〈どこ?〉
既読にならない。
「佐倉なら屋上行ったよ」
クラスメートが言った。
「屋上?」
「相馬と」
私は立ち上がった。
自分でも驚くくらい勢いよく。
「葵、どうした?」
「別に」
弁当を置いたまま教室を出た。
屋上は通常立入禁止だ。
ただし扉の手前に小さな踊り場があり、そこまでは行ける。
階段を上る途中で声が聞こえた。
美緒だった。
「じゃあ本当に辞めたの?」
「うん」
相馬の声。
「高校?」
「前の学校」
「なんで?」
「合わなかった」
「それだけ?」
「それだけ」
「絶対嘘」
「なんで」
「それだけで高校辞めないでしょ」
「辞めるよ」
私は階段の途中で止まった。
盗み聞きしている。
戻ろうと思った。
そのとき相馬が言った。
「俺、人を殴ったんだよ」
足が止まった。
美緒も黙った。
「先生」
「え?」
「前の学校の先生、殴った」
「……マジ?」
「マジ」
「なんで?」
「それは秘密」
「退学?」
「自主退学」
「それで転校?」
「そう」
私はゆっくり後ろへ下がった。
踵が階段に当たる。
コツ、と音がした。
「誰?」
美緒の声。
逃げようと思った。
でも遅かった。
美緒が階段から顔を出す。
「葵?」
「……何してんの」
「こっちの台詞」
相馬も現れた。
「盗み聞き?」
「違う」
「聞いてた?」
「聞いてない」
「先生殴ったところから?」
「聞いてるじゃん」
相馬は笑った。
「最低」
「ごめん」
謝った。
すると相馬は少し驚いた顔をした。
「別にいいよ」
「でも」
「事実だし」
私は相馬を見る。
「本当に殴ったの?」
「うん」
「なんで?」
「美緒にも言ってない」
「だから?」
「言わない」
「先生殴るなんて最低じゃん」
言った瞬間、美緒が、
「葵」
と止めた。
でも遅かった。
相馬は怒らなかった。
「そうだね」
「理由があっても駄目でしょ」
「そうかもね」
「そうかもじゃなくて」
「じゃあ何が正解だった?」
「え?」
「殴らなければよかった?」
「当たり前でしょ」
「じゃあ、殴らずに見てればよかった?」
「何を」
相馬の表情から笑いが消えた。
「クラスのやつが、その先生に毎日馬鹿にされてた」
私は黙った。
「授業中、みんなの前で。お前は頭が悪い、お前みたいなのは大学に行けない、家も貧乏だからどうせろくな人生にならないって」
「……」
「そいつ、最初は笑ってたんだよ。みんなも笑ってた。俺も」
相馬は壁にもたれた。
「ある日、そいつが学校来なくなった」
「それで?」
「家行った」
「うん」
「手首切ってた」
美緒が息をのむ。
「死ななかったけど」
相馬は淡々と言った。
「次の日、先生に言った。謝ってくださいって」
「先生は?」
「冗談だったって」
相馬は笑った。
「本人も笑ってたんだから問題ないって」
「それで殴ったの?」
「うん」
「でも……」
私は言葉を探した。
「やっぱり殴るのは違うと思う」
「俺もそう思う」
意外な返事だった。
「じゃあ」
「でも、もう一回同じことが起きたら、また殴るかもしれない」
「矛盾してる」
「うん」
「それじゃ駄目じゃん」
「なんで?」
「正しくないから」
相馬は私を見る。
「藤野って、本当に正しいの好きだね」
胸に刺さった。
「悪い?」
「悪くない」
「じゃあ何」
「疲れない?」
何も言えなかった。
チャイムが鳴った。
美緒が、
「やば」
と言って階段を駆け下りた。
私も続こうとした。
「藤野」
相馬に呼び止められる。
「何」
「昨日の紙」
心臓が跳ねた。
「期待を裏切らないことって書いたの、藤野?」
「違う」
即答した。
「そっか」
「なんで私だと思ったの」
「なんとなく」
「違うから」
「分かった」
相馬は先に階段を下りた。
私は一人残った。
期待を裏切らないこと。
なぜあれを書いたのか。
初めて少しだけ分かった気がした。
私は、正しい人でいたいのではない。
たぶん。
誰にも嫌われない人でいたいのだ。
第三章 いい子
十七年間、私は「いい子」だった。
母によれば、赤ん坊のころから手がかからなかったらしい。
「葵は本当に育てやすかった」
親戚が集まるたび母は言う。
「夜泣きもしないし、人見知りもしないし」
幼稚園では先生の言うことをよく聞いた。
小学校では宿題を忘れなかった。
中学校では学級委員を三年間やった。
高校では遅刻ゼロ。
欠席ゼロ。
提出物忘れゼロ。
先生に怒られた記憶がほとんどない。
だから私は、怒られることに慣れていない。
嫌われることにも。
誰かの期待から外れることにも。
それは幸せなことだと思っていた。
九月二十日。
進路希望調査票が配られた。
第一志望。
第二志望。
第三志望。
学部学科。
私はペンを止めた。
第一志望には東京大学。
いつも通り。
問題は学部だった。
「まだ決めてない人は、とりあえずでいいからな」
担任ではなく進路担当の宮田先生が言った。
「ただし三年になってから急に変更すると大変だから、そろそろ考えること」
前の席の子が法学部と書いた。
斜め前は医学部。
美緒は芸術学部。
「決めたの?」
小声で聞いた。
「うん」
「美大行くの?」
「行きたい」
「初めて聞いた」
「初めて言った」
「親は?」
「まだ」
美緒は笑った。
「絶対反対される」
「じゃあどうするの」
「説得する」
「無理だったら?」
「それでも受ける」
迷いのない声だった。
「怖くない?」
「怖いよ」
「じゃあなんで」
「私の人生だから」
簡単に言った。
私の人生。
その言葉が妙に耳に残った。
「葵は?」
「東大」
「それは知ってる。何学部?」
「まだ」
「何したいの?」
また同じ質問。
相馬にも聞かれた。
「分かんない」
「じゃあさ」
美緒が言った。
「東大じゃなくてもよくない?」
心臓を指で押されたような感覚がした。
「なんで」
「だって、やりたいこと決まってないんでしょ」
「だからこそ東大なんじゃん」
「どういう意味?」
「選択肢が広がるから」
言った瞬間、相馬の声が頭の中で蘇った。
――誰が言った?
「それ、お父さんが言ってたやつ?」
私は美緒を見た。
「なんで知ってるの」
「前に葵が言ってた」
「そうだっけ」
「うん」
私は進路希望調査票に書いた。
〈東京大学 文科一類〉
父と同じだった。
紙を提出した瞬間、少し安心した。
正解を選んだ安心だった。
その夜。
父に進路希望の話をした。
「文一?」
「うん」
「いいんじゃないか」
父は嬉しそうだった。
「法曹も官僚もある。民間でも強い」
「うん」
「将来まだ決めてないなら、一番潰しが利く」
「そうだね」
「葵なら十分狙える」
母も、
「お父さんと同じね」
と言った。
兄は黙っていた。
夕食のあと、兄が私の部屋に来た。
「本当に文一?」
「うん」
「なんで?」
「何、その反応」
「いや」
兄はベッドに座った。
「お前、法律とか興味あったっけ」
「これから持つかもしれないじゃん」
「まあね」
「何が言いたいの」
「別に」
「じゃあ出てって」
「怒るなよ」
「怒ってない」
「怒ってる」
兄は立ち上がった。
ドアのところで振り返る。
「葵」
「何」
「俺みたいになるなよ」
「どういう意味?」
「そのまま」
「分かんない」
「ならいい」
兄は出ていった。
その夜、私は兄の名前を検索した。
藤野悠真。
東京大学。
検索結果には何も出なかった。
当たり前だ。
ただの大学生なのだから。
私は自分でも意味の分からないことをしていると思った。
十二時。
眠ろうとした。
でも眠れなかった。
廊下から音がする。
水を飲もうと思って部屋を出た。
兄の部屋から声がした。
電話している。
「だから辞めるって言ってる」
私は足を止めた。
「もう決めた」
小さな声。
「親にはまだ言ってない」
私は動けなかった。
「大学辞める」
聞き間違いではなかった。
兄は東大を辞めようとしていた。
第四章 兄の秘密
翌朝、兄はいつも通りだった。
「おはよ」
「……おはよう」
トーストを食べている。
母はコーヒーを淹れている。
父は新聞を読んでいる。
大学を辞める人の朝には見えなかった。
「今日、悠真遅いの?」
母が聞く。
「二限から」
「最近ちゃんと大学行ってる?」
「行ってるよ」
兄は嘘をついた。
私は兄を見る。
目が合う。
「何?」
「別に」
学校へ向かう電車の中でも考えた。
父に言うべきか。
母に言うべきか。
でも盗み聞きだ。
兄には兄の事情がある。
昼休み、美緒に相談しようと思った。
でも美緒は相馬と話していた。
最近、二人でいることが増えた。
私は席でパンを食べた。
「一人?」
前に誰かが座った。
相馬だった。
「美緒ならあっち」
「知ってる」
「じゃあ何」
「ここ空いてるから」
「他も空いてる」
「俺が嫌?」
「別に」
「便利な言葉だね、別に」
「うるさい」
相馬は焼きそばパンを開けた。
「機嫌悪い?」
「普通」
「普通って便利だね」
「何なの」
「相談ある?」
私は相馬を見る。
「なんで?」
「顔」
「どんな顔」
「相談したそうな顔」
「してない」
「じゃあいい」
黙って食べ始める。
私は迷った。
「友達がさ」
「うん」
「大学辞めようとしてる」
「友達?」
「そう」
「何歳?」
「二十」
「兄?」
「友達」
「へえ」
「……兄」
相馬が笑った。
「何」
「いや」
「笑わないで」
「ごめん」
「どうしたらいいと思う?」
「何が?」
「親に言ったほうがいいかな」
「なんで藤野が?」
「だって東大だよ」
「うん」
「辞めるなんてもったいないじゃん」
「本人は?」
「知らない」
「じゃあ聞けば」
「聞けない」
「なんで」
「盗み聞きしたから」
「また?」
「またって言わないで」
相馬は少し考えた。
「俺なら言わない」
「親に?」
「うん」
「でも手遅れになったら」
「何が手遅れ?」
「退学したら」
「それが本人の希望なら?」
「でも絶対後悔する」
「なんで分かる?」
「東大だよ?」
「東大辞めたら人生終わる?」
「そうじゃないけど」
「じゃあ何が問題?」
答えられない。
「もったいない」
「誰にとって?」
「本人に決まってる」
「本人がそう思ってないなら?」
私は黙った。
相馬はパンの袋を丸めた。
「藤野ってさ」
「何」
「他人の人生まで正解にしたいんだね」
「……何それ」
「悪い意味じゃなくて」
「悪い意味にしか聞こえない」
「じゃあ悪い意味」
「最低」
「ごめん」
「すぐ謝るよね」
「謝ったほうがいい場面だから」
「正しいから?」
「たぶん」
相馬が笑う。
私は腹が立った。
でも同時に、少しだけおかしかった。
「ねえ」
私は聞いた。
「相馬は大学行かないの?」
「分かんない」
「将来どうするの」
「分かんない」
「不安じゃない?」
「不安」
「なのに何で平気なの」
「平気じゃないよ」
相馬は窓の外を見る。
「でも分からないものを、分かったことにするほうが怖い」
その言葉だけは、しばらく残った。
放課後、私は吹奏楽部の前を通った。
フルートの音が聞こえた。
去年まで私が吹いていた曲だった。
ドビュッシー。
「葵?」
部室から後輩が出てきた。
「あ、久しぶり」
「どうしたんですか?」
「通っただけ」
「戻ってきたのかと思いました」
「まさか」
「戻ってくださいよ」
「受験あるから」
「まだ二年ですよ」
「二年だから」
私は笑った。
「じゃあね」
「先輩」
「何?」
「先輩のフルート、好きでした」
私は何も言えなかった。
「また吹いてください」
「うん」
嘘をついた。
帰宅すると父と兄がリビングにいた。
空気が違った。
母は泣いていた。
「葵、部屋行ってなさい」
父が言った。
私は立ち止まった。
「何?」
「いいから」
兄が私を見る。
「聞いた?」
「何を」
「俺、大学辞める」
父が机を叩いた。
「悠真!」
私はびくっとした。
父が怒鳴るところを久しぶりに見た。
「なんで」
私は兄に聞いた。
「やりたいことがある」
「何?」
「料理」
一瞬、意味が分からなかった。
「料理?」
「調理師になりたい」
父が笑った。
笑ったというより、息を吐いた。
「馬鹿馬鹿しい」
「本気だよ」
「大学卒業してからやればいい」
「四年無駄じゃん」
「東大卒という資格は一生残る」
「資格じゃない」
「同じようなものだ」
「俺にはいらない」
「今はそう思ってるだけだ!」
父の声が家に響いた。
「二十歳のお前に何が分かる!」
「じゃあ何歳になったら自分の人生決めていいんだよ」
「そういう話じゃない!」
「じゃあどういう話だよ!」
母が泣いている。
私は動けなかった。
兄が父を見る。
「父さんは俺が東大だから嬉しいだけだろ」
「違う」
「俺じゃなくて、東大生の息子が好きなんだよ」
「いい加減にしろ!」
父の手が上がった。
私は反射的に、
「やめて!」
と叫んだ。
父の手が止まった。
沈黙。
兄が笑った。
「ほら」
父を見る。
「正解から外れるとこれだ」
兄は家を出ていった。
ドアが閉まる。
母が追いかけようとした。
「放っておけ」
父が言った。
「頭を冷やせば戻ってくる」
私は父を見た。
いつも正しい父。
尊敬していた父。
今も間違っているとは思えなかった。
東大を辞めて料理人になる。
もったいない。
どう考えても、もったいない。
なのに。
兄の言葉も間違っているとは思えなかった。
私は初めて、二つの正解の間に立った。
第五章 正解裁判
翌日、兄は帰ってこなかった。
母によれば友人宅に泊まったらしい。
父は何も言わなかった。
朝食の食卓には空席が一つあった。
私は学校へ行った。
教室に入ると、黒板に大きな文字があった。
〈正解裁判〉
「何これ」
美緒が言った。
相馬が黒板を見ている。
三枝先生が入ってきた。
「席についてください」
ホームルームが始まる。
「来月、文化祭があります」
知っている。
「二年B組の企画がまだ決まっていません」
それも知っている。
「そこで提案があります」
三枝先生は黒板を指した。
「正解裁判をやりませんか」
教室がざわつく。
「何それ」
「裁判?」
「劇?」
「違います」
三枝先生は説明した。
来場者に「答えのない問い」を提示する。
賛成と反対に分かれて議論する。
最後に観客が投票する。
「例えば」
三枝先生が黒板に書いた。
〈親友がカンニングしているのを見た。先生に言うべきか〉
「密告じゃん」
「言わないでしょ」
「でも不公平」
「友達なくすよ」
すぐに声が上がった。
三枝先生は次を書く。
〈夢のためなら、安定した将来を捨ててもいいか〉
私は息を止めた。
兄の顔が浮かんだ。
さらに。
〈好きではない相手と、相手を傷つけないために付き合い続けるのは優しさか〉
〈一人を救うためなら、百人に迷惑をかけてもいいか〉
〈家族の期待を裏切っても、自分のしたいことを選ぶべきか〉
私は黒板を見つめた。
「先生」
手を挙げた。
「はい、藤野」
「これ、先生が考えたんですか」
「一部は」
「一部?」
「皆さんにも考えてもらいます」
紙が配られた。
〈あなたが答えを知りたい問いを書いてください〉
私はペンを持った。
今度は迷わなかった。
〈自分の幸せのためなら、家族を悲しませてもいいですか〉
書いた。
紙を折った。
名前は書かなかった。
集められた紙の中に、その問いは混ざった。
誰にも私のものだとは分からない。
それなのに、提出した瞬間、不思議な感覚がした。
誰にも言えなかったことを、初めて言葉にした気がした。
放課後。
「藤野」
三枝先生に呼び止められた。
「少しいいですか」
誰もいない教室。
夕陽が机を赤くしている。
「文化祭の実行委員をお願いしたいんですが」
「私?」
「はい」
「なんで」
「向いていると思うからです」
「美緒とかのほうが」
「佐倉さんにも頼みます」
「相馬は?」
「彼にも」
「三人?」
「三人」
「なんでその三人なんですか」
三枝先生は少し笑った。
「一番、正解について悩んでいそうだから」
私は先生を見る。
「先生」
「はい」
「正解ってあると思いますか」
「ありますよ」
意外だった。
「あるんですか」
「一足す一は二です」
「そういうことじゃなくて」
「人を傷つけてはいけない。それも正解でしょう」
「でも相馬は人を殴った」
「そうですね」
「友達を守るために」
「はい」
「じゃあ、それは正解ですか、不正解ですか」
三枝先生は答えなかった。
「先生なのに分からないんですか」
「教師は答えを全部知っている人ではありません」
「じゃあ何なんですか」
「問いを渡す人です」
「ずるい」
「そうですね」
先生は笑った。
「大人はずるいんです」
「認めるんだ」
「藤野さん」
「はい」
「正解を選ぶことと、後悔しないことは同じだと思いますか」
「……分かりません」
「私も分かりません」
先生は鞄を持った。
「だから文化祭までに考えてみてください」
「先生」
「はい」
「もし」
私は言いかけた。
「もし?」
「家族が反対しても、やりたいことをやっていいと思いますか」
三枝先生は私を見た。
少し長い沈黙だった。
「誰の話ですか」
「友達」
「お兄さん?」
「なんでみんな分かるんですか」
三枝先生が笑った。
「藤野さんは嘘が下手だから」
「最悪」
「いいことです」
「先生ならどうします?」
「決めません」
「逃げた」
「違います」
三枝先生は言った。
「他人の人生の答えを決めない。それだけは、私が教師として決めていることです」
私はその言葉を理解できなかった。
でも、なぜか覚えておこうと思った。
その夜、兄からLINEが来た。
〈葵〉
〈何〉
〈父さん怒ってる?〉
〈めちゃくちゃ〉
〈だよな〉
〈帰ってくれば〉
〈まだ無理〉
〈お母さん泣いてる〉
既読。
返信が来ない。
私はもう一度送った。
〈本当に大学辞めるの?〉
〈辞める〉
〈後悔しない?〉
しばらくして返信。
〈するかも〉
私は画面を見る。
〈するかもしれないのに辞めるの?〉
〈うん〉
〈意味分かんない〉
返信。
〈葵は後悔しない人生にしたい?〉
〈当たり前じゃん〉
〈無理だよ〉
腹が立った。
〈なんで〉
〈何を選んでも、選ばなかったほうを想像するから〉
私は返せなかった。
兄から続けて届いた。
〈だから俺は、後悔しても自分で選んだって言えるほうにする〉
スマホを置いた。
机の上には東大の赤本があった。
兄が二年前に使ったもの。
父が私のために取っておいた。
表紙に兄の字で書いてある。
〈絶対合格〉
その文字を見ながら、私は初めて考えた。
東京大学に行かなかった自分を。
想像できなかった。
怖かった。
そしてもっと怖かったのは、
東京大学に行きたい自分も、
うまく想像できなかったことだった。
第六章 好きという不正解
文化祭実行委員の最初の集まりは、三人とも乗り気ではなかった。
「なんで俺」
相馬が言った。
「先生に聞いて」
私が答える。
「葵はやるんでしょ」
美緒が言う。
「頼まれたから」
「それ、やりたいって意味?」
「違う」
「じゃあ断れば?」
「別に嫌じゃないから」
相馬が笑った。
「出た、別に」
「うるさい」
三人で放課後の教室に残った。
文化祭まで一か月。
企画名は仮に「正解裁判」。
「まず問いを選ぶ」
私は三枝先生から預かった紙の束を机に置いた。
「クラス全員から集めたやつ」
「何枚?」
「三十四」
「全員出したんだ」
「匿名だからね」
美緒が一枚ずつ読む。
「友達の秘密を守るためなら嘘をついてもいい?」
「普通」
相馬。
「普通で悪い?」
私。
「悪くない」
次。
「努力しても才能がないなら諦めるべき?」
「重い」
「いいじゃん」
「次」
「親に言えない恋愛はやめるべき?」
美緒の手が止まった。
「これいい」
「なんで?」
「面白そう」
「美緒が書いた?」
「違う」
「本当?」
「本当」
相馬が美緒を見る。
美緒も相馬を見る。
私はなぜか紙を取り上げた。
「次」
「何で飛ばすの」
「時間ないから」
相馬が笑う。
「藤野、分かりやすい」
「何が」
「別に」
「真似しないで」
紙をめくる。
〈自分の幸せのためなら、家族を悲しませてもいいですか〉
私の問いだった。
三人とも黙った。
「これ」
相馬が言う。
「いいんじゃない」
「重くない?」
「だからいい」
美緒も頷く。
「これ文化祭でやろうよ」
「……うん」
自分で書いた問いなのに、怖くなった。
答えを聞きたい。
でも聞きたくない。
「じゃあ一つ目はこれ」
私はノートに書いた。
そのとき美緒が言った。
「私、親に美大行きたいって言った」
「え」
「昨日」
「どうだった?」
「反対された」
笑っていた。
「お父さんに、絵で食べていける人なんて一握りだって」
「それは……」
正論だと思った。
でも言えなかった。
「お母さんには、趣味にしておけばって」
「美緒は?」
「受けるよ」
「反対されても?」
「うん」
「学費出してもらえなかったら?」
「奨学金」
「そんな簡単じゃないよ」
「分かってる」
「卒業して仕事なかったら?」
「分かってるって」
美緒の声が少し強くなった。
「葵は反対?」
「反対じゃないけど」
「けど?」
「心配」
「ありがとう」
「本当に分かってる?」
「何が?」
「美大出ても就職できるとは限らないし」
「葵」
美緒が私を見る。
「今、それ言ってほしくない」
私は黙った。
「ごめん」
「うん」
気まずい沈黙。
相馬が立ち上がった。
「飲み物買ってくる」
教室を出ていく。
美緒は窓の外を見た。
「葵ってさ」
「何」
「私が失敗したら嫌?」
「当たり前じゃん」
「なんで?」
「友達だから」
「じゃあ成功するかもしれないことは?」
「え?」
「そっちは考えない?」
「考えるけど」
「葵が言うのって、いつも失敗する可能性ばっかりだよね」
胸が痛かった。
「心配だから」
「うん。分かってる」
「じゃあ」
「でも、心配されすぎると」
美緒は言った。
「信じてもらえてないみたい」
私は何も言えなかった。
相馬が戻ってきた。
缶ジュースを三本持っている。
「はい」
「頼んでない」
「奢り」
美緒にはミルクティー。
私にはレモンティー。
「なんで好み知ってるの」
「美緒に聞いた」
また胸がざわついた。
「ありがとう」
美緒が笑う。
相馬も笑った。
二人の間に、私の知らない時間がある。
その事実が嫌だった。
そのとき初めて認めた。
私は相馬が嫌いなのではない。
美緒を取られるのが嫌なのだ。
友情にも独占欲がある。
そんなこと、教科書には書いていなかった。
第七章 親友の告白
文化祭まで三週間。
美緒に呼び出された。
放課後の美術室だった。
「葵に言っておきたいことがある」
「何?」
「私」
美緒は何度も息を吸った。
「相馬のこと好き」
知っていた。
たぶん。
それでも実際に言われると違った。
「そうなんだ」
「うん」
「付き合ってるの?」
「まだ」
「告白する?」
「した」
「え?」
「昨日」
「どうだった?」
「返事待ってって」
「そっか」
私は笑った。
ちゃんと笑えたと思う。
「応援してる」
「ありがとう」
美緒が抱きついてきた。
「葵に言うの怖かった」
「なんで」
「分かんない」
「私、そんな怖い?」
「違う」
美緒は離れた。
「葵も相馬のこと好きなのかなって」
時間が止まった気がした。
「は?」
「違う?」
「違うよ」
即答。
「絶対違う」
「ならよかった」
「なんで私があいつを」
「結構話してるじゃん」
「実行委員だから」
「喧嘩もするし」
「嫌いだから」
「好きと嫌いって近いって言うよ」
「古い」
美緒は笑った。
私も笑った。
でも胸の奥に小さな棘が残った。
私は相馬が好きなのか。
考えた。
違う。
たぶん。
では、なぜ美緒が相馬を好きだと聞いて苦しいのか。
親友を取られるから。
それだけだ。
そういうことにした。
帰り道。
駅で相馬に会った。
「美緒から聞いた?」
相馬が言った。
「何を」
「告白」
「……聞いた」
「そっか」
「返事するの?」
「するよ」
「いつ」
「明日」
「どうするの」
「それ言う?」
「別にいいじゃん」
「藤野には関係ない」
その通りだった。
腹が立った。
「美緒を傷つけたら許さないから」
「何それ」
「親友だから」
「じゃあ好きじゃなくても付き合えって?」
「そういう意味じゃない」
「断ったら傷つくだろ」
「それは……」
「じゃあどうすれば正解?」
また正解。
「自分で考えれば」
「そうする」
相馬は歩き出した。
「相馬」
「何」
「美緒のこと嫌い?」
「嫌いじゃない」
「じゃあ好き?」
「好きだよ」
「じゃあ」
「友達として」
私はなぜか安心した。
そして、その安心に気づいて愕然とした。
「藤野」
「何」
「今、安心した?」
「してない」
「した顔だった」
「してない」
「そっか」
相馬は笑った。
私は自分が嫌になった。
翌日。
美緒は学校を休んだ。
相馬はいつも通り登校した。
昼休み。
「断った?」
私は聞いた。
「うん」
「昨日?」
「うん」
「それで休んだんじゃん」
「そうかも」
「最低」
「じゃあどうすればよかった?」
「もうそれやめて」
「何」
「何が正解って聞くの」
「聞いてない」
「同じじゃん」
相馬は黙った。
「美緒、泣いた?」
「少し」
「最低」
「それ二回目」
「だって」
「俺が付き合えばよかった?」
「そうじゃない」
「じゃあどうすればよかった?」
「だから!」
私は声を上げた。
クラスの何人かがこちらを見る。
声を落とす。
「分かんないよ」
「俺も分かんない」
相馬は言った。
「だから、好きじゃないのに好きって言うより、傷つけても本当のこと言うほうを選んだ」
「美緒は傷ついた」
「うん」
「それでいいの?」
「よくない」
「じゃあ」
「よくないことしか選べないときもあるだろ」
私は黙った。
相馬は教室を出た。
私は追わなかった。
その日の夜、美緒から電話が来た。
「ごめん、今日休んだ」
「大丈夫?」
「全然」
笑っていた。
でも泣いた声だった。
「相馬から聞いた?」
「うん」
「振られました」
「……うん」
「人生初失恋」
「うん」
「もっと慰めてよ」
「何て言えばいいか分かんない」
「相馬最低って言って」
「相馬最低」
「棒読み」
「相馬は最低」
「もっと」
「世界最低」
「ありがとう」
美緒が笑った。
しばらく沈黙。
「ねえ葵」
「何」
「相馬、好き?」
「またそれ?」
「ちゃんと答えて」
「好きじゃない」
「本当?」
「本当」
「じゃあもし好きになっても」
美緒は言った。
「私に遠慮しないでね」
「ならないから」
「もしもの話」
「分かった」
「約束」
「うん」
電話を切った。
私はベッドに横になった。
天井を見る。
親友が好きだった人を好きになる。
それは正しいのか。
間違っているのか。
そんな問いを考えている時点で、
私はもう答えを知っていたのかもしれない。
私は相馬蓮が気になっていた。
そして、その事実を、
誰よりも自分自身に知られたくなかった。
第八章 文化祭まで十八日
兄が家を出た。
正式に。
大学は休学した。
退学ではなかった。
「一年だけ待つ」
父との妥協だった。
兄は調理師学校への入学準備を始めた。
同時にレストランでアルバイトをするらしい。
母はまだ納得していない。
父もほとんど口をきかない。
家族四人だった食卓は三人になった。
空席を見るたび、私は兄の問いを思い出した。
――後悔しない人生にしたい?
もちろん、そうしたい。
でも最近、後悔しないことが人生の目的なのか分からなくなってきた。
文化祭の準備は進んだ。
正解裁判で扱う問いは五つに絞った。
〈自分の幸せのためなら、家族を悲しませてもいいか〉
〈親友を傷つける真実と、親友を守る嘘なら、どちらを選ぶか〉
〈才能がないと分かっていても、夢を追い続けるべきか〉
〈嫌いな人がいじめられていたら助けるべきか〉
〈大切な人のためなら、ルールを破ってもいいか〉
「最後のやつ、相馬じゃん」
美緒が言った。
「俺?」
「先生殴ったやつ」
「ああ」
美緒は失恋から一週間で、表面上は元に戻っていた。
相馬とも普通に話している。
強いと思った。
私なら無理だ。
「相馬はルール破っていい派?」
「場合による」
「ずる」
「何でも場合によるだろ」
「葵は?」
「破らない」
「絶対?」
「絶対とは言わないけど」
「じゃあ場合によるじゃん」
「……そうだね」
三人で笑った。
以前なら笑えなかったと思う。
正解が曖昧になることが怖かった。
今は少しだけ面白い。
準備が終わったのは午後七時だった。
美緒は美術予備校があるため先に帰った。
教室には私と相馬だけが残った。
「帰る?」
「これ終わったら」
「手伝う」
「いい」
「二人なら早い」
模造紙を切る。
相馬が定規を押さえ、私がカッターを動かす。
「曲がってる」
「相馬が定規動かすから」
「動かしてない」
「動いた」
「人のせい」
「事実」
「正解?」
「正解」
笑った。
静かな教室。
外はもう暗い。
「藤野」
「何」
「最近、変わったね」
「どこが」
「前より笑う」
「前から笑ってる」
「俺といるとき」
手が止まった。
「何それ」
「事実」
「自意識過剰」
「正解?」
「不正解」
「じゃあよかった」
また笑う。
胸が苦しくなる。
美緒の顔が浮かんだ。
私はカッターを置いた。
「帰る」
「急だな」
「疲れた」
「送る」
「いい」
「駅まで同じ」
「なら勝手に」
二人で学校を出た。
秋の夜だった。
風が少し冷たい。
「藤野」
「何」
「俺、前の学校で」
相馬が言った。
「先生殴った話しただろ」
「うん」
「あれ、全部じゃない」
「何が?」
「友達が手首切ったって言ったけど」
「うん」
「そいつ、俺の弟」
私は足を止めた。
「弟?」
「一個下」
「同じ高校だったの?」
「中高一貫」
「今は?」
「学校辞めた」
「……そうなんだ」
「家からあんまり出ない」
「それで転校したの?」
「俺がいると、あいつが思い出すから」
「何を」
「学校のこと」
相馬は前を向いたまま歩く。
「俺が先生殴ったせいで、弟のこと学校中に広まった。手首切ったことも」
「でも」
「守ったつもりだった」
相馬が笑った。
「結果、もっと傷つけた」
私は何も言えなかった。
「だから分かんないんだよ」
「何が」
「正しいことしたのか」
駅の明かりが見えた。
「相馬」
「うん」
「弟は何て言ってるの」
「俺と話さない」
「そっか」
「一年くらい」
「そっか」
「だから」
相馬は言った。
「誰かのためにやったことって、一番厄介なんだよ」
「なんで」
「間違ってても、自分は正しかったって思いたくなるから」
私は父を思い出した。
兄を思い出した。
そして自分を思い出した。
美緒を心配して、美大なんて危ないと言った自分。
「心配だから」
「うん」
「あなたのためだから」
「うん」
「失敗してほしくないから」
「うん」
全部、優しさだと思っていた。
でも優しさは、ときどき相手から選ぶ権利を奪う。
「難しいね」
私は言った。
「何が」
「人間」
「でかい話になったな」
二人で笑った。
改札の前。
「じゃあ明日」
「うん」
相馬が行こうとする。
「相馬」
「何」
「私は」
言葉が出そうになった。
好き。
その二文字。
でも美緒の顔が浮かぶ。
「何?」
「……何でもない」
「そっか」
相馬は帰った。
私は改札の前に一人残った。
言わなかった。
正しい判断だったと思った。
親友を傷つけないために。
でも電車の窓に映る自分は、
なぜか少し泣きそうな顔をしていた。
第九章 投票
文化祭当日。
正解裁判の教室には、予想以上の人が集まった。
高校生。
中学生。
保護者。
卒業生。
問いを一つ提示するたび、観客は二つに分かれる。
「友達のカンニングを先生に言う?」
言う四十二。
言わない五十八。
「夢のためなら安定を捨てる?」
捨てる六十一。
捨てない三十九。
数字になると正解があるように見える。
でも六十一対三十九だからといって、六十一が正しいわけではない。
最後の問いになった。
私が書いたもの。
〈自分の幸せのためなら、家族を悲しませてもいいか〉
教室が静かになった。
私は司会だった。
「『いい』と思う方は青、『いけない』と思う方は赤のカードを上げてください」
カードが上がる。
青。
赤。
青。
赤。
集計。
「青、四十八」
美緒が数える。
「赤、五十二」
ほぼ半分だった。
私はその数字を黒板に書いた。
四十八対五十二。
「では理由を聞きます」
最初に手を挙げたのは中学生くらいの女の子だった。
「家族でも他人だから、自分の人生を決める権利はないと思います」
青。
次は父親くらいの男性。
「家族は本人のためを思って反対することもある。自分だけ幸せならいい、という考え方は違うと思う」
赤。
高校生。
「悲しませてもいいと思う。でも、その結果家族と縁が切れても受け入れる覚悟が必要」
青。
母親。
「親になれば分かると思います。子どもが失敗する道に行こうとしていたら止めたい」
赤。
私は聞いていた。
どれも正しい。
どれも間違っている。
最後に三枝先生が後ろから言った。
「司会者はどう思いますか」
「え?」
「藤野さん」
全員が私を見る。
「私は……」
逃げたかった。
でも文化祭の教室に、父がいることに気づいた。
母もいた。
そして後ろに兄がいた。
いつ来たのか分からなかった。
三人とも私を見ている。
「私は」
声が震えた。
「前まで、家族を悲しませるのは駄目だと思っていました」
父の顔を見る。
「今も、できれば悲しませたくありません」
兄を見る。
「でも」
言葉を探す。
「誰かを悲しませないことを人生の一番上に置いたら、その人がいなくなるまで、自分の人生を始められない気がします」
教室は静かだった。
「だから」
私は青いカードを持った。
「私は、悲しませてもいいと思います」
父の表情が変わった。
「ただ」
続ける。
「悲しませていい、じゃなくて……悲しませてしまうことがあっても、自分で選ぶしかない、だと思います」
自分でも何を言っているのか分からなくなった。
「そのかわり、失敗したときに『親が反対したから』とか、『誰かに言われたから』って言わない。成功しても失敗しても、自分で引き受ける」
兄が笑った。
父は笑わなかった。
「それが今の私の答えです」
拍手が起きた。
私は驚いた。
拍手されるようなことを言ったつもりはなかった。
相馬が教室の端にいた。
目が合った。
親指を立てた。
私は少し笑った。
文化祭終了後。
父が私を待っていた。
「葵」
「うん」
「さっきの話」
「うん」
「悠真のことか」
「それだけじゃない」
「そうか」
父はしばらく黙った。
「お父さん」
「何だ」
「私、東大行かないかもしれない」
初めて口にした。
自分でも驚いた。
父の顔が固まった。
「どういう意味だ」
「まだ分かんない」
「じゃあ何でそんなこと」
「分からないから」
「葵」
「私、何したいか考えたい」
「東大に行ってから考えればいい」
いつもの答え。
「それも一つだと思う」
「なら」
「でも、それ以外も考えたい」
「何を?」
「分かんない」
「分からないことのために可能性を捨てるのか」
「捨てるかどうかもまだ決めてない」
「じゃあ何を言いたいんだ」
私は父を見る。
「自分で決めたい」
父は黙った。
私は怖かった。
父に失望されたくない。
嫌われたくない。
でも言った。
「私、お父さんの正解じゃなくて、自分の正解を探したい」
父は何も答えなかった。
そのまま帰った。
私は泣きそうだった。
「藤野」
相馬が来た。
「大丈夫?」
「聞いてた?」
「ちょっと」
「盗み聞き」
「お互い様」
私は笑った。
涙が出た。
「何で泣くの」
「分かんない」
「正しいこと言ったのに?」
「正しいか分かんない」
「じゃあいいじゃん」
「何が」
「分かんないって言えたから」
相馬が隣に立った。
「それ、結構すごいよ」
私は涙を拭いた。
「相馬」
「うん」
「私」
また言葉が出かかった。
好き。
でも止めた。
「やっぱり何でもない」
「また?」
「うん」
「藤野」
「何」
「それ、いつまで続ける?」
「何が」
「何でもないってやつ」
相馬は私を見る。
逃げられなかった。
「俺は」
相馬が言った。
「藤野のこと好きだよ」
世界が止まった。
文化祭の片付けの音だけが遠くで聞こえる。
「……何で」
「何でって?」
「美緒は」
「美緒には言った」
「何を」
「藤野が好きだって」
「いつ?」
「告白断ったとき」
「え?」
頭が追いつかない。
「美緒、知ってるの?」
「うん」
「私だけ知らなかった?」
「たぶん」
「最低」
「ごめん」
「なんで謝るの」
「怒ってるから」
「怒ってるよ」
「じゃあ正解」
「何が」
「謝ったこと」
私は笑った。
泣きながら笑った。
「返事は?」
「待って」
「どのくらい?」
「分かんない」
「分かった」
「怒らないの?」
「何で」
「好きって言われて待たせるの」
「藤野が決めることだから」
その言葉が妙に嬉しかった。
「じゃあ待って」
「うん」
「ちゃんと考える」
「うん」
「美緒のことも」
「うん」
「自分のことも」
「うん」
相馬はそれ以上何も言わなかった。
私たちは並んで、誰もいなくなった教室を見た。
黒板にはまだ数字が残っている。
四十八対五十二。
正解は決まらなかった。
それでよかった。
たぶん私たちは、
答えを出すために問いを持つのではない。
問いを持ったまま、
誰かと話すために生きているのかもしれない。
でもそのときの私はまだ知らなかった。
文化祭の翌週、
三枝先生が学校からいなくなることを。
そして先生が最後に私たちへ残した問いが、
私たち三人の関係だけでなく、
クラス全員を二つに割ることになることを。
その問いは、たった一行だった。
〈正しいことをした人が誰かを死なせたとき、その人は間違っていたと言えるのか〉
私たちの「正解裁判」は、
まだ終わっていなかった。
第二部 正しさの代償
第十章 先生がいない
文化祭の翌日は月曜日だった。
三枝先生は来なかった。
一時間目の現代文が始まる五分前、教室に入ってきたのは学年主任の高瀬先生だった。
「三枝先生は本日お休みです」
それだけなら、誰も気にしなかったと思う。
教師だって風邪をひく。
体調を崩す。
家庭の事情もある。
でも高瀬先生は続けた。
「しばらく私が二年B組の担任を代行します」
教室がざわついた。
「しばらくって?」
誰かが聞いた。
「どのくらいですか」
「まだ分かりません」
「病気?」
「個人的な事情については話せません」
「昨日まで普通だったじゃん」
「そうですね」
「文化祭のせい?」
「関係ありません」
高瀬先生の答えは早かった。
早すぎる気がした。
私は美緒を見る。
美緒も私を見ていた。
相馬だけは窓の外を見ていた。
「では、今日は自習にします」
プリントが配られた。
夏目漱石の文章だった。
誰も集中していない。
LINEのクラスグループが動き続けている。
〈三枝どうした〉
〈昨日なんかあった?〉
〈正解裁判まずかった?〉
〈保護者からクレームとか?〉
〈あれ結構攻めてたし〉
〈家族悲しませてもいいとか教育的にどうなの笑〉
私はスマホを伏せた。
昨日。
三枝先生は最後まで学校にいた。
文化祭の片付けもしていた。
私が父と話しているところも見ていた。
「お疲れさま」
帰るとき、そう言われた。
「先生」
「はい」
「正解裁判、やってよかったですか」
「藤野さんはどう思いますか」
「また質問で返す」
「教師ですから」
「ずるい」
「大人ですから」
先生は笑った。
それが最後だった。
少なくとも、その時点では。
二時間目の休み時間。
「ねえ」
美緒が私の席に来た。
「絶対何かあるよね」
「うん」
「相馬」
美緒が呼ぶ。
相馬は本から顔を上げた。
「何」
「三枝先生」
「知らない」
「昨日何か話した?」
「話してない」
「葵は?」
「ちょっと」
「何て?」
「正解裁判やってよかったかって」
「先生は?」
「私に聞き返した」
「いつものやつ」
「うん」
相馬が本を閉じた。
「一つ気になる」
「何?」
「黒板」
私たちは黒板を見る。
何もない。
「昨日の最後」
相馬が言う。
「俺たち片付け終わったあと、三枝先生、一人で教室に戻ってきた」
「見たの?」
「忘れ物して戻ったとき」
「何してた?」
「黒板に何か書いてた」
私は息を止めた。
「何て?」
「見えなかった」
「消したの?」
「俺が入ったら消した」
「なんで?」
「知らない」
その日の放課後。
私は教卓の引き出しを開けた。
「葵、それ駄目じゃない?」
美緒が言う。
「分かってる」
「じゃあやめなよ」
「でも気になる」
「相馬に影響されてる」
「何で俺」
相馬は教室の後ろにいた。
引き出しにはチョーク、赤ペン、名簿。
何もない。
「ほら」
美緒が言う。
「帰ろ」
「待って」
教卓の奥に紙が挟まっていた。
折りたたまれたコピー用紙。
「何それ」
「分かんない」
開く。
手書きだった。
三枝先生の字。
一行だけ。
〈正しいことをした人が誰かを死なせたとき、その人は間違っていたと言えるのか〉
三人とも黙った。
「何これ」
美緒が言った。
相馬が紙を取る。
「先生が書いた?」
「たぶん」
「何でこんなの」
「分かんない」
「昨日書いてたの、これかな」
相馬が呟いた。
私は紙を見つめた。
誰かを死なせた。
比喩には見えなかった。
「三枝先生」
私は言った。
「誰か死なせたのかな」
美緒が、
「やめてよ」
と小さく言った。
「そんなわけないじゃん」
「でも」
「考えすぎ」
「じゃあ何でこんなの書くの」
「授業で使うつもりだったとか」
「それなら隠さない」
「隠したとは限らないでしょ」
相馬が紙を折った。
「調べる?」
「何を」
「三枝先生」
「どうやって」
「ネット」
「出てくる?」
「分かんない」
私たちは図書室へ行った。
検索する。
〈三枝 高校教師〉
大量に出る。
下の名前を入れる。
〈三枝直人 教師〉
ほとんど何もない。
「学校名入れたら?」
美緒が言う。
検索。
現在の学校の記事ばかり。
文化祭。
学校案内。
昔の広報誌。
「前の学校知らない?」
「知らない」
「先生の経歴、学校のサイトにないかな」
調べる。
大学卒業後、県内私立高校勤務。
その後、現在の高校。
「県内私立ってどこ」
「いっぱいある」
相馬が別の検索をしていた。
「これ」
画面を見せる。
七年前の記事だった。
小さな地方ニュース。
〈高校二年男子生徒、校舎から転落し死亡〉
「何これ」
「三枝先生の前の学校かもしれない」
「何で?」
「学校名」
相馬が別のページを見せる。
七年前の学校広報。
教員紹介。
そこに若い三枝先生の写真があった。
「……いた」
私は記事を読む。
十七歳。
高校二年生。
放課後、校舎四階から転落。
警察は事故と自殺の両面から調査。
遺書は見つからなかった。
「これだけ?」
「うん」
「三枝先生と関係あるとは限らないじゃん」
美緒が言う。
その通りだった。
同じ学校にいただけ。
「名前」
私は言った。
「亡くなった生徒の」
記事には出ていない。
未成年だからだろう。
さらに検索した。
学校名。
死亡。
教師。
七年前。
すると古い掲示板が出た。
〈あの学校、先生の指導が原因らしい〉
〈担任が進路のことで追い詰めたって聞いた〉
〈違う。家庭の問題〉
〈亡くなった子、成績良かったよ〉
〈東大志望だったらしい〉
私は手を止めた。
「東大」
美緒が私を見る。
胸がざわついた。
もちろん私とは関係ない。
七年前。
知らない生徒。
知らない学校。
でも十七歳。
高校二年。
成績が良くて。
東大を目指していた。
「これ以上やめない?」
美緒が言った。
「なんか嫌」
私もそう思った。
でも相馬は画面を見続けていた。
「これ」
「まだある?」
「三枝先生の名前」
掲示板の書き込み。
〈担任、三枝って先生だったらしい〉
時間が止まった。
「本当か分かんないよ」
美緒がすぐ言った。
「匿名掲示板だし」
「うん」
「デマかもしれない」
「分かってる」
でも私は、あの問いを思い出していた。
〈正しいことをした人が誰かを死なせたとき、その人は間違っていたと言えるのか〉
その紙を三枝先生は文化祭の翌日に残した。
そして学校に来なくなった。
第十一章 七年前の十七歳
調べないと決めた。
その日の帰り道、三人でそう決めた。
「先生の過去だし」
美緒が言った。
「勝手に調べるのよくない」
「うん」
私も答えた。
相馬も、
「分かった」
と言った。
翌日、私は一人で調べた。
自分でも最低だと思った。
でも気になった。
図書館で七年前の新聞を検索した。
九月十七日。
〈高校生が校舎から転落、死亡〉
名前は伏せられている。
翌日の記事。
〈学校「いじめ確認されず」〉
三日後。
〈遺族、学校に調査要求〉
私は記事を読む。
遺族は学校側に「教員による過度な進路指導があった」と訴えていた。
学校側は、
〈通常の教育指導の範囲内〉
と回答。
さらに一週間後。
〈第三者委員会設置へ〉
その後の記事が見つからない。
「何してるの」
後ろから声がした。
振り向く。
相馬だった。
「何でいるの」
「藤野が図書館入るの見えた」
「ストーカー」
「それはこっちの台詞」
画面を見られた。
「あ」
「……ごめん」
「約束したよね」
「相馬も調べた?」
沈黙。
「調べたんだ」
「少し」
「人のこと言えないじゃん」
「うん」
二人で笑った。
笑っていいことではないのに。
「名前分かった」
相馬が言った。
「誰の」
「亡くなった生徒」
「どうやって?」
「昔の学校新聞」
スマホを見せる。
死亡事故の半年前の記事。
〈全国模試優秀者 柴崎航平さん〉
写真がある。
眼鏡をかけた男子生徒。
笑っている。
十七歳。
「柴崎航平」
私は名前を読む。
「第一志望、東京大学文科一類」
相馬が言った。
私と同じだった。
「偶然だよ」
「うん」
「先生のこと、何か書いてあった?」
「これ」
別の記事。
〈二年生進路講演会〉
担当教員として三枝直人の名前。
記事には三枝先生の言葉が載っていた。
〈進路は偏差値だけで決めるものではない。自分が何をしたいのかを考えてほしい〉
「今と同じ」
「うん」
私は少し安心した。
追い詰めるような先生には見えない。
「でも」
相馬が言った。
「これも見つけた」
第三者委員会の報告書についての記事。
〈生徒への指導に不適切な点は認められなかった〉
私は息を吐いた。
「じゃあ三枝先生悪くないじゃん」
「学校の調査では」
「第三者委員会でしょ」
「うん」
「なら」
「遺族は納得しなかった」
「なんで」
「航平の母親がインタビュー受けてる」
記事。
〈息子は担任の先生を信頼していました。だからこそ、その言葉を重く受け止めたのだと思います〉
意味が分からなかった。
「何を言われたの?」
「記事にはない」
「じゃあ」
「もう一つある」
地域紙。
小さな記事だった。
母親の証言。
〈息子は亡くなる前夜、「先生に東大を受けるなと言われた」と話していました〉
私は画面を見た。
「受けるな?」
「うん」
「何で」
「分からない」
「成績良かったんでしょ」
「そうみたい」
「じゃあ何で」
相馬は答えない。
そのとき、背後から声がした。
「何をしているんですか」
振り返る。
三枝先生だった。
私は椅子から立ち上がった。
「先生」
「こんにちは」
いつも通りの声。
「学校は?」
「休んでいます」
「なんでここに」
「本を返しに」
先生は私たちの画面を見る。
柴崎航平の記事。
隠しても遅かった。
「調べたんですね」
「ごめんなさい」
私はすぐ謝った。
「謝る必要はありません」
「でも」
「公開されている記事です」
先生は椅子を引いた。
「座ってもいいですか」
私たちは頷いた。
三枝先生が向かいに座る。
「先生」
相馬が聞いた。
「柴崎航平って生徒、先生のクラスだったんですか」
「はい」
「担任?」
「はい」
「先生のせいで死んだんですか」
「相馬」
私は止めた。
「いいんです」
三枝先生は言った。
しばらく黙った。
「分かりません」
「分からない?」
「七年間考えました。でも分かりません」
「何があったんですか」
先生は窓の外を見る。
図書館の向こうに公園がある。
小さな子どもが走っていた。
「柴崎は優秀な生徒でした」
「東大志望」
「そうです」
「文一」
「はい」
私を見る。
「藤野さんと同じですね」
「はい」
「ただ、彼には別にやりたいことがありました」
「何?」
「音楽です」
胸がざわついた。
「ピアノをやっていました」
「音大?」
「行きたがっていました」
「親が反対?」
「はい」
私は兄を思い出した。
そして自分を。
「私は彼に言いました」
三枝先生の声が低くなる。
「東大を受けなくてもいいんじゃないか、と」
「それだけ?」
「それだけです」
「じゃあ先生悪くないじゃん」
私は言った。
三枝先生は私を見る。
「そう思いますか」
「だって本人は音楽やりたかったんでしょ」
「はい」
「先生は背中押しただけじゃん」
「そうです」
「それで何で」
「翌日、彼は亡くなりました」
沈黙。
「遺書はありませんでした」
「じゃあ関係ないかもしれない」
「そうかもしれません」
「事故かもしれない」
「そうかもしれません」
「なら先生のせいじゃない」
「そうかもしれません」
先生は全部否定しなかった。
「でも」
先生は言った。
「亡くなる前夜、彼は母親にこう言ったそうです」
私は息を止めた。
「先生に東大を受けなくていいと言われた。自分は先生にも見放された、と」
「違うじゃん」
私は思わず言った。
「先生、そういう意味じゃないでしょ」
「はい」
「音楽やっていいって意味でしょ」
「はい」
「じゃあ航平くんが勘違いしたんじゃん」
言ってから気づいた。
死んだ人を責める言葉になった。
三枝先生は怒らなかった。
「そうかもしれません」
「先生」
「でも藤野さん」
「はい」
「人に言葉を渡すということは、意味まで決められることではないんです」
私は黙った。
「私は正しいことを言ったつもりでした」
先生は言う。
「今でも、進路指導として間違っていたとは思っていません」
「なら」
「でも」
先生の声が少し震えた。
「正しい言葉で人が救われるとは限らない」
図書館は静かだった。
「正しい言葉が、人を傷つけることもある」
相馬が先生を見る。
「それで学校辞めるんですか」
「まだ辞めていません」
「休んでるだけ?」
「はい」
「なんで今?」
先生は少し笑った。
「文化祭です」
「正解裁判?」
「はい」
「何かあった?」
「藤野さんの問いです」
私は驚いた。
「私?」
「自分の幸せのためなら、家族を悲しませてもいいか」
「……はい」
「柴崎が私に聞いた問いと、ほとんど同じでした」
背中が冷たくなった。
「先生」
「私は七年前、彼に答えました」
「何て?」
「いい、と」
先生は目を閉じた。
「君の人生なんだから、親を悲しませても自分のしたいことをすればいい、と」
私が文化祭で出した答えと同じだった。
「そして彼は翌日死んだ」
先生は立ち上がった。
「だから少し、教師を続けていいのか考えています」
「そんな」
「先生」
相馬が呼ぶ。
「はい」
「それ、逃げじゃないですか」
私は相馬を見る。
「相馬!」
「だって」
相馬は先生を見る。
「先生が辞めたら、その生徒が死んだ意味が変わるんですか」
三枝先生は黙った。
「先生、自分が悪かったって決めたいだけじゃないですか」
「相馬」
「悪かったことにしたほうが楽だから」
「やめなよ」
「藤野だって思うだろ」
「思わない」
「俺は思う」
相馬の声が強くなる。
「俺も弟のことでずっとそうだったから」
三枝先生が相馬を見る。
「俺が先生殴ったから弟が引きこもった。俺が余計なことしたから全部壊れたって」
「……」
「でも、本当は分かんない」
相馬は言った。
「俺が殴らなくても弟は学校辞めたかもしれない。もっとひどいことになったかもしれない。逆に、殴らなかったら普通に戻れたかもしれない」
拳を握る。
「分かんないんですよ」
「そうですね」
「なのに自分が原因だって決めるのも、勝手じゃないですか」
三枝先生はしばらく相馬を見ていた。
「厳しいですね」
「すみません」
「謝らなくていい」
先生は少し笑った。
「考えてみます」
図書館を出ていった。
私はその背中を見送った。
「相馬」
「何」
「言いすぎ」
「うん」
「でも」
「うん」
「たぶん先生に必要だった」
相馬は答えなかった。
第十二章 正しい噂
翌朝には、三枝先生の過去が学校中に広がっていた。
匿名のSNSアカウントが投稿していた。
〈二年B組担任・三枝直人教諭は、前任校で生徒自殺に関係していたとの情報〉
古い新聞記事の画像。
三枝先生の名前。
柴崎航平の学校。
すべてが一つの投稿にまとめられていた。
「誰が流したの」
美緒が青い顔で聞いた。
「知らない」
「葵たち昨日調べたんでしょ」
「私たちじゃない」
「本当に?」
「本当」
クラスのグループLINEも荒れていた。
〈マジだったんだ〉
〈だから休んでんの?〉
〈正解裁判とかやばくね〉
〈人死んでるのに正解とかやってたの?〉
〈先生の自己満じゃん〉
〈いや関係ないだろ〉
〈学校説明しろよ〉
情報は速かった。
事実より速かった。
昼には保護者から学校へ問い合わせが殺到した。
午後、緊急ホームルームが開かれた。
校長が来た。
「インターネット上で、本校教員に関する情報が拡散されています」
教室は静かだった。
「学校として事実関係を確認しています」
「先生は人を自殺させたんですか」
男子が聞いた。
「そのような事実が確認されたわけではありません」
「でも前の学校で生徒死んだんでしょ」
「それは事実です」
「担任だった?」
「個人情報に関わるので」
「ネットに出てます」
「インターネット上の情報をすべて事実と考えないでください」
「じゃあ嘘なんですか」
校長は答えなかった。
私は手を挙げた。
「三枝先生はいつ戻るんですか」
「未定です」
「先生、辞めるんですか」
「決まっていません」
「学校が辞めさせるんですか」
「藤野さん」
高瀬先生が止める。
「今は」
「先生は悪いことしてないです」
口から出た。
教室中が私を見る。
「葵」
美緒が小さく言った。
「七年前の第三者委員会でも、不適切な指導はなかったって」
校長の表情が変わった。
「なぜそれを」
「新聞に出てます」
「藤野さん」
「先生は、生徒がやりたいことをやっていいって言っただけです」
「葵」
今度は相馬が止めた。
「でも」
「それ以上言わないほうがいい」
「なんで」
「本人から聞いた話だろ」
私は気づいた。
先生が私たちに話したことまで言おうとしていた。
「ごめん」
座る。
ホームルームが終わった。
その日の放課後。
私のSNSにメッセージが来た。
知らないアカウント。
〈あなた、三枝先生を庇ってる人?〉
無視した。
次。
〈人殺し教師の味方するんだ〉
次。
〈亡くなった生徒の気持ち考えたことある?〉
手が震えた。
私は何もしていない。
ただ先生は悪くないと言っただけだ。
それなのに怖かった。
「葵」
美緒がスマホを覗く。
「何これ」
「分かんない」
「ブロックしなよ」
「うん」
ブロック。
すぐ別のアカウント。
〈正義ぶってんじゃねーよ〉
「なんで」
私は呟いた。
「私、間違ったこと言った?」
美緒は答えなかった。
「先生悪くないじゃん」
「うん」
「調査でも問題なかった」
「うん」
「なのに何で」
「葵」
美緒は言った。
「今、それ言わないほうがいい」
「なんで」
「燃えるから」
「でも事実じゃん」
「事実でも」
「事実なのに言っちゃ駄目なの?」
美緒は黙った。
そのとき私は初めて知った。
正しいことを言えばいいわけではない。
正しいことを言うにも、
場所と時間と相手がある。
でもそれなら。
言ってはいけない正しさは、
本当に正しさなのだろうか。
第十三章 被害者の母
三日後。
学校の正門前に女性が立っていた。
五十代くらい。
細い人だった。
報道記者が二人いる。
「誰?」
「分かんない」
生徒たちが遠巻きに見る。
私は通り過ぎようとした。
女性と目が合った。
「藤野葵さん?」
足が止まった。
「はい」
「少しお話できますか」
「誰ですか」
「柴崎です」
心臓が跳ねた。
「柴崎航平の母です」
何も言えなかった。
「あなたが三枝先生を庇っている生徒さんですね」
「……はい」
「少しだけ」
近くの喫茶店へ行った。
美緒と相馬もついてきた。
四人で座る。
柴崎さんはコーヒーを頼んだ。
私たちは何も頼まなかった。
「怖がらなくて大丈夫」
女性は言った。
「責めに来たわけじゃありません」
「はい」
「三枝先生から話を聞いたんですか」
「少し」
「そう」
コーヒーが来る。
女性は砂糖を二つ入れた。
「航平はね」
静かに話し始めた。
「本当に先生が好きだったんです」
「……はい」
「家でも三枝先生の話ばかりしていました」
意外だった。
「先生だけは分かってくれるって」
「じゃあ」
「だから苦しかったんだと思います」
「何がですか」
「先生に『東大を受けなくてもいい』と言われたこと」
「でもそれは」
「分かっています」
女性は私を見た。
「三枝先生が悪意で言ったわけではない」
「なら」
「でもね」
女性は言った。
「悪意がなければ、人を傷つけても責任はないんでしょうか」
私は答えられなかった。
「航平は、先生に認めてもらいたかった」
「でも先生は音楽を」
「ええ」
「夢を応援した」
「そうです」
「なら」
「葵さん」
初めて名前で呼ばれた。
「人は、自分が欲しい言葉だけを正しく受け取れるわけではないんです」
三枝先生と同じことを言った。
「航平は先生から『東大に行かなくてもいい』と言われて、『お前には無理だ』と受け取った」
「そんな」
「私も最初はそう思いました」
女性はコーヒーを一口飲んだ。
「でも、死んだ子には確認できない」
沈黙。
「だから七年間、答えが出ないんです」
「先生を恨んでるんですか」
相馬が聞いた。
女性は相馬を見る。
「恨んでいました」
「今は?」
「分かりません」
「許した?」
「それも分かりません」
「じゃあ何で学校に」
「先生に会いに来ました」
「会えました?」
「いいえ」
女性は少し笑った。
「逃げられました」
「先生は逃げてない」
私は言った。
女性が私を見る。
「すみません」
「いいんですよ」
「でも先生、ずっと考えてます」
「知っています」
「なら」
「だから会いたいんです」
「何を言うんですか」
女性はしばらく黙った。
「もう、航平の人生を背負わないでください」
予想と違った。
「え?」
「先生は七年間、息子の死を背負っている」
「はい」
「でも」
女性は言った。
「それは私には、少し傲慢にも見えるんです」
「傲慢?」
「自分の一言で人の生死が決まったと思っている」
相馬が顔を上げた。
図書館で彼が言ったことと同じだった。
「航平には、先生の知らない苦しみもありました」
「どんな?」
「家庭です」
女性は笑った。
「私です」
「……」
「私は航平に東大へ行ってほしかった」
声が震えた。
「夫もそうでした」
「だから音大を反対した?」
「はい」
「先生より」
私は言いかけた。
止めた。
でも女性は分かった。
「私のほうが息子を追い詰めたのかもしれない」
「そんな」
「かもしれない、です」
女性は言った。
「でも私も七年間、自分が殺したのかもしれないと思って生きてきました」
誰も何も言えなかった。
「三枝先生も自分が殺したと思っている」
女性は窓を見る。
「夫も、自分が悪かったと言っている」
静かな声だった。
「みんな自分が殺したことにしたがるんです」
「なんで」
美緒が聞いた。
「分かりません」
女性は答えた。
「理由がないより、理由があったほうが耐えやすいからかもしれません」
私はその言葉を覚えた。
「でも本当は」
女性は続けた。
「航平がなぜ死んだのか、誰にも分からない」
コーヒーはもう冷めていた。
「一つだけ分かるのは」
女性が言った。
「航平は死ぬ前の日まで生きていた、ということです」
当たり前の言葉だった。
でも胸に刺さった。
「音楽を聴いて、友達と笑って、夕飯を食べて、私と喧嘩して」
女性の目に涙が浮かんだ。
「なのに私たちは、死んだ理由ばかり探して、あの子が生きていたことを忘れてしまった」
私は何も言えなかった。
女性は涙を拭いた。
「ごめんなさい」
「いえ」
「あなたたちは十七歳なんですよね」
「はい」
「航平と同じ」
女性は笑った。
「だからお願いがあります」
「何ですか」
「正解を探すために、生きることを忘れないでください」
その言葉を残して、
柴崎さんは帰っていった。
第十四章 美緒の不正解
その週の日曜日。
美緒から電話が来た。
「家出した」
「は?」
「今、駅」
「どこの?」
「いつもの」
「待ってて」
私は家を飛び出した。
駅前のベンチに美緒がいた。
大きなリュック。
「何したの」
「喧嘩」
「親と?」
「うん」
「美大?」
「うん」
「帰ろ」
「嫌」
「美緒」
「今日だけ」
「どこ泊まるの」
「分かんない」
「うち来る?」
「いいの?」
「お母さんに聞く」
電話した。
母は驚いたが、
「事情はあとでいいから連れてきなさい」
と言った。
家に向かう。
「何があったの」
「作品捨てられた」
「え?」
「お父さんに」
「絵?」
「うん」
美緒は笑った。
「予備校の課題」
「なんで」
「こんなもの描いてる暇あったら勉強しろって」
「ひどい」
初めて迷わず言えた。
「でしょ」
「うん」
「私もキレた」
「何したの」
「お父さんのゴルフクラブ捨てた」
「え?」
「粗大ゴミ置き場」
「美緒」
「一本だけ」
「一本でも駄目でしょ」
「やっぱり?」
「やっぱり」
「三十万だって」
「最悪じゃん」
「うん」
美緒は笑った。
私も笑ってしまった。
「笑い事じゃない」
「葵も笑ってる」
「だって」
しばらく二人で笑った。
それから美緒が泣いた。
「私さ」
「うん」
「本当に絵やりたいのかな」
「え?」
「分かんなくなった」
私は足を止めた。
「あんなに言ってたじゃん」
「だから」
「美大行くって」
「うん」
「親に反対されてもって」
「うん」
「じゃあ」
「意地になってるだけかもしれない」
美緒は言った。
「反対されたから、絶対行くって」
「……」
「もし親が最初から『いいよ』って言ってたら、こんなに必死になったかな」
答えられなかった。
「葵」
「何」
「自分の正解って、どうやって分かるんだろうね」
私は笑った。
「私に聞く?」
「だよね」
二人で歩いた。
家に着く。
母が温かいココアを作ってくれた。
父は何も聞かなかった。
美緒は私の部屋に泊まった。
布団を二つ並べた。
電気を消したあと、美緒が言った。
「葵」
「何」
「相馬に告白された?」
心臓が跳ねた。
「……なんで」
「やっぱり」
「知ってたんでしょ」
「まあね」
「相馬から聞いた?」
「うん」
「最低」
「私も知ってるの黙ってたから同罪」
「何で言わなかったの」
「葵が自分で決めることだから」
またその言葉。
「美緒は嫌じゃないの」
「嫌だよ」
即答だった。
「え」
「嫌に決まってるじゃん」
「じゃあ」
「でも付き合うなとは言わない」
「何それ」
「私も分かんない」
暗闇の中で美緒が笑った。
「葵が相馬と付き合ったら、たぶんしばらくムカつく」
「うん」
「二人でいるの見たら泣くかもしれない」
「うん」
「でも、だから付き合うなって言ったら、それも違う」
「……うん」
「だから勝手にして」
「何その言い方」
「本音」
しばらく沈黙。
「美緒」
「何」
「私、相馬好きだと思う」
「知ってる」
「いつから?」
「葵より先に」
「最悪」
「葵、自分のこと分からなすぎ」
「うるさい」
「付き合えば」
「いいの?」
「それ聞くのやめて」
「でも」
「私に許可取ったら」
美緒は言った。
「うまくいかなかったとき、私のせいにできるでしょ」
胸を突かれた。
「そんなこと」
「しない?」
「……分かんない」
「だから自分で決めて」
「怖い」
「私も怖い」
「何が」
「美大」
「うん」
「行くかどうか」
「うん」
「でも」
美緒は言った。
「怖いからって誰かに決めてもらったら、ずっとその人のせいにする気がする」
私は天井を見る。
「美緒」
「何」
「十七歳って面倒くさいね」
「ほんと」
「早く大人になりたい」
「大人も同じじゃない?」
「最悪」
二人で笑った。
第十五章 父の正解
美緒が泊まった翌朝。
父が駅まで車で送ってくれた。
美緒を家に帰すためだった。
「ありがとう」
美緒が降りる。
「困ったらいつでも来なさい」
父が言った。
「はい」
美緒は頭を下げた。
車が動く。
私は助手席。
「お父さん」
「何だ」
「美緒には優しいんだね」
「何だそれ」
「家出しても怒らない」
「他人の子だからな」
「自分の子だったら?」
「怒る」
「なんで」
「心配だからだ」
またその言葉。
「心配って便利だね」
父が私を見る。
「どういう意味だ」
「何でもできるじゃん」
「何が」
「心配だから反対する。心配だから止める。心配だから怒る」
「当たり前だろ」
「本人が嫌でも?」
「子どもには分からないことがある」
「大人なら分かるの?」
「子どもよりはな」
「三枝先生も?」
父の顔が固くなった。
「その話はやめろ」
「なんで」
「学校から聞いた。お前、先生の件で余計なことをしているらしいな」
「余計なことって?」
「過去を調べたり」
「誰から」
「学校だ」
「別に悪いことしてない」
「葵」
「公開されてる記事読んだだけ」
「そういう問題じゃない」
「じゃあどういう問題?」
「お前には関係ない」
腹が立った。
「そればっかり」
「何が」
「子どもには分からない。関係ない。大人になれば分かる」
「事実だ」
「じゃあ何歳から自分で考えていいの?」
兄と同じことを言っていた。
父も気づいたのだろう。
黙った。
「お兄ちゃんが料理人になるのも」
「その話は」
「お父さんが嫌なだけじゃん」
「違う」
「何が違うの」
「悠真の将来を考えている」
「本人の将来でしょ」
「家族だ」
「家族なら人生決めていいの?」
父が車を路肩に止めた。
「葵」
「何」
「最近のお前はおかしい」
その一言が痛かった。
「前はそんなことを言う子じゃなかった」
私は父を見る。
「どんな子だった?」
「もっと素直だった」
「素直?」
「人の話を聞けた」
「今も聞いてる」
「屁理屈ばかり言うようになった」
「考えてるだけ」
「相馬とかいう子の影響か?」
頭に血が上がった。
「なんで相馬が出てくるの」
「最近よく一緒にいるそうじゃないか」
「学校がそんなことまで言ったの?」
「母さんから聞いた」
「関係ない」
「友達は選べ」
その瞬間。
何かが切れた。
「それ」
「何だ」
「お父さんの正解でしょ」
「葵」
「私の友達まで決めないで」
「決めてない」
「選べって言ったじゃん」
「忠告だ」
「同じだよ」
「違う」
「同じ!」
初めて父に怒鳴った。
自分の声に自分で驚いた。
「私、ずっとお父さんの言う通りにしてきた」
「そんな言い方」
「吹奏楽だって辞めた」
「それはお前が決めたことだろ」
「お父さんが受験とどっちが大事か考えろって言ったから!」
「最後に決めたのはお前だ」
言葉が止まった。
父の言う通りだった。
「ほら」
父は言った。
「人のせいにするな」
悔しかった。
涙が出た。
「最低」
「葵」
「最低」
車を降りた。
「待ちなさい」
ドアを閉めた。
走った。
後ろから父の声がした。
振り返らなかった。
駅のトイレで泣いた。
父は間違っている。
そう思いたかった。
でも最後の言葉だけは正しかった。
吹奏楽部を辞めたのは私だ。
父に言われた。
でも最後に退部届を書いたのは私。
私は今まで、自分で選ばなかったのではない。
誰かの正解を選ぶという選択を、
自分でしてきたのだ。
そのほうが楽だった。
失敗しても、
「言われたから」
と言えるから。
私は初めて気づいた。
正解を求めていたのは、
間違えた責任を取りたくなかったからだ。
第十六章 答えをくれない人
学校を休んだ。
初めてだった。
欠席ゼロが途切れた。
母には体調が悪いと言った。
本当は元気だった。
昼まで寝た。
午後、家を出た。
行く場所はなかった。
気づいたら兄が働いているレストランの前にいた。
ガラス越しに兄が見える。
白いシャツ。
黒いエプロン。
皿を運んでいる。
楽しそうだった。
店が落ち着くまで待った。
午後三時。
兄が出てきた。
「葵?」
「久しぶり」
「学校は?」
「休んだ」
「優等生が?」
「うるさい」
「どうした」
「お父さんと喧嘩した」
「仲間」
「嬉しくない」
近くの公園へ行った。
自販機でジュースを買う。
「大学どうしたの」
「休学」
「本当に辞める?」
「たぶん」
「調理師学校?」
「来年から」
「後悔してる?」
「もう?」
「うん」
「毎日してる」
意外だった。
「え?」
「東大行っとけばよかったかなって、一日一回くらい思う」
「じゃあ戻れば」
「でも料理してるときは、こっちでよかったって思う」
「どっちなの」
「両方」
「意味分かんない」
「人生そんなもんじゃね」
兄はジュースを飲む。
「葵は?」
「何」
「東大」
「分かんない」
「いいじゃん」
「何が」
「初めて聞いた」
「何を」
「分かんないって」
私は笑った。
「みんな同じこと言う」
「誰」
「三枝先生とか相馬」
「相馬?」
「友達」
「男?」
「そう」
「彼氏?」
「違う」
「好き?」
「うるさい」
「好きなんだ」
「黙って」
兄が笑った。
「で、何悩んでんの」
「全部」
「雑」
「進路も、相馬も、お父さんも」
「うん」
「何が正しいのか分かんない」
「正しい必要ある?」
「あるでしょ」
「なんで」
「間違えたくないから」
「無理だよ」
また。
「みんなそれ言う」
「みんな賢いな」
「じゃあどうすればいいの」
「知らん」
「役に立たない」
「葵」
兄は言った。
「お前、答え欲しいんじゃなくて責任取ってくれる人探してない?」
父との喧嘩を思い出した。
「……そうかも」
「なら誰にも聞かないほうがいい」
「でも怖い」
「怖いよ」
「お兄ちゃんも?」
「めちゃくちゃ」
「そう見えない」
「格好つけてるから」
兄は笑った。
「俺さ」
「うん」
「料理人になって失敗したら、父さんに一生言われると思う」
「ほら見ろって?」
「そう」
「嫌だね」
「超嫌」
「じゃあ戻れば」
「それはもっと嫌」
「なんで」
「失敗するのが嫌なんじゃない」
兄は言った。
「自分で選ばなかった人生で成功するほうが、俺は怖い」
私は意味を考えた。
「成功しても?」
「うん」
「贅沢」
「そうかも」
「でも」
私は少し分かる気がした。
東大に入る。
卒業する。
大企業に入る。
安定する。
もし全部うまくいったとして。
その人生を私は好きになれるのだろうか。
「葵」
「何」
「東大行きたければ行けばいいんだぞ」
「分かってる」
「父さんが言ったから行かない、も父さんに決めてもらってるのと同じだからな」
胸に刺さった。
「分かってる」
「本当に?」
「今分かった」
「じゃあいい」
兄は立ち上がった。
「仕事戻る」
「うん」
「学校行けよ」
「明日は」
「相馬に会いたいだろ」
「うるさい」
兄は笑って戻っていった。
私は一人で公園に残った。
スマホを見る。
相馬からメッセージが来ていた。
〈大丈夫?〉
美緒からも。
〈生きてる?〉
私は美緒に、
〈生きてる〉
と返した。
相馬には少し迷って、
〈会いたい〉
と送った。
送信した瞬間、
心臓がものすごい速さで鳴った。
取り消したくなった。
でもしなかった。
一分後。
〈どこ?〉
私は場所を送った。
三十分後。
相馬が来た。
「遠い」
「ごめん」
「電車賃請求する」
「払わない」
相馬が隣に座る。
「学校休んだ?」
「うん」
「初?」
「初」
「悪い子」
「そう」
「どう?」
「何が」
「悪い子になった感想」
「別に世界終わらなかった」
「だろ」
「でも出席率下がった」
「そこ気にする?」
「する」
二人で笑った。
沈黙。
「相馬」
「うん」
「この前の返事」
「うん」
「する」
「今?」
「うん」
心臓がうるさい。
「私」
息を吸う。
「相馬が好き」
言った。
世界は終わらなかった。
雷も落ちなかった。
美緒が現れることもなかった。
ただ相馬が笑った。
「うん」
「何それ」
「嬉しい」
「もっと何か言って」
「俺も好き」
「知ってる」
「じゃあ何言えばいいんだよ」
「分かんない」
二人で笑った。
「付き合う?」
相馬が聞いた。
私は一瞬、
美緒を思い出した。
父を思い出した。
正しいか。
間違っているか。
考えそうになった。
でもやめた。
「付き合う」
「うん」
「でも」
「何」
「美緒が傷つくかもしれない」
「うん」
「それは嫌」
「うん」
「でも付き合いたい」
「うん」
「矛盾してる」
「してるね」
「いいのかな」
相馬が笑った。
「俺に聞く?」
「……聞かない」
「正解」
「それも言わないで」
「ごめん」
私は笑った。
十七歳。
初めての彼氏ができた。
それは誰かを少し傷つけるかもしれない選択だった。
だから私は、
嬉しいだけではいられなかった。
でもたぶん、
嬉しいだけではいられないことと、
選んではいけないことは、
同じではない。
第十七章 炎上
翌日学校へ行くと、
私と相馬が付き合ったことを美緒は一秒で見抜いた。
「付き合った?」
「なんで分かるの」
「距離」
「距離?」
「微妙に遠い」
「普通近くなるんじゃない?」
「意識しすぎて遠くなるタイプ」
相馬が笑った。
「さすが」
「笑うな」
私は美緒を見る。
「ごめん」
「なんで謝るの」
「だって」
「やめて」
「でも」
「葵」
美緒は笑った。
「おめでとう」
少しだけ目が潤んでいた。
私は抱きしめた。
「ごめん」
「だから謝るなって」
「ありがとう」
「それでいい」
その瞬間だった。
教室の後ろで誰かが叫んだ。
「やば」
スマホを見ている。
「何?」
「三枝の件」
新しい投稿。
今度は動画だった。
七年前の映像。
学校説明会らしい。
若い三枝先生が映っている。
音声。
〈本人が望まない進路を保護者が強制することは、教育ではありません〉
切り取られていた。
投稿文。
〈生徒を親から引き離す思想を持つ教師。死亡した生徒にも同様の指導か〉
再生数は十万を超えていた。
コメント。
〈洗脳じゃん〉
〈教師が家庭に口出すな〉
〈子供に親を裏切れって教えてる〉
〈こういう教師が一番危険〉
〈人一人死んでるんだぞ〉
私は手が震えた。
「違う」
「葵」
「こんなの違う」
動画の前後がない。
三枝先生の意図が分からない。
でも短い映像だけ見れば、
確かにそう聞こえる。
「反論しないほうがいい」
相馬が言った。
「なんで」
「今何言っても燃える」
「でも嘘じゃん」
「完全な嘘じゃない」
「切り取ってる」
「そうだけど」
「先生何も悪くないのに」
「藤野」
「私、投稿する」
「やめろ」
「なんで」
「先生が望んでる?」
止まった。
「確認してないだろ」
「でも」
「先生のためって言って、先生が望んでないことするの?」
何も言えなかった。
弟のために教師を殴った相馬。
その結果、弟はさらに傷ついた。
「……分かった」
スマホを置いた。
でもその日の午後、
別の誰かが投稿した。
〈三枝先生を守ろう〉
在校生らしい匿名アカウント。
〈先生は悪くありません。私たちに自分で考えることを教えてくれた先生です〉
賛同が広がった。
ハッシュタグまでできた。
〈#三枝先生を辞めさせるな〉
一方で、
〈#被害者を忘れるな〉
というタグもできた。
二つの正義が衝突した。
先生を守りたい人。
亡くなった生徒を守りたい人。
どちらも自分を正しいと思っている。
コメント欄は地獄だった。
〈先生を擁護する奴は人殺しの味方〉
〈遺族はいつまで被害者面してるの〉
〈教師一人に責任押しつけるな〉
〈死人は反論できない〉
〈親が追い詰めたんだろ〉
〈憶測で遺族叩くな〉
私はスマホを閉じた。
「気持ち悪い」
美緒が言った。
「みんな正しいこと言ってるつもりなんだよね」
「たぶん」
「正義って怖いね」
相馬が言った。
「悪意なら止められるけど」
「うん」
「正義は止まらない」
私は思った。
誰かを傷つける人は、
自分が悪い人だと思っているとは限らない。
むしろ、
自分は正しいと信じているときのほうが、
人は遠くまで行けるのかもしれない。
第十八章 最後の授業
三枝先生が学校に戻ってきたのは、
炎上から一週間後だった。
朝のホームルーム。
教室の扉が開く。
「おはようございます」
一瞬、
誰も反応できなかった。
それから拍手が起きた。
誰が始めたのか分からない。
教室中が拍手した。
三枝先生は困った顔をした。
「やめてください」
拍手が止まらない。
「本当に」
先生が笑った。
少し痩せていた。
拍手が止まる。
「皆さんに話があります」
教室が静かになる。
「私は今月末で、この学校を退職します」
「え」
声が漏れた。
「なんで!」
「先生悪くないじゃん!」
「学校に辞めさせられた?」
三枝先生は手を上げた。
「私が決めました」
「逃げるんですか」
相馬だった。
先生は相馬を見る。
「そうかもしれません」
「先生」
「でも」
三枝先生は笑った。
「逃げることが、いつも間違いだとも思わなくなりました」
相馬は黙った。
「私は教師を辞めます」
「何するんですか」
「まだ決めていません」
「無職?」
「そうですね」
笑いが起きた。
「先生なのに」
「先生も人生迷うんです」
「何歳?」
「三十八」
「十七の倍以上じゃん」
「年齢はあまり関係ありません」
また笑い。
三枝先生は黒板へ向かった。
チョークを持つ。
〈正解〉
大きく書く。
「最後に授業をします」
「今?」
「はい」
「現国?」
「いいえ」
三枝先生は振り返る。
「正解について」
教室が静かになった。
「皆さんに最初に聞きます」
先生は言った。
「正解は必要だと思いますか」
何人かが手を挙げる。
「必要」
「なんで?」
「ないと困るから」
「何に?」
「生きるのに」
「他には?」
「ルールとか」
「そうですね」
先生は黒板に書く。
〈必要〉
「では正解がないほうがいいと思う人」
相馬が手を挙げる。
美緒も。
私は迷ってから挙げた。
「相馬君」
「正解があると、それ以外が間違いになるから」
先生が頷く。
「佐倉さん」
「正解が一個だと、選べないから」
「藤野さん」
私は考えた。
「正解があると」
少し迷う。
「自分で考えなくて済むから」
先生が笑った。
「それは、ないほうがいい理由ですか」
「はい」
「なぜ?」
「楽だから」
「楽ならいいのでは?」
「でも」
私は言った。
「楽なほうを選び続けたら、自分で選んだことが何もなくなる気がする」
三枝先生は黒板に書いた。
〈自分で考える〉
「皆さん」
先生はチョークを置いた。
「私は教師になったとき、正しいことを教える人になろうと思っていました」
誰も喋らない。
「でも今は違います」
先生は言った。
「正しいことを疑える人を育てるのが、教師の仕事だったのではないかと思っています」
「だった?」
誰かが聞いた。
「辞めるので過去形です」
笑い。
「先生」
私が手を挙げる。
「はい」
「柴崎航平さんのこと」
空気が変わった。
「先生、もう自分のせいだと思わないんですか」
三枝先生は長く考えた。
「思います」
意外だった。
「今でも?」
「はい」
「じゃあ」
「同時に、私のせいではないとも思います」
「矛盾してる」
「そうですね」
先生は笑った。
「人間は矛盾したまま生きられるんです」
「それでいいんですか」
「いいかどうかは分かりません」
「また」
「答えをくれない先生なので」
教室に小さな笑いが起きる。
「ただ一つ」
三枝先生は言った。
「七年前の私は、答えを出そうとしすぎました」
「どういう意味?」
「柴崎に『自分のやりたいことをやればいい』と言いました」
「はい」
「それは正しいと思っていた」
「今は?」
「今なら」
先生は少し考えた。
「『君はどうしたい?』と聞きます」
私は胸を突かれた。
「答えを渡すのではなく?」
「はい」
「でも本人が分からないって言ったら?」
「一緒に考える」
「いつまで?」
「分かるまで」
「卒業しちゃうかも」
「それでも」
三枝先生は笑った。
「人の人生に答えを出すよりはいい」
チャイムが鳴った。
誰も立たなかった。
三枝先生も動かなかった。
「授業終わり?」
「終わりです」
「最後?」
「最後ではありません。月末まではいます」
「じゃあ最後の授業じゃないじゃん」
「題名です」
「詐欺」
笑いが起きた。
三枝先生も笑った。
私も笑った。
そのときは、
先生が辞めることを悲しいと思った。
でも同時に、
少し嬉しかった。
先生も正解を捨てたのだと思ったから。
第十九章 十七歳の選択
十一月。
進路希望調査の再提出があった。
私は紙を前にしていた。
第一志望。
東京大学。
前回と同じ文字を書こうとして、
手が止まった。
「まだ?」
美緒が聞く。
「うん」
「私、決めた」
「美大?」
「うん」
「本当に?」
「今のところ」
「今のところ?」
「変わるかもしれない」
「いいの?」
「いい」
美緒は笑った。
「変わったら変える」
「そんな簡単に」
「人生なんだから変わるでしょ」
強くなったと思った。
いや。
前から強かったのかもしれない。
強い人とは迷わない人ではなく、
迷ったまま動ける人なのかもしれない。
「相馬は?」
「進学」
「大学?」
「たぶん」
「どこ?」
「心理学」
「意外」
「弟のこともあるし」
「弟のため?」
「違う」
相馬は言った。
「俺が知りたいから」
その言葉が嬉しかった。
「藤野は?」
二人が私を見る。
「分かんない」
「まだ?」
「うん」
「じゃあ空欄?」
「それは怒られる」
「東大でいいじゃん」
相馬が言う。
「え?」
「今行きたいなら」
「でも分かんない」
「分かんないなら、今の第一志望書けばいいだろ」
「東大行ったらお父さんの言う通りになる」
「それ関係ある?」
兄と同じだった。
「父親が言ったから東大やめるなら、それも父親基準じゃん」
「分かってる」
「藤野が行きたいなら行けばいい」
「でも」
「行きたくないならやめればいい」
「簡単に言うね」
「決めるのは藤野だから」
私は紙を見る。
東京大学。
嫌いではない。
興味もある。
でも父が望むからという理由を除いたとき、
自分がどれくらい行きたいのか分からない。
「先生」
宮田先生のところへ行った。
「何?」
「第一志望、未定って書いていいですか」
「駄目」
「ですよね」
「候補は?」
「東大」
「なら東大でいいだろ」
「でも」
「志望調査は契約書じゃない」
「え?」
「変えていいんだよ」
当たり前のことを言われた。
「今の希望を書けばいい」
「変えていい?」
「もちろん」
私は席に戻った。
第一志望。
〈東京大学 文科一類〉
書いた。
前回と同じ。
でも意味は違った。
父が望む大学。
ではなく。
今の私が候補にしている大学。
それだけ。
紙を提出した。
不思議なくらい軽かった。
第二十章 弟
十二月。
相馬から突然連絡が来た。
〈弟に会う〉
私はすぐ返した。
〈今日?〉
〈うん〉
〈大丈夫?〉
〈分かんない〉
〈行ってらっしゃい〉
それ以上書かなかった。
頑張って。
謝って。
仲直りして。
いくらでも言葉はあった。
でも全部、私の正解だった。
夜十時。
相馬から電話。
「もしもし」
「藤野」
「うん」
「会った」
「うん」
「話した」
「うん」
「殴られた」
「え?」
「弟に」
「大丈夫?」
「痛い」
「何で」
「俺が謝ったから」
「意味分かんない」
「俺も」
相馬が笑った。
「弟がさ」
「うん」
「勝手に謝るなって」
「うん」
「兄ちゃんが先生殴ったこと、別に怒ってないって」
「じゃあ何で」
「俺が勝手に『俺のせいでお前はこうなった』って思ってるのがムカつくって」
柴崎さんの言葉を思い出した。
自分が原因だと思うことも傲慢。
「弟、何て?」
「学校辞めたのは自分で決めたって」
「うん」
「引きこもってるのも、今はそうしたいからだって」
「うん」
「俺のせいにするなって」
「そっか」
「俺、馬鹿だった」
「うん」
「そこ否定しろよ」
「馬鹿だったね」
「ひど」
二人で笑った。
「でも」
相馬の声が少し震えた。
「一年ぶりに弟と話した」
「よかったね」
「うん」
「泣いてる?」
「泣いてない」
「声」
「鼻水」
「同じ」
「違う」
私は笑った。
「藤野」
「何」
「ありがとう」
「私何もしてない」
「それがよかった」
「何それ」
「何も言わなかったから」
私は少し嬉しかった。
答えを渡さないことも、
誰かのそばにいる方法なのかもしれない。
第二十一章 父からの手紙
年末。
父から封筒を渡された。
「何これ」
「読め」
「今?」
「部屋で」
自室で開ける。
手紙だった。
父の字。
私は父から手紙をもらったことがない。
〈葵へ。
この前は悪かった。
直接言うとうまく話せそうにないので書く。
お前に「前はもっと素直だった」と言ったことを後悔している。
あれは、「前のお前のほうが私にとって都合がよかった」という意味だったのかもしれない。
悠真のことでも考えた。
私は父親として正しいことをしているつもりだった。
今も、大学は卒業したほうがいいと思っている。
料理人になることには反対だ。
これは変わっていない。
ただ、反対することと、決めることは違うのだと最近思う。
悠真の人生は悠真のものだ。
葵の人生は葵のものだ。
そんな当たり前のことを、私は分かっているつもりで分かっていなかった。
東大に行ってほしい。
これは父親としての希望だ。
でも、お前が行かないと決めても、私はお前の父親だ。
そこだけは覚えておいてほしい。〉
最後まで読んだ。
泣いた。
どうして泣くのか分からなかった。
嬉しい。
悲しい。
安心。
申し訳なさ。
いろいろ混ざっていた。
階下へ行く。
父はテレビを見ていた。
「読んだ」
「そうか」
「ずるい」
「何が」
「手紙」
「直接だと喧嘩になる」
「うん」
私は父の隣に座った。
「お父さん」
「何だ」
「私、まだ東大志望」
「そうか」
父の顔が明るくなる。
「でも変えるかもしれない」
少し曇る。
「分かった」
「反対する?」
「内容による」
「するんだ」
「反対する自由は父さんにもある」
私は笑った。
「確かに」
「でも最後はお前が決めろ」
「うん」
「失敗したら」
「ほら見ろって言う?」
「言うかもしれん」
「最低」
「そのくらい許せ」
二人で笑った。
父は変わっていない。
私も急には変われない。
でもそれでいいのだと思った。
理解し合うということは、
同じ答えになることではない。
違う答えのまま、
一緒にいられることなのかもしれない。
第二十二章 三枝先生の最後の日
三枝先生の退職の日。
クラス全員で花を渡した。
「先生、次何するんですか」
「まだ決めていません」
「本当に?」
「本当に」
「ニート?」
「しばらく」
「三十八歳ニート」
「響きが悪いですね」
笑い。
美緒が描いた先生の似顔絵を渡した。
「似てない」
先生が言う。
「美大志望に言います?」
「撤回します」
「遅い」
相馬は何も渡さなかった。
代わりに、
「先生」
と言った。
「はい」
「ありがとうございました」
「こちらこそ」
それだけ。
私は最後になった。
「先生」
「はい」
「聞いていい?」
「どうぞ」
「辞めるの、正解だと思います?」
三枝先生は笑った。
「まだそれを聞きますか」
「最後だから」
「分かりません」
「やっぱり」
「藤野さんは?」
「何が?」
「東大」
「まだ志望してます」
「そうですか」
「意外?」
「少し」
「先生、東大行かなくてもいいって言うと思った」
「言いません」
「なんで」
「あなたが決めることだから」
「みんなそれ言う」
「いい人たちですね」
「答えくれない人ばっかり」
「そのほうがいい」
先生は鞄を持つ。
「藤野さん」
「はい」
「最初のホームルーム、覚えていますか」
「大切なもの書いたやつ?」
「はい」
「覚えてる」
「あなた、何を書きました?」
私は先生を見る。
「知ってたの?」
「字で分かりました」
「最悪」
「何でした?」
私は答えた。
「期待を裏切らないこと」
「今も?」
少し考える。
「大切ではある」
「はい」
「でも一番じゃない」
「一番は?」
私は考えた。
家族。
美緒。
相馬。
自分。
夢。
どれも違う気がした。
「分かんない」
三枝先生が笑った。
「いい答えです」
「それ正解?」
「不正解かもしれません」
「先生」
「はい」
「ありがとうございました」
「こちらこそ」
先生は教室を出た。
廊下を歩いていく。
誰も追わなかった。
先生の人生だから。
その背中が角を曲がって見えなくなったとき、
私は少し泣いた。
第三部 私たちの不正解
第二十三章 十八歳まで百日
年が明けた。
私たちは高校三年生になる。
受験。
進路。
恋愛。
友情。
家族。
正解を考えている暇なんてないくらい、
毎日は速くなった。
でも私は知ってしまった。
忙しくても問いは消えない。
むしろ選ばなければならない瞬間ほど、
問いは大きくなる。
ある日、美緒が言った。
「美大、やめるかも」
「え?」
「デザイン系の普通の大学も考えてる」
「親に言われた?」
「違う」
「じゃあ何で」
「私が考えた」
美緒は笑った。
「前なら『夢を諦めるの?』って言ったでしょ」
「言ったかも」
「今は?」
「美緒が決めれば」
「つまんない」
「何で」
「もっと反対して」
「じゃあ美大行け」
「嫌」
「面倒くさい」
二人で笑った。
相馬は心理学部を目指して勉強を始めた。
「英語無理」
「単語やれ」
「嫌」
「大学行くんでしょ」
「藤野教えて」
「一時間千円」
「彼氏割」
「ない」
「冷たい」
付き合って三か月。
まだ手をつないだだけ。
キスもしていない。
美緒には、
「中学生?」
と言われた。
でも急ぐ必要はない。
誰かが決めた高校生らしさに合わせる必要もない。
そう思えるようになった。
兄は調理師学校への入学を決めた。
父はまだ反対している。
でも時々、兄の働くレストランへ母と食べに行っているらしい。
兄には内緒だ。
私は知っている。
家族は簡単には変わらない。
でも壊れたように見えても、
別の形になることはある。
そして私は、
まだ東大を第一志望にしていた。
父のためではない。
反抗するためでもない。
今のところ、
私が行ってみたいから。
来年変わるかもしれない。
明日変わるかもしれない。
それでいい。
十八歳まで、
あと百日。
十七歳の私はまだ、
人生の正解を一つも知らない。
ただ、
正解を知らないことを、
以前ほど怖いとは思わなくなっていた。
そんな私たちに、
春、
最後の問いがやってくる。
それは誰かの過去でも、
先生の人生でも、
家族の希望でもなかった。
私自身が、
自分の正解を選んだ結果、
大切な人を傷つけてしまったとき。
それでも私は、
「自分で選んだから」
と言えるのか。
そして、
自分で選んだことなら、
本当に後悔してはいけないのか。
その答えを知るまで、
私はもう少しだけ、
十七歳でいなければならなかった。
第二十四章 自分で決めたなら
三年生になった。
クラス替えがあった。
私は三年A組。
美緒は三年C組。
相馬は三年D組。
二年間ほとんど毎日同じ教室にいた三人が、初めて別々になった。
「終わった」
クラス発表の掲示板の前で美緒が言った。
「何が」
「友情」
「クラス違うくらいで?」
「葵、新しい友達できたら私のこと忘れるタイプ」
「美緒でしょ、それ」
「私は一途」
「相馬に振られて三か月で二組の男子格好いいって言ってた人が?」
「恋愛と友情は別」
相馬が横で笑った。
「俺も忘れられそう」
「相馬は別に」
「彼氏なのに?」
「毎日LINEするでしょ」
「美緒ともするじゃん」
「じゃあ同じ」
「俺、親友と同じ枠?」
「嫌?」
「ちょっと」
「面倒くさい」
三人で笑った。
何も変わらないと思っていた。
クラスが違っても。
進路が違っても。
卒業しても。
私たちは私たちだと思っていた。
十七歳は、ときどき永遠を簡単に信じる。
その永遠が壊れるまで。
新しいクラスでは、私はすぐに学級委員に推薦された。
「藤野さん、お願い」
「向いてるよ」
「去年も委員やってたんでしょ?」
断ろうと思った。
昔の私なら引き受けた。
期待されたから。
だから今度は断る。
そう考えた瞬間、少しおかしいと思った。
期待されたから引き受けるのも。
期待されたからこそ断るのも。
結局、他人を基準にしている。
「やります」
私は言った。
やりたいかと聞かれれば、少しやりたかったから。
「ありがとう」
新しい担任の田島先生が言った。
数学教師。
二十九歳。
三枝先生とはまるで違う。
「では副委員長は――」
新しい高校生活が始まった。
受験生という名前がついた。
廊下には、
〈第一志望合格へ〉
〈夏を制する者は受験を制す〉
〈現役生は最後まで伸びる〉
というポスターが貼られた。
去年なら安心したかもしれない。
正しい道が示されている感じがしたから。
今は少し怖かった。
みんな同じ方向へ走っている。
そこから外れたらどうなるのだろう。
四月の終わり。
美緒からメッセージが来た。
〈話したい〉
放課後、駅前のファミレスに集まった。
相馬はいなかった。
「相馬は?」
「呼んでない」
「なんで?」
「葵に話したいから」
美緒は鞄から一枚の紙を出した。
大学のパンフレット。
「ここ受けようと思う」
都内の私立大学だった。
芸術系ではない。
社会学部。
「社会学?」
「うん」
「デザインは?」
「やめる」
「完全に?」
「うん」
私は美緒を見る。
「何があった?」
「別に」
「別にって」
「考えた結果」
「本当に?」
「本当」
でも目を合わせない。
「親?」
「違う」
「じゃあ何」
「葵」
美緒が少し苛立った声を出した。
「私が決めたって言ってるじゃん」
「でも」
「自分で決めればいいんでしょ?」
言葉が止まった。
「ずっとそう言ってたじゃん」
「私は――」
「親の正解じゃなくて、自分の正解を選ぶんでしょ?」
「そうだけど」
「じゃあ私が選んだ」
「……うん」
「ならいいじゃん」
何かがおかしい。
でも何がおかしいのか分からなかった。
「分かった」
私は言った。
「応援する」
「ありがとう」
美緒は笑った。
その笑顔が、
どうしても本物に見えなかった。
第二十五章 選んだ理由
美緒の進路変更の理由を知ったのは、一週間後だった。
本人からではない。
美緒の母親からだった。
日曜日の午後。
母と買い物に出たスーパーで偶然会った。
「あら、葵ちゃん」
「こんにちは」
「いつも美緒がお世話になって」
「こちらこそ」
母親同士が話し始める。
「美緒ちゃん、進路決まったんですって?」
私の母が言った。
「ええ、やっと」
美緒のお母さんが笑った。
「本当に安心しました」
「社会学でしたっけ」
「そうなんです。ようやく現実を見てくれて」
胸がざわついた。
「美大は諦めたんですか?」
私が聞いた。
「そうなの」
嬉しそうだった。
「お父さんと何度も話し合ってね」
「話し合った?」
「ええ」
「美緒、自分で決めたって」
「もちろん最後は本人が決めたのよ」
その言い方。
聞き覚えがあった。
父が私に言った言葉。
――最後に決めたのはお前だ。
「でもよかったわ」
美緒のお母さんは続ける。
「絵なんて仕事にできる人はほんの一部でしょう?」
私は何も言えなかった。
「社会学なら就職先も広いし」
「そうですね」
母が答える。
「本人も納得してる?」
私は聞いた。
「もちろん」
「本当に?」
「葵?」
母が止める。
美緒のお母さんは少し困った顔をした。
「最初は嫌がってたけどね」
「……」
「でも親として言うべきことは言わないと」
「何を言ったんですか」
「葵」
「何を?」
美緒のお母さんの笑顔が消えた。
「美大へ行くなら学費は自分で出しなさいって」
胸の奥が冷たくなった。
「それ、選べないじゃん」
「え?」
「高校生が何百万も自分で払えない」
「だから奨学金という方法もあるでしょう?」
「じゃあ」
「葵」
母が腕を掴んだ。
「やめなさい」
「でも」
「家庭によって考え方は違うの」
美緒のお母さんも少し硬い声になった。
「私たちは美緒の将来を考えて――」
「心配だから?」
口から出た。
沈黙。
母が私を強く引いた。
「すみません」
その場を離れた。
帰り道。
「失礼でしょう」
母に怒られた。
「でも」
「でもじゃない」
「美緒、納得してない」
「あなたに分かるの?」
「分かる」
「どうして?」
「友達だから」
「友達なら全部分かるの?」
言葉に詰まった。
「美緒ちゃん本人が決めたなら」
「決めさせられたのかもしれない」
「それをあなたが決めるの?」
足が止まった。
母は私を見る。
「本人が自分で決めたと言っているんでしょう?」
「……うん」
「なら、まず本人の言葉を信じなさい」
「でも」
「あなたが納得できないからって、本人の選択を偽物にするのも違うでしょう」
何も言えなかった。
家に帰る。
すぐ美緒に電話した。
出ない。
LINE。
〈話したい〉
既読。
返信なし。
〈今日お母さんに会った〉
既読。
五分後。
〈だから?〉
〈学費の話聞いた〉
既読。
〈美緒、本当に社会学行きたい?〉
長い時間。
〈行きたい〉
〈本当に?〉
〈しつこい〉
〈美大行きたかったんじゃないの?〉
〈前はね〉
〈今は?〉
〈行かない〉
〈親に言われたから?〉
既読。
返事がない。
〈美緒〉
返事。
〈葵には関係ない〉
胸が痛んだ。
〈友達でしょ〉
〈だから何?〉
〈本当は行きたいなら〉
途中まで書いて消した。
もう一度。
〈自分の人生でしょ〉
送信。
すぐ返ってきた。
〈それ言うと思った〉
〈何〉
〈葵って最近そればっかり〉
意味が分からなかった。
〈何が〉
〈自分で決めろ、自分の人生、自分の正解〉
〈間違ってる?〉
返信が止まった。
一分。
三分。
五分。
〈正しいよ〉
続けて。
〈だから疲れる〉
私は画面を見つめた。
〈どういう意味?〉
〈もういい〉
〈よくない〉
〈葵〉
〈何〉
〈正しいこと言えば何言ってもいいと思ってる?〉
手が止まった。
七年前の三枝先生。
柴崎航平。
正しい言葉。
傷つく人。
〈そんなつもりない〉
〈知ってる〉
〈じゃあ〉
〈だから余計きつい〉
それを最後に、
美緒から返信は来なかった。
第二十六章 親友だから
翌日、美緒の教室へ行った。
「美緒いる?」
クラスメートが奥を指した。
美緒は友達と話していた。
私に気づく。
笑顔が消えた。
「話したい」
「昨日話した」
「LINEじゃなくて」
「今無理」
「放課後」
「予備校」
「終わったあと」
「遅い」
「じゃあ明日」
「葵」
美緒がため息をついた。
「今は話したくない」
「なんで」
「そういうところ」
「何が?」
「話したくないって言ってるのに、話そうとするところ」
周囲の視線。
「心配してるから」
「出た」
「何」
「心配」
美緒は笑った。
嫌な笑い方だった。
「葵が一番嫌ってた言葉じゃん」
「でも本当に」
「親もそう言うよ」
「一緒にしないで」
「何が違うの?」
「私は美緒のやりたいことを――」
「勝手に決めないでよ!」
教室が静かになった。
美緒の声が響いた。
「私が何したいか、葵が決めないで!」
「決めてない」
「決めてる!」
「美大行きたいって言ってたじゃん!」
「変わったの!」
「親に反対されたからでしょ!」
「それも含めて私が決めたの!」
「そんなの自分で決めたって言わない!」
言った瞬間。
美緒の顔が変わった。
私は気づいた。
言ってはいけない言葉だった。
「……そう」
美緒が言った。
「じゃあ葵が決めて」
「違う」
「私の人生、葵が決めれば?」
「そういう意味じゃない」
「じゃあどういう意味?」
「私はただ」
「私が葵の思う通りにしないから嫌なんでしょ」
「違う!」
「同じだよ」
美緒の目に涙が浮かぶ。
「親と同じ」
「違う」
「同じ!」
美緒は教室を出ていった。
追おうとした。
でも足が動かなかった。
親友だから分かる。
親友だから心配。
親友だから助けたい。
それは全部、
父が私に言った言葉と同じだった。
家族だから。
お前のためだから。
心配だから。
私はいつの間にか、
自分が嫌っていた人になっていた。
第二十七章 正解中毒
昼休み。
相馬に全部話した。
「俺は美緒が怒るの分かる」
最初の一言だった。
「相馬まで?」
「までって何」
「私が悪いってこと?」
「悪いとかじゃなくて」
「じゃあ何」
「藤野、最近ちょっと正解にこだわりすぎ」
「前からでしょ」
「種類が変わった」
「何が」
「前は、親とか先生が言う正解」
「うん」
「今は、自分で決めるのが正解って思ってる」
私は黙った。
「自分で決めなきゃ駄目。人に決められたら駄目。自分の人生を生きなきゃ駄目」
「それ間違ってる?」
「ほら」
「何」
「すぐ正しいか間違いかになる」
腹が立った。
「じゃあどうすればいいの」
「知らない」
「またそれ」
「知らないものは知らない」
「相馬は楽だよね」
「何が?」
「何でも分かんないで済ませられて」
相馬の表情が変わった。
「それどういう意味」
「私はちゃんと考えたいの」
「俺が考えてないって?」
「そうは言ってない」
「言ってるだろ」
「相馬はいつも逃げるじゃん」
「何から」
「答えから」
言ってから後悔した。
でも止まらなかった。
「弟のことだってそう」
「弟?」
「結局、分かんないって言って」
「藤野」
「先生殴ったことも正しかったか分かんない。弟が学校辞めた理由も分かんない」
「やめろ」
「全部分かんないで済ませてる」
「やめろって」
「それって逃げじゃん」
相馬が机を叩いた。
教室中が静かになった。
「何も知らないくせに」
低い声だった。
「聞いたじゃん」
「話したことだけだろ」
「なら何」
「俺が弟のことでどれだけ――」
言葉を止める。
「もういい」
相馬が立つ。
「待って」
「今話したくない」
美緒と同じ言葉。
「相馬」
「追ってくんな」
教室を出ていった。
私は一人になった。
美緒を怒らせた。
相馬も怒らせた。
どうして。
私は間違ったことを言ったのだろうか。
美緒には、自分の人生を選んでほしかった。
相馬には、逃げずに考えてほしかった。
二人のため。
そう思った瞬間、
吐き気がした。
――あなたのため。
私が一番嫌いだった言葉。
私はそれを、
別の形で使っていた。
第二十八章 間違っているのは誰
三日間、美緒とも相馬とも話さなかった。
LINEもない。
昼休みは一人で食べた。
新しいクラスの子が、
「一緒に食べる?」
と誘ってくれた。
「ありがとう」
一緒に食べた。
普通に楽しかった。
それが少し悲しかった。
美緒がいなくても。
相馬がいなくても。
世界は普通に続く。
私は二人がいなければ生きていけないわけではない。
二人も私がいなくても生きていける。
大切な人とは、
必要な人ではないのかもしれない。
必要だから一緒にいるのではなく、
必要でなくても一緒にいたい人。
そんなことを考えた。
放課後、旧二年B組の教室へ行った。
今は一年生が使っている。
誰もいなかった。
去年の文化祭。
正解裁判。
ここで私は言った。
自分で選ぶ。
自分で責任を取る。
あのときは、それが答えだと思った。
スマホを出す。
三枝先生の連絡先は知らない。
でも学校のメールアドレスは退職後も一時的に転送されると聞いていた。
メールを書いた。
〈先生。
自分で決めることが正解だと思っていました。
でも、それを友達にも押しつけてしまいました。
どうすればよかったですか。〉
送信。
一時間後。
返信。
〈藤野さん。
私に答えを聞くのは久しぶりですね。〉
少し笑った。
続き。
〈どうすればよかったかは分かりません。
ただ、一つ質問します。
佐倉さんは、あなたに答えを求めていましたか。〉
胸に刺さった。
求めていなかった。
美緒はただ、
「社会学部に行く」
と言っただけ。
私は勝手に、その選択を救おうとした。
次。
〈相馬君は、あなたに自分の過去を評価してほしいと言いましたか。〉
求めていない。
〈人は、ときどき「助けたい」と「変えたい」を混同します。
私もそうでした。
相手を助けることと、自分が正しいと思う方向へ相手を動かすことは、似ていますが違います。〉
私は何度も読んだ。
〈先生ならどうしますか〉
送った。
返信。
〈聞きます。〉
〈何を?〉
〈何をしてほしい? と。〉
それだけだった。
第二十九章 何をしてほしい?
翌朝。
美緒の教室へ行った。
「美緒」
こちらを見る。
逃げなかった。
「一個だけ聞いていい?」
「何」
「今、私に何してほしい?」
美緒は驚いた顔をした。
「何それ」
「分かんないから」
「……」
「謝ってほしいなら謝る」
「うん」
「放っておいてほしいならそうする」
「うん」
「話聞いてほしいなら聞く」
「うん」
「でももう、美大行けとか社会学行けとか言わない」
美緒が黙る。
「何してほしい?」
長い沈黙。
「プリン」
「え?」
「駅のケーキ屋の」
「何で」
「高いやつ」
「五百円するじゃん」
「謝罪」
「分かった」
「二個」
「調子乗るな」
美緒が笑った。
私も笑った。
でも次の瞬間、
美緒が泣いた。
「葵」
「うん」
「私、美大行きたい」
「うん」
「まだ行きたい」
「うん」
「でも怖い」
「うん」
「お金も」
「うん」
「就職も」
「うん」
「親と喧嘩するのも嫌」
「うん」
「だから社会学にしようと思った」
「うん」
「それって自分で決めてない?」
私は首を振った。
「分かんない」
「前なら違うって言った」
「うん」
「今は?」
「美緒が決めたなら、美緒が決めたんだと思う」
「親に言われてても?」
「うん」
「影響されてても?」
「うん」
「なんで」
「誰にも影響されないで決めるなんて無理だから」
言いながら自分で気づいた。
私だってそうだ。
父。
母。
兄。
三枝先生。
美緒。
相馬。
みんなに影響されている。
その全部が混ざって、
私の選択になる。
「自分で決めるって」
私は言った。
「誰の意見も聞かないことじゃないのかも」
美緒が涙を拭く。
「遅い」
「ごめん」
「本当に遅い」
「プリン二個買う」
「三個」
「増えてる」
笑った。
「葵」
「何」
「私、まだ決めない」
「うん」
「夏まで両方考える」
「うん」
「美大も社会学も」
「うん」
「それでいい?」
私は言いかけた。
いいよ。
でも止めた。
「美緒はどう思う?」
美緒が笑った。
「ムカつく」
「先生に教わった」
「三枝先生?」
「うん」
「元教師ニート」
「今何してるんだろ」
「知らない」
二人で笑った。
「で」
美緒が言う。
「相馬は?」
「まだ」
「喧嘩したまま?」
「うん」
「原因私?」
「違う」
「何言ったの」
「弟のこと」
美緒の顔が曇る。
「それは葵が悪い」
「分かってる」
「最低」
「分かってる」
「プリンじゃ無理だね」
「何ならいい?」
「知らない」
私は相馬にLINEした。
〈話したい〉
既読になった。
返信。
〈今は無理〉
胸が痛んだ。
でも、
〈分かった〉
それだけ返した。
待つ。
それも、
私が今まで一番苦手だったことだった。
第三十章 待つということ
一週間。
相馬から連絡はなかった。
学校ですれ違っても、
「おはよう」
だけ。
別れたのかもしれない。
でも確認しなかった。
相馬が話したいと思うまで待つ。
三日目には、
それが正しいのか不安になった。
四日目には、
私からもう一度謝るべきだと思った。
五日目には、
このまま自然消滅する気がした。
六日目。
美緒に言った。
「もう連絡していいかな」
「知らない」
「冷たい」
「葵が決める」
「それ禁止」
「便利なのに」
「本当にどう思う?」
「連絡したければすれば」
「待つって言ったし」
「約束したの?」
「してない」
「なら連絡してもいいじゃん」
「でも相馬は今無理って」
「一週間前でしょ」
「うん」
「今は分かんないじゃん」
私は気づいた。
待つことも、
一度決めたら守り続けなければならない正解ではない。
その夜。
〈まだ話したくない?〉
送った。
十分後。
〈少しなら〉
駅前で会った。
相馬は少し痩せて見えた。
「久しぶり」
「学校で会ってる」
「ちゃんと話すの」
「うん」
「ごめん」
最初に言った。
「弟のこと」
「うん」
「言っていいことじゃなかった」
「うん」
「相馬が逃げてるって言ったのも」
「うん」
「ごめん」
「分かった」
「許す?」
「まだ分かんない」
以前なら怖かった答え。
今は頷いた。
「分かった」
二人でベンチに座った。
「俺も悪かった」
相馬が言った。
「何が?」
「藤野のこと、正解中毒みたいに言った」
「それは合ってる」
「合ってるんだ」
「最近分かった」
少し笑う。
「でもさ」
相馬は前を見る。
「俺、藤野に言われて腹立ったの、図星だったから」
「え?」
「逃げてた」
「弟のこと?」
「うん」
「でも」
「分からないって言えば考えなくていいときもある」
私は黙る。
「弟と話したあとも、俺、本当は先生に会いに行こうか迷ってた」
「前の?」
「殴った先生」
「なんで」
「謝るため」
「行った?」
「行ってない」
「行きたい?」
「分かんない」
相馬が苦笑する。
「ほら、また分かんない」
「分かんなくてもいいんじゃない」
「藤野がそれ言う?」
「成長した」
「一週間で?」
「人間は伸びる」
「受験ポスターみたい」
二人で笑った。
少し沈黙。
「藤野」
「うん」
「俺たち、付き合ってる?」
胸が跳ねた。
「私はそのつもり」
「俺も」
「じゃあ付き合ってる」
「簡単だな」
「何か問題?」
「一週間連絡してなかった」
「恋人って毎日連絡しなきゃ駄目?」
「知らない」
「じゃあいいじゃん」
「うん」
相馬が手を差し出した。
私は握った。
一週間ぶり。
手は温かかった。
「相馬」
「何」
「私たち別れることもあるよね」
「急だな」
「いつか」
「あるんじゃない」
「怖くない?」
「怖い」
「じゃあ」
「別れたくないから付き合わないって変じゃない?」
「そうだけど」
「藤野」
「何」
「終わるかもしれないものって、始めちゃ駄目なの?」
私は相馬を見る。
何も言えなかった。
友情も。
恋愛も。
夢も。
家族も。
永遠だから大切なのではない。
終わる可能性があっても、
今大切だから大切なのだ。
そんな簡単なことを、
私は十七年間知らなかった。
第三十一章 模試
六月。
全国模試。
私は東大D判定を取った。
人生で初めてだった。
紙を見た瞬間、
頭が真っ白になった。
数学で大失敗した。
国語も悪い。
英語だけはいつも通り。
校内順位は二十一位まで落ちた。
「まあ、この時期だから」
田島先生は言った。
「夏で戻せる」
「はい」
「第一志望変える?」
「……」
以前なら即答した。
変えません。
でも今回は迷った。
「少し考えます」
「分かった」
家に帰る。
父に見せた。
「D?」
「うん」
父の表情が曇る。
「何があった」
「数学」
「塾増やすか」
「まだいい」
「夏期講習は?」
「考える」
「葵」
「何」
「本当に東大行きたいのか?」
以前なら父は、
「頑張れ」
と言ったはずだった。
「分かんない」
「そうか」
「怒らないの?」
「何を」
「D判定」
「模試だろ」
「前なら怒った」
「そうだったか?」
「怒ったよ」
「忘れた」
「ずるい」
父が笑う。
「葵」
「うん」
「東大じゃなくてもいいぞ」
ずっと聞きたかった言葉。
なのに。
聞いた瞬間、
涙が出た。
「何で泣く」
「分かんない」
「行きたいのか?」
「分かんない」
「じゃあ泣くな」
「無理」
父がティッシュを渡す。
「お父さん」
「何だ」
「私、東大行きたいのかもしれない」
「そうか」
「お父さんが行けって言うからじゃなくて」
「うん」
「行かなくていいって言われたら」
「うん」
「行きたくなった」
「面倒くさいな」
「自分でも思う」
二人で笑った。
私はその夜、
初めて自分で赤本を買った。
兄のお下がりではない。
新品。
レジで三千円近く払った。
高いと思った。
でも嬉しかった。
これは私の赤本だった。
第三十二章 夢を諦める権利
七月。
美緒が美大を受けないと決めた。
「本当に?」
「うん」
「社会学?」
「そこもやめた」
「え?」
「教育学部」
「また変わった」
「悪い?」
「全然」
「美術教育やりたい」
「先生?」
「かもしれない」
「美術の?」
「まだ分かんない」
美緒は笑った。
「絵を仕事にするんじゃなくて、絵を好きな子に関わる仕事もいいかなって」
「絵は?」
「描くよ」
「趣味?」
「趣味って言葉、前は嫌いだった」
「なんで」
「本気じゃないみたいだから」
「今は?」
「趣味で本気でもいいじゃん」
私は笑った。
「美緒のお母さん喜んだ?」
「微妙」
「なんで」
「教育学部なら国立行けって」
「親ってすごいね」
「正解が次々出てくる」
二人で笑った。
「でもさ」
美緒が言う。
「夢を諦めるって、悪いことなのかな」
「どうしたの急に」
「夢は諦めるなってよく言うじゃん」
「うん」
「でも、もうやりたくなくなった夢を続けるのも変じゃない?」
「そうだね」
「昔の自分との約束って、守らなきゃ駄目?」
私は考えた。
「破っていいんじゃない」
「なんで?」
「昔の自分、今の自分より偉くないから」
美緒が笑った。
「それいい」
「でしょ」
「メモする」
「著作権あるよ」
「親友割」
「ない」
私たちは笑った。
十七歳の夢は、
一生の契約ではない。
変えていい。
諦めてもいい。
また始めてもいい。
それは敗北ではなく、
今の自分が昔の自分に投票し直すことなのかもしれない。
第三十三章 柴崎航平の曲
夏休みの初日。
三枝先生からメールが来た。
〈もし時間があれば、三人で来ませんか。〉
場所は小さなコンサートホールだった。
私。
美緒。
相馬。
三人で行った。
「三枝先生、音楽始めた?」
美緒が言う。
「まさか」
ホールの前に先生がいた。
「久しぶりです」
「先生、痩せた?」
「働いてないので健康です」
「逆じゃない?」
「最近は塾で国語を教えています」
「教師辞めて教師?」
「学校を辞めただけです」
先生らしかった。
「今日何?」
私が聞く。
「聞いてほしい曲があります」
ホールへ入る。
観客は五十人ほど。
小さなピアノコンサート。
プログラムを見る。
最後。
〈作曲 柴崎航平「未完成」〉
息が止まった。
「これ」
「はい」
三枝先生が言った。
「柴崎君が高校二年のときに作った曲です」
「なんで」
「お母様が楽譜を保管していました」
「演奏するの?」
「はい」
ステージに若いピアニストが出てきた。
最後の曲。
未完成。
静かな音から始まった。
私は音楽に詳しくない。
でも途中で、
変なところで音が途切れる。
また始まる。
少し明るくなる。
そして、
本当に途中で終わった。
最後の和音がない。
拍手していいのか分からない沈黙。
やがて拍手。
私は泣いていた。
隣を見る。
美緒も。
三枝先生も。
相馬だけは泣いていなかった。
でも目が赤かった。
コンサートのあと。
柴崎さんがいた。
「来てくれたのね」
「はい」
「どうでした?」
「分かりません」
私は答えた。
「でも、すごく」
言葉を探す。
「生きてる感じがしました」
柴崎さんが笑った。
「ありがとう」
「完成させないんですか」
美緒が聞いた。
「誰かが続きを作るとか」
「しません」
「なんで?」
「航平がどんな続きを書いたか、誰にも分からないから」
私は楽譜を見る。
「未完成のまま?」
「はい」
「悲しくないですか」
「前は悲しかった」
柴崎さんは言った。
「でも最近は、未完成だから航平らしいと思えるようになりました」
「どういう意味?」
「十七歳だったから」
胸が痛んだ。
「十七歳で完成している人なんていないでしょう?」
誰も答えなかった。
「夢も、考えも、性格も、人生も」
柴崎さんは笑った。
「全部途中だった」
私は思った。
私も途中だ。
美緒も。
相馬も。
十七歳だけではない。
三十八歳の三枝先生も。
父も。
母も。
兄も。
たぶん人間は、
死ぬまで完成しない。
それなのに私たちは、
今すぐ完成した答えを求める。
「柴崎さん」
私は聞いた。
「今、航平さんが生きてたら何してたと思います?」
女性はしばらく考えた。
「分かりません」
笑った。
「東大に行ったかもしれない」
「はい」
「音大かもしれない」
「はい」
「どっちも行かなかったかもしれない」
「はい」
「ピアノをやめていたかもしれない」
「はい」
「会社員になってたかもしれない」
「はい」
「結婚してたかもしれないし、してなかったかもしれない」
「はい」
「分からない」
柴崎さんは言った。
「だから最近、想像するのをやめました」
「寂しくないですか」
「寂しいですよ」
「じゃあなんで」
「私が作った航平の人生で、本当の航平を上書きしたくないから」
その言葉を、
私はずっと忘れないと思った。
第三十四章 十七歳最後の日
私の誕生日は八月二日。
十八歳になる前日。
美緒と相馬が家に来た。
「十七歳最後の日パーティー」
美緒がケーキを持ってきた。
「普通誕生日当日じゃない?」
「十八歳は大人だから祝わない」
「法律的にはもう成人だね」
相馬が言う。
「じゃあ十七歳送別会」
「何それ」
三人でケーキを食べた。
母が写真を撮った。
父は、
「勉強は?」
と言って母に怒られた。
夜。
三人で近所の公園へ行った。
ブランコ。
「十七歳どうだった?」
美緒が聞く。
「最悪」
相馬。
「何で」
「先生殴った過去バレるし、弟に殴られるし」
「彼女できたじゃん」
「それはよかった」
「私?」
美緒が言う。
「失恋した」
「ごめん」
相馬。
「もういい」
「美大やめた」
「うん」
「親と喧嘩した」
「うん」
「でもまあ、悪くなかった」
「葵は?」
二人が私を見る。
「疲れた」
「何に?」
「正解に」
二人が笑った。
「最初から最後までそれ」
「本当に」
私は空を見る。
夏の夜。
星はほとんど見えない。
「ねえ」
「何」
「十八歳になったら何か分かるかな」
「何が」
「人生」
相馬が笑う。
「一日で?」
「成人だから」
「無理でしょ」
「じゃあ二十歳?」
「無理」
「三十?」
「無理」
「三十八でも三枝先生分かってなかった」
美緒が言った。
「じゃあ一生?」
「たぶん」
私は笑った。
「それ、嫌じゃない?」
「前は嫌だった」
「今は?」
「ちょっと安心する」
「なんで?」
「答え出なくても、私だけじゃないから」
時計を見る。
午後十一時五十分。
「あと十分」
美緒が言う。
「何か十七歳のうちにやり残したことない?」
「ない」
「本当に?」
「たぶん」
相馬を見る。
目が合う。
「何」
「別に」
「キスしてないじゃん」
美緒が言った。
「は?」
「十七歳のうちにしとけば?」
「美緒!」
「私帰ろうかな」
「待って」
「お邪魔でしょ」
「違う!」
相馬が笑っている。
「笑うな」
「ごめん」
美緒が少し離れた。
「五分だけあっちいる」
「本当に行かなくていい!」
「青春して」
走っていった。
「最悪」
私は顔が熱かった。
相馬が隣に座る。
「する?」
「何を」
「キス」
「聞く?」
「勝手にしたら怒るだろ」
「……うん」
「じゃあ聞く」
「……」
「嫌?」
「嫌じゃない」
「じゃあ」
「待って」
「何」
時計を見る。
十一時五十七分。
「何で時間見るの」
「十七歳で初キスって、ちょっと普通すぎない?」
「そこ?」
「十八歳になってからにする」
「三分?」
「うん」
「何が違うんだよ」
「私が決めた」
相馬が笑った。
「分かった」
三分待った。
十一時五十九分。
美緒が遠くから叫ぶ。
「あと一分!」
「うるさい!」
「十!」
「まだ十秒じゃない!」
「九!」
「適当!」
「八!」
笑った。
「七!」
相馬も笑っている。
「六!」
私は思った。
十七歳。
たくさん間違えた。
「五!」
人を傷つけた。
「四!」
泣いた。
「三!」
怒った。
「二!」
好きになった。
「一!」
スマホの時計が変わる。
午前零時。
「十八歳!」
美緒が叫んだ。
「おめでとう!」
相馬が言った。
「おめでとう」
「ありがとう」
私は十八歳になった。
何も変わらなかった。
世界も。
私も。
相馬を見る。
「じゃあ」
「うん」
「今?」
「うん」
私たちは初めてキスをした。
三秒くらい。
美緒が遠くから、
「長い!」
と叫んだ。
「三秒!」
「十分!」
「見てたの?」
「見てない!」
「どっち!」
三人で笑った。
私は思った。
これが正解かどうかは、
知らない。
でも。
知らなくても、
嬉しいことは嬉しい。
それで十分な瞬間もある。
第三十五章 正解を捨てる
十八歳になっても、
受験は待ってくれない。
夏休み。
毎日十時間勉強した。
東大を目指す。
今度は自分で決めた。
だから楽になると思っていた。
ならなかった。
むしろ苦しかった。
自分で決めたからこそ、
逃げ場がない。
八月末。
数学の問題集を閉じた。
「無理」
机に突っ伏す。
スマホを見る。
美緒から写真。
美術館に行っている。
〈勉強しろ〉
送る。
〈今日は休み〉
〈受験生〉
〈葵こそ休め〉
相馬から。
〈英単語死ぬ〉
〈生きろ〉
〈会いたい〉
〈勉強しろ〉
〈彼女が冷たい〉
〈受験生だから〉
私は笑った。
そして突然思った。
自分で選んだ道なのに、
嫌になる。
これは間違った選択なのか。
以前ならそう考えた。
でも違う。
好きなことでも嫌になる。
自分で選んだ道でも逃げたくなる。
正解でも苦しいことはある。
不正解でも楽しいことはある。
感情は採点表ではない。
その夜、
私は赤本を閉じて寝た。
予定より二時間早く。
罪悪感があった。
でも眠った。
翌朝、
少し元気だった。
たったそれだけ。
人生はたぶん、
そういう小さな選択の連続なのだ。
第三十六章 もう一度、正解裁判
九月。
文化祭。
私たちは三年生になっていた。
三年A組の企画は喫茶店。
美緒のクラスはお化け屋敷。
相馬のクラスは演劇。
去年の教室の前を通る。
二年B組。
今年の企画名が貼ってあった。
〈正解裁判Ⅱ〉
「え?」
私は立ち止まった。
教室へ入る。
黒板。
赤と青のカード。
去年と同じ。
「三枝先生の企画、残ってる」
美緒が来た。
「誰がやったんだろ」
「今の二年生じゃない?」
司会の生徒が言う。
「次の問いです」
私たちは後ろに立った。
黒板に書かれる。
〈自分で選んだ人生なら、後悔してはいけないか〉
私は息を止めた。
青。
〈後悔してもいい〉
赤。
〈後悔すべきではない〉
「投票してください」
カードが上がる。
青が圧倒的だった。
私も青を上げた。
美緒も。
相馬も。
「では理由を」
一人の男子生徒が言った。
「自分で選んでも失敗するから」
女子生徒。
「後悔したら選び直せばいい」
保護者。
「自分で選んだ以上、責任は取るべき。でも後悔することとは別」
中学生。
「後悔しない人生ってつまらなそう」
笑いが起きる。
司会者が言った。
「では最後に、反対側の意見」
赤を上げていた老人が手を挙げた。
「私は、後悔しないと決めることも必要だと思います」
教室が静かになる。
「人生には選び直せないこともある」
老人は言った。
「だから、自分が選んだ道を正解にしていく覚悟も必要ではないでしょうか」
私は考えた。
それも分かる。
青も正しい。
赤も正しい。
そして、
どちらも完全ではない。
投票結果。
青七十三。
赤二十七。
司会者が黒板に書く。
私は去年の四十八対五十二を思い出した。
「葵」
美緒が言った。
「去年なら、どっち上げた?」
「赤かも」
「私は青」
「相馬は?」
「カード上げなかったかも」
「ずる」
「今は?」
「青」
三人とも同じ。
でも理由は違う。
それでいい。
教室を出ようとしたとき、
入口に見覚えのある人がいた。
「先生」
三枝先生だった。
「お久しぶりです」
「何してるの!」
「文化祭です」
「見れば分かる」
「招待状をいただきました」
「誰から?」
「今の二年生から」
先生は黒板を見る。
「続いてるんですね」
「先生のせい」
「責任重大ですね」
私は聞いた。
「先生」
「はい」
「今、正解ってあると思う?」
三枝先生が笑った。
「一足す一は?」
「二」
「では、あります」
「それ前も言った」
「答えも変わらないことがあります」
「人間のは?」
「さあ」
「ずるい」
「大人ですから」
「それも変わってない」
三枝先生が笑う。
「藤野さん」
「はい」
「あなたは?」
私は黒板を見る。
正解。
不正解。
二つの文字。
「あると思う」
美緒が私を見る。
相馬も。
「ただ」
私は続けた。
「一個じゃない」
「はい」
「それに、変わる」
「はい」
「人によっても違う」
「はい」
「昨日正解だったものが、今日違うこともある」
「はい」
「だから」
少し考える。
「正解って、答えじゃなくて」
「何ですか」
「そのときの自分が、選ぶために作るものなのかも」
三枝先生は答えなかった。
「何?」
「いえ」
「正解?」
「採点してほしいですか」
「いらない」
「なら、しません」
先生は笑った。
私も笑った。
第三十七章 結果
一月。
共通テスト。
二月。
東京大学二次試験。
試験会場へ向かう朝。
父が言った。
「頑張れ」
母が言った。
「忘れ物ない?」
兄からLINE。
〈落ちても料理人募集〉
〈絶対嫌〉
美緒。
〈受かったらプリン〉
〈落ちたら?〉
〈プリン〉
相馬。
〈終わったら会おう〉
〈うん〉
私は試験会場へ入った。
怖かった。
手が震えた。
自分で選んだ道。
だから後悔しない。
そんなことは思わなかった。
落ちたら後悔する。
もっと勉強すればよかったと思う。
別の大学にすればよかったと思うかもしれない。
それでも受ける。
後悔しないためではなく。
今、
受けたいから。
試験が始まった。
私は問題用紙を開いた。
春。
合格発表。
番号を探した。
何度も。
上から。
下から。
もう一度。
なかった。
私は東京大学に落ちた。
第三十八章 不正解の日
何も感じなかった。
最初は。
スマホを見る。
自分の受験番号。
もう一度掲示を見る。
ない。
「葵?」
母から電話。
「どうだった?」
「落ちた」
声にした瞬間、
涙が出た。
「そっか」
母はそれだけ言った。
「ごめん」
口から出た。
「何が?」
「落ちた」
「謝らなくていい」
「でも」
「帰っておいで」
電話を切る。
父には自分から連絡できなかった。
相馬から。
〈どうだった?〉
〈落ちた〉
既読。
〈会いに行く〉
〈来なくていい〉
〈分かった〉
美緒。
〈結果出た?〉
〈落ちた〉
〈プリン買った〉
私は泣きながら笑った。
家へ帰る。
父がいた。
「おかえり」
「ただいま」
「残念だったな」
「うん」
それだけ。
「怒らないの?」
「何を」
「落ちた」
「受験だから落ちる人もいる」
「お父さん受かったじゃん」
「一浪した」
「え?」
初めて聞いた。
「現役で落ちた」
「聞いてない」
「言ってないからな」
「お兄ちゃんは?」
「現役」
「ムカつく」
父が笑った。
「どうする」
「私大」
併願していた早稲田大学に合格していた。
「浪人もできるぞ」
「考える」
「そうしろ」
「お父さんなら?」
「俺の答え聞きたいか?」
私は少し考えた。
「参考には」
「浪人」
「やっぱり」
「でもお前はお前だ」
「分かってる」
部屋へ戻る。
赤本がある。
一年間使った。
ページは折れ、
書き込みだらけ。
私は泣いた。
悔しかった。
自分で選んだ。
だから悔しくない。
そんなわけがない。
自分で選んだからこそ、
悔しい。
「正解じゃなかった」
呟いた。
でもすぐに思った。
本当に?
合格したら正解。
落ちたら不正解。
そんな単純な話なのか。
分からない。
分からないまま、
私はその日を終えた。
第三十九章 後悔
三日間、
ほとんど何もしなかった。
四日目。
美緒が来た。
「プリン」
「遅い」
「賞味期限昨日」
「駄目じゃん」
「嘘。今日」
「最低」
二人で食べた。
「浪人する?」
「分かんない」
「早稲田?」
「分かんない」
「いいね」
「何が」
「分かんないって言えるようになった」
「先生みたい」
「褒めてる」
「美緒は?」
「教育学部受かった」
「知ってる。おめでとう」
「ありがとう」
「国立?」
「うん」
「親喜んだ?」
「めちゃくちゃ」
「美緒は?」
「私も嬉しい」
「ならよかった」
少し沈黙。
「葵」
「何」
「後悔してる?」
「してる」
即答した。
「何を?」
「もっと数学やればよかった」
「うん」
「秋に二日くらい遊んだ」
「二日?」
「うん」
「それ後悔する?」
「する」
「怖」
「あと、第一志望下げればよかったかなとか」
「うん」
「最初から私立に絞ればとか」
「うん」
「吹奏楽続けても結果同じだったんじゃないかとか」
「それは分かんない」
「全部分かんない」
「うん」
「でも」
私はプリンを食べる。
「受けなきゃよかったとは思わない」
「じゃあいいじゃん」
「そういうもの?」
「知らない」
二人で笑った。
「後悔しても、選択全部を否定しなくていいのかも」
私は言った。
「どういう意味?」
「数学もっとやればよかったって後悔と、東大受けたこと自体の後悔は別」
「なるほど」
「だから」
「うん」
「後悔って一個じゃない」
「葵、面倒くさい哲学者みたいになったね」
「三枝先生のせい」
「訴える?」
「負けそう」
笑った。
夕方。
相馬から電話。
「会える?」
「うん」
駅へ行く。
相馬は心理学部に合格していた。
「おめでとう」
「ありがとう」
「東京?」
「うん」
「よかった」
「藤野は?」
「まだ決めてない」
「浪人?」
「それも」
「早稲田?」
「それも」
「そっか」
相馬は何も勧めなかった。
「聞かないの?」
「何を」
「どうするのって」
「今聞いた」
「どっちがいいと思うって」
「俺が決める?」
「参考」
「藤野が来年東大行きたいなら浪人」
「うん」
「大学でやりたいことあるなら早稲田」
「普通」
「普通で悪い?」
「悪くない」
「あと」
「何」
「浪人したら会う時間減る」
「自分都合」
「早稲田なら近い」
「それで早稲田勧める?」
「勧めない」
「なんで」
「それで決められたら嫌だから」
私は笑った。
「成長したね」
「誰目線」
「彼女」
「上から」
二人で歩いた。
「相馬」
「うん」
「私、早稲田行くかもしれない」
「うん」
「東大諦めるかもしれない」
「うん」
「それって逃げかな」
「逃げでもいいんじゃない」
「え?」
「三枝先生言ってただろ」
「逃げるのがいつも間違いじゃない?」
「うん」
「でも」
「藤野」
「何」
「逃げたのか、選んだのかって、そんな大事?」
足が止まった。
「どういう意味?」
「早稲田行って楽しかったら、逃げたかどうかどうでもよくない?」
「でも」
「浪人して東大受かっても、あのとき早稲田行けばよかったって思うかもしれない」
「うん」
「どっちも分かんない」
「うん」
「なら今選ぶしかない」
私は相馬を見る。
「それ、昔の私みたい」
「自分で決めろって?」
「うん」
「違うよ」
「何が?」
「決められないなら、決められないまま期限まで悩めばいい」
私は笑った。
「それでいい?」
「知らない」
「正解?」
「知らない」
「便利だね」
「最高」
私は相馬の手を握った。
第四十章 卒業
三月。
卒業式。
体育館。
名前を呼ばれる。
「藤野葵」
「はい」
返事をした。
卒業証書。
高校三年間。
いや、
私にとっては十七歳だった一年間が、
異様に長かった。
式が終わる。
校庭で写真。
美緒。
相馬。
三人で並ぶ。
「最初の写真覚えてる?」
美緒が言った。
「何」
「二年の文化祭」
「ああ」
「あのとき相馬のこと好きだった」
「知ってる」
「私も好きだった」
「知ってる」
「俺モテる」
「黙れ」
二人で言った。
笑う。
「これから別々だね」
美緒が言う。
「うん」
「寂しい?」
「ちょっと」
「ちょっと?」
「かなり」
「素直」
「成長した」
相馬が言う。
「俺たちも別れるかもな」
「卒業式に言う?」
「だって大学違うし」
「まだ私決めてない」
「そうだった」
美緒が笑う。
「別れても三人で会おうね」
「それ地獄じゃない?」
「元彼と元彼を好きだった親友」
「昼ドラ」
「高校生だったのに」
三人で笑った。
校門を出る前。
私は振り返った。
校舎。
二年B組の窓。
あの教室で、
私は最初に紙へ書いた。
〈期待を裏切らないこと〉
今なら何を書く。
考えた。
分からない。
やっぱり分からない。
でも、
それでいい。
校門を出た。
誰も、
「これが正解」
とは言わなかった。
第四十一章 選ばなかった道
卒業から一週間。
私は早稲田大学への進学を決めた。
浪人しない。
東大をもう一度受けない。
父に言った。
「そうか」
「反対?」
「少し」
「少し?」
「お前なら来年受かるかもしれないと思う」
「うん」
「でも早稲田もいい大学だ」
「お母さんと同じだしね」
「それは関係ない」
「本当?」
「少しある」
父が笑う。
「決めたのか」
「うん」
「後悔するぞ」
私は笑った。
「すると思う」
「するのか」
「たぶん」
「それでも?」
「うん」
「そうか」
父は頷いた。
「なら行ってこい」
「ありがとう」
部屋に戻る。
赤本を本棚へ入れた。
捨てなかった。
東大に行かなかった人生。
それが私の人生になる。
でも、
東大へ行ったかもしれない私は、
たぶん一生どこかにいる。
選ぶということは、
選ばなかった自分を殺すことではない。
ときどき思い出すこと。
あっちだったらどうだったかな、と。
それでいい。
選ばなかった道を想像することと、
今の道を否定することは、
同じではない。
第四十二章 誰かの正解
四月。
大学生になった。
入学式。
知らない人ばかり。
新しい教室。
新しい先生。
新しい友達。
「どこ高校?」
「東京」
「第一志望?」
初対面の子に聞かれた。
一瞬止まる。
「違う」
「私も」
その子が笑った。
「どこ落ちた?」
「東大」
「え、頭いいじゃん」
「落ちたから同じ」
「確かに」
二人で笑った。
それだけだった。
高校時代、
あんなに大きかった東大が、
大学に入った瞬間、
少し小さくなった。
不思議だった。
世界は、
自分がいる場所によって大きさを変える。
美緒は国立大学の教育学部。
相馬は私立大学の心理学部。
三人のグループLINEは今も動いている。
〈大学どう?〉
美緒。
〈迷子〉
私。
〈友達ゼロ〉
相馬。
〈ざまあ〉
美緒。
〈藤野は?〉
〈一人できた〉
〈裏切り〉
〈早く作れ〉
私は笑った。
授業が始まる。
最初の講義。
教授が黒板に書いた。
〈あなたにとって幸福とは何か〉
思わず笑った。
「何かおかしい?」
教授に聞かれた。
「すみません」
「では、そこのあなた」
「はい」
「幸福とは何ですか」
教室中が私を見る。
高校二年の私なら、
正しい答えを探した。
高校三年の私なら、
自分の答えを探した。
今の私は。
「分かりません」
そう答えた。
教室が少し笑う。
教授も笑った。
「では、この授業で考えてください」
「はい」
ノートを開く。
一番上に書いた。
〈幸福とは何か〉
その下。
〈分からない。〉
さらに、その下。
〈だから考える。〉
ペンを置いた。
窓の外は春だった。
最終章 正解のない教室
それから一年後。
私は十九歳になった。
三枝先生から突然メールが来た。
〈久しぶりに、正解裁判をしませんか。〉
場所は高校ではなかった。
小さな市民ホール。
三枝先生は今、
フリースクールで国語を教えていた。
「結局先生じゃん」
美緒が言った。
「学校の先生ではありません」
「同じでしょ」
「違います」
「こだわるね」
相馬も来た。
三人とも少し変わっていた。
美緒は髪を短くした。
相馬は眼鏡をかけた。
私は――
「葵、太った?」
「美緒」
「二キロ?」
「帰る」
「嘘、かわいい」
「遅い」
三人で笑った。
ホールには中学生と高校生が集まっていた。
テーマ。
〈正解〉
三枝先生が私たちを紹介した。
「この企画を最初にやった生徒たちです」
「元生徒です」
相馬が言う。
「今は大学生」
美緒。
「偉くなりました」
私。
「なってません」
先生。
笑い。
最後の問い。
三枝先生が黒板に書く。
〈自分の人生は、自分のものか〉
会場が静かになった。
「自分のものだと思う人」
ほとんど全員が手を挙げた。
私も。
美緒も。
相馬も。
「では」
三枝先生が続ける。
「自分の人生なら、何をしても自由ですか」
手が減った。
「他人を傷つけても?」
さらに減る。
「家族を捨てても?」
何人か下ろす。
「夢を諦めても?」
また変わる。
「誰かの期待通りに生きても?」
私は手を止めた。
三枝先生がこちらを見る。
「藤野さん」
「何で私」
「答えてください」
「また?」
「卒業生代表」
「勝手に決めないで」
笑い。
私は前に出た。
十九歳。
あのときより二歳年上。
でも何も完成していない。
「自分の人生は自分のものか」
私は黒板を見る。
「私は、そうだと思います」
何人か頷く。
「でも」
続ける。
「自分だけのものではないとも思います」
会場が静かになる。
「家族とか、友達とか、好きな人とか」
美緒を見る。
相馬を見る。
「私が何かを選んだら、誰かが喜んだり、悲しんだりする」
父を思い出す。
兄を思い出す。
「だから『私の人生なんだから口出ししないで』だけでは、たぶん生きられない」
三枝先生を見る。
「でも、誰かが悲しむからって、全部その人の言う通りにもできない」
柴崎航平を思う。
会ったことのない、
永遠に十七歳の人。
「じゃあどうすればいいのか」
少し笑った。
「分かりません」
会場から笑い。
「本当に分からない」
私は言った。
「でも、たぶん」
黒板に書く。
〈話す〉
「これしかないのかなと思います」
親と。
友達と。
先生と。
恋人と。
そして自分と。
「相手の答えを変えるためじゃなくて」
もう一つ書く。
〈聞く〉
「自分が正しいって証明するためでもなくて」
もう一つ。
〈変わる〉
「話して、聞いて、それで自分の答えが変わってもいい」
美緒が笑っている。
「一回決めたことを変えてもいい」
相馬も。
「夢を諦めてもいい」
兄。
「夢を変えてもいい」
父。
「親の言う通りにしてもいい」
母。
「反対してもいい」
三枝先生。
「逃げてもいい」
柴崎さん。
「後悔してもいい」
私は黒板を見る。
「ただ」
最後に書いた。
〈誰かの正解を、自分の正解だと思い込まない。〉
書いてから、
少し考えた。
消した。
会場がざわつく。
「消すの?」
美緒が言った。
「うん」
「なんで」
「これも正解っぽいから」
笑いが起きた。
私は黒板を全部消した。
話す。
聞く。
変わる。
全部消した。
真っ白な黒板。
「これでいい」
私は言った。
三枝先生が聞く。
「何もないですよ」
「うん」
「答えは?」
「ない」
「本当に?」
「今は」
私はチョークを置いた。
「必要になったら、そのとき書く」
会場は静かだった。
誰かが拍手した。
拍手が広がる。
でも私は、
それが正しい答えだったから拍手されたとは思わなかった。
たまたま今、
そこにいた人たちに届いただけ。
明日なら違うかもしれない。
十年後なら、
私は自分の言葉を恥ずかしいと思うかもしれない。
それでいい。
ホールを出る。
三人で駅へ向かう。
「葵」
美緒が言った。
「何」
「今日の話、結局何が言いたかったの?」
「分かんない」
「長々喋ったのに?」
「うん」
「詐欺」
相馬が笑う。
「でもさ」
「何」
「正解がないっていうのが正解なんじゃない?」
「それも違う」
「なんで?」
「正解あることもあるから」
「例えば?」
「一足す一」
三人で声を合わせた。
「二」
笑った。
駅前。
信号が赤になる。
三人で止まる。
美緒が聞いた。
「ねえ、十七歳に戻れるなら戻りたい?」
「嫌」
相馬が即答。
「私も」
美緒。
二人が私を見る。
私は考えた。
十七歳。
父に嫌われるのが怖かった。
兄の人生を間違いだと思った。
美緒を傷つけた。
相馬を傷つけた。
三枝先生の正解を求めた。
東大へ行こうとした。
落ちた。
泣いた。
笑った。
恋をした。
友達と喧嘩した。
仲直りした。
何度も答えを出した。
何度も変えた。
「戻りたくない」
私は言った。
「なんで?」
「疲れるから」
二人が笑った。
「でも」
信号が青になる。
「十七歳の私に、一個だけ言えるなら言いたい」
「何?」
歩き出す。
私は考える。
頑張れ。
大丈夫。
自分を信じろ。
好きなことをしろ。
後悔するな。
どれも違う。
だから私は、
たぶんこう言う。
「そんなに急いで、正解にならなくていいよ」
美緒が笑った。
「いいじゃん」
相馬も。
「それ正解?」
私は笑った。
「知らない」
三人で横断歩道を渡った。
誰かが決めた正しい歩き方なんてない。
ただ赤では止まり、
青になったから進む。
それくらいの正解なら、
あってもいい。
その先で右へ行くか、
左へ行くか。
立ち止まるか。
引き返すか。
誰かと歩くか。
一人になるか。
それは、
そのとき考えればいい。
十九歳の私は、
まだ何者でもない。
将来何をするのかも、
誰と生きるのかも、
今の恋がいつまで続くのかも、
何一つ知らない。
でも。
分からない未来を、
以前ほど怖いとは思わない。
答えのない問題を、
白紙のまま提出する必要もない。
締め切りまで、
考え続ければいい。
途中で書き直してもいい。
消してもいい。
誰かの答えを見てもいい。
真似してみてもいい。
違うと思えばやめればいい。
そして、
どうしても分からないときは。
分からない。
そう書けばいい。
たぶん人生は、
採点されない。
少なくとも、
最後まで生きている私には、
まだ採点できない。
だから今日も私は、
答えのない教室を出る。
次の問いを持ったまま。
誰かの正解ではなく。
自分だけの正解ですらなく。
まだ名前のついていない、
これから変わっていく答えと一緒に。
春の風が吹いた。
美緒が前を歩く。
相馬が隣を歩く。
「葵、早く!」
「置いてくぞ」
「待って」
私は走った。
正しい方向かどうかなんて、
確かめなかった。
今はただ、
二人のいるほうへ走りたかった。
それが今日の私の答えだった。
明日の答えは、
まだ知らない。
第四十三章 正しい告発
卒業式まで、あと十二日だった。
その日、私は田島先生に呼び出された。
「藤野、ちょっといいか」
放課後だった。
進路指導室には誰もいなかった。
田島先生は扉を閉めた。
「座って」
「はい」
机の上に一枚の紙が置かれていた。
模試の成績表だった。
私のものではない。
名前。
杉原直人。
三年A組。
私と同じクラス。
ほとんど話したことはない。
静かな男子だった。
「杉原君がどうかしたんですか」
「藤野は、これを見たことある?」
紙を渡される。
十一月の校内模試。
数学百点。
「ないです」
「本当に?」
「はい」
「杉原と仲いい?」
「普通です」
「普通って?」
「同じクラスというだけです」
先生はしばらく黙った。
「分かった」
「何なんですか」
「いや」
「先生」
「何?」
「何か疑ってます?」
田島先生は眼鏡を外した。
「数学の問題が事前に漏れていた可能性がある」
「え?」
「十一月の校内模試」
「誰から?」
「それを調べてる」
「杉原君が?」
「まだ分からない」
「じゃあ何で私に?」
「学級委員だったから。何か変わったことがなかったかと思って」
「ありません」
「そうか」
私は紙を返した。
立ち上がる。
「藤野」
「はい」
「このことは、まだ誰にも言わないで」
「分かりました」
廊下へ出た。
歩きながら思った。
杉原直人。
どんな人だっただろう。
毎日同じ教室にいた。
一年間。
なのにほとんど知らない。
席は窓側。
昼休みはいつも参考書を読んでいた。
部活には入っていない。
文化祭では会計係だった。
それくらい。
靴箱へ向かう。
「藤野」
振り返った。
杉原だった。
「今、田島に呼ばれてた?」
「うん」
「何の話?」
答えられなかった。
「進路」
嘘をついた。
「そっか」
杉原は笑った。
「東大どうだった?」
胸が少し痛んだ。
「落ちた」
「あ」
「大丈夫」
「ごめん」
「杉原は?」
「受かった」
「どこ?」
「医学部」
「すご」
「地方だけど」
「それでもすごいじゃん」
「ありがとう」
杉原は少し笑った。
その笑顔を見ながら、
私は田島先生の言葉を思い出していた。
問題が漏れた。
数学百点。
医学部合格。
「じゃあ」
杉原が去る。
その背中を見た。
もし。
もし本当に不正をしていたら。
医学部合格はどうなるのだろう。
学校は大学へ連絡するのだろうか。
推薦ではない。
校内模試だから大学入試そのものには関係ない。
でも調査はされるだろう。
私は知らないふりをした。
それが正しいと思った。
まだ何も分かっていない。
決めつけるべきではない。
その日の夜。
知らないアドレスからメールが届いた。
〈藤野さんへ。
杉原君のことで、先生に何か聞かれましたか。〉
差出人の名前はなかった。
第四十四章 匿名
返信しなかった。
十分後。
もう一通。
〈杉原君は悪くありません。〉
心臓が速くなる。
〈誰ですか〉
送った。
返事。
〈名前は言えません。〉
〈なら話せません〉
〈お願いします〉
〈何を?〉
〈先生に何も言わないでください〉
私はスマホを置いた。
知らない人。
匿名。
杉原は悪くない。
先生に何も言うな。
意味が分からない。
十分ほど考えた。
〈事情を説明してください〉
返事はすぐだった。
〈問題を渡したのは私です。〉
息が止まる。
〈あなたは誰?〉
〈言えません〉
〈どうして杉原君に?〉
しばらく返信がなかった。
〈助けたかったからです。〉
その一文。
助けたかった。
嫌な言葉だった。
〈何から?〉
〈杉原君は医学部に行かなければならなかったから〉
〈どういう意味?〉
〈家の事情です〉
〈本人は問題を見たの?〉
返事が止まる。
〈見たんですか〉
五分。
〈はい〉
私は目を閉じた。
見た。
なら不正だ。
単純な話に思えた。
〈それは不正です〉
送る。
〈分かっています〉
〈なら先生に話してください〉
〈できません〉
〈なぜ〉
〈杉原君の合格が取り消されるかもしれない〉
〈校内模試ですよ〉
〈学校が大学に連絡すると言っています〉
そこまで調査が進んでいるのか。
〈あなたは学校の人?〉
返事がない。
〈先生?〉
既読表示はない。
メールだから分からない。
〈誰なんですか〉
十分後。
〈卒業まで黙っていてください。お願いします。〉
それきりだった。
私は眠れなかった。
正しいことは簡単だった。
不正は不正。
報告する。
終わり。
でも。
なぜ杉原は医学部に行かなければならなかったのか。
誰が問題を渡したのか。
なぜ私に連絡したのか。
翌朝。
教室へ入る。
杉原がいた。
いつも通り参考書を読んでいる。
「おはよう」
「おはよう」
私は自分の席へ行った。
聞けばいい。
問題を見た?
それだけ。
でも聞けなかった。
昼休み。
美緒と相馬を呼んだ。
三人で屋上へ行った。
全部話した。
「それ先生に見せたほうがいい」
美緒が言った。
「メール?」
「うん」
相馬は黙っていた。
「相馬は?」
「分かんない」
「また?」
「だって、匿名だろ」
「うん」
「嘘かもしれない」
「でも杉原が疑われてるのは本当」
「なら余計、藤野が動かないほうがよくない?」
「どうして?」
「捜査官じゃないんだから」
「でも」
「先生が調べてるんだろ」
「うん」
「任せれば」
美緒が言った。
「でもメール来てるの葵だよ」
「だから何?」
「何か知ってると思われてるんじゃない?」
「私は何も知らない」
「相手はそう思ってないかも」
三人とも黙る。
「ねえ」
私は言った。
「もし杉原が問題見てたら、どう思う?」
「不正」
美緒は即答した。
「相馬は?」
「不正だろ」
「じゃあ告発する?」
美緒が止まった。
「それは……」
「何?」
「事情による」
「不正なのに?」
「不正だけど」
「ほら」
私は言った。
「正しいこと分かってるのに、できない」
相馬がため息をつく。
「正しいことって何」
「不正を報告する」
「それはルールとしてだろ」
「じゃあルール守らなくていい?」
「そうじゃない」
「じゃあ何」
「藤野」
相馬が私を見る。
「また正解探してる」
「だって」
「誰かに決めてほしい?」
何も言えなかった。
決めてほしかった。
ものすごく。
誰かに、
告発しろ。
あるいは、
黙っていろ。
と言ってほしかった。
そして私は、
その通りにしたかった。
第四十五章 杉原直人
放課後。
杉原を呼び止めた。
「話せる?」
「何?」
「二人で」
空き教室へ入った。
扉を閉める。
「十一月の模試」
杉原の顔が変わった。
それだけで分かった。
「数学の問題、事前に見た?」
沈黙。
「杉原」
「誰から聞いた?」
「答えて」
「田島?」
「違う」
「じゃあ誰」
「見たの?」
杉原は椅子に座った。
長い沈黙。
「見た」
胸が沈む。
「全部?」
「数学だけ」
「誰から?」
「言えない」
「なんで」
「迷惑かける」
「もうかかってる」
「藤野には関係ない」
「私にメール来た」
杉原が顔を上げた。
「メール?」
「知らない人から」
「何て?」
「問題渡したのは自分だって」
杉原の顔が青くなった。
「見せて」
「嫌」
「頼む」
「誰なの」
「……」
「杉原」
「姉」
「え?」
「俺の姉」
想像していなかった。
「お姉さん?」
「この学校の卒業生」
「でもどうやって問題を」
「塾」
「塾?」
「模試作ってる会社でバイトしてた」
「大学生?」
「うん」
「そこから持ち出した?」
「たぶん」
「たぶんって」
「俺は聞いてない」
「でも見た」
「うん」
「なんで?」
杉原は黙った。
「医学部に行かなきゃいけない家の事情って何?」
「そこまで言ったのか」
「うん」
杉原が机を見る。
「父親が医者」
「うん」
「祖父も」
「うん」
「病院継げって」
私は息を吐いた。
「それだけ?」
杉原が私を睨んだ。
「それだけって何」
「いや」
「藤野にはそれだけなんだ」
「違う」
「親に期待されるの嫌だったんだろ?」
驚いた。
「なんで知ってるの」
「有名じゃん」
「何が」
「文化祭」
「あ」
「正解裁判」
「見てた?」
「いたよ」
「知らなかった」
「だろうな」
杉原が笑った。
「藤野は自分のことで精いっぱいだったから」
少し刺さった。
「ごめん」
「謝らなくていい」
「それで?」
「何が」
「医学部」
「俺は行きたかった」
「本当に?」
「その質問嫌い」
美緒と同じだった。
「ごめん」
「父親に言われたから行きたいと思ったのかもしれない」
「うん」
「小さい頃から病院で育ったからかもしれない」
「うん」
「医者以外の仕事を知らなかっただけかもしれない」
「うん」
「でも行きたい」
「うん」
「それじゃ駄目?」
「駄目じゃない」
「ならいい」
「でも問題は見た」
「うん」
「どうして」
杉原は黙る。
そして言った。
「怖かった」
「何が?」
「落ちるのが」
「模試で?」
「ずっとA判定だった」
「うん」
「一回でも下がったら父親が何言うか」
「怒る?」
「怒らない」
「じゃあ」
「がっかりする」
私は何も言えなくなった。
「怒られるほうが楽なんだよ」
杉原は言った。
「分かる?」
「少し」
「父親は怒鳴らない。殴らない。勉強しろともほとんど言わない」
「うん」
「ただ成績見て、『直人ならもっとできると思ってた』って言う」
胸が痛んだ。
「姉はそれで壊れた」
「え?」
「医学部二浪して、三年目に受験やめた」
「……」
「今は大学行ってるけど」
「それでお姉さんが?」
「たぶん俺を助けようとした」
「問題渡して?」
「うん」
「でも」
「分かってる」
杉原が遮った。
「間違ってる」
「……」
「俺も分かってた」
「じゃあなんで見たの」
「藤野」
「何」
「間違ってるって分かってたら、人間は間違えないの?」
答えられなかった。
「俺、見たよ」
「うん」
「姉から送られてきたファイル開いた」
「うん」
「最初は閉じようと思った」
「うん」
「でも一問だけ見た」
「うん」
「一問見たら、もう同じだと思った」
「……」
「だから全部見た」
杉原が笑った。
悲しい笑い方だった。
「百点だった」
「うん」
「嬉しかった」
「……」
「それが一番嫌だった」
私は何も言えなかった。
第四十六章 罰
「先生に言うの?」
杉原が聞いた。
「分からない」
「言っていいよ」
「え?」
「もう調べられてるし」
「でも」
「俺がやったのは本当だから」
「大学は?」
「分かんない」
「合格取り消されたら?」
「仕方ない」
その言葉に、
私は腹が立った。
「仕方なくないでしょ」
「じゃあどうしろって」
「そんな簡単に」
「簡単じゃない!」
杉原が初めて大きな声を出した。
「俺だって怖いよ!」
「……」
「医学部受かったんだよ」
「うん」
「六年間行くつもりだった」
「うん」
「医者になるつもりだった」
「うん」
「全部なくなるかもしれない」
杉原の目に涙が浮かんだ。
「怖いに決まってるだろ」
「じゃあ」
「でも俺がやった」
「うん」
「だから罰受ける」
「それが正しい?」
「知らないよ!」
声が響いた。
「俺に聞くなよ!」
私は黙った。
「みんな聞くんだよ」
杉原が言う。
「どうしたい。何がしたい。自分で決めろ」
「……」
「そんなの分かんないよ」
「うん」
「まだ十八だぞ」
「うん」
「何で全部自分で決めなきゃいけないんだよ」
私は胸を突かれた。
「親の言う通りにするな」
「うん」
「先生に従うな」
「うん」
「自分で考えろ」
「うん」
「でも間違えたら自己責任」
「……」
「それって楽か?」
何も言えなかった。
「俺は父親の言う通り医者になりたかった」
「うん」
「それでよかったんだよ」
「うん」
「なのに姉は、直人は自分の人生を生きろって言う」
「うん」
「先生は自分で進路を決めろって言う」
「うん」
「友達は医者なんて大変だからやめろって言う」
「うん」
「全員違う正解持ってくる」
杉原は泣いていた。
「もう誰か決めてくれよって思う」
その言葉。
私はずっと言えなかった。
でも何度も思っていた。
誰か決めて。
私の代わりに。
「杉原」
「何」
「分かる」
「何が」
「私もそうだった」
「今は違うだろ」
「今もあるよ」
「……」
「東大落ちて、浪人するか早稲田行くか」
「うん」
「誰か決めてほしい」
「……」
「自分で選ぶの、疲れる」
杉原が少し笑った。
「正解裁判の人が?」
「だから疲れた」
二人で笑った。
おかしな時間だった。
不正をした人。
それを知った人。
本来なら、
もっと緊張する場面だったと思う。
「杉原」
「うん」
「先生に自分から話したら?」
「……」
「告発じゃなくて」
「うん」
「自分で」
「怖い」
「うん」
「大学に連絡されたら」
「うん」
「父親にも」
「うん」
「姉も」
「うん」
「全部壊れる」
「かもしれない」
「それでも?」
私は答えられなかった。
それでも言え。
とは言えない。
私が失うわけではないから。
「何をしてほしい?」
私は聞いた。
杉原が顔を上げる。
「何?」
「私に」
「……」
「先生に言ってほしい?」
「……」
「黙っててほしい?」
「……」
「一緒に行ってほしい?」
杉原の目から涙が落ちた。
「一緒に来て」
私は頷いた。
「分かった」
第四十七章 職員室まで
職員室まで、
二分もかからない。
でもその日は、
十分くらい歩いた気がした。
「やっぱやめる」
杉原が三回言った。
一回目。
「分かった」
私は止まった。
「止めないの?」
「止めてほしい?」
「分かんない」
「じゃあ待つ」
二分。
「行く」
歩く。
二回目。
「無理」
「分かった」
止まる。
「藤野」
「何」
「イライラしない?」
「する」
「するんだ」
「するよ」
「じゃあ何で」
「私が決めることじゃないから」
「……」
三回目。
職員室の十メートル手前。
「帰りたい」
「帰る?」
「……」
「杉原?」
「五分だけ」
「うん」
廊下の窓から校庭を見る。
運動部が練習している。
卒業まで十二日。
高校生活が終わる。
その十二日前に、
杉原の人生は大きく変わるかもしれない。
「藤野」
「何」
「正直に言ったら、許されると思う?」
「分かんない」
「先生は?」
「分かんない」
「大学は?」
「分かんない」
「父親は?」
「分かんない」
「何も分かんないじゃん」
「うん」
「役に立たない」
「ごめん」
杉原が笑った。
「でも」
「何」
「ちょっと楽」
「何が」
「分かんないって言われるの」
私は杉原を見る。
「絶対大丈夫とか言われるより」
「うん」
「怖いけど」
「うん」
「嘘じゃないから」
五分。
杉原が歩き出した。
職員室。
田島先生がいた。
「先生」
「杉原?」
「話があります」
先生が私を見る。
「藤野も?」
「一緒に来てもらいました」
「そうか」
会議室へ移動した。
杉原が全部話した。
姉から問題を受け取ったこと。
見たこと。
模試で百点を取ったこと。
姉が問題を持ち出したこと。
田島先生は途中で一度も止めなかった。
全部聞いたあと。
「分かった」
と言った。
「大学に連絡しますか」
杉原が聞いた。
「私一人では決められない」
「そうですか」
「校長と相談する」
「はい」
「お姉さんにも話を聞く必要がある」
「はい」
「模試会社にも」
「はい」
「かなり大きな問題になる」
「はい」
杉原の声が震える。
「覚悟はしてる?」
その質問。
私は田島先生を見る。
杉原はしばらく黙った。
「してません」
先生が少し驚いた。
「怖いです」
「うん」
「合格取り消されたくないです」
「うん」
「姉にも迷惑かけたくない」
「うん」
「父親にも知られたくない」
「うん」
「できれば、何もなかったことにしたい」
「うん」
「でも」
杉原は泣きながら言った。
「やったことは消せないので」
先生は頷いた。
「分かった」
それだけだった。
会議室を出る。
杉原が私を見る。
「終わった」
「まだ」
「何が」
「これからでしょ」
「そうだな」
「うん」
「藤野」
「何」
「ありがとう」
「何もしてない」
「それがよかった」
意味が分からなかった。
「何もしてないのが?」
「うん」
「役に立ってないじゃん」
「だから」
杉原が笑った。
「俺の代わりに正しくなろうとしなかった」
その言葉を、
私は長い間覚えていた。
第四十八章 正義の値段
杉原の件は、
卒業式まで学校中に広まった。
誰が漏らしたのか分からない。
〈三年A組の医学部合格者がカンニング〉
〈模試問題を事前入手〉
〈大学に通報されるらしい〉
SNS。
匿名アカウント。
掲示板。
噂は事実より速かった。
そして事実より派手だった。
〈入試問題も買ったらしい〉
〈親が医者で金払った〉
〈学校が隠蔽してる〉
全部嘘。
でも広がった。
杉原は学校を休んだ。
三日。
四日。
五日。
「かわいそう」
美緒が言った。
「でも不正したのは本当」
相馬。
「分かってる」
「難しいな」
「うん」
ネットでは正義が増殖していた。
〈医者になる資格なし〉
〈一生受験禁止にしろ〉
〈こういう奴が患者殺す〉
〈親の病院も調べろ〉
私はスマホを閉じた。
「何でここまで言えるんだろ」
美緒が言った。
「顔見えないから?」
「それだけかな」
相馬が言う。
「悪い奴って決まったら、何言っても正義になるからじゃない?」
私は思い出した。
柴崎航平。
正しい言葉。
人を傷つける正義。
「不正した人を批判するのは間違い?」
私が聞く。
「間違いじゃない」
美緒。
「じゃあどこから間違い?」
「分かんない」
「医者になる資格なしは?」
「言いすぎ」
「一生受験禁止は?」
「言いすぎ」
「じゃあ、模試の点を無効にしろは?」
「それは普通」
「大学へ知らせろは?」
美緒が止まる。
「それは……」
相馬が言った。
「結局、罰って誰が決めるんだろうな」
法律。
学校。
大学。
社会。
被害を受けた人。
本人。
「悪いことしたら罰を受ける」
私は言った。
「それ自体は分かる」
「うん」
「でも、どれくらい?」
誰も答えられなかった。
正義には、
値段表がない。
第四十九章 姉
卒業式の五日前。
杉原から連絡が来た。
〈姉が藤野さんに会いたいって〉
駅前の喫茶店。
杉原の姉、
杉原麻衣は二十二歳だった。
想像より普通の人だった。
眼鏡。
黒いコート。
小さなリュック。
「ごめんなさい」
最初に言われた。
「何がですか」
「メール」
「ああ」
「突然」
「どうして私に?」
「直人が話してたから」
「私のこと?」
「文化祭の正解裁判」
またそれ。
「直人、あれ見て帰ってきて、珍しく学校の話したんです」
「何て?」
「正解って何だろうって」
「……」
「それで藤野さんの名前を覚えてた」
「そうなんですね」
「だから」
「私なら黙ってくれると思った?」
「違います」
「じゃあ」
「助けてくれると思った」
胸がざわついた。
「何を?」
「直人を」
「問題を渡しておいて?」
言葉が強くなった。
「はい」
「それ助けたことになるんですか」
「なりません」
即答だった。
「分かってます」
「じゃあ何で」
「私も分からない」
「……」
「父が怖かったんです」
「お父さん?」
「直人が模試で失敗したら、また同じことになると思った」
「同じ?」
「私と」
麻衣さんはコーヒーを見る。
「私は医学部に行きたくなかった」
「はい」
「でも父に言えなかった」
「はい」
「二浪しました」
「聞きました」
「二年目の受験が終わった夜、自殺しようとしました」
私は息を止めた。
「できなかったけど」
「……」
「それで初めて父に言いました。医者になりたくないって」
「はい」
「父は泣きました」
「怒らなかった?」
「怒らなかった」
麻衣さんが笑った。
「それが一番つらかった」
杉原と同じだった。
「ごめんって言われました」
「……」
「そんなに嫌なら言ってくれればよかったって」
「はい」
「でも言えるわけない」
「どうして?」
「父の人生だったから」
「え?」
「祖父の病院を継いで、ずっと働いて」
「はい」
「自分のやりたいこと全部諦めて、私たちを育てた」
「はい」
「だから私も応えなきゃって」
私は自分の父を思った。
「直人も同じになると思った」
「だから問題を?」
「はい」
「でも」
「馬鹿でした」
麻衣さんが言った。
「本当に」
「……」
「弟を助けたいって思って」
「はい」
「弟が不正しないと取れない点を取らせた」
「はい」
「結果、もっと苦しめた」
麻衣さんの目から涙が落ちた。
「私、正しかったと思ってたんです」
その言葉。
「父みたいにならないって」
「はい」
「父は子どもに自分の正解を押しつけた」
「はい」
「だから私は、直人を自由にする」
「はい」
「それが正しいって」
私は黙って聞いた。
「でも結局」
麻衣さんが笑う。
「私も直人に、自分の正解を押しつけてた」
私は美緒を思い出した。
美大へ行け。
自分の人生を生きろ。
私が言った。
「藤野さん」
「はい」
「直人はどうなりますか」
「分かりません」
「医学部」
「私には」
「そうですよね」
「ごめんなさい」
「いえ」
しばらく沈黙。
「でも」
私は言った。
「杉原君、自分で先生に話しました」
「はい」
「怖いって言いながら」
「はい」
「だから」
言葉を探す。
大丈夫。
言えない。
正しいことをした。
それも違う。
「杉原君、ちゃんと怖がってました」
「え?」
「逃げたいって言ってました」
「はい」
「何もなかったことにしたいって」
「はい」
「それでも話しました」
「……」
「私は、それしか言えません」
麻衣さんは泣いた。
「ありがとうございます」
何に対するありがとうかは、
分からなかった。
第五十章 父親
卒業式の三日前。
杉原が学校へ来た。
「大学、どうなった?」
私は聞いた。
「連絡しないって」
「え?」
「学校が」
「なんで」
「校内模試の不正は入試とは直接関係ないから」
「そうなんだ」
「でも模試の成績は無効」
「うん」
「姉は模試会社のバイト辞めた」
「うん」
「会社から学校に謝罪が来た」
「うん」
「それで終わり」
「医学部行ける?」
「今のところ」
杉原は笑った。
でも嬉しそうではなかった。
「よかったじゃん」
言ってから迷った。
「よかった、でいいのかな」
「いいんじゃない」
「杉原は?」
「分かんない」
「そっか」
「父親に言った」
「全部?」
「うん」
「どうだった?」
「謝られた」
姉と同じ。
「何て?」
「俺のせいだって」
「うん」
「それで腹立った」
「なんで」
「俺が問題見たのに」
「うん」
「父親が全部自分のせいにするから」
「……」
「それも違うだろって」
「うん」
「だから言った」
「何を?」
「父さんのせいでもある。でも俺のせいでもあるって」
私は杉原を見る。
「すごいね」
「何が」
「それ言えるの」
「姉にも言った」
「何て?」
「勝手に助けるなって」
「怒った?」
「泣いてた」
「そっか」
「俺も泣いた」
「そっか」
杉原が窓の外を見る。
「藤野」
「何」
「俺、医者になる」
「うん」
「やっぱり」
「うん」
「父親に言われたからじゃない」
私は黙る。
「って言いたいけど」
杉原が笑った。
「たぶん父親に言われたからでもある」
「うん」
「姉のこともある」
「うん」
「自分で決めた部分もある」
「うん」
「全部混ざってる」
「うん」
「それでいいよな」
私は答えようとした。
でも止めた。
「杉原は?」
「俺はいいと思う」
「じゃあいいんじゃない」
「それだけ?」
「それだけ」
杉原が笑った。
「藤野変わったな」
「前は?」
「面倒くさかった」
「今もでしょ」
「今も」
「最悪」
二人で笑った。
「医者になったら」
私は言った。
「この話忘れないでね」
「何で」
「患者に正しいこと言いすぎないように」
「難しいな」
「禁煙してください、とか」
「それは言う」
「運動してください」
「言う」
「甘いもの控えて」
「言う」
「正論ばっか」
「医者だから」
「嫌われるよ」
「でも言わなきゃいけない正解もあるだろ」
私は笑った。
「確かに」
「正解全部捨てたら医療できない」
「そうだね」
「だから面倒なんだよ」
杉原は言った。
「正解って」
その言葉が、
妙に残った。
第五十一章 言わなければならない正解
杉原と話した夜。
私は三枝先生へメールした。
〈正解には、人を傷つけても言わなければならないものもありますか。〉
返信は翌朝だった。
〈あります。〉
珍しく断言。
〈例えば?〉
〈赤信号では止まる。
飲酒運転をしない。
人を殴らない。
試験問題を盗まない。〉
私は笑った。
〈では、なぜ正解を疑う必要があるんですか。〉
返信。
〈正解を疑うことと、正解を捨てることは違うからです。〉
その一文を何度も読んだ。
〈分かりません〉
〈私も完全には分かりません。〉
〈先生なのに〉
〈元です。〉
〈ずるい〉
しばらくして長い返信。
〈藤野さん。
「正解なんてない」という言葉は魅力的です。
自由になれる気がします。
しかし、それも危険な言葉です。
正解がないから何をしてもいい、という意味ではありません。〉
続く。
〈誰かの正解を疑うこと。
自分の正解も疑うこと。
それでも必要な場面では選ぶこと。
そして、自分の選択によって傷つく人がいるなら、その事実から逃げないこと。
おそらく私たちにできるのは、その程度です。〉
私は返信した。
〈それが先生の正解?〉
返事。
〈今日のところは。〉
笑った。
今日のところは。
それくらいが、
ちょうどいいのかもしれない。
第五十二章 卒業式の前夜
卒業式の前夜。
兄が帰ってきた。
珍しく店が休みだった。
「明日卒業?」
「うん」
「おめでとう」
「まだ」
「もういいだろ」
「早稲田行くことにした」
「聞いた」
「お父さんから?」
「母さん」
「反対しない?」
「何で俺が」
「東大落ちた」
「知ってる」
「料理人になる?」
「ならないだろ」
「分かんないよ」
「包丁握ったことある?」
「家庭科」
「無理」
「失礼」
兄が冷蔵庫を開ける。
「葵」
「何」
「父さんから聞いた」
「何を」
「俺のこと謝ったって」
「ああ」
「余計なことすんな」
「私じゃない」
「お前が何か言ったんだろ」
「少し」
「やっぱり」
「嫌だった?」
兄はしばらく黙った。
「分かんない」
「そっか」
「でも」
「何」
「ちょっと嬉しかった」
「何が」
「父さんが」
兄は冷蔵庫から麦茶を出す。
「俺が大学辞めたこと、まだ気にしてたんだなって」
「気にしてたよ」
「知らなかった」
「お兄ちゃんも話せばよかったじゃん」
「誰に」
「お父さん」
「無理」
「なんで」
「お前は簡単に言うな」
また。
私は黙った。
「ごめん」
「でも」
兄が言う。
「今なら少し話せるかもな」
「なんで?」
「時間」
「時間?」
「十年近く経ったから」
「そんなに?」
「それくらい」
「時間が解決した?」
「してない」
「じゃあ」
「時間が離してくれた」
「何から?」
「当時の自分から」
兄は言った。
「二十歳のときは、大学辞めたことが人生全部だった」
「うん」
「二十五くらいでも、まだでかかった」
「うん」
「今は」
「うん」
「人生の一部分」
私は東大の赤本を思い出した。
「私もそうなるかな」
「何が」
「東大落ちたこと」
「なるだろ」
「いつ?」
「知らん」
「五年?」
「知らん」
「十年?」
「知らん」
「役に立たない」
「人生相談料取るぞ」
「いらない」
兄が笑う。
「葵」
「何」
「明日卒業式だろ」
「うん」
「高校生活、正解だった?」
私は笑った。
「何その質問」
「最近のお前好きそう」
「嫌いになった」
「じゃあ聞く」
少し考えた。
「分かんない」
「三年間もあったのに?」
「うん」
「じゃあ失敗?」
「それも分かんない」
「楽しかった?」
「楽しかった」
「ならいいじゃん」
兄は麦茶を飲んだ。
私は思った。
もしかすると、
人生の評価なんて、
それくらい雑でいいのかもしれない。
第五十三章 卒業証書
翌朝。
制服を着る最後の日。
鏡を見る。
三年前より、
少しだけ大人に見える。
でもたぶん、
顔が変わっただけ。
玄関。
「葵」
父が呼ぶ。
「何」
「写真」
「今?」
「今」
「学校で撮るじゃん」
「家でも」
父と母。
私。
三人で並ぶ。
「お兄ちゃんは?」
「寝てる」
「起こそう」
「いいよ」
シャッター。
一枚。
父が画面を見る。
「目つぶってる」
「誰が?」
「俺」
「もう一枚」
二枚。
三枚。
四枚。
「もういい!」
「最後」
「何枚撮るの」
「卒業だから」
父が言った。
少し寂しそうだった。
「お父さん」
「何」
「私、大学行ったら家出るかもしれない」
「聞いてない」
「今言った」
「駄目だ」
「なんで」
「通える」
「一人暮らししたい」
「金が」
「バイトする」
「危ない」
「出た」
「何が」
「心配」
「親だから当然だ」
昔なら腹が立った。
今も少し腹が立つ。
「話し合おう」
私は言った。
「何を」
「一人暮らし」
「駄目だ」
「話し合いになってない」
「じゃあ大学入ってから」
「分かった」
私は靴を履く。
「行ってきます」
「葵」
父。
「何」
「卒業おめでとう」
「まだ式前」
「いいんだよ」
「ありがとう」
家を出た。
駅へ向かう。
途中で美緒と合流。
「おはよ」
「おはよう」
「泣く?」
「泣かない」
「私は泣く」
「まだ始まってない」
「もう寂しい」
相馬が後ろから来る。
「おはよう」
「遅い」
「時間通り」
「女子は十分前」
「知らないルール」
三人で学校へ向かった。
いつもの道。
三年間歩いた道。
今日で最後。
そう思うと、
電柱まで少し違って見える。
「ねえ」
美緒が言った。
「卒業したくない」
「さっきから早い」
「だって」
「大学楽しみじゃない?」
「楽しみ」
「じゃあ」
「楽しみと寂しいは両方あるでしょ」
私は笑った。
「そうだね」
嬉しいなら悲しくない。
好きなら嫌いじゃない。
正しいなら間違っていない。
昔の私は、
感情まで二択だと思っていた。
でも違う。
卒業は嬉しい。
卒業は寂しい。
未来が楽しみ。
未来が怖い。
相馬が好き。
いつか別れるかもしれない。
父が好き。
父に腹が立つ。
兄を尊敬している。
兄みたいにはなりたくない。
全部、
同時に本当だ。
校門が見える。
美緒が走る。
「最後に一番!」
「何の?」
相馬も走る。
「子どもかよ」
そう言いながら追う。
「葵!」
「待って!」
私も走った。
校門。
三人でほとんど同時に入った。
「私一番」
「俺」
「私でしょ」
「写真判定」
「誰が撮ってるの」
笑う。
その日の卒業式で、
私は卒業証書を受け取った。
そこには、
三年間の成績も、
失敗も、
喧嘩も、
恋愛も、
後悔も書かれていなかった。
ただ、
卒業した。
という事実だけが書かれていた。
それを見て、
私は少し安心した。
人生には、
採点されない部分のほうが、
ずっと多いのかもしれない。
第五十四章 白紙
卒業式が終わったあと。
私は一人で二年B組へ行った。
今は別の学年の教室。
誰もいない。
黒板。
机。
窓。
二年前。
三枝先生が黒板に書いた。
〈正解〉
あの日から、
私はずっと答えを探していた。
チョークを一本取る。
黒板に書く。
〈正解とは何か〉
眺める。
答えを書く。
〈自分で選ぶこと。〉
違う。
消す。
〈後悔しないこと。〉
違う。
消す。
〈他人を傷つけないこと。〉
それだけでもない。
消す。
〈責任を取ること。〉
何の責任を、
どこまで取れるのか。
消す。
黒板が白く戻る。
「何してるの」
振り返る。
美緒と相馬。
「探した」
「ごめん」
「何書いてた?」
「正解」
「また?」
「最後」
美緒がチョークを取った。
〈楽しいこと。〉
「それが正解?」
「今は」
相馬も書く。
〈分からない。〉
「逃げた」
「最強の答え」
二人が私を見る。
「葵は?」
「書いたけど全部消した」
「じゃあ白紙?」
「うん」
美緒が言う。
「提出したら零点だね」
「人生なら?」
「知らない」
相馬が笑う。
「採点する人いないだろ」
三人で黒板を見る。
〈楽しいこと。〉
〈分からない。〉
そして、
私の場所だけ白紙。
私はチョークを取った。
今度は書いた。
〈まだ考えている。〉
「それ?」
美緒。
「うん」
「正解?」
私は笑った。
「今日のところは」
窓の外から、
春の風が入ってきた。
黒板の粉が少し舞った。
私たちは教室を出た。
黒板には三つの答えが残った。
楽しいこと。
分からない。
まだ考えている。
どれが正しいのか。
誰も決めなかった。
そして、それでよかった。
少なくとも――
その日の私たちには。
第五十五章 正解を選ばなかった人
大学に入って二か月が過ぎた。
六月。
高校生だったころは、大学へ行けば何かが決まると思っていた。
何を勉強するのか。
何になりたいのか。
どんな人間なのか。
でも大学は、高校より自由なぶん、分からないことが増えた。
「出席取らないって最高」
隣の席で真奈が言った。
入学式の日、
「第一志望?」
と聞いてきた子だ。
「でも休んだら分かんなくなるよ」
「葵、真面目」
「普通」
「高校でも委員長とか?」
「学級委員」
「やっぱり」
「何それ」
「正解っぽい顔してる」
「どんな顔」
「先生に好かれる顔」
少し前なら、
褒め言葉だと思った。
今は微妙だった。
「それ嫌かも」
「なんで?」
「いろいろあって」
「何が?」
「長い」
「四年間ある」
「そんなに仲良くなる予定?」
「嫌?」
「嫌じゃない」
真奈は笑った。
大学では、
私の過去を誰も知らない。
正解裁判も。
三枝先生も。
美緒との喧嘩も。
相馬とのことも。
東大に落ちたことも。
言わなければ、
私はただの藤野葵だった。
それが少し嬉しかった。
講義が終わる。
スマホを見る。
兄から着信が三件。
珍しかった。
電話をかける。
「もしもし」
「葵?」
「何」
「今どこ」
「大学」
「今日帰れる?」
「帰るけど」
「早めに」
「何かあった?」
沈黙。
「父さんが倒れた」
世界が止まった。
「え?」
「病院」
「何で」
「心筋梗塞」
「……」
「今は意識ある」
「死ぬの?」
自分でも驚くほど直接的な言葉だった。
「今すぐどうこうじゃない」
「どこの病院?」
兄から聞いた。
電話を切る。
「葵?」
真奈が私を見る。
「ごめん、帰る」
「何かあった?」
「父が」
それだけ言って走った。
駅まで。
電車。
病院。
ずっと考えた。
父が死ぬ。
その可能性を、
私は一度も本気で考えたことがなかった。
父は正解を押しつける人だった。
父は謝る人でもあった。
父は私に東大へ行ってほしかった。
父は最後に、
お前が決めろと言った。
父は一人暮らしに反対した。
父は卒業式の朝、
何枚も写真を撮った。
全部同じ父だ。
病院に着く。
母がいた。
「お母さん」
「葵」
「お父さんは?」
「処置終わった」
「会える?」
「もう少ししたら」
母の顔が真っ白だった。
兄が自販機から水を買ってきた。
「大丈夫?」
「たぶん」
「たぶんって」
「医者がそう言ってる」
「お父さん、何て?」
「まだ話してない」
待った。
一時間。
二時間。
ようやく面会。
父はベッドにいた。
鼻に管。
点滴。
「お父さん」
「大学は?」
最初の言葉がそれだった。
「休んだ」
「授業」
「いいよ」
「よくない」
「死にかけた人が言う?」
「死んでない」
少し安心した。
「怖かった?」
聞いた。
「何が」
「倒れたとき」
「覚えてない」
「そっか」
「葵」
「何」
「母さんを頼む」
「何それ」
「念のため」
「やめてよ」
「念のためだ」
「嫌」
「葵」
「そういうのやめて」
涙が出た。
「勝手に死ぬ前提で話さないで」
「死ぬとは言ってない」
「同じじゃん」
「違う」
「お母さんのことはお父さんが自分で面倒見て」
父が笑った。
「分かった」
私は泣きながら笑った。
その夜。
病院の廊下で、
兄が言った。
「父さん、仕事辞めるかもって」
「なんで?」
「医者に言われたらしい」
「仕事しすぎ?」
「ストレスもあるって」
「辞めればいいじゃん」
私は即答した。
兄が私を見る。
「何」
「簡単に言うな」
「だって体のほうが大事でしょ」
「父さんにとって仕事は体と同じくらい大事かもしれない」
「でも死んだら終わりじゃん」
「そうだけど」
「なら辞めるべき」
言ってから気づいた。
また。
べき。
兄が笑った。
「まだやってるな」
「何を」
「人の人生決めるやつ」
「でも今回は命だよ」
「うん」
「正解あるでしょ」
「あるかもな」
「じゃあ」
「でも決めるのは父さん」
「……」
「俺たちは言うだけ」
私は病室の扉を見る。
自分の人生なら自分で決める。
そう思ってきた。
でも。
もしその選択で死ぬかもしれないなら。
家族はどこまで止めていいのだろう。
私は初めて、
父が私を止めたかった気持ちを、
ほんの少しだけ理解した。
第五十六章 家族の権利
父は二週間で退院した。
医師から、
働き方を変えるよう強く言われた。
でも一か月後。
父は仕事に戻ると言った。
「駄目」
夕食の席。
私は即答した。
「医者が言ったでしょ」
「働くなとは言われてない」
「減らせって」
「減らす」
「どれくらい」
「考える」
「お父さん絶対戻るじゃん」
「戻るよ」
「前みたいに働く」
「それはしない」
「信用できない」
父の眉が動いた。
「葵」
母が止める。
「だって」
「父さんも考えてるから」
「考えてたら戻らないでしょ」
「お前に決められることじゃない」
父が言った。
「家族でしょ」
「だから?」
「死んだら私たちが悲しむんだよ」
「分かってる」
「分かってない」
「分かってる」
「なら」
「葵」
父の声が強くなった。
「俺の人生だ」
その言葉。
私が何度も言った言葉。
返せなかった。
「仕事が好きなんだ」
父は言った。
「分かるか」
「分かんない」
「俺は仕事を辞めて毎日家にいるほうがつらい」
「死ぬより?」
「そういう比較をするな」
「するよ!」
声が大きくなった。
「死んだら終わりじゃん!」
「だから気をつけると言ってる!」
「前も気をつけてたんでしょ!」
父が黙った。
「葵」
母。
「もうやめなさい」
「お母さんはいいの?」
「よくない」
「なら止めてよ」
「止めてる」
「もっと!」
「どうやって?」
母が私を見る。
「会社に電話する?」
「……」
「退職届を勝手に出す?」
「それは」
「家から出さない?」
「……」
「車の鍵を隠す?」
何も言えない。
「どこまでやればいいの?」
母の声は静かだった。
「家族だからって、本人の人生を全部取り上げていいの?」
「でも」
「私も怖い」
母の目に涙が浮かんだ。
「また倒れるんじゃないかって毎日怖い」
「うん」
「仕事なんて辞めてほしい」
「うん」
「でも」
母は父を見る。
「この人から仕事まで取ったら、それは本当にこの人のためなのか分からない」
父が俯く。
「だから話すしかないの」
母は言った。
「何回でも」
私は黙った。
話す。
聞く。
変わる。
昔、黒板に書いた言葉。
簡単だった。
言葉にするだけなら。
でも本当の家族は、
話しても分かり合えない。
聞いても納得できない。
何度話しても同じところに戻る。
「お父さん」
「何だ」
「週何日?」
「最初は三日」
「残業」
「しない」
「絶対?」
「努力する」
「絶対って言って」
「無理だ」
「なんで」
「何が起きるか分からない」
「じゃあ」
「でも帰るようにする」
「……」
「月一回病院」
「二回」
「一回」
「二回」
「医者が一回でいいと言ってる」
「じゃあ一回」
「薬」
「飲む」
「忘れたら?」
「母さんに怒られる」
「私も怒る」
「分かった」
それで終わった。
完全には納得していない。
父も。
私も。
でも家族の話し合いは、
全員が納得するまで続けるものではないのかもしれない。
納得できないまま、
とりあえず明日を始める。
そういう決着もある。
第五十七章 善意
大学では夏休み前のレポートが始まった。
真奈と図書館で勉強していた。
「葵ってさ」
「何」
「相談されやすそう」
「そう?」
「うん」
「昔は」
「何」
「相談されると答え出そうとしてた」
「今は?」
「なるべく出さない」
「何それ」
「いろいろあって」
「またそれ」
真奈が笑った。
「じゃあ相談」
「何?」
「大学辞めようと思ってる」
私はペンを落とした。
「え?」
「辞める」
「なんで」
「やりたいことないから」
「まだ一年じゃん」
「うん」
「早くない?」
「そう?」
「せめて一年」
言いかけて止まる。
真奈が笑う。
「答え出してるじゃん」
「ごめん」
「別にいいけど」
「何があった?」
「美容師になりたい」
「美容師?」
「専門行く」
「前から?」
「高校のときから」
「じゃあ何で大学来たの」
「親」
「反対された?」
「うん」
「それで大学?」
「うん」
「今度は自分で?」
「そう」
私は考える。
言葉を選ぶ。
「何してほしい?」
真奈が笑った。
「何それ」
「相談なんでしょ」
「うん」
「聞いてほしいだけ?」
「たぶん」
「じゃあ聞く」
「意見言わない?」
「欲しかったら言う」
「成長してる」
「何も知らないくせに」
「顔」
「顔で分かる?」
「正解っぽい顔」
「まだ言う」
真奈は笑った。
「親には?」
「まだ」
「怖い?」
「超怖い」
「そっか」
「葵ならどうする?」
来た。
答え。
「私なら?」
「うん」
「言う」
「辞めるって?」
「うん」
「すぐ?」
「たぶん」
「なんで」
「黙って辞めたらもっと揉めそうだから」
「なるほど」
「でも私なら、だからね」
「分かってる」
「真奈が同じにする必要ない」
「分かってるって」
真奈はノートを閉じた。
「なんか楽」
「何が?」
「葵に相談するの」
「そう?」
「うん」
「答えくれないのに?」
「答えくれないから」
昔なら、
役に立たないと言われた気がしただろう。
今は少し嬉しかった。
でも。
三日後。
真奈は親に話した。
そして家を追い出された。
第五十八章 私が言ったから
夜十一時。
真奈から電話。
「葵」
泣いていた。
「どうした?」
「家出された」
「家出?」
「追い出された」
「え?」
「大学辞めるなら勝手にしろって」
「今どこ?」
「駅」
「待ってて」
私は家を出た。
父に言う。
「友達が困ってる」
「何時だと思ってる」
「分かってる」
「どこ」
駅名を言う。
「送る」
「大丈夫」
「駄目だ」
車で送ってもらった。
真奈は駅前にいた。
キャリーケース。
泣いていた。
「葵」
「大丈夫?」
「全然」
「今日はうち来る?」
「いいの?」
「たぶん」
父が車から降りる。
「友達?」
「はい」
真奈が頭を下げる。
「すみません」
「事情はあとでいい。乗りなさい」
美緒が家出したときと同じ。
家に連れて帰った。
母が布団を出した。
真奈は私の部屋。
「ごめん」
「いいよ」
「私」
「うん」
「葵に言われたから話した」
心臓が止まった。
「え?」
「葵が、私なら言うって」
「でも」
「分かってる」
「真奈が決めたんでしょ」
「うん」
「私、言ったよね。私ならって」
「分かってる」
「同じにしなくていいって」
「分かってるって!」
真奈が泣いた。
私は黙った。
「ごめん」
真奈が言う。
「葵のせいにしたいだけ」
「……」
「自分で言った」
「うん」
「自分で大学辞めるって」
「うん」
「でも」
「うん」
「こんなことになると思わなかった」
「うん」
「だから誰かのせいにしたい」
私は何も言えなかった。
「ごめん」
「いいよ」
「よくない」
「いい」
「葵悪くないのに」
私は三枝先生を思い出した。
柴崎航平。
先生は言った。
東大を受けなくてもいい。
航平は違う意味で受け取った。
言葉を渡した人。
言葉を受け取った人。
責任はどこにあるのか。
「真奈」
「何」
「私もごめん」
「なんで」
「簡単に言った」
「何を」
「親に言うって」
「でも私が聞いた」
「うん」
「葵ならどうするって」
「うん」
「なら葵悪くない」
「でも」
「ほら」
真奈が涙を拭く。
「正解探してる」
「え?」
「どっちが悪いか」
私は止まった。
「別に決めなくてよくない?」
真奈は言った。
「私が決めた」
「うん」
「葵が背中押した」
「うん」
「親が怒った」
「うん」
「全部本当」
私は何も言えなかった。
「誰か一人悪者にしなくても」
真奈が言った。
「いいんじゃない?」
私は笑った。
「真奈のほうが分かってる」
「何が」
「いろいろ」
「今日家追い出された人だけど」
二人で笑った。
笑いながら泣いた。
第五十九章 正しい親
翌朝。
真奈の母親から電話が来た。
真奈ではなく、
私に。
「藤野さん?」
「はい」
「真奈、そちら?」
「はい」
「代わって」
「ちょっと待ってください」
「何?」
「真奈さん、今」
「娘です」
「はい」
「あなたには関係ないでしょう」
強い声。
怖かった。
「そうですけど」
「代わってください」
「分かりました」
真奈に渡す。
「お母さん」
真奈は電話を持って部屋を出た。
十分。
二十分。
三十分。
戻ってくる。
「どうだった?」
「帰る」
「大丈夫?」
「分かんない」
「一緒に行く?」
「大丈夫」
「でも」
「葵」
「何」
「一人で行く」
「……うん」
「ありがとう」
真奈は帰った。
夜。
メッセージ。
〈家入れた〉
〈よかった〉
〈大学辞める話は保留〉
〈うん〉
〈親と話す〉
〈うん〉
〈たぶん100回くらい〉
〈頑張れ〉
書いて。
消す。
〈無理しないで〉
これも違う。
結局。
〈聞くよ〉
送った。
返信。
〈ありがとう〉
それから真奈は、
大学をすぐには辞めなかった。
夏休みに美容学校のオープンキャンパスへ行った。
母親も一緒に。
秋。
大学を一年で退学すると決めた。
親は最後まで反対した。
でも学費を一部出すことになった。
「なんで?」
私が聞く。
「お母さんが」
真奈は笑った。
「反対だけど、失敗したとき帰ってこられるようにしておきたいって」
「いいお母さんじゃん」
「最悪だよ」
「なんで」
「最後まで反対」
「でも出してくれる」
「そこがムカつく」
「複雑」
「親ってそういうもん?」
「たぶん」
私は父を思った。
兄を思った。
「正しい親って何だろうね」
真奈が言う。
「知らない」
「子どもの夢を応援する親?」
「それだけじゃない気がする」
「反対するのも愛?」
「それも正解っぽくて嫌」
「確かに」
二人で笑った。
「じゃあ」
真奈が言う。
「親も分かんないんだ」
「たぶん」
「大人なのに?」
「大人だからじゃない?」
「何それ」
「分かんないまま決めなきゃいけないことが増える」
「最悪」
「うん」
「子どものほうが楽?」
「それも違う」
「じゃあいつ楽になるの」
「ならないんじゃない?」
「聞かなきゃよかった」
真奈は笑った。
第六十章 大人の正解
秋。
私は十九歳になっていた。
大学の授業で、
「自己決定」
について扱った。
教授が言った。
「人は、自分の意思だけで選択していると思いますか」
誰も手を挙げない。
「家族、文化、経済状況、教育、性別、地域、時代。私たちの選択はさまざまな条件に影響されています」
ノートに書く。
〈自分の意思だけではない〉
「では、完全に自由な選択など存在しないのでしょうか」
学生が答える。
「ないと思います」
「なぜ?」
「必ず何かに影響されるから」
教授が頷く。
「では、影響されている選択は、自分の選択ではないのでしょうか」
私は美緒を思い出した。
親に反対されて、
進路を変えた。
杉原。
父に期待され、
医学部へ進んだ。
真奈。
親に反対され、
大学を辞める。
私。
父に東大を期待され、
東大を目指し、
落ちて、
早稲田へ来た。
「そこの人」
教授が私を指す。
また。
「はい」
「どう思います?」
教室中が見る。
「影響されても」
私は言った。
「自分の選択だと思います」
「なぜ?」
「影響されないのは無理だから」
「では自己決定とは?」
難しい。
考える。
「最後に自分で決めること」
言ってから、
昔と同じだと思った。
「本当に?」
教授が聞く。
「……分かりません」
笑い。
「例えば」
私は続けた。
「選べるものが一個しかなかったら」
「はい」
「それを選んでも、自分で決めたことになるのか」
「いい問いですね」
「お金がなくて進学できない人が、就職を選んだら」
「はい」
「それは自分で決めたと言えるのか」
「あなたはどう思います?」
「分かりません」
「また?」
教室が笑う。
私も笑った。
「でも」
続ける。
「自分で決めたかどうかだけで、その人を評価するのは違う気がします」
教授が頷く。
「なぜ?」
「選べる数が、人によって違うから」
その瞬間。
私は文化祭の自分を思い出した。
自分の人生だから、
自分で決める。
私はそう言った。
でも。
自分で決められること自体が、
恵まれている場合もある。
選べない人もいる。
家族。
お金。
病気。
環境。
責任。
私は、
自分で決めろという言葉さえ、
誰かを傷つけることがあるのだと、
ようやく分かった。
「先生」
「はい」
「自分で決められない人は、どうすればいいんですか」
教授は少し考えた。
「周囲が選択肢を増やす」
「周囲?」
「社会でも、家族でも、友人でもいい」
「それでも選べなかったら?」
「一緒に考える」
三枝先生と同じだった。
「それでも?」
「待つ」
「いつまで?」
「待てるところまで」
「それでも決められなかったら?」
教授が笑った。
「あなた、難しい学生ですね」
教室が笑う。
「すみません」
「褒めています」
教授は言った。
「決められないまま期限が来ることもあります」
「はい」
「そのときは?」
今度は教授が私に聞いた。
私は考える。
「とりあえず選ぶ」
「はい」
「あとで変える」
「変えられなかったら?」
「……」
「選び直せないこともあります」
「はい」
「そのときは?」
答えられない。
教授は言った。
「だから人間は、他人の選択にもう少し慎重であるべきなのだと私は思います」
静かな教室。
「外から見れば簡単な正解でも、本人にとってはそうではないことがある」
私はノートに書いた。
〈他人の人生は、外から見るほど簡単ではない。〉
その下。
〈自分の人生も。〉
そして。
〈だから話す。〉
少し考えて消した。
代わりに。
〈だから、簡単に答えを出さない。〉
そう書いた。
第六十一章 父の辞表
十一月。
父が仕事を辞めた。
突然だった。
「え?」
夕食。
「来年三月で退職する」
「なんで」
「決めた」
「体?」
「それもある」
「仕事好きだったじゃん」
「好きだ」
「じゃあ」
「好きなまま辞める」
意味が分からなかった。
「もったいなくない?」
「もったいない」
「後悔するよ」
「するだろうな」
「なら」
父が笑った。
「葵」
「何」
「お前、昔の俺みたいだぞ」
止まった。
「最悪」
「だろ」
「でも本当にいいの?」
「分からん」
「何するの?」
「しばらく何もしない」
「暇になるよ」
「そうだな」
「お母さん困るよ」
「もう困ってる」
母が台所から言う。
「毎日家にいられたら困る」
「ひどいな」
「趣味作って」
「考える」
「料理」
「悠真に習うか」
「やめて」
兄が言いそうな言葉が想像できた。
「どうして辞めることにしたの?」
私は聞いた。
父はしばらく考えた。
「倒れたから」
「やっぱり」
「それだけじゃない」
「何?」
「倒れてから」
父が言う。
「仕事へ行くたび、母さんとお前の顔を思い出す」
「うん」
「前は仕事をすることが家族のためだと思ってた」
「うん」
「今は、家に帰ることも家族のためなのかもしれないと思う」
「……」
「どっちが正しいかは知らん」
「うん」
「だから今回は、帰るほうを選ぶ」
私は泣きそうになった。
「泣くな」
「泣いてない」
「顔」
「お父さんこそ」
「泣いてない」
母が笑った。
父も笑った。
私も笑った。
人は変わる。
でも。
父が間違っていたから変わったのではない。
昔の父も、
そのときの父だった。
仕事を選んだ父。
家族を選んだ父。
どちらかが偽物なのではない。
人間は、
昨日と違う答えを選べる。
それは矛盾ではなく。
たぶん、
生きているということなのだ。
第六十二章 別れるかもしれない
十二月。
相馬が言った。
「留学したい」
「どこ?」
「カナダ」
「いつ?」
「来年」
「どれくらい?」
「一年」
頭が止まった。
「一年?」
「うん」
「長い」
「うん」
「何で?」
「心理学のプログラム」
「行きたいの?」
「行きたい」
「そっか」
言葉が続かない。
「藤野」
「何」
「嫌?」
「嫌」
即答。
相馬が少し驚く。
「行かないでほしい」
「……」
「一年会えないんでしょ」
「途中で帰るかも」
「でも」
「うん」
「嫌」
「そっか」
「止めないの?」
「何を」
「私が嫌って言ってる」
「聞いてる」
「それでも行く?」
「たぶん」
胸が痛んだ。
「自分の人生だから?」
嫌味だった。
「そういう言い方するなよ」
「だってそうじゃん」
「藤野」
「私が悲しくても行くんでしょ」
「うん」
その「うん」が痛かった。
「最低」
「そうかも」
「そこ否定してよ」
「でも嘘になる」
「……」
「俺、行きたい」
「私より?」
「比べられない」
「比べて」
「無理」
「じゃあ私と別れても?」
相馬が黙った。
私は自分で言って、
自分で傷ついた。
「それは嫌」
「じゃあ行かないで」
「それも嫌」
「何それ」
「藤野と別れたくない。でも留学もしたい」
「両方は無理かもしれない」
「うん」
「なら選んで」
言った。
相馬の顔が変わった。
「今?」
「いつでもいい」
「藤野」
「私か留学」
「それ、選ばせるの?」
「だって」
「俺が藤野に、東大か俺か選べって言ったらどうする?」
何も言えなかった。
「違う」
「何が」
「東大と恋人は」
「俺には同じくらい大事かもしれない」
「……」
「藤野が決めるなよ」
胸が刺された。
「分かった」
立ち上がる。
「帰る」
「待って」
「今話したくない」
昔、
美緒が言った。
相馬が言った。
今度は私が言った。
「分かった」
相馬は追わなかった。
それがまた腹立たしかった。
第六十三章 選ばれたい
美緒に電話した。
「相馬が留学する」
「へえ」
「一年」
「長いね」
「止めてくれない?」
「誰を?」
「相馬」
「なんで私が」
「友達でしょ」
「葵の彼氏でしょ」
「だから」
「私に何してほしいの」
聞き覚えのある質問。
「……分かんない」
「じゃあ聞く」
「うん」
「葵は相馬に行ってほしくない?」
「うん」
「ならそう言った?」
「言った」
「相馬は?」
「行きたいって」
「じゃあ終わりじゃん」
「何が」
「意見が違う」
「それだけ?」
「それだけ」
「どうすればいいの」
「話せば」
「話した」
「もっと」
「何回?」
「知らない」
「美緒」
「何」
「私、選んでほしい」
初めて口にした。
「何を?」
「留学じゃなくて私」
涙が出た。
「自分の人生より私を選んでほしい」
「うん」
「それって最低?」
「知らない」
「重い?」
「重い」
「即答」
「でも思うのは自由でしょ」
「言っていい?」
「言えば」
「相馬困る」
「困らせちゃ駄目なの?」
私は止まった。
「好きな人を困らせることもあるでしょ」
「うん」
「家族だって友達だって」
「うん」
「葵さ」
「何」
「最近、他人を傷つけないことまで正解にしようとしてない?」
言葉が止まった。
「傷つけないなんて無理だよ」
美緒は言った。
「私、葵と相馬が付き合ったとき傷ついた」
「……」
「でも今は二人とも友達」
「うん」
「葵が東大受けたとき、お父さん嬉しかった」
「うん」
「落ちて悲しかった」
「うん」
「だから何?」
「……」
「人を傷つけることと、人を大事にしないことは同じじゃないよ」
私は泣いた。
「美緒」
「何」
「賢くなったね」
「大学生だから」
「私も」
「葵は面倒くさいまま」
「うるさい」
二人で笑った。
「ちゃんと相馬に言いな」
「何を」
「選んでほしいって」
「嫌」
「なんで」
「格好悪い」
「恋愛なんて大体格好悪い」
「美緒、彼氏いる?」
「いない」
「説得力ない」
「切るよ」
「待って」
「じゃあ言え」
「……うん」
翌日。
相馬に会った。
「昨日ごめん」
「俺も」
「何が?」
「言い方」
「うん」
「でも留学は」
「分かってる」
私は息を吸う。
「私を選んでほしい」
相馬が黙る。
「留学やめてほしい」
「うん」
「一年も離れたくない」
「うん」
「向こうで好きな人できるかもしれない」
「それは藤野もだろ」
「私は作らない」
「分かんないだろ」
「今はそう思ってる」
「うん」
「だから行かないでほしい」
全部言った。
「でも」
続ける。
「相馬が行きたいのも分かってる」
「うん」
「だから」
声が震える。
「私が嫌って言ったことも持っていって」
「え?」
「それでも行くか決めて」
相馬が私を見る。
「いいの?」
「よくない」
「どっち」
「行ってほしくない」
「うん」
「でも私が嫌がったことを理由に、私のせいで諦めたってあとで言われるのも嫌」
「言わない」
「分かんないじゃん」
「うん」
「だから相馬が決めて」
相馬は長く黙った。
「分かった」
「今決めないで」
「うん」
「ちゃんと考えて」
「うん」
「私のことも」
「もちろん」
「留学も」
「うん」
「それで」
怖かった。
「行くなら」
「うん」
「行って」
言えた。
それは、
相馬を応援したからではない。
物分かりのいい彼女になったからでもない。
私は行ってほしくない。
本当に。
でも。
相馬の選択を、
私の正解だけで塞ぎたくなかった。
第六十四章 相馬の答え
一か月後。
相馬から呼び出された。
最初に告白された公園。
「決めた」
「うん」
「行く」
胸が痛んだ。
「そっか」
「ごめん」
「謝らないで」
「でも」
「謝られたら、私が正しいみたいになる」
「難しいな」
「うん」
私は泣いた。
「泣くの?」
「泣くよ」
「怒る?」
「怒ってる」
「そっか」
「すごく」
「うん」
「相馬なんか嫌い」
「それは嘘」
「今は少し本当」
「そっか」
相馬も泣いていた。
「一年」
「うん」
「待つ?」
「分かんない」
「え?」
「一年後も好きか分かんない」
「そこは待つって言えよ」
「正直に言えって教わった」
「誰に」
「藤野」
「最悪」
二人で泣きながら笑った。
「じゃあ」
相馬が言う。
「別れる?」
その言葉。
胸が締めつけられる。
「今?」
「遠距離嫌なら」
「嫌」
「じゃあ」
「でも別れたくない」
「俺も」
「なら今は付き合う」
「今は?」
「未来のこと決めない」
「ずるくない?」
「いいの」
「正解?」
「知らない」
相馬が笑った。
「じゃあそれで」
「うん」
「向こうで好きな人できたら?」
「言う」
「嫌」
「じゃあ聞くな」
「でも隠されるのも嫌」
「面倒くさい」
「うるさい」
「藤野もできたら言えよ」
「できない」
「分かんないだろ」
「今はそう思う」

