沈丁花

 「おーい!颯!集合だってよー!」
 ドクンドクンと心臓が高鳴る。“また”だ。また、吐き気がする。何かに嫌気がさしているわけでも、緊張しているわけでもない。ここ最近、吐き気がひどくなっているのだ。
 「あー、今行くー」
 仲間の呼ぶ声に返事をして、顧問の下へ駆ける。まだ吐き気が続くものの、今日は休むわけにはいかない。なぜなら今日は、高校最後の大会に向けての予選があるからだ。ここで予選を通過して、全国に進むつもりだ。足には自信があるし、この大会で優勝する気でもいる。
 パンッと発砲音が鳴る。それと同時に足を踏み込む。少しずつ加速して、ある速度で俺の景色は広がる。落ちることのないスピードで自由を感じる。何にも邪魔されないこのトラックの上が俺の居場所だ。
 5000mという距離は、いつの間にか500mになっていた。長いように見えて、ものすごく短い。終わりたくはないのに、残りの500mを駆ける。風を切って勢いよく駆ける。
 「よしっ!」
 予選決勝で何事もなく、優勝をつかむことができた。
 「はっやてーーー!」
 同じ部活の仲間が駆け寄ってくる。優勝をとることは初めてではないが、毎回みんなに喜んでもらえるこのときが一番嬉しい。
 「さすがだな!」
 「俺らの誇りだぜ!」
 仲間の賞賛の声が。
 「これからも期待しているぞ」
 顧問の期待の声が。
 「ありがとう!」
 俺の感謝の声が。
 いつもいつも俺の走りに自信を持たせる。そして、何を失ってでもこの『今』を失いたくないくらいただただ楽しい。
 でも、そんな時間も長くは続かなかった。
 「颯?!大丈夫?!」
 母の焦り声が聞こえる。意識が朦朧とする中、俺は何が起こったのか思い出そうとする。あの後、打ち上げをして家に帰った。風呂に入って寝ようと二階に上がろうとしたとき、いつもの吐き気がしたんだ。
 (だけど、今回のはいつもと違ったような……、え?)
 微かな違和感を確信に変えたのは真っ赤に染まった自らの手。その手は口を押さえた方だった。
 (なんで口から血が……)
 分からない。訳を知りたいのに意識が朦朧として、考えることができない。
 「かあ…さん」
 「颯?!しっかりして!すぐに救急車呼ぶからね!はやて?!はや…っ……」
 母の声が遠くなっていく。大丈夫だと言いたいのに言葉が出ない。そして俺は果てしない暗闇に沈んだ。
 待ち望んでいた景色を見ていた気がする。あいつを倒して俺が一位になった時を。それが目を覚ましたとき最初に思ったことだ。