沈丁花

 「颯、おまたせ」
 「母さん」
 飲み物を片手に人の流れをかき分けながら、広いこの敷地内を小走りで戻ってきた。
 「行こうか」
 そう言いながら父は俺の背中を軽く押す。俺はその勢いにそのまま歩く。多くの人が会場に入って、階段を上がっていく。いつもは平坦だから俺からしたら新鮮だ。今日は陸上の全国大会。俺が出るはずだった大会だ。出れないのはもちろん悔しいし、今でも出たいと思う。
 「緊張するか?」
 父が核心を突くように言う。確かに緊張しているかもしれない。今回の俺はこの広いトラックに立たないのに。でも、仲間が立つから。俺に期待と応援、賞賛に感謝も、すべてをくれた夏を一緒に過ごしてきた仲間だから。俺はバックに入れてきたスケッチブックを取り出す。この景色を忘れないように。このトラックを俺の中に刻むように。気づけば音楽が鳴って競技が始まった。
 「がんばれ」
 何度この言葉を言ったのだろう。
 「おめでとう」
 何度皆の走りに感動したのだろう。
 俺は皆の競技する姿をしっかりと見届け描きとめた。仲間が出ない日も足を運んだ。俺が出るはずだった三日目の競技、5000m。高校陸上でそれなりの有名だった俺の名前がなくて何も知らない人からしたら、どうしていないのかと思うだろう。でも、俺の心はここにあって、俺の仲間がつないでくれる。
 「続きまして、男子5000m………」
 始まる。俺が出るはずだったもの。俺が走りたかったトラックだ。
 「あ、東だ」
 あいつともう一緒に走ることはないのだろう。唯一肩を並べて走ることができたあいつと。走りたいと心が叫ぶ。受け入れることはできても未練タラタラだ。ピストルが鳴る。一斉に時が動き始める。時間が経つほどに徐々にバラバラになっていく。東は先頭集団の真ん中あたりにいる。俺は最初から一番前にいる。だけど東は後半にならないと俺の後ろにはつかなかった。
 「え?」
 思わず声が出た。東が早々に先頭で走っているからだ。まるで俺のように。俺が走っているかのように。俺と同じペース配分で。あ、もうすぐ最後の一周だ。いつもならここから俺たちは競い始める。東は徐々にスピードを上げ、後ろとは距離が離れていき独走している。俺はそれを見ながらスケッチブックを取り出した。
 「東を描くことになるなんてな」
 東の走りを見ながら鉛筆を走らせる。きれいなフォームだなと改めて思った。もうすぐゴールだ。東が白線に足を踏み入れると同時に湧き上がる歓声。誰もが思ったことだろう。あいつは日本を背負う男になると。
 「東ってあんな顔して笑うんだな」
 初めて見た気がした。本当に笑っている姿。俺と同じで走ることが好きなんだろうと分かるほどに。そんな東を見てまた鉛筆を走らせる。お前はこんな風に笑ってるんだと見せたくなったのだ。そうやって俺の夏の一幕が閉じた。