沈丁花

 日々が充実しているとあっという間に時が過ぎていく。絵を描き始めて一か月。何を描こうか迷いながら身近なものをデッサンしていく日々。今日は体の調子がよく、少し体を動かそうと外に出てきた。朝でも夏は暑い。準備運動するだけで肌がべたつく。この感じが懐かしくてテンションがどんどん上がる。体を十分に解し、少しずつ動きを激しくしていく。休憩はなるべく多くとるようにしている。
 「体力も筋力もほとんどないな」
 自分の身体の変化になんだか寂しさを覚える。前の俺だったら、何で動けないのだとわめいていた気がする。こんな気持ちになるなんて思ってなかったなと少し驚いた。
 「あ!颯!」
 「由宇か。おはよう」
 「おはよー!」
 由宇は振り返り休日で学校も部活もなかったらしい。
 「あれ?颯、何か良いことでもあった?」
 「え?」
 「いやほら、前までより明るくなってる気が……」
 確かに、あの時期は暗かったかもしれない。でも、佐江さんに出会って、絵を描くようになって、心が軽くなった気がする。絵を描くのは楽しいし、達成感があるけど、一番は描く度にわかる身の回りの新しい発見。今まで見えていなかったところに気づけて、不思議にあふれる毎日が楽しく感じるのだ。
 「もうすぐ全国だな」
 「うん。颯が出られないのが残念」
 「出たかったんだけど、もうこの身体じゃ無理なんだ」
 「……そっか」
 由宇には少し前に話していた。陸上部のみんなには由宇に何となく伝えてもらっている。だけど、今は全国大会に向けて練習が忙しいようだ。
 「医者の許可が出たらだけど大会観に行くから」
 「え?!まじ?うれしい」
 「だって最後だろ?俺も同じ舞台に立ちたかったけどそうはいかないからさ。でも、最後までお前らの仲間でいたいんだ」
 「……馬鹿じゃねぇの」
 そう言うと由宇はいきなり顔を背けて下を向く。
 「あ、感動した?泣いてるだろ」
 「はっ?ち、違うし!泣いてねぇって!」
 「嘘つかなくていいんだよ?由宇ちゃん」
 「もうまじ最悪っ!」
 「ふっははは!」
 晴天の下に俺らの笑い声が響く。こんなにも穏やかで楽しい日々が当たり前のようで、当たり前じゃなかったのだと俺はまた気づいた。
 ガサッっと音が鳴った方向を見ると草の中からコオロギが出てきた。俺はいつものようにスケッチブックを取り出し、コオロギを軽く描く。そこから細かい模様を描いたり、影の陰陽をつけたりする。コオロギは描いてる途中でいなくなってしまったけど、覚えている範囲で描いてみた。
 「颯って絵うまいんだな」
 「まあ、最近気づいたんだよね」
 由宇には佐江さんのことから話していった。由宇は真剣に聞いてくれた。走ることは諦めるんじゃなくて、受け入れて前に進むということも。
 「よかった。颯が今笑っていて」
 「うん」
 こうして喋っていられるのが、数少ないかもしれない。最近、身体が良くない方に進んでいるのを知っているから。でも、だからこそ、今をもっと大切にしたくなった。たくさんの思い出が俺を走れなくなった世界に引き留めていく。
 「ありがとう」
 「な、何?!突然」
 「何か言いたくなって」
 穏やかな日々に俺から最大限の感謝を。