空色ピアス

     1


 もうとっくに授業終わりのチャイムは鳴り終わっている。カバンをつかんで教室から飛び出した。靴を履き替えて外に出た。正面の階段を一気に駆け降りる。
 わたしが使っている私鉄の駅行きのバスは、学校の前が始発の停留所だ。下校時間には五分おきに発車するのに、四時半発を逃すと二十分は待たなければならない。
 今日は、少しホームルームが長引いてしまった。六時間目、急遽設けられた「進学に関する説明会」のせいだった。
 今が進路を決める最後のチャンスで、その後の変更は難しい、みたいなこと。
 大学受験まで一年以上もあるのに。
 重い気分でカバンをつかむと、
「ねえ、伊織はどこにした?」
 窓際の後ろの方から長峰さんの声がした。
「指定校だよね」
 他の女子も聞く。
「え? どこ狙い?」
 けれどもそれには答えず、
「江川、部活行くぞ」
 と、立ち上がった。
 見られてる気がした。顔を向けたところにいたのは……長峰さんだった。
 盗み聞きをしているのをとがめられた気がして、急いでるふりで逃げたのだった。
 髪を振り乱して走り、校門を出る手前で、足が止まった。
 ちょうど、バスがウインカーを上げて走り出したところだった。
 ……最悪。
 このままバス停で二十分待つか、引き返して校内をうろうろするか。
 どっちも気まずいことには変わりない。そこで足を止め、声のする方に目をやった。校庭の一番奥に、ボールに向き合う伊織くんがいた。

 最初に伊織くんがサッカーに興味を持ったのは、ワールドカップをうちで一緒に見ていた時だと思う。録画をしていたのをたまたまお父さんが見ていて、わたしたちも一緒に応援した。その後、伊織くんは言った。
「俺、サッカーやる。そしたら……華も応援に来てくれる?」
 うん、と答えたら本当にチームに入ってしまった。ほかのメンバーは皆、幼稚園くらいから入っていて、すごくうまかったし、グループも出来上がっていた。それでも一人でこっそり練習しては、レギュラーのポジションを勝ち取った。
 意地悪をされたこともあったし、思うようにプレーできなくて悔しがる時もあった。チーム全員から無視される、みたいなことも。
そういう時は、「一緒に映画を見よう」とわたしから誘った。
 伊織くんは「仕方ないな」と言って練習を休んだ。口では嫌そうにしているのに、なんだかうれしそうに見えた。わたしの家で一緒に映画を見た。リビングの明かりを消してソファに座り、二人でブランケットにくるまった。伊織くんはなぜかいつも怖い映画を見たがった。怖さを紛らわせるため、顔を寄せ、ああでもない、こうでもないと関係ない話をした。お化けが出る時はぎゅっと手をつないだ。ふたりとも手にびっしょり汗をかいていた。家に帰る頃には伊織くんは元気を取り戻していて、翌日からまた練習に戻った。
 中学に入ってからは他の仲間同様、チームを辞めて部活に入った。わたしはテニス部で、一番目立つグループにいた。伊織くんがよく声をかけてきてくれたので、わたしたちのグループと伊織くんたちのグループが仲良くなった。その関係で、グループの子たちと休みの日に試合の応援に行ったりもした。伊織くんはシュートを決めると必ず、ガッツポーズをした。わたしも小さくうなずき返した。……もう、随分前のことだけど。
 気配を感じた。
「伊織のこと、見てるの?」
 一瞬、誰に向けた言葉だかわからなかった。
「日向さん」
 名前を呼ばれて、自分のことだと気付いた。
 ……わたし? 何で?
 恐る恐る顔を向ける。髪の毛が総立ちする気がした。
 長峰さんだった。




     2


 長峰さんはわずかに緊張した面持ちでぎこちなく笑った。わたしは微笑み返す余裕もなく、ただ、髪を耳にかけた。いつもはみんなから「怖い」と言われるのが嫌だった。でも今だけは怖がらせたかった。長峰さんはわたしの耳たぶに目をやったあと、わずかに後ずさってから意を決したように口を開いた。
「……日向さんって、伊織と仲がいいの?」
 返事をしなかった。
「同じ中学だったんだよね?」
「……なんでそんなこと聞くの?」
 すると長峰さんはためらうようにわずかに唇を動かしていたけれど、
「昨日、伊織と二人で市山駅のイオンのフードコートで食事してた、って……」
 ため息がもれた。
 別に、隠さなきゃいけないことじゃない。でも、やっぱり。
「ああ……うん……」
 長峰さんはすごく悲しそうな顔をした。わたしもなにか言い訳をするべきなんだと思う。
「わたしたちは付き合ってるわけじゃないよ」とか「ただの友達だよ」とか。でも、どうしてもわたしの口からは言いたくなかった。
「伊織を取らないで」
 その声がふるえた。
「あたし、伊織と付き合ってるの」
 全身が心臓になったみたいに鼓動を打つ。外の音なんか何も聞こえないくらいに。
それでも言葉を振り絞った。
「……それ、いお……望月くん本人に言ってください。……わたし、関係ないんで」
「日向さんだって彼がいるんでしょ? なのに 伊織にまで手を出すとか」
 長峰さんは涙をこらえているみたいだった。でもわたしはわたしで足がふらつきそうになるのを必死にこらえていた。
「手を出す」なんて。
「人のものを取らないで」
「わたし、誰とも付き合ってない……」
「嘘!」
 長峰さんは声を張り上げた。
「半グレのグループの人たちとお酒飲んでるの、見たっていう人がいるよ」
 そしてもう一度わたしの耳たぶを見た。片方に二個ずつ開いたピアスの穴。
 もともと一つ開いていた。校則違反だってわかってもう一つ開けた。先生から外せと言われて「絶対嫌だ」と言い張って停学処分になり、もう少しで退学させられそうになった。いまだにしょっちゅうピアスをつけてきては没収され、友達もいなくて先生からは目をつけられている。……まあ、この部分だけを見たらそういう噂を立てられるのも仕方ないと思うし、長峰さんがそんな噂を信じてしまうのも当たり前のことだ。
 それでも一応、事実じゃない部分は訂正しておきたかった。
「わたしは、誰ともつきあってないよ。半グレの人とも、望月くん、とも」
 グミが食べたい。固くてぎゅうぎゅう噛みしめないといけないやつ。ポケットの中を探るのに、今日はもう全部食べ切ってしまっていた。
 代わりに奥歯を噛みしめた。
 友達も恋人もいない。行く場所と言えば家と学校と「とよちゃん」だけ。半グレの人がどこにいるのか、どういう人が半グレかもわからないというのに。
 ぎりり、と小さな音がした。長峰さんは気づいたのだろうか。
「とにかく、伊織に手を出さないで! お願いだから!」
 怯えたようにそう言い残し、逃げるように校門の方へと走って行った。
 わたしはそこに立ち尽くしたまま、二度目に繰り返された「手を出す」という言葉に、吐き気さえ覚えた。
 それでも長峰さんを責める気になれないのは……。
 デジャブ。
 どうしても、長峰さんのことがあのときの彼女(・・)の姿に重なってしまう。
 それ以上は考えたくなかった。
 こうなるはずじゃなかった。こんなはずじゃなかったのに。
 けれどもそんな後悔はわたしを助けてくれるわけでもなく、ただ、諦めに飲み込まれる。
 長峰さんの後姿をぼんやり見たながら、思う。
 ……愛じゃん。
 今だって毎日すくむ足を無理やり前に出して学校に来てる。なのに、こんなことがあるとしがみついている手を離してしまいそうになる。
 泣くもんか。泣くもんか。
 重たい足を引きずり、バス停へと向かう。
 ぎりっ、ぎりっ。
 奥歯が壊れてしまいそう。
 誰かの足音がした。それが、わたしより速いペースで近づいてくる。
 嫌だった。逃げたくて前のめりで行きかけた時、
「あの……大丈夫?」




     3


 飛び上がりそうなほどに驚いた。いつものように無表情を取りつくろって振り返る。
 風間くんだった。
「な、なんでいるの⁉」
「なんで、って……。いや、たまたま聞いてしまったから。あの、放っておけないというか、なんというか」
「なにを?」
「は?」
「なにを聞いたの?」
 すると少し口ごもり、困ったように笑った。
「今の。ほら、長峰さんと……」
 ショックだった。
 あんなところを誰かに見られるなんて。
 頬がこわばりそうになるのを必死に隠す。
「ごめん。聞くつもりはなかったんだけど……聞いてしまった」
 本当に申し訳なさそうに頭を下げた。
 風間くんは長い前髪の隙間からちらりと見てきた。
「ひどいよね」
「別にいいけど」とあしらおうとしたら、
「日向さん、全然、そんな人じゃないのに」
 聞き間違いかと思った。今まで面と向かってこんな風に言われたことなんかなかったし、自分で言うのもなんだけど、長峰さんの見方の方が普通な気がしたから。
 答えを探していると、風間くんは強い言葉で続けた。
「あんな昭和なラーメン屋で、白い三角巾とエプロンつけて、寡黙で頑固な老店主と働いてる人が、そんな、半グレの人たちと酒飲みに行ったりしないでしょ。まあ、偏見だけど」
「そこ⁉」
「これで、『実はバリバリのワルでした』とか言われたら、ぼくも流石にへこむ」
 つい、笑ってしまった。校門を出たので、「じゃあね」と手を振って横断歩道の方へと向かったら、風間くんもついてきた。
「……別に、一緒に来なくても」
 風間くんは驚いた顔で見てきた。
「えっ、ぼくもバスだけど?」
「そうなの?」
「そうだよ!」
「ごめん、知らなかった」
 すると、「えーっ」と落胆した声を上げてその場にしゃがみこんだ。
「ひどい! ぼくは知ってたのに」
「いつから?」
「日向さんがバイト始めて少し経ったぐらいの頃から」
「……嘘でしょ?」
「そんな嘘ついてどうするんだよ」
「……確かに」
 風間くんは気を取り直したように立ち上がった。
「ところでさ」
「なに?」
「今度、デートしない?」
「は?」
 あまりに急すぎて言葉が見つからなかった。風間くんも「うん?」とわたしの顔をのぞきこみ、もう一度言った。
「だから、デート」
「誰と誰が?」
「日向さんとぼく」
 ようやくその言葉が意味を持って頭の中にとどまった。その上で口を開く。
「お断りします」
「よかったー!」
 風間くんは楽しそうに声を上げたあと、「ん?」と考え込んだ。そして、
「ええええっ⁉」
 真逆のリアクションをした。
「え? え? なんで? 今、お断りするって言った?」
「言ったけど」
「なんでーーーー!」
「いや、驚きたいのはこっちの方。なんで当然のようにオッケーされると思ったの?」
 すると風間くんは、訝しげにわたしを見た。
「だって、ぼくたち友達だし」
「え?」
「だから、友達」
「……あー……え? いつ?」
「デートする日?」
「ちがう! わたしたち、いつ友達になった?」
 すると本気で驚いたみたいに「え?」と詰まった声を上げた。
「この間! 学食で出会って、図書室で友達になった」
「いや、あれはただ単に通りすがりの人の会話……」
「あ、知り合いってこと?」
 うーん、と考え込む。そしたら今度はさらに明るく笑った。
「じゃあ、今から友達になろう」
 まじまじと風間くんを見てしまった。学校での風間くんは、ちょっとむさくるしい感じだけど、「とよちゃん」にいる時は前髪と横の髪をあげている。ピアスだけじゃなくてたくさんのネックレスとか腕輪とかも重そうだけど、不潔には見えない。今も長い髪の隙間からわたしを見つめる目はラーメンを食べているときと同じくらい楽しそうだ。感じのいいお客さんだということも知ってるから、「お断りします」と突き放すのは申し訳ないような気がした。
 答えに詰まっていると、風間くんはじっとわたしを見てきた。
「な、なに」
 恐怖して後ずさると、神妙な顔をした。
「この間日向さんと話したあとにいろいろ考えたんだけどさ」
 いきなり始まった会話がどこへ向かうのかわからず、はからずも風間くんをじっと見た。すると風間くんは妙に顔を赤らめてそらした。
「なんか、そんな風に見つめられると……」
「見つめてない!」
「あ、そうなの?」
「それで、なに? なにを考えたの?」
 ちょっと語気が強かったかもしれない。でも、わたしの戸惑いも察してほしい。だって風間くんはいろいろ……想定外すぎる。
 けれどそんなことは一切気にならないみたいに、風間くんは真剣に切り出した。
「ぼくたちは、仲間、というより同士がいいかと思って」
「は?」
 今、「友達になる」で決着がついたのではなかったの?
 わたしに見せつけるように、横の髪を耳にかける。そこには、耳の輪郭に沿うようにしてあけられたピアスの穴が三個。
 ピアスの穴が開いてる者同士、ということらしかった。
「わ、わたしはどっちでも……」
「え、なんだよその消極的な言い方」
 風間くんはすぐに髪を下ろし、声を潜めた。今度は上まで詰めたシャツのボタンを外した。
「なっ、なに⁉」
「うん?」
 やっぱりわたしのことなど無視して第二ボタンにまで手をかけた。
「ちょ、ちょっと、や、やめっ……!」
 シャツの間に指を突っみ、ちらりと見せてきたのは、ごつごつしたシルバーのネックレスだった。
「ほら、これ」
「え? これ、学校にもつけてきてるの……⁉」
「うん。ほかにはこれと、これと……」
 シャツの下から、皮ヒモにぶら下がったペンダントとか、数珠みたいなものとか、鎖みたいなものまで見せてきた。
「いい! わかった。同士! それでいいから!」
 すると不満そうに小さく口を尖らせた。
「なんか後ろ向きだなあ」
 と、肩を落とした。さすがに悪いと思ったので、
「だって、学校だし! ほかの人に見られたらあんまりよくないと思うし」
 そこでようやく納得したのか、神妙な顔つきになった。
「そうだよね。うれしくてつい、羽目を外しそうになってしまった」
 自分を戒めるように言ったあと、周囲を見回した。そして、
「あとね、これも」
 今度は長袖のシャツを少しまくり上げた。そこには蛇と壺がからまったみたいな黒いタトゥーがあった。
 一瞬たじろいだけれど、無難な感じに言ってみた。
「……タトゥーまで?」
「しいいいっ! これはね、ヘナ。本物は入れない」
 言ったかと思うと、そそくさとまたシャツを手首まで下ろした。
「なんで?」
「いや、普通に痛そうだから」
「ピアスの穴、片方三個ずつも相当痛かったと思うけど」
「そうなんだよ!」
 大真面目で頷いた。
「でもさ、ピアスは特別なんだ。ピアスの為の痛みなら耐えられる。けど、ほかの痛みは我慢できない!」
「ごめん。わたしにはちょっと理解が難しい……」
 なるべく感じ悪く聞こえないように答えると、風間くんは楽しそうに笑った。
「日向さんて、結構リアクション面白いね」
「風間くんのせいだけど」
 すると風間くんは明るく笑った。
「だからさ、デートしようよ」
 返事に困っていると、
「ここなんだけどさ」
 わたしの言葉など聞いてないみたいに、スマホを近づけてきた。それは「美味しいナビ」というグルメサイトの一画面で、『福元』というラーメン屋さんの写真がでていた。
 今日知り合いになったばかりなのにいきなりデートに誘ってきて、その行き先がラーメン屋……。
 つい、責めるように見てしまった。
「……な、なんだよ」
 ビビったみたいに後ずさった。
「風間くん、なんか距離感バグってる」
「えーそうかなあ」
 全く気にしていないように声をあげて笑ったあと、「おっと」と言って口をつぐんだ。後ろからほかのクラスの派手めな人たちが集団でやって来たからだ。
「なんで黙るの?」
「……なんか、ああいう人たちってちょっと怖いじゃん」
「いや、耳に六個もピアスの穴開けて、ネックレス大量につけて、ヘナタトゥーしてる人の方がよっぽど怖いと思うけど」
 すると、寂しそうに笑った。
「ああ、それって……ベクトル違うでしょ」
「え?」
「ぼくが彼らを見てて感じる『怖い』って、『自分は負けてる』って思うところからくる『怖い』。あっちがぼくに対して思うのは、『あの人変な人っぽい』から『怖い』」
 返事ができなかった。
 その通りだ、って思ってしまった。それは実際、風間くんではなく、わたしがみんなにそう思われていることだから。
 そんなわたしを見て何を思ったのだろう。風間くんはすぐにその大きな口をにっこりと歪めた。
「だからさ、行こうよ」
 何に対する「だから」なのかがわからず、小さく首を横に振った。
「でも、風間くんのこともあんまり知らないし」
「だって日向さん、ラーメン大好きじゃないか」
「え⁉ なんでそうなるの⁉」
「この間、ぼくが食べてた学食のラーメンめちゃくちゃ見てたし」
「別に、ガン見した覚えはないけど」
「普通の女子高生がああいうところでバイトするなんて、よっぽどラーメンが好きだとしか思えないじゃないか。時給だって安いのに」
「なんで風間くんがわたしの時給のことまで知ってるの?」
「悪いけどぼくは、数年来のリピーターだよ。『バイト募集』の張り紙が出てたのも、その時給が格安なのも知ってる」
「……そこは、ドヤ顔するところでも突っ込むところでもないから」
 何となく、どっ、と疲れが押し寄せてきた。
「今週日曜ね。十二時ごろ。現地集合」
 風間くんは、スマホをいじった。
「日向さん、クラスのグループラインに入ってるよね。ぼくも一応、入ってるんだ。だから、来るなら連絡して」
 惰性で「あ、うん」と答えたあと、「ヤバい!」と思った。「行かない」って言おうかと思ったけれど……うれしそうな風間くんを見ていたら、言えなくなってしまった。
 まあいいか。多分行かないし、連絡もしないと思うから。




     4 


 うっすらと油で茶色く汚れた壁に、マジックで書かれた手書きのメニューと色あせたメニューの写真。「ラーメン千円」「餃子 六百円」「チャーシュー飯 四百円」……。赤い天板のカウンター席が八席に、白い天板の簡易テーブルとパイプ椅子に毛が生えた程度の設えのテーブル席が六つ。
 飾り棚の上には小さなテレビがあり、そこからニュースが流れて来た。アナウンサーが「今年の梅雨は雨量が少ないですが、もうしばらく続きそうです」と、話している。よくある昭和の町中華という趣のこの食堂。
 わたしのバイト先のラーメン屋、「とよちゃん」だ。学校と自宅の中間ぐらいにある芦塚駅から五分ほど離れた商店街の中にある。
 わたしは長い髪を後ろで一つに結び、いつものようにピンクの石がついたピアスと小さな輪っかのピアスをつけた。白い三角巾とエプロンをつけた後、急いで手を洗ってホールに出た。
「あがったよ」
 白い帽子と前掛けをつけた御歳八十歳のご主人、斎藤さんがカウンターの前にどんぶりを置いた。わたしは湯気を立てるラーメンをお盆に載せた。斎藤さんはそれを見届けると、「どっこいしょ」と声をかけて丸椅子に座った。
 とよちゃんのラーメンは、しょうゆベースの中華そばだ。鶏ガラと昆布と鰹のダシに、小豆島の醤油を使ったスープ。薄い黄色のストレート麺。少しのネギとメンマ。そして、三ミリくらいの厚さの大きいチャーシューが一枚、丼からはみ出さんばかりに載せられている。この、バラ肉を何枚も巻いて作ったチャーシューが「とよちゃん」の名物だ。あっさりしたスープにチャーシューの脂が溶けてコクのあるラーメンになる。昔はよくテレビや雑誌に取り上げられたものだった。
「お待たせしました」
 テーブル席に運ぶ。スマホを見ていた四十歳くらいの男性客が顔を上げた。どこかの作業所のような制服を着た人で、週に二回ほど来てくれる人だ。
 いつものように黙ったまま、食べかけの餃子の皿を向こうに押した。いつもの場所にラーメンを置くと、その人は半身を傾け、どんぶりを囲むようにラーメンをすすり始める。
「斎藤さん、何か手伝いましょうか?」
 厨房に戻って声をかけると、
「うん? 今はいいよ。いつもありがとな」
 その、節くれだった手を左右に動かした。
 ガラガラガラッ。
「ごちそうさん」
 その人はいつも通りさっさと食事を終え、黙って支払いを終えると店を出た。
 お客さんは一人もいなくなった。
 店には、ニュースのアナウンサーの声だけが小さく響く。
 ふと厨房に目をやる。
 斎藤さんは椅子に座ったまま、シンクの一点を睨むみたいに見つめていた。
 思いだしてるのかな。
 去年、奥さんの豊子さんが病気で亡くなった。店をやめるのかと思ったけれど、「豊子さんの遺言だから」と言ってまだ店を続けている。最初のうちは以前とほとんど変わらず元気にしていたけれど、最近、座っている時間が長くなった。
 それまではどんなに暇でも常に忙しくしていて、店の厨房でも椅子に座る、なんてことは見たこともなかったのに。
 奥から、乱暴な足音がした。
「あら、お父さんまた座ってるの? 大丈夫?」
 斉藤さんのお嬢さんで、この店を手伝っている順子さんがいつものトートバッグを肩にかけて奥から出て来た。順子さんはわたしのお母さんより少し年上くらいで、いつもわたしと入れ替えにこの店を出る。今日、こんな時間まで残っているのは帳簿をつけていたからだ。
「おれももう、歳だからな」
 順子さんの言葉を気にしたみたいに、また「どっこいしょ」と立ち上がった。
「じゃあ華ちゃん、客がいない今のうちに賄い食っちゃうか」
「はい」
「ラーメンでいいか?」
「お願いします」
 そう答えながら、「またお客さん、少なかったのかな」と、不安になる。今まで賄いに「商品」であるラーメンを出すことはなかったのに。
「やっぱり、仕入れの量、減らした方がいいのかしら」
 順子さんが独り言みたいに言った。
「最近は、グルメサイトの評判もあんまりよくないしね……」
 後ろで一つに留めた明るい茶色に染めた髪をほどいた。
「とよちゃん」は知る人ぞ知る有名店なので、遠くからわざわざ食べに来てくれる人も多かったけれど、豊子さんが亡くなってからはお客さんがぐんと減った。以前は休日など、開店前から人が並んでいることが普通だったのに、最近では並ぶ人もない。
 わたしも「おいしいナビ」の画面を開いて、「あっ」と、声をあげそうになった。
 評価が星二つ。恐る恐るコメントを見る。
『店員が無愛想すぎる』。
 ギクッとした。それはまさに、この間風間くんに言われたことだったから。
 気になって続きを見た。
「亡くなった奥さんはとてもいい人だった」とか「あの人が優しかったから今の店員の不愛想さが際立つ」などと書かれていて……わたしが本当に不安に思っている言葉はひとつも書かれていなかった。
 ほっ、と、小さく息をつき、
「これ、わたしのことですよね……」
 順子さんにスマホの画面を見せた。すると順子さんはあからさまに眉をひそめた。
「そんなわけないでしょ!」
 すでにチェック済みなのかもしれなかった。
 それでも、この文面から見てそう思わない方が不自然だろう。
 斉藤さんは口を「へ」の字にも曲げたまま、麺をお湯から上げた。シャッ、シャッ、と湯切りをして、麺をスープの入った丼に移した。ネギとメンマとチャーシューを載せ、
「お待たせ」
 どん、と、作業台にラーメンを置き、じろり、と音がしそうにわたしを見た。
「不愛想なのは華ちゃんだけじゃないからな」
 ニコリともせずに言い放つ。
 確かに、今でもわたしがいないときはこの顔で、「悪いがカウンターに座ってくれませんかねえ! 手が足りてないんで!」とか言っている。「麺はうまいが、大将は怖い」と言われたこともあった。ただ……わたしも性別と年齢が違うだけで無愛想接客には変わりがない。
「そんなの、いちいち気にするこたねえんだよ。今までずっと、それで客が来てたんだから。面と向かって苦情言われたこともねえ」
「でも、わたしのせいで売り上げ落ちてるとかだったら……」
 口には出せないけど、もし、閉店、みたいなことになったら……。
 考えただけで胸が苦しくなる。
 斎藤さんはわたしの思いを見抜いたみたいに、いつになくまっすぐ目を合わせてきた。
「いいか? 華ちゃんはなんも失礼なことはしてねえんだから、いつもどおりでいい。ここは笑顔を売る店じゃねえ」
 怒ってくれてる……みたいだ。
 小さくうなずいて、ラーメンのどんぶりを手に取った。目の前に置き、「いただきます」と、手を合わせた。
 箸でその大きなチャーシューを動かし、レンゲでスープをすくった。口にふくんで、思わず手を止めた。
「どうだ? ……うまいか?」
 斎藤さんが射るようにわたしを見ていた。
「おいしいですよ」
 それ以上聞かれたくなくて、麺をレンゲに載せた。
「そうか」
 斎藤さんはそういったまま黙りこんだ。
 ブッ、ブッ、とスマホが音を立てた。そのまま構わずに食べていると、
「見なくていいの?」
 順子さんが声をあげた。はっとして、「すみません」と、スマホを操作した。
 伊織くんからだった。
 ――今どこ?
 ――とよちゃん。
 ――じゃあ、行く。
「彼氏か」
 斉藤さんが口を開いた。
「彼じゃないです」
 わかっているはずなのに、斉藤さんは毎回、こんな会話を繰り返す。
「もう、なんでいつもそういう方向に持って行くかなあ! 今の時代は男女の友情だってちゃんと成立するんだから! そうよね?」
 なんとなく言葉にできなくて、ただ、黙ってうなずいた。
 ――あたし、伊織と付き合ってるの。
 長峰さんの声を、表情を思い出してしまった。
「じゃあ華ちゃん、あとはよろしくね」
 順子さんは横開きの戸をあけた。
「お疲れさまでした」
 ぎこちなく笑って答えたら、「あっ」と順子さんが声をあげた。
「こんちは」
 伊織くんだった。順子さんと入れ替わるように店に入ってくる。
「い、い、いらっしゃいませぇ」
 せっかく笑顔を作ったのに、
「ひっ」
 と、怖がるように立ちすくんだ。わたしは思わずしかめっ面で言った。
「なんでそんなリアクションなの?」
「だって、普通に怖えだろ!」
 順子さんがぷっ、と噴き出し、斎藤さんが「んぐっ」と、笑いを飲み込んだ。




     5
 

 午後十時。
「お疲れさまでした」
 帰りの挨拶をすると、伊織くんがあわてたように顔をあげた。自分の食事が終わったあと、誰もいないカウンターの隅で参考書を広げていたのだった。
「今日も場所使わせてもらってありがとうございました」
 律儀に頭を下げる。
「おう。またな」
 斉藤さんが白い帽子を頭から外した。
 二人揃って外に出ると、生ぬるい風に包まれた。
「……なんで急に笑顔の練習なんかしてんだよ」
 伊織くんは、今更になってそんなことを言い出した。
「だって、おいしいナビで、店員が不愛想すぎる、って書いてあるから……」
 そのサイトを開いて見せた。伊織くんは小さく首を横に振り、
「そんなの気にしなくていいんだよ。そんな、媚び売るみたいなことしなくったって」
 と吐き出すように言った。少し怒っているみたいだ。
「別にそういうわけじゃ……」
「華、危ない」
 伊織くんが、道路の中央に向かって歩くわたしのカバンを引っ張った。人気がないとつい、車道の方に広がってしまう。
「誰も来てない」
「轢かれてからじゃ遅いんだよ」
 伊織くんはわたしを抑え込もうとするみたいに自分が車道側に立って歩いた。
 わたしがバイトの日はほとんど必ず伊織くんが部活の帰りにここで食事をし、閉店まで勉強して一緒に帰るのも、高校に入ってから何も変わらない習慣。
 六月の夜の空気は生ぬるくて、どこかから漂ってくる花の香りがいつもより強く感じる。見上げた月もぼんやりとかすんで見える。大通りに出る前のわき道に入る。それほど人通りの多くない道をつかず離れずの距離で歩きながら、口を開いた。
「長峰さんと付き合ってるの?」
 伊織くんは足を止めた。
「なんで?」
 街灯に照らされたその顔は、本当に驚いているようにしか見えなかった。
「今日、言われた。『人のものを取らないで』って。付き合ってる、って」
「なに? なんで? どうして長峰が華にそんなこと言うんだよ。学校では華とはほとんど話もしてない。挨拶だってしてないんだぞ」
「昨日、一緒にご飯食べてたの、誰かに見られちゃったみたい」
「ああ……」
 力が抜けたように両手を膝につき、大きなため息をついた。気持ちを落ち着かせるみたいにしばらくじっとしていたけれど、ようやくまっすぐ立った。
 どちらともなく足を進めた。
「付き合ってねーよ」
 わたしもそれ以上は何も答えることはできなかった。伊織くんはしばらく黙っていたけれど、
「告られてないし、俺から告ることもない。長峰からはメッセージもらったり、休みの日に誘われたりはしてる。でも、返事はそんなにまめには返さないし、一緒にどこかに行ったこともない。第一、今は休みの日だって部活で忙しい」
 そこでいったん口を閉じ、少し考えこんだあと、意を決したように息を吐いた。
「あのさ」
「何?」
「華は……俺のこと、信じてる?」
 まただ。
 伊織くんは時々こんなことを聞いてくる。
「どうしたの? いきなり」
 すると、はっとしたように慌てて笑顔を作った。
「いや、何でもない。え、と、気にすん……」
「信じてるよ」
 思わず唇を噛んだ。
「いつもありがとう、って思ってる」
「……なんだよそれ」
「しょっちゅう学校にピアスつけていって、没収されてる。みんなだってわたしのこと、『そういう人』だって見てる。……親だって、わたしには腫物を触るみたいに扱ってくる。なのに、伊織くんは止めることも否定することもなく、受け入れてくれる。こうやって気にしてくれる。すごく……感謝してるんだ」
 伊織くんは驚いたような顔をしていたけれど、少しだけうつむいて少しウエーブがかったつややかな髪をかき上げて、小さく頭を横に振った。子供の頃からずっと見ている癖だ。
「結構、見られてるもんなんだな」
「だね」
「もし……こうやって、俺が華のバイト先で食事して、一緒に帰ってるなんて知られたら、どうなるんだろ」
「どういうこと?」
「付き合ってるとかって……思われるのかな」
 その本気みたいな表情に、少しだけ苦しくなる。「そうだね」って答えたらどう思うだろう。「俺は、それでもいいよ」って言ってくれるなら、わたしも頷くのに。
 でも、返事を聞くのが怖いわたしは無理に声を張り上げてみる。
「ねえ、これ食べない?」
 鞄の中からピンクの箱を取り出した。伊織くんからもらったグミだ。
「華のために買ったのに」
「食べたことある?」
「ないけど」
「絶対食べたほうがいい」
 街灯の下で立ち止まり、ふたを開ける。
「この明かりの下じゃ色の違いがわかんねえ」
「大丈夫、どれでもおいしいから」
 適当に選んでそれぞれ手に取った。口に放り込む。
「げ、なんだよ、これ。硬すぎ!」
「そういうグミなの!」
 わたしはいつものようにぎゅうっと噛みしめる。じわじわと甘みが広がってくる。
「これ、顎が壊れる」
「噛まなくてもいいよ」
「なんか、一粒で四時間くらいいけそう」
「ほんとだね!」
 声をあげて笑った。
「何味?」
「なんだろな。バナナかな」
「え! そんな味、ないよ!」
 やっぱり楽しくて笑ってしまう。
「じゃあパイナップル」
「それはあった。わたしのは多分、ピーチ」
「多分、って」
 伊織くんも低い声で笑う。
「色が分かると味の違いも分かるのに」
「それ、思い込みで食ってるようなもんだな」
 別に、グミだけじゃない。人だって同じ。思い込みでつきあってる。
 そんな気持ちをおさえこみ、箱をカバンにしまった。
「全部おいしいから、いいの」
 駅が近くなってきたところで、
「俺も、『おいしいナビ』にコメント書こ」
 話のついでみたいに言った。
「『店員が不愛想すぎる』っていうコメントが一番上にあるのは許せない」
「ありがとう」
 わたしたちは、気持ちを隠したままいつものように笑った。