わたしが忘れた 紅い花

 自宅のドアを開け、ベッドに直行する。夏は一番気持ちが沸き立つ季節だけど、さすがに今日は、いくら水を飲んでも体が追いつかなかった。
「ミャウ」
 小さくベッドがきしんで、柔らかな薄黄の猫が現れた。大の字に寝転んだわたしの側で、訝しげに目を細める。しばらく首を傾げていた愛猫は、おもむろにわたしの上に乗っかった。そしてこちらにお尻を向け、鼻先をあちこちに擦りつけ始めた。
「え、なになに」
 変な匂いでもするのかな、と、自分を匂ってみたけど、特に変わった匂いはしない。
「もうやめて、カズラ」
 実葛(さねかずら)の草むらで出会い、連れて行けと言わんばかりにわたしの靴を引っ掻いたのは、ずっと昔のこと。一緒にいる時間が長いからか、今や言葉を理解してるんじゃないか、と思うような意思表示を見せたりする。
「汗臭かった? 一息ついたら、すぐお風呂に入るから許してよ」
 ベッドの上に起き上がり、水を一口飲んだ。いつもより、体の隅々まで浸み渡っていく感覚があった。
「ちょっと色々あってさ」
 未だに猫種不明の相棒の背中を撫でてやる。カズラは目を閉じて、絵のように動かなくなった。背中から離した手をじぃっと見つめる。開いたり握ったりを繰り返した後、自分の体を上から下にペタペタと触ってみた。思い出すと、全身を掻きむしって確認したくなる。
「白昼夢を見たんだ。ただでさえ妙な夢なのに、意味分かんないよね」
 笑おうとしたら、乾いた咳が出た。今年は三十年に一度の猛暑だと言う。そのせいだろうか。
「それに、不思議なお客さんに会ったの」
 古木のような赤茶の瞳が、脳裏から離れない。ずっとどこかから見られている気がして、掛け布団を頭からかぶった。
 ミャウ。
 不満げな鳴き声を繰り返され、慌てて背中に手を戻す。
 頭を振って、スマホで検索した【百日紅の育て方】というページを見た。庭のある家に住んだことがないので、地植えには疎い。そこには、青い空に映える紅い花が、たわわに実る果実のような佇まいで写っていた。
「百日紅って、夏の女王って感じだよね」
 カズラが顔を上げて、一声鳴いた。目を細めたその表情は、笑っているようにも見える。
「そのお客さん、百日紅好きな人で」
 あれから十分ほどして外売り場に戻ってみると、男性客の姿はなくなっていた。サフィニアのポットの隙間に、丁寧に折られた登録用紙を残して。
 彼の名前は迎井蓮(むかいれん)といった。今月で二十九歳。
 わたしの三つ上かぁ、全然古木じゃないじゃん、と思ったところでハッとし、残りを見ることを自制した。
 思い返すと、高い空に溶けてしまいそうな色の人だった。あの肌も、雰囲気も、白っぽく見えた髪も……いや。
「あの色は白銀っていうのかな」
 すると、カズラがぐいっと上半身を持ち上げた。尻尾をみるみる膨らませ、ベッドに激しく叩きつける。喉の奥からは、「シャーッ」という唸り声まで聞こえだした。
「今度は何?」
 爪を立て、仕事着をグイグイ引っ張る。
「どうしたの、何に反応したの? 白銀?」
 野性の本能というのだろうか。カズラはたまに警告を発してわたしを引き止める。やっぱり、彼に感じた昼間の違和感は、正しいのかもしれない。
 慣れた手つきで怒りをかいくぐり、小さな額を擦ってやった。炎のようにゆらめく瞳から目を逸らして。
「大丈夫。あの人に会うことは、もうないよ。お店に来ても、ちゃんと避けるし」
 そう呟き、スマホの画面を閉じた。真っ暗なスクリーンに、自分の赤茶の瞳が映っている。カズラは荒い息を吐いたままブルブルッと身を震わせると、ベッドの下にするりと潜り込んでいった。なかなか怒りは冷めやらぬらしい。
 部屋中に響き渡る唸り声を聞き流して、布団を剥いだ。浴室に向かう体が重い。明日もシフトは早番なのに。