沈丁花

 「描いた?」
 早朝、自然豊かな病院では小鳥のさえずりや虫の鳴き声が響きあっている。まどからはいるかぜは真夏を知らせるように生暖かい。そんな良い朝に早々とやってきたのは、東だった。
 「まだ」
 佐江さんからもらった画材用具はまだ紙袋の中。中々描く気になれず、気づけば一週間以上経っていた。
 「じゃあ、今日描いてみよう?」
 「えー」
 「きっかけがなければ描かなさそうだからね君」
 東の言葉にギクッとなりながらも、渋々紙袋を取り出す。ひとまず紙袋の中を全て出してみる。スケッチブックが1冊とポストカードサイズの画用紙が10枚ほど。絵の具は透明水彩のようだ。100色はありそうな色鉛筆と、カッターで削られている鉛筆。そして、最後のひとつを取り出した。それは『絵』だった。多分、佐江さんが描いたであろう絵であの時に見た女の子の絵だった。水彩で描いたのか、ところどころ染み付いている。だけど、すごく綺麗で、この世のものとは思えない気がした。その絵に魅入ってしまった。部屋に飾りたいけど、佐江さんのものだから、この絵は後で返そうとまた紙袋の中に入れた。
 「描くって何を……」
 何かを描けって言われたら、何となくでそれを描くことはできると思うけども。
 「じゃあ、自分のこと描いたら?」
 「自画像ってことか」
 「そ。1番身近だろ?」
 でも、自画像を描くのは難しそうに思う。絵を描いた経験はほぼ無いに等しいから。自分ってことなら手でもいいんじゃないかと思い、スケッチブックを捲って入ってた鉛筆を持つ。輪郭を描き、手のシワを細かく描いてみる。思ったよりシワがあってびっくりする。佐江さんのデッサン作品を思い出しながら影の陰陽をつけていく。ところどころ消しゴムで消しながら、実線をぼかす。陸上時代の集中力は健在で、1時間ほどで描き終わった。
 「……風見って絵うまいんだね」
 「いや、俺もびっくり」
 自分でも分かるほど絵がうまいと思う。自分にこんな隠れた才能があるとは知らなかった。走るという幸せに気づいてからそれ以外をしてこなかったから、自分の他の可能性に気づいてなかったのだろう。自分にこの才能があったのと同時に、少し後悔した。まだ他に何か自分にあったのかもしれないと。もうあと少しの余命で何かを残せたのかもしれないと。走るのは結果に残せても俺自身を形に残すことが出来ない。
 「これからも描いてみるかな」
 「うん。いいと思うよ」
 そうだ。ここに記憶を残そう。もう一度走るために生きて、死ぬまで絵を描き続けてみよう。絵は俺を落ち着かせる。絵を見れば落ち着くし、絵を描けば感情のすべてを出せる気がする。
 「スケッチブック、足りなくなったら俺が買ってくるから」
 「ありがとう東」
 何か変な感じだ。ライバルだったこいつとこんなに平穏な日を送れるなんて。俺は大会の時いつも敵意むき出しだったと思うから。ゴールした時、いつもこいつが目の前にいて、正直悔しくて憎くて、近づいて来ようとしたときには、目も合わせず無視していた。こいつのことまともに見たことないかもしれない。走る前も後も、東はどんな顔をしてどんな気持ちだったのだろう。もうわかることはないんだなと少し後悔じみた感情が募る。
 「東ってずっと笑ってるよな」
 「……え?」
 「いや、ほらずっとニコニコしてて疲れないのかなって」
 「そんなことないよ」
 東は何てことないような顔で笑った。だけど、それは本心じゃないような気がした。俺にそこまで踏み込まれても困るだろうなと思ってそのあとは何も言わなかった。