沈丁花

 翌日、俺は迎えに来た東とともに佐江さんの病室に向かった。
 添島と書かれた病室を前に俺は、東にばれないようにそっと深呼吸をする。あの後から佐江さんとは一度も会っていない。いや、無意識に避けていたのかもしれない。
 ガラッと扉が開く。それと同時に勢いよく風が吹く。その勢いに圧されて俺は少し後退る。それも悟られないようにと、俺はすぐに病室に足を踏み入れる。東はすでに窓を閉めたり、散らばったものを片付けたりしていた。佐江さんはいつものようにベットの上で、優しい笑顔を浮かべていた。
 「風見、こっち座って」
 東はどこからか椅子を持ってきて、佐江さんを挟むように俺と東は座る。佐江さんはその間もにこやかに笑っていた。
 「久しぶりだね」
 いつもと変わらないトーンに俺は謎の安心感を覚える。
 「お久しぶりです……」
 俺はどう話を切り出せば良いか分からず、真っ白な毛布を見つめながら、佐江さんが口を開くのを待つ。
 「颯くん」
 名前を呼ばれて顔を上げると佐江さんは古くて今にでもくずれそうなスケッチブックを差し出していた。俺は素直にそれを受け取り、破かないようにゆっくりと表紙をめくる。そこには鉛筆で書かれた誰かの後ろ姿。次々と捲っていくと、フルーツだったり、消しゴムだったり、バケツだったり。その中でも一番よく見たのが最初のページにもいた女の子。その女の子の笑顔や横顔、立ち姿までいろいろな視点で描かれていた。
 「あの、この子って……?」
 「よく書けているでしょう?」
 「はい……。綺麗っすね」
 「私の大切な人だったからね」
 佐江さんの言っていることがよく分からなかった。そんな俺を見て、佐江さんは話し始めた。俺は静かに佐江さんの話を聞いた。このスケッチブックは高校時代の物らしい。佐江さんは高校三年の時、卒業までこのスケッチブックに週に一枚絵を描いていたそうだ。佐江さんが描きたいと思うものを描き続けた結果、その女の子が一番多くなったという。そこで気づいたことは叶わない恋心。彼女には付き合っている人がいたらしい。そして、佐江さんにも政略的ではあるが婚約者がいた。想いを忘れよう忘れようとひたすら描き続けた結果、今となっては美しい思い出となり、絵を描くことが趣味になったという。分かるようで分からない佐江さんの気持ち。佐江さんの話を聞きながら俺はまた一枚ずつゆっくりとページをめくっていく。そして最後のページに手をかける。この物語とも言えるスケッチブックの最後は何で締めくくられているのだろうとすごく気になった。そして、最後の一枚もゆっくりとめくる。
 「うわぁ……」
 思わず感嘆の声が出た。最後のページには、色鮮やかな風景と一人の女性の絵。モノクロだったスケッチブックに色がついたのだ。まるで、この絵にすべてを詰め込んだかのように。俺はこの絵に魅入ってしまっていた。なぜか涙が出そうになる。悲しみのような嬉しさのような。そんな感情が流れ込んでくる。
 「もう同じ絵は描けないものよ」
 「え?」
 「あの頃の私が描きたいという気持ちだけで描いたの」
 今となっては思い出になってしまったこの絵たち。当時の強い気持ちが絵に現れたのだろう。確かに、この絵を模写してそれを見たとしても、俺はきっと何も感じないのだろう。
 「颯くん、あなたが何を恐れているのかはわからないけど、ただ単純に受け入れるのではなくて、今を見るの。今を見て、今大切なものを考えるの。幸せはもっと近くにあるわ」
 俺に走る以外の幸せがあるのだろうか。もう俺には何もないのに。
 「もう俺、ダメなんですよ。生きていると感じたくて走りたいのに、俺にはそれすらもできない」
 走ることも生きることも。走るために生きて、生きるために走りたい。俺からすべてを奪っていくこの体が嫌になる。
 「颯くん………」
 佐江さんが言っていることは間違っていないとは思う。だけどどうしても俺にはそんな余裕がない。
 「わからないんです。何も。ただ走れなくなった事実を毎日毎日突きつけられるんです」
 もう嫌だと叫びだしたくなって、堪えていた涙があふれだしてくる。自己嫌悪と悔しさが嗚咽とともに吐き出されていく。
 「私にはもう絵を描くことができない」
 突然佐江さんは言う。毛布の上に置いていた右手をゆっくりと手を開いて閉じる。その手はすごく震えていて、ほとんど力が入っていないようだった。
 「私の目はもうほとんど見えてないの。目で何も感じ取れなくて、何も描けなくなったわ」
 そう言った佐江さんはさみしそうな顔をする。でもすぐに何かを思い出したのか、優しく笑った。
 「旦那様が亡くなってしまって、絵も描けなくなってしまって、どうしようかと思ったの。でも、私の周りは賑やかでね。目で見なくても、音が伝えてくれて、凄くそれが幸せで、残り少ない毎日を大切にしようと思ったの」
 佐江さんの今が見えた気がした。
 「俺は走れないなんて考えられない」
 本当は走ることが出来るならどうでも良かった。試合は走れるから出て、一番先頭で風を切れた。でも、目の前に東が現れてから、俺は初めて闘争心が芽生えた。いや、一緒にほとんど同じスピードで走る仲間が出来て嬉しかったのかもしれない。だから、俺にとって走ることが楽しくて、きつくて、嬉しくて、悔しくて。気づけばそれが生き甲斐になっていた。
 「じゃあ、颯くんはこのまま何もかも終わってしまって良いの?後悔しない?走れないことを嘆く日々を続けるの?」
 ふと、そんな未来を想像した。そして思った。俺には走るしかなかったのかと。そんな最後が俺は『嫌だ』と思ってしまった。だからといって、俺は走る以外に今やりたいことも出来ることもない。
 「そういえば、颯くん絵が好きって言ってたわよね」
 「そっすね。見ると落ち着くので」
 今日も初めの緊張が嘘みたいに消えた。佐江さんが絵を見せてくれたおかげだろうか。この前みたいに感情に任せず、冷静に話すことが出来た。
 「あ、あの佐江さん。この間はごめんなさい」
 突然の謝罪に佐江さんはにこやかに笑った。
 「いいのよ。私も無神経だったから、お互い様だわ」
 佐江さんの優しさに救われる自分がいた。そして、いろんな人に好き勝手に当たってしまったことを後悔した。
 「私はさ、颯くんには笑っていてほしいの。笑顔溢れる人生を送ってほしいわ。下ばっかり向かず、前を向いて、今を受け止めて、ゆっくりでいいから前に進んでほしいの」
 佐江さんはそっと俺の方に手を伸ばして、頬を優しくなでた。俺はその手に身を委ねた。
 「過去は変えられないし、変えられない現状もある。でも、過去がどうなるかは、今のあなたが過去をどう思うか次第なの。そして自分自身が受け入れて、笑って終われる『生』にすること」
 ただただ佐江さんの言葉に耳を傾けた。俺より長く生きている佐江さんの言葉は心に染みた。
 「俺、もっと自分について知りたいです」
 多分俺は俺が思っているより自分を知らないのだと思う。だから知りたくなった。走る以外に俺に何があるのか。何度も何度も医者に説明を受けたこの病気も、余命も、走れない事実も、全部ちゃんと正面から受け止めたいと思った。そうすればきっと、いや必ず、俺はやっと走ることを手放せる。
 「でもどうすれば………」
 「絵を描いてみるのはどう?」
 今まで口を閉ざしていた東が言った。俺は意味が分からず「は?」と思わず声が出た。
 「まあ!良いアイデアね、仁ちゃん」
 絵を描くとは。絵を描いて何になるのだろうか。そもそも俺は絵を描いた経験がない。そもそも俺に絵を描く才能はあるのだろうか。
 「俺、絵なんて描いたことないっすよ」
 「何事もやってみなきゃ」
 佐江さんは東に何かを取るように言った。東はすぐ隣の一番下の引き出しから紙袋を取り出した。
 「風見、はい」
 東はその紙袋を佐江さんにではなく俺に渡す。俺は疑問に思って佐江さんの方を向くと、受け取りなさいとでも言うように頷いた。
 「これは………」
 紙袋の中身は画材用具だった。絵の具や筆、スケッチブックまで全てが入っていた。どれもそれなりの値段がしそうなものばかり。大事に扱われてきたのだろう、汚れが少なく欠けているものはないようだった。
 「その画材用具、全部颯くんにあげるわ」
 「え?!佐江さんの大切なものっすよね?」
 「お守りとして持ってきていたけど、使われないのはかわいそうだから。颯くんが使ってあげて?」
 俺はそれでも素直に受け取れず、だが断ることも出来なかった。東も「もらってあげて」というので、結局『借りる』という形で受け取ることになった。そのまま話し込んでいると、気づけば夕方になっていた。
 「そろそろ自分の病室に戻ります」
 「じゃあ俺も帰るね」
 佐江さんは寂しそうに「ありがとね」と言った。俺も感謝の言葉を述べ、病室を出ようとした。
 「颯くん、絵を描いているとね、自分の大切なものが見えてくるの。だから、一度でも良いから絵を描いてみてね」
 出る直前、佐江さんが言った。俺はその言葉に頷いて、自分の病室に戻った。少し重い紙袋を右手に。
 病室を出た後、俺はスリッパの鳴る音を廊下に響かせながら歩く。その足音は一人分ではないが。
 「何で着いてくんの?東」
 「風見を見送ろうと思って」
 「は?」
 「っていうのは口実で、少し話したくて」
 歩きながら東は少しずつ話していく。それは、佐江さんと話してくれたことのお礼と、俺の絵がみたいとのことだった。俺は佐江さんにお世話になったのと、今日一日付き合ってくれたことから、絵を描いたら見せる約束をした。東は連絡先を交換しながら、休日の部活終わりに毎週来ると言っていた。病室に着いてすぐ東とは別れ、思ったより体力を使っていたのか、俺はすぐ眠りについた。今日は悪夢を見ることはなかった。