「百日紅の苗はありますか」
声を掛けられ、サフィニアのポット苗から手を離す。振り返ると、キャップを深く被った男性が立っていた。その隙間から覗く淡い色の髪先が、七月の日差しも相まって眩しく見える。
「すみません」
背筋を伸ばしても、目線は肩までしか届かない。
「百日紅は植付け時期が過ぎてまして。次は九月頃に入荷する予定です」
「そうですか……」
わたしは、土まみれの軍手でエプロンの裾を掴んだ。なぜか、ひりっと胸が痛い。在庫を漁ったら一つくらい残っているかも、なんて、柄にもないことを考えてしまう。
わたしは仕事用の笑顔を作った。
「地植えですか? それとも、鉢? 花の色に、ご希望はありますか?」
「紅がいいんです。庭にすでに一本あるんですが、増やしたいなと思いまして」
「百日紅、お好きなんですね」
「えぇ――何よりも」
男性の口元が柔らかく緩んだ。
それを捉えた途端、じりじりと照りつける太陽の熱さが消え失せた。
心地良い眠りから無理矢理引きずり起こされた時のような、倦怠感が満ちる。目の前に紅い粒がひとつ、舞った。
「え?」
目をこする。
しかし、それはみるみる数を増し、サフィニアの柔らかな花びらを揺らすことなく、男性客との間に大きな渦を描いた。
この光景を、わたしは小さい頃から何度も見てきた。あくまでも、夢の中で。
頭上からは、ひりつくほどの日差し。車の排気ガスの匂い。別部門のスタッフがいつものように会釈をして、すぐ脇を通り過ぎて行く。
――見えていないんだ。
目の前の人は、微動だにしない。口元に描かれた弧の字も、貼り付いたまま。
ただ、彼の放つ甘い匂いだけがするすると伸び、真綿のようにわたしを縛った。見えているはずの景色がじわりと溶けていく。サフィニアのポットが落ちた音すら、遠い夢の出来事のように思えた。息を吸おうとしたら、体が拒否した。
息は、吐くものよ。
「飲んで」
不意に水が差し出され、わたしは奪うようにそれを受け取り、飲んだ。途端、周囲のざわめきが、わっと戻ってきて、吐きそうなほどむせた。
「大丈夫?」
近づいた声の響きに不快感はない。膝に手をつき、呼吸を繰り返す。いつの間にか、紅い粒は一つ残らず消え失せていた。
「ありがとう、ございます」
何とか声を絞り出す。夢で見ていた可憐で儚い感じと、全然違う。
アスファルトの上に転がるサフィニアのポットを拾い上げて、重たい頭を持ち上げる。そして息を呑んだ。
わたしを覗き込んでいたその人は、驚くほど美しかったから。喋って、瞬きをして、二本の足で歩いているのが嘘みたいに。
彼の瞳は、何百年も前から生き続ける古木の木肌のように、複雑なうねりを描いていた。あらゆる出来事を見守ってきた、圧倒的な存在。その中に潜む色味も、光も、畏怖さえ感じさせるほど異質だった。
「水は、美味しかったかい」
彼の言葉に、ペットボトルが乾いた音を立てた。
「……そうだ、お水。新しいの、買ってお返しします!」
彼は少し気怠げに微笑み、首を振った。長年勤めてる勘で、これはもう、何かを買ってくれるお客さんの顔じゃないな、と思った。その人は、思い出したかのように穏やかな口調で言った。
「元気になったのなら、良かった」
足の爪先をぎゅっと握って、深くお辞儀をする。
「大変お見苦しいところをお見せしまして」
「とんでもない。えぇっと」
彼は身を屈めて、わたしのエプロンに付けてある名札を覗き見た。その目が一瞬、強い色を帯びた気がしたけど、瞬きをしてよく見ると、左右完璧な形をした一対の目が、ただそこにあるだけだった。
「村主コウ、さん」
長くて白い指が、ポットの小さな葉の上に置かれる。
「この子たちはキミが管理してるの? すごく元気だね」
半透明の屋根からこぼれてきた光が、緑の上でにじむ。植物が喜んでいるようにも見えた。
「お詳しいんですか?」
「いや、全く。でもわかるよ。これからぐんぐん伸びて花をつける、生命力に溢れてるから」
この人が言うと、不思議と信憑性があった。実際、わたしの苗の管理には定評がある。この時わたしは、自分が手入れをした百日紅に花を咲かせてほしい、とまで思っていた。銀色の清潔なポットにささっていたチラシを一枚取り出す。
「あの、お店の会員登録してもらったら、ご希望の苗が入荷次第連絡がいきますので。良かったら」
登録用紙と共に両手で差し出す。しかし、男性は中々手を出してこない。わたしはハッとして手を引っ込めた。
「すみません、ご迷惑でしたね。あっ、お気になさらないでください。結構いらっしゃいますので、チラシを嫌がられるお客さま」
同僚に言われたことがある。村主さんってこういう時、喋れば喋るほど墓穴を掘るよね、と。男性の目はわたしに固定されたまま、動かない。
「いえ、お客さまがそうだと言っているわけではなくて……」
柔らかな笑い声が降り注いだ。笑われているのに、心が凪いでいく。彼の声はひやりとしていて、真夏の空気の中で心地よかった。さっきまで感じていた緊張感が、内側から解かれていく。しかし――。
「きみはほんとに……」
そのひと言が、体温をぐっと下げた。甘い匂いが鼻先を掠める。意識が一瞬、遠くなる。
わたしは慌ててチラシを戻した。押し込んだチラシがぐしゃぐしゃになってポットの上に飛び出ていたけど、気にする余裕はなかった。幸い、染み付いた習慣で、自動音声のような言葉が滑り出ていた。
「では、業務がありますので、失礼します」
仕事用の笑顔を作ることもできないまま、背を向ける。興味とか関心とか、そんな些細な感情で振り向いていい気がしない。「またのご来店お待ちしております」という定番の台詞は、最後まで言わなかった。
声を掛けられ、サフィニアのポット苗から手を離す。振り返ると、キャップを深く被った男性が立っていた。その隙間から覗く淡い色の髪先が、七月の日差しも相まって眩しく見える。
「すみません」
背筋を伸ばしても、目線は肩までしか届かない。
「百日紅は植付け時期が過ぎてまして。次は九月頃に入荷する予定です」
「そうですか……」
わたしは、土まみれの軍手でエプロンの裾を掴んだ。なぜか、ひりっと胸が痛い。在庫を漁ったら一つくらい残っているかも、なんて、柄にもないことを考えてしまう。
わたしは仕事用の笑顔を作った。
「地植えですか? それとも、鉢? 花の色に、ご希望はありますか?」
「紅がいいんです。庭にすでに一本あるんですが、増やしたいなと思いまして」
「百日紅、お好きなんですね」
「えぇ――何よりも」
男性の口元が柔らかく緩んだ。
それを捉えた途端、じりじりと照りつける太陽の熱さが消え失せた。
心地良い眠りから無理矢理引きずり起こされた時のような、倦怠感が満ちる。目の前に紅い粒がひとつ、舞った。
「え?」
目をこする。
しかし、それはみるみる数を増し、サフィニアの柔らかな花びらを揺らすことなく、男性客との間に大きな渦を描いた。
この光景を、わたしは小さい頃から何度も見てきた。あくまでも、夢の中で。
頭上からは、ひりつくほどの日差し。車の排気ガスの匂い。別部門のスタッフがいつものように会釈をして、すぐ脇を通り過ぎて行く。
――見えていないんだ。
目の前の人は、微動だにしない。口元に描かれた弧の字も、貼り付いたまま。
ただ、彼の放つ甘い匂いだけがするすると伸び、真綿のようにわたしを縛った。見えているはずの景色がじわりと溶けていく。サフィニアのポットが落ちた音すら、遠い夢の出来事のように思えた。息を吸おうとしたら、体が拒否した。
息は、吐くものよ。
「飲んで」
不意に水が差し出され、わたしは奪うようにそれを受け取り、飲んだ。途端、周囲のざわめきが、わっと戻ってきて、吐きそうなほどむせた。
「大丈夫?」
近づいた声の響きに不快感はない。膝に手をつき、呼吸を繰り返す。いつの間にか、紅い粒は一つ残らず消え失せていた。
「ありがとう、ございます」
何とか声を絞り出す。夢で見ていた可憐で儚い感じと、全然違う。
アスファルトの上に転がるサフィニアのポットを拾い上げて、重たい頭を持ち上げる。そして息を呑んだ。
わたしを覗き込んでいたその人は、驚くほど美しかったから。喋って、瞬きをして、二本の足で歩いているのが嘘みたいに。
彼の瞳は、何百年も前から生き続ける古木の木肌のように、複雑なうねりを描いていた。あらゆる出来事を見守ってきた、圧倒的な存在。その中に潜む色味も、光も、畏怖さえ感じさせるほど異質だった。
「水は、美味しかったかい」
彼の言葉に、ペットボトルが乾いた音を立てた。
「……そうだ、お水。新しいの、買ってお返しします!」
彼は少し気怠げに微笑み、首を振った。長年勤めてる勘で、これはもう、何かを買ってくれるお客さんの顔じゃないな、と思った。その人は、思い出したかのように穏やかな口調で言った。
「元気になったのなら、良かった」
足の爪先をぎゅっと握って、深くお辞儀をする。
「大変お見苦しいところをお見せしまして」
「とんでもない。えぇっと」
彼は身を屈めて、わたしのエプロンに付けてある名札を覗き見た。その目が一瞬、強い色を帯びた気がしたけど、瞬きをしてよく見ると、左右完璧な形をした一対の目が、ただそこにあるだけだった。
「村主コウ、さん」
長くて白い指が、ポットの小さな葉の上に置かれる。
「この子たちはキミが管理してるの? すごく元気だね」
半透明の屋根からこぼれてきた光が、緑の上でにじむ。植物が喜んでいるようにも見えた。
「お詳しいんですか?」
「いや、全く。でもわかるよ。これからぐんぐん伸びて花をつける、生命力に溢れてるから」
この人が言うと、不思議と信憑性があった。実際、わたしの苗の管理には定評がある。この時わたしは、自分が手入れをした百日紅に花を咲かせてほしい、とまで思っていた。銀色の清潔なポットにささっていたチラシを一枚取り出す。
「あの、お店の会員登録してもらったら、ご希望の苗が入荷次第連絡がいきますので。良かったら」
登録用紙と共に両手で差し出す。しかし、男性は中々手を出してこない。わたしはハッとして手を引っ込めた。
「すみません、ご迷惑でしたね。あっ、お気になさらないでください。結構いらっしゃいますので、チラシを嫌がられるお客さま」
同僚に言われたことがある。村主さんってこういう時、喋れば喋るほど墓穴を掘るよね、と。男性の目はわたしに固定されたまま、動かない。
「いえ、お客さまがそうだと言っているわけではなくて……」
柔らかな笑い声が降り注いだ。笑われているのに、心が凪いでいく。彼の声はひやりとしていて、真夏の空気の中で心地よかった。さっきまで感じていた緊張感が、内側から解かれていく。しかし――。
「きみはほんとに……」
そのひと言が、体温をぐっと下げた。甘い匂いが鼻先を掠める。意識が一瞬、遠くなる。
わたしは慌ててチラシを戻した。押し込んだチラシがぐしゃぐしゃになってポットの上に飛び出ていたけど、気にする余裕はなかった。幸い、染み付いた習慣で、自動音声のような言葉が滑り出ていた。
「では、業務がありますので、失礼します」
仕事用の笑顔を作ることもできないまま、背を向ける。興味とか関心とか、そんな些細な感情で振り向いていい気がしない。「またのご来店お待ちしております」という定番の台詞は、最後まで言わなかった。
