空色ピアス

     1


 翌朝学校に行ったら、なんとなく教室がざわついていた。
 カバンの中身を机に移し、残り少なくなったPOPPIN POPのグミをこっそり口の中に忍ばせたときだった。
 誰かが目の前に立つ気配がした。
「おはよう」
 降ってきたのは聞き覚えのある男子の声だった。
「か、風間くん……!」
 前髪の部分だけをゴムで結んで顔の真ん中に垂らしていた。ウケ狙いかもしれないけど、思わず顔をしかめた。
「前髪だけ切るのはやめたの?」
 声をひそめたら、風間くんも顔を近づけてきた。
「ほんとはそうしようと思ったんだけどさー、怖くて切れなかったんだよ。絶対マヌケに見える」
「今の髪型も相当……だけど」
「だよねー。わかってるんだけどさ、切ったら元に戻んないじゃん。結んでたらいつでも前髪は戻せる」
「これだったら前髪おろしてた方がいいんじゃない?」
「そしたら前が見えないよ」
「だから、真ん中で分けて」
「そんな普通の髪型してたら、ぼくがイケメンだってばれて、みんながぼくと友達になりたがるだろ?」
「それ、自分で言う?」
「自分で言うくらいはいいじゃないか」
 ……そこまでひそひそ声で話して、ふと気づいた。
 教室の中でみんなの話す声が、一段小さくなった気がした。
 気にしてないよ。見てないよ。……そんな振りして陰で何か言われているような気がする。スマホに向かい合ってる人を見ると、グループLINEで何か言われてるような気にさえなる。
 風間くんもそれに気づいたのか、ゴムを外していつものぼさぼさ前髪に戻った。
「なんで教室に来たの?」
 ついとがめるような口調になる。風間くんはケロッとして、
「だって、誘ってくれたの日向さんじゃん」
 みんなの注目が集まった。わたしがぎょっとしたように見ると、また、すぐに視線が散っていった。
 わたしは声をひそめた。
「大きい声で言わないで」
「なんで? ぼくたち友達なのに」
「でも、その友達を増やさないために別室登校してたんでしょ!」
「まあ、そうなんだけどさ」
 大きい声で言うな、と言ったせいかもしれないけれど、今度風間くんは顔を近づけてきた。
「今日もつけてるの?」
「なに」
「ピアス。ぼくがあげたやつ」
 つけている。でも、返事はしなかった。
「日向さんの武勇伝を聞くんだよ。毎日没収されてんのに、毎日つけてくる、って。ぼくは日向さん側の人間だから、見守ろうとかと思って」
 と、声をひそめた。
「見世物じゃないんだけど」
「当たり前じゃないか! あれはぼくらの戦いだぜ。エンタメなんかにされてたまるか」
「……あなたのことを言ってるんだけど」
 けれど風間くんは全く気にしてくれなかった。
「ぼくも今日、応援のつもりでつけてきたんだ。肌色のガムテープ貼って隠してるけど」
「……ガ、ガムテープ……」
「うん。最初は絆創膏にしてたんだけど、一つじゃ足りなくてさ。いくつも貼るのはかっこ悪いから」
「でも、ガムテープも相当……」
「大丈夫。耳を隠す髪はヘアピンでとめて押さえてるから」
 と、謎の自信をのぞかせた。
 できれば目立ちたくないし、人と話しているところを見られたくない。なのに風間くんは楽しそうに笑った。
長峰さんの視線に気づいた。長峰さんはすぐに視線をそらした。そして、
「ああ、伊織!」
 甘えるような声で教室の入口へと向かった。
 そこには伊織くんがいた。わたしを見た。そして、風間くんを。
 どうしよう。
 こめかみに冷たい汗が浮いた。けれど、風間くんを押しのけることもできず、ただ、顔だけをそむけた。
「おはよー」
 長峰さんは見せつけるみたいに、伊織くんの腕に自分の腕を巻き付けた。伊織くんが顔色を変えた。
「だから、やめろって」
「ねえ、伊織……」
 なにか言いかけたとき、伊織くんが近づいてきた。
「風間、来たんだな。仲良くしようぜ」
 明るい笑顔で風間くんの肩を軽く叩いた。
 ひやりとした。それは、その拍子に髪が揺れてガムテープが見えるんじゃないかというのもあったし……伊織くんに、変に誤解されたくなかった。
 風間くんは慌てて体を引いて、優し気な笑みを浮かべた。
「ありがとう。よろしくな」
 風間くんが自分の席に戻ろうとしたら、長峰さんが口を開いた。
「もしかして、二人は付き合ってるの?」
 教室中に小さなざわめきが起こった。ひそひそと話す声。意味ありげな視線。下卑たような笑み。
「な、なに言って……」
「えー?」
 風間くんはわたしの言葉をさえぎり、小さく口をとがらせた。
「なんだよー。そんな風に言われちゃったら気にして普通に話せないじゃないか。友達ができたから勇気を出してこっちの教室に来たのに」
 ざわついていた教室が変な風に静まり返った。視線が散って、気まずい空気がただよう。
 よく言う。別室に行ってた理由は「友達がいない」せいじゃなくて「友達を作りたくない」せいないのに。
 ちらりと見ると、風間くんも気づいたのか、小さくウインクして見せた。
 きゅっ、きゅっ。
 ゆっくりグミを噛みしめていると、後ろの方から視線を感じた。
 伊織くんだった。
 目が合うと、顔を背けられた。

 お昼になった。
「華ちゃん、今日はどうする?」
 いつものように香澄ちゃんが聞いてくれた。
「ごめん、今日も別で……」
 お弁当を持って立ち上がったときだった。
「日向さーん、一緒に食べようよ」
 と、風間くんがお弁当を持ってわたしの席に来た。机をつけようとしていた香澄ちゃんたちがぎょっとしたようにわたしたちを見た。風間くんはみんなの目も一切気にせず、
「さっきのかっこよかったよ。ゾクゾクした!」
 と、ささやいてきた。……先生からピアスを取り上げられたことを言っているのだ。
 四時間目の途中だった。年配の男性の先生が目の敵みたいにしてわたしの前に立ち、
「おい、またつけてきてんのか!」
 と、汚いものでも見るみたいに見て来た。
「何度言われたらわかるんだ!」
 わたしは片方の手で頬杖をついたまま、上目遣いにその人を見た。
「外せ」
 そう言うので、わざとらしくため息をつき、ピアスを外した。まだ立っていたけれど無視したら、
「渡しなさい」
 と、手を出した。その手を触ってしまうのが嫌で机の上に置いたら、鼻息も荒く、ぎこちない手つきで持って行ったのだった。
「華ちゃん、どうする? みんなで一緒に食べる?」
 せっかく友美恵ちゃんが聞いてくれたのに、とっさに、
「ごめん」
 と、口走っていた。
 本当は一緒に食べた方がいい。でも、またピアスを没収されてしまったあとだったから、気まずかったのだ。
 なのに、
「え? なんで? ぼくが邪魔?」
 風間くんは屈託なく声をあげた。香澄ちゃんたちは顔見合わせ、
「別に……一緒でもいいよね?」
 と、笑った。「じゃあ……」とつぶやくと、風間くんは香澄ちゃんが動かしていた隣の机に自分のお弁当を置き、
「ねえねえ、この席の人、机と椅子借りるねー」
 と、声を張り上げた。それは……伊織くんと同じグループの女子の席だった。
 伊織くんたちが一斉にこっちを向いた。
 けれど、伊織くんの顔をまっすぐ見ることができなかった。
 ……こんなの、無理。
「やっぱり今日はごめん」
 無理に笑って逃げるように廊下に出た。
「え? あ? 日向さん。ま、待ってよ! おいてかないでよ!」
 風間くんが追いかけてきた。そして、全く空気も読まずに続けた。
「やっぱさ、日向さんは堂々としてるのがいいよね」
「いいから黙ってくれる?」
 割と強めの声で言ったけれど……本当はそれどころじゃなかった。
 心臓が狂ったように高鳴っていた。今朝の伊織くんの視線を思い出していた。
 怒ってるんだろうか。でもどうして? 伊織くんだって、ほかの人と楽しそうにしてるのに。
 いつもは思わない、そんな疑問が脳裏をかすめた。
「そういえば、日向さんはお弁当、学食で食べるんだよね」
 風間くんの言葉が頭に入ってこない。わたしは気持ちを落ち着かせようと、ポケットの中に入れていたグミを取り出した。こんなにしょっちゅう食べてたらなくなっちゃう。
 でもこういうときは食べずにはいられなかった。
 パステルの黄緑色のそのグミを口に放り込み、ぎゅっ、ぎゅっと噛む。
「あ、それ、POPPIN POP?」
 風間くんの声に、あわてて食べかすの小袋をポケットに隠した。
「知ってるの?」
「うん。有名だからね」
「へえ。日向さん、グミ、好きなんだね」
 別にグミなんか好きじゃない。おいしいなんて思ってない。必要だから食べてるだけ。
 好きだと思って食べてるのは、伊織くんからもらったPOPPIN POPのグミだけだ。
 まさかそんなこと、風間くんには言わないけど。
「あとでぼくにもちょうだい」
 本当はすぐに「いいよ」って言わないといけないんだと思う。でも、口から出たのはちがう言葉だった。
「ごめん、今のが最後の一個だった。ほかのやつならあるけど。すっごい硬いやつ」
「へえ、日向さん、硬いグミ派なんだ。……だからPOPPIN POPのグミが好きなんだね」
「……よく知ってるね」
「あそこ、味がおいしい、っていうのもあるけど、硬いグミが滅茶苦茶硬い、っていうのでも有名だろ?」
「何味がいい? 今持ってるのはレモンとブドウとソーダ」
 それ以上この話をしたくなくて声を張り上げた。
「じゃあソーダがいいな。明日はぼく、違う味のやつ持ってくるからさ、交換しよう」
「いいよ、別に」
「でも楽しいじゃん。そういうのって」
 ――これちょうだい。
 イオンでのいつものやり取りを思い出す。
 伊織くんがステーキを頼んで、わたしがハンバーグを頼んで。交換して「おいしいね」って笑って。
「ねえ、待ってよ! 伊織!」
 長峰さんの声が追いかけてきた。伊織くんはやっぱり片手をポケットに突っこんだまま大股で歩く。ちらりとも見ずにわたしたちの脇を通り抜けた。
「もう! 歩くの早いんだから!」
 長峰さんが追いつき、腕を絡めた。
 ほどくのかと思っていたけれど……今日の伊織くんはそうしなかった。
 胸がねじれるような気がした。
 わたしに怒る権利はない。ないけど。
 伊織くんはいつも教室で友達と楽しそうに話している。隣には長峰さんがいて、伊織くんのことが好きで、何度も触れようとしてて。
「何味持って来ようかなあ」
 風間くんは言いかけて口をつぐんだ。わたしの視線を追い、
「やっぱり気になる?」
 意味ありげに見てきた。
「なにが?」
「望月君」
「別にそんなんじゃ」
「ふーん。でもさ、なんかあの二人、いちゃいちゃしてるね」
 人ごみの中を遠ざかっていく伊織くんと長峰さんを目で追った。
「わたしには関係ないし」
「え? そうなの? ぼくだったら……」
「コーラ味!」
 強い言葉でさえぎった。
「ん?」
「コーラ味のグミにして」
 風間くんは明るく笑った。
「わかったよ」




     2


 ブッ、ブッ。
 午後の授業中。だれかと思ったら伊織くんだった。
 ――今日、時間ある?
 どうしたんだろう。伊織くん、普段は絶対に授業中にメッセージ送ってくるなんてことないから。
 ――バイトだけど。
 ――その前にちょっと会おう。
 ――いいけど、部活は?
 ――休む。
 なんて言われるんだろう。もしかして、本当に長峰さんと付き合うことにした、とか……。
 顔を見たいけれど、背の高い伊織くんは教室の後ろの方にいるから振り返るわけにもいかない。
 不安すぎて気持ちが沈む。
 授業が終わると、別々に教室を出て指定されたカラオケ屋に向かった。芦塚駅の改札を出たところで伊織くんの背中が見えた。いつものように通学用のカバンとスポーツバッグを肩にかけ、片手をポケットに突っ込んで大股で歩いている。
うちの学校の人がいないのを確認して、声をかけた。
「伊織くん」
「ああ」
「歌いたい気分なの?」
 返事がない。やっぱり今日はいつもと違う。大体、伊織くんはわたしといるときにカラオケに行ったことはない。まっすぐ前を向いて思いつめたように歩く姿に、怖い、ような思いが加速する。話しかける雰囲気でもなくて、息が詰まりそうになりながら少し後ろをついて行った。
 入ったのは細長いビル全体がカラオケボックスになった店で、「とよちゃん」から見たら駅の反対側にあった。案内されたのは三階の角部屋で、あまり言葉もないまま、コーラとウーロン茶を頼んだ。
 乱暴に荷物を向かいのソファに放り投げ、自分もどっかと腰を下ろした。
「……座れよ」
 こんな伊織くん、見たことなかった。自分の心臓の音を聞きながら、少し間をあけて伊織くんの隣に座った。
 見つめられた。
「な……何?」
「風間と……つきあってるのか?」
「違う」
「でも、あいつと教室で」
「それは……」
 言い訳しそうになって、言葉を止めた。伊織くんがとがめるように見てくる。それで……今まで我慢していた気持ち、みたいなものが突き上げてきた。
「伊織くんだって」
 びくっと、体が動いた。
「伊織くんだって、いつも長峰さんといちゃついてるじゃん! 腕とか組んでるよね?」
「それは……」
「もういいから!」
「なんだよ、それ」
「わたしのことは……もう、いいから……」
 言葉がふるえた。本当は言いたくない。こんなこと言いたくなかった。
「ほんとに、そう思ってんの?」
 うなずきたくない。「そうだよ」なんて言いたくない。でも、誤解されるのも嫌だ。
「ごめんね、って思ってる」
「なんで謝んだよ」
「伊織くんは、伊織くんの思うとおりに……していいんだよ。わたしが一人ぼっちになるとか、な、長峰さんに意地悪言われるとか、き、気にしなくていい」
 本当はそんなこと思ってない。思ってないから、息が止まってしまう。言葉がつっかえてしまう。笑って言うとかできたらいいけど、わたしはそんなに器用じゃない。
 失ってしまう。伊織くんを。
 今のわたしは、伊織くんがいるから学校に行けている。嫌だ、嫌だ、って思いながらしがみついていられるのは、伊織くんがいつも気にかけてくれるから。
 学校にも家にも居場所がなくて、だったら反抗なんかしなきゃいいのに、って自分でも思ってる。けど。
 苦しいんだもん。なんで? どうしてこんな風になっちゃったの? 我慢すればいいの? どれくらい長い間? このピアスを開けてしまった瞬間にわたしの生活が壊れた。
 でも……どうしても開けたかったんだもん。
 ただそれだけだった。一度、判断を間違えた。それで明るい道から崖の下に転がり落ちた。もう一度這い上がりたいって思ってる。でも、できなくて。もがくことしかできなくて。苦しんでる。ずっと、わからないまま真っ暗な崖の下であがいてるだけなんだ。
「伊織くんは、わたしのことを気にせずに好きな人とつきあっていいんだよ」
「華は!」
 強い視線で見つめられた。
「華は俺のことを信じてないのか? 長峰のことなんか好きじゃないし、付き合う気もない」
「……嫌われたくないんだ」
「意味わかんね」
「伊織くんからだけは、嫌われたくない」
「なに言って……」
「長峰さん、伊織くんのこと好きだよね? 伊織くんだって、嫌いじゃないよね? わたし、嫉妬してしまう。ふたりが腕を組んだり、楽しそうにしている姿を見ると、長峰さんに伊織くんを取られたような気になってしまう」
「だから、風間なのか?」
「風間くんは関係ない!」
「今日は、教室でも俺といるときと同じ顔で笑ってた」
 顔を傾けてじっと見つめてきた。
「違うよ」
 とくん、と、胸が音を立てる。
「笑ってたけど、同じじゃない」
「同じだった」
 わたしも吸い寄せられるように見つめ返した。伊織くんに心臓の音が聞こえてしまいそうなくらい高鳴っている。
「俺も、嫉妬した」
 溜めていたものをこぼすみたいにつぶやいた。
 こんな風に見つめないでほしい。こんな風に言わないで。期待してしまうから。
 なのに、次の言葉を待っている。
「なあ、華」
 その体がかたむいた。自分の鼓動の音を聞きながら伊織くんを見つめていた。伊織くんはわたしの目を見たまま、更に顔を近づけてきた。
 息が顔にかかった。
「目、閉じて」
 かすれたような声。素直に目を閉じた。まるで、そうするのが当たり前みたいに。伊織くんの指がわたしの頬に触れた。くすぐったいみたいな、怖い、ような。
 息を止めた。
 コンコンコン。
「失礼します」
 ノックの音と同時に乱暴にドアが開いた。
 我に返った。
 目を開いたら、ものすごく驚いた顔の伊織くんがいた。
 はじかれたように体を離す。それは伊織くんも同じで……隣に座っていながら反対を向いているという、明らかに不自然な座り位置になった。
「お待たせしました」
 二十代くらいの店員さんが、わたしたちのほうを見もせずに飲み物の入った大きなプラスチックカップを無造作に置いて出て行った。
 部屋が静まり返った。どこからか、男の人の歌声がかすかに聞こえてくる。
「……ごめん」
 伊織くんは言った。わたしもまだ胸がドキドキしていて、もしかしたら笑ってるかもしれない、と思った。伊織くんもそうだと思って、その顔を見た。
 ……え?
 全身から血の気が引いていった。
 伊織くんは、傷ついたような顔をしていた。
 目をそらした。まるで、悪いことでもしたみたいに。 
「華、俺……」
 うわごとのようにつぶやく。ふるえる声。
 血の気が引いていく。最悪のことを考えてしまい、瞼が熱くなる。
「バイトだから、行くね」
 逃げるように立ち上がった。
 声に涙がにじんでいませんように。笑った声に聞こえますように。
「お金、後で払う」
 そのまま部屋を飛び出した。
「華!」
 そう聞こえた気がしたけど振り返らなかった。もしかしたらそれも、ずっと期待しているわたしの空耳かもしれない。
 さっきの伊織くんの顔が何度も思い出された。
 なんでそんな顔するの? わたしは、ちょっと……ううん、すごく期待した。付き合ってるわけじゃない。そうじゃないけど、でも、伊織くんとならいいと、そう思ったんだ。
「ごめん」という、伊織くんの言葉が、あの表情が頭の中を何度も駆けめぐった。
 バカだ、わたし。
 走りながら唇をかんだ。
 わたしなんか本気に好きになってもらえるはずないのに。かわいそうだから。同情して優しくしてくれてるだけなのに、勘違いするなんて。
 恥ずかしかった。期待してしまったことも、胸のときめきも、自分自身でさえも。
 ねえ、なんで? 本気じゃないなら、なんで言ったの? 「俺も、嫉妬した」なんて。
 本気かと思ったの。わたし、嬉しかった。本当に嬉しかったのに!
 ただひたすら「とよちゃん」を目指して歩きながら目の前が曇る。
 泣くとか、あり得ない。
 手の甲でにじんだ涙をぬぐう。
 本気にするとか、あり得ない。
 洟をすすり上げた。
 目にゴミが入っただけ。悲しいわけじゃない。だってあれは冗談だから。友達だから。別に付き合ってなくてもそういうのってあるじゃん。そんなのいまどき、普通なんだよね? ……でも。
 わたしは、嫌なんだ。
 商店街を入った。「とよちゃん」の看板と、脇に停めた順子さんのママチャリが見えた。後ろに色あせた子供用のシートがついている。今日もまた、帳簿をつけているのか。
 高ぶっていた気持ちが落ち着き始める。体が重くて、本当はバイトなんかできる気分じゃない。歩いているのに、前に進んでいる感じがしない。涙も嘘のように引っ込んで、虚しさだけがわたしを包む。
 涙の残骸を指ですくう。なるべくいつもどおりに見えるように。
「なにかあったの?」って聞かれるのも、「話してみて」って言われるのも嫌だったから。店の少し手前で足を止め、大きく息を吸い込んだときだった。
「華!」
 伊織くんだった。とっさに顔をそむけた。
「なんで逃げんだよ!」
「だって!」
「だから、ごめん、って!」
 伊織くんは息を弾ませ、顔をゆがめた。
「あんなことしようとして、ごめん。付き合ってるとか、そういうわけじゃないのに……!」
 目の前が真っ暗になった気がした。
 ツキアッテルトカ、ソウイウワケジャナイノニ。
 心の隅に抱いていた最後の望み、みたいなものが壊れる音がした。ほんとは待ってた。「付き合おう」って言ってもらえること。「好きだ」って言ってもらえること。
 伊織くんを見ることもできないまま笑顔を作った。
「……そうだよ。だめだよ、あんなこと」
 無理に言葉をしぼり出したら、えぐられるように胸が痛んだ。
「長峰さんに、悪いよ」
 伊織くんの表情が凍り付くのが分かった。
「違う、って言っただろ!」
「だからわたしとは……」
 続きを言うのが怖くて息をついた、そのときだった。
 目の前の横開きの戸が思い切り開かれた。
「あっ……」
 暖簾を持った順子さんだった。いつもは元気で楽しそうになのに、今日に限っては……目が潤んでいた。
 まるで、泣いたあとみたいに。
 悪いことを想像した心臓が、大きく跳ねた。
「何か……あったんですか?」
 順子さんはわたしを見て、さらに目を潤ませた。口元に手を当て大きく鼻をすすり上げたあと、いつものように笑った。
 そして、店の中に向かって声を張り上げた。
「お父さん。もう……華ちゃんたちにも話しちゃおう」
 その言い方に、態度に、不安が込み上げる。順子さんは大きな笑顔で笑った。
「入って。ちょっと、聞いてほしいことがあるの」
 外にかけるはずだった暖簾をまた、店の中に持って入った。




     3


 店の中は薄暗かった。
 準備ができたスープが厨房の中で静かな湯気を上げ、おいしそうなにおいを店中に漂わせている。
 斎藤さんは右腕をカウンターのテーブルにかけ、体をもたせかけるように座っていた。
 顔が黒っぽく見えるのは、店の中に電気がついていないせいだ。
 不穏に高鳴る鼓動を感じながら、自分に言い聞かせた。
 斎藤さんは「おう」と力なく笑い、持っていた白い便せんをカウンターの上に置いた。
 何気なく視線を向け、息が止まりそうになった。
「お父さんへ」
 それは、豊子さんの文字。
 胸が締めつけられるような気がした。
 豊子さんのあの優しい笑顔が瞼に浮かぶ。
 見てはいけない。わたしに宛てた手紙じゃない。わかってるけど、懐かしくて、切なくて、会いたくて。
カウンターの方に寄り、横目でちらりと手紙に視線を走らせた。
 読むつもりはなかった。ただ懐かしかった。豊子さんをもう一度感じたかった。それだけだったのに、一か所で目が止まった。
 え、なんで……?
 不穏に心臓が音を立てる。
「ごめんね、座って」
 順子さんの声ではっとした。名残惜しい気持ちでわたしたちはそれぞれテーブルの椅子に腰かけた。
 鍵をかけて戻ってきた順子さんは、斎藤さんのとなりに座った。
 わたしをじっと見つめ、
「ごめん、華ちゃん。お店……閉めることになった」
 豊子さんが亡くなったときからずっと、覚悟はしていたはずだった。なのに、実際に聞くと衝撃は思ったよりも大きかった。
「わたしのせいですか?」
「違う! そうじゃない!」
 順子さんは腰を浮かせた。
「なにがあったんですか?」
 伊織くんも表情をこわばらせていた。斎藤さんは目尻をその節くれだった指でこすった。
「ガンが見つかってな。出術を受けることになった」
 声をあげそうになる。最近、厨房の中で座っていることが多くなった。ラーメンの味にばらつき出るようになった。順子さんがわたしが来たあとまで店にいるようになった。前と違う、っていうのはわかっているつもりだった。
 感情がこわばっていく。
「そんな……」
「簡単な手術だ、ってお医者さんは言ってた。お父さんはね。手術のあとも店を続けたい、って言ってるの。でもわたしは……もう、やめてほしい、って思ってる」
 頭の中が真っ白になった。もちろん、斎藤さんの体が一番大切だ。順子さんがやめさせたい、と思う気持ちはわかる。わたしだって本当は、素直に斎藤さんたちの決断を応援したい。
 でも。
 わがままなわたしが真っ先に思ったのはこんなことだった。
 居場所を失ってしまう。
 こみ上げる感情の塊を見せたくなくて笑った。
「わかりました。わたしも、順子さんと同じ考えです」
 だめだ。だめだ。
 わかっているのに気持ちが涙となって少しずつこぼれていく。
「手術したら、元気になるんですよね?」
「そればっかりは、なあ」
 斎藤さんは寂しそうに笑った。
「私は大丈夫だと思ってる。お父さん、元気だし、ガン以外に悪いところもないし」
「……だな」
「わかりました。斎藤さん、闘病がんばってください」
 斎藤さんはうなだれたままなにも言わなかった。
「手術はいつなんですか? わたし、お見舞いに行ってもいいですか?」
「それは構わないけど……」
 順子さんは表情をゆがませた。
「大丈夫だと思うのよ。でも、お医者さんからは万が一のことも考えておいてくれ、って言われてるの。歳が、歳だからね」
「そんな……」
「でもそれは、お父さんだけじゃなくて、みんなに言ってることだから。でも、一応そういう可能性もあるってこと、知っておいてほしい。華ちゃんには、わたしから連絡する。手術が終わったら絶対に連絡するから」
 今までうなだれていた斎藤さんが顔を上げた。
 その目には涙がにじんでいた。
「ごめんな、華ちゃん……」
「え? わたし。ですか……」
「本当に、すまない」
 深く頭を下げた。
「待ってください。な、なんで……」
「豊子さんに言われてたのに。……言われてたのに!」
 拳で激しくカウンターを打った。
「ごめん。ごめん。本当に申し訳ない……!」
「斎藤さん、どうして……?」
 訳が分からなかった。
 どうしてこんなに謝られるのか。だってこの店はわたしの店じゃない。斎藤さんのお店なのに。
「お父さん!」
 順子さんが慌てたように声をかけた。けれど斎藤さんは涙をにじませたまま首を横に振った。
「申し訳ない。申し訳ない! 言われてたのに。豊子さんから言われてたのに……!」
 どくん、どくん、と心臓が音を立てる。
 やはりそうなのか。
 さきほど盗み見てしまった斎藤さんへの手紙。そこに、いくつも「華」という字があったのに気づいたから。
「どういうことなんですか?」
「え……?」
 順子さんが凍りついた。
「ごめんなさい。さっき、見えてしまいました。それ、豊子さんからの手紙なんですよね」
 斎藤さんは顔色を変えた。慌てて開いたままの便せんを畳んだ。
 どくん、どくん。
「そこに、わたしの名前がありました。豊子さんからわたしのことでなにか言われてるんですか?」
斎藤さんは小さく唇を噛んでうつむき、順子さんは責めるように斎藤さんを見た。
「だったら、読ませてください」
「読まない方がいい!」
 順子さんは言った。
「華ちゃんは、知らない方が」
「知りたいんです」
 順子さんを見た。
「豊子さんが大好きだったんです。今でも大好きです。豊子さんの遺言でこの店を残すことにしたって聞いたとき、本当にうれしかった。ほっとして涙が止まらなかった。『おいしいナビ』に書き込んでた人だけじゃない。わたしも、豊子さんがここにいてくれたから救われたんです」
「でも……」
 順子さんは斎藤さんと顔を見合わせた。斎藤さんは小さくため息をついたけれど、持っていた便せんを順子さんに差し出した。
 順子さんはそれを受け取り、わたしの前に立った。
「もしかしたら、華ちゃんを傷つけてしまうかもしれない」
「この店がなくなれば、どっちにしろ傷つきます」
「……そうかもね」
 わたしはその便せんを受け取り、開いた。

お父さんへ

 お父さん。今まで長い間、本当にありがとうございました。お父さんのおかげでわたしはとっても幸せでした。顔は怖いけど、いつも優しくしてくれましたね。うれしかったです。お父さんが作るラーメンは世界で一番おいしいです。そんなおいしいものを作れる人と一緒にいられたこと、大切にしてもらったこと、本当に感謝しています。テレビや雑誌の取材を受けたときにはお父さんのことを誇りに思いました。あのときは本当に忙しかったですね。たくさんの素敵な思い出を本当にありがとうございました。この歳まで一緒に生きられたのだから、わたしは一足先に向こうでお父さんが来るのを待っています。
 わたしは、もしこのまま亡くなっても悔いがありません。だから決して、悲しまないでください。お父さんが楽しそうに残りの人生を全うするのをあの世から見せてもらいます。
 ただひとつ、心残りなことがあります。
 華ちゃんです。
 わたしは病院に行くとき、たまに朝早い電車に乗ることがありました。その時に、華ちゃんを見かけていました。
 でも、声をかけることができませんでした。そのことを、お父さんにも順ちゃんにも言うことができませんでした。辛すぎて、口に出すことができなかった。胸が引き裂かれるような気がして。
 ほかの学生がスマホを見たり、友達と楽しそうに笑いあったり、眠そうにしているのに、華ちゃんだけはいつも、真っ青な顔で一人、立っていました。口を真一文字に結び、頬を震わせて、これから地獄にでも向かうような表情でした。
 最初にこの店に「バイトをしたいんです」といって履歴書を持ってきたときと、同じ顔です。華ちゃんは、あんな顔をして毎日学校に通っています。学校にいる六時間、七時間が、華ちゃんにとってどれほど苦しいものか、想像して余りあります。
商店街の組合長さんに、学校がアルバイトを禁止してるらしいから、華ちゃんをやめさせた方がいい、と言われて華ちゃんのご両親とお話をしたときにも、おうちでも気持ちを張っているんだな、っていう気がしましたよね? でも華ちゃんは、お店にいる時だけはいつも普通の女の子でした。優しくて、かわいくて、細かいことにも気が付くとても素敵な子。
わたしは、華ちゃんが大好き。あの笑顔が大好き。優しくてかわいくて思いやりにあふれた素直な華ちゃんが大好きなんです。だから、もう少しだけ、わたしのために「とよちゃん」を続けてほしいのです。わたしにはわからないけれど、華ちゃんは一人で何かと戦っています。一緒に戦うことはできないけれど、疲れた時に帰ってこれる場所を、「とよちゃん」を残しておいてあげたい。華ちゃんが、お店にいる時と同じように明るい顔で学校に通えるようになってほしいのです。
 最後にわがまま言ってごめんなさい。お父さん、どうか、体に気を付けてください。そしてお店のこと、華ちゃんのこと、どうかよろしくお願いします。


                              豊子



    4
     


「とよちゃん」を出てからずっと言葉がなかった。ふたりとも黙りこんで電車に乗り、電車で二駅の市山駅に降りた。
 伊織くんはいつものように自転車を押し、わたしはその隣を歩いた。
 駅から歩いて十五分ほどの道のり。
 わたしの家は坂の途中。伊織くんの家は坂の上。
「……大丈夫か、華」
 普段は道路の真ん中に向かって歩くのに、今日だけは白線の内側を歩いた。小さくうなずいて、再びにじむ涙をぬぐった。
 いつもの帰り道。でも今日は、知らない場所に迷い込んだような気にさえなっていた。
 心苦しかった。
 わたしは、みんなに心配をかけている。両親にも、斎藤さん達にも……伊織くんにも。
 手術は二週間後。お店は今週末をもって閉店、ということに決まった。
 不安だった。「とよちゃん」がなくなってしまう。斎藤さんも順子さんも、「店がなくなってもうちに遊びにおいで」と言ってくれたけど……豊子さんの遺書を読んでしまったあとでは、もうこれ以上迷惑をかけることはできない。いや……読んでいなくても、おうちにまで押しかけていくなんてできない。そこには斎藤さんや順子さんたちの世界があるのだから。
 チリンチリン、と自転車のベルの音がした。伊織くんがいつものように車道側に立った。ジャージ姿の男の人が自転車で通り過ぎる。
「こっち」
 いつものように、人気のない道を選んで家へと向かう。
 一緒だ。いつもと一緒。なのに、自分がどこを歩いているのかわからない。このあと、どうやって歩いて行けばいいのかも。
 もう、伊織くんの横顔を見上げることもできない。
 ごめんなさい。
 伊織くんは多分、責任みたいなものを感じている。悪いのはわたしで、伊織くんには何の問題もないのに。伊織くんもさっきからなにかを考えているのか、黙り込んでいる。
 角を曲がったら、うちの外灯が見えてきた。
 伊織くんが口を開いた。
「なあ、華。俺たち……」
「伊織くん」
 続きを聞くのが怖くて、無理にさえぎった。
 付き合おう、って言われるのが怖かった。
 伊織くんは優しいから、「とよちゃん」がなくなるなら、自分がわたしのよりどころにならなきゃいけない、って思ってしまうはず。
 でも、そんなのは違う。付き合うなら本当に好きな人と付き合ってほしい。もう、自分の好きなように生きてほしい。
「どうした?」
 顔をのぞきこんでくる。それが苦しくて悲しくて、泣いてしまわないように、奥歯を噛みしめた。今はグミを食べていない。そんなもので誤魔化してはいけないから。
「今まで、本当にありがとう」
「……なに言ってんだよ」
「わたし、今まで甘えすぎてたよね。もう、一人で歩いて行かなきゃいけないんだと思う」
 声がふるえないように、慎重に言葉をつないだ。
 だって本当は、いまだにわたしはどうしていいのかわからない。どうやって一人で生きていけばいいのか、どこに向かえばいいのかわからないのに。
「だから、なに言って」
「もう、わたしのことは構わなくてもいいよ」
「なんだよ、それ」
 怒っているのがわかった。
 多分、付き合おう、って言ってくれるつもりだったんだ。そうじゃなくても、そうだと信じたかった。
 カラオケボックスでのことを思い出す。
 頬にかかった息。「ごめん」という思いつめた声。そして……傷ついたような表情。
 きっとあのときに、わたしの初恋は終わったんだ。
「風間がいるから?」
「え?」
「あいつがいるからもう、俺のことは必要ない、ってことなのか?」
「……違うよ!」
「じゃあなんで急にそんなこと言うんだよ!」
 伊織くんは立ち止まった。外灯の下、伊織くんは苦しそうに顔をゆがめていた。
「だって、ずっと負い目を感じてるんだよね?」
 ぐっ、と息をのんだ。
「なに言って……」
「『空色』」
 伊織くんの顔が恐ろしいくらいに強張っていく。
「……んなわけねえだろ。どんだけ昔の話だと思ってるんだよ!」
 吐き捨てるように言った。そして顔を上げ、まっすぐわたしの顔を見つめた。心臓が不穏に音をかき鳴らす。なにか本当によくないことが起こる気がして。
「俺、今気づいたよ」
「なにを……」
「ずっと、俺は華から信じられてないんだと思ってた。傷ついたし不安だったしもどかしかった。でも、今、やっとわかった」
 伊織くんの目が、今にも泣きそうにゆがんだ。
「華が信じてないのは……俺じゃないよな?」
 体が溶けて、地面に吸い込まれて行くような気がした。
 本当にそうなったらいいのに。どろどろになって地面に吸い込まれて跡形もなく消えてしまえればいいのに。
 なのにそんな都合のいいことが起こるわけはなく、わたしはただ、そこに立ち尽くした。倒れてしまわないように必死に足を踏ん張るのに、今にも腰が砕けてしまいそうだ。
 伊織くんはそんなわたしを見届けるように口を開いた。
「俺たち、別れよう」
「……え?」
「付き合ってたわけじゃない。でも俺たちはもう、こんな風に会わない方がいいと思う」
 伊織くんは背中を向けた。
 いつもこの後姿を見るたび胸をときめかせた。明るく笑う笑顔に、心配そうに顔をのぞきこんでくれる表情に、想いをかみしめた。
 好きだった。大好きだったのに。
 流れ落ちる涙を手の甲でぬぐった。
 これでよかったんだ。
 言葉だけが心の中に浮かんだ。
 だって、ずっと迷惑かけてたし。これからは伊織くんだって自分の好きなように生きていける。わたしのことなんか心配しないで、長峰さんと付き合ったりできる。伊織くんのことを素直に好きだって言ってくれて、全身で気持ちを表現してくれる人と一緒にいることができる。
 わたしをつないでいたなにかが切れた気がした。体が重くなり、まっすぐ立っていられない。
 犬を連れた男性が通りかかる。
 ……行かなきゃ。
 伊織くんは動かなかった。わたしは一人、足を引きずるように歩き出す。
 家にも学校にも居場所はない。
「とよちゃん」もなくなる。
 伊織くんからもらったグミを食べようと思って、いつもカバンに入れっぱなしにしている箱を開けた。
 そこにはもう、グミはなかった。
 わたしは今、伊織くんをも失ったんだ。