目を覚ますと、そこは知らない部屋だった。
「……ここ、どこ?」
白い天井。
白いカーテン。
ベッド。
そして、機械の音。
私はぼんやりと天井を見つめた。
すると、ドアが開く音がした。
「恵子!」
「……ママ?」
そこにいたのは母だった。
母は私を見るなり、泣きそうな顔で駆け寄ってきた。
「恵子……!」
「どうしたの?」
「どうしたのって……!」
母は私の手を握った。
「ずっと眠っていたのよ!」
「……え?」
私は自分の手を見た。
そこには
白い綿花が握られていた。
「…………」
私は言葉を失った。
「これ……」
夢の中で最後に握ったもの。
綿花。
私はナースコールを押した。
看護師さんが駆けつけ、その後すぐに医師もやってきた。
「小川さん、意識ははっきりしていますか?」
「はい……」
「痛いところは?」
「少し体が痛いですけど……」
医師は私の状態を確認していった。
そして私は、信じられない事実を聞かされた。
「小川さんは、事故のあと三週間近く眠っていました」
「三週間……?」
「はい」
私は目を見開いた。
「車に轢かれたんですよね?」
「そうです」
「……じゃあ、どうして……」
医師は首を傾げた。
「幸い、大きな外傷はありません。打撲や痣はありますが……正直、かなり幸運だったと思います」
「奇跡……」
母が小さく呟いた。
私は自分の手の中にある綿花を見た。
夢だった。
そう思うしかなかった。
南北戦争。
マクブライド家。
エリザ。
エリザベス。
そして -ケイトと呼ばれてしまった私の名。
全部、夢だったのだ。
……そう思いたかった。
しばらくして、担任の森山先生と校長のシスター・ジャンヌがお見舞いに来てくれた。
「恵子さん!」
シスター・ジャンヌは私の顔を見るなり、胸の前で十字を切った。
「本当によかった……」
「ご心配をおかけしました」
私は頭を下げた。
するとシスター・ジャンヌが、少し不思議そうな顔をした。
「実はね、恵子さん」
「はい?」
「あなたがずっと眠っていると聞いて、私はあなたの回復を祈ってから眠ったの」
「はい……」
「そうしたら、夢の中にイエス様が現れたのよ」
「……え?」
私は思わず身を乗り出した。
「イエス様が?」
「ええ」
シスター・ジャンヌは静かに頷いた。
「そして、こうおっしゃったの」
「なんて?」
シスター・ジャンヌは私を見つめた。
「『あの子なら大丈夫。死んではいない』と」
私は息を呑んだ。
そして、シスター・ジャンヌは続けた。
「それから……南北戦争後のアメリカで本を作っていると」
「…………」
病室が静まり返った。
「へ?」
私は固まった。
「私が南北戦争後のアメリカで本を作っていると⁉︎」
森山先生が目を丸くする。
「シスター、それは……」
「私も起きてから驚いたわ」
シスター・ジャンヌは困ったように笑った。
「でも、夢の中では確かにそう聞いたの」
「…………」
私は何も言えなかった。
そして、ふと自分のリュックを見た。
「……そういえば」
事故の時に持っていたリュック。
母が中を確認してくれた。
聖書。
聖歌集。
筆箱。
そして――ロザリオ。
その隣にあったロザリオブレスレットを見て、私は息を呑んだ。
「紐が……」
切れていた。
シスター・ジャンヌがそれを手に取った。
「これは……」
「事故に遭った時は、切れてなかったんです」
「もしかすると……」
シスター・ジャンヌはロザリオブレスレットを大切そうに両手で包んだ。
「あなたの身代わりになってくれたのかもしれませんね」
「……そんなことってあるのかな」
「信仰とは、時に説明できないこともあるものですよ」
シスター・ジャンヌは微笑んだ。
「これは私が預かって、直しておきましょう」
「いいんですか?」
「ええ。学校に戻ってきたら返します」
「ありがとうございます」
私は小さく頭を下げた。
その後、私は眠っている間に見た夢のことを、母とシスター・ジャンヌと森山先生に話した。
南北戦争中のアメリカ。
綿花農家。
エリザ夫人。
エリザベスお嬢様。
焼けた畑。
印刷工房。
出版社。
そして、ケイトと言う名前。
全部話し終えると、森山先生は腕を組んで考え込んでいた。
「……恵子さん」
「はい?」
「それ、小説にしてみたら?」
「小説ですか?」
「そう」
森山先生は笑った。
「私は国語の教師だし、文芸部の顧問でもあるからね」
「でも……夢ですよ?」
「夢かもしれないし現実だったかもしれない経験だからこそ、小説になるんじゃない?」
私はノートを見た。
「……書いてみようかな」
「ぜひ書いてみなさい」
医師からは、少なくとも一週間は入院する必要があると言われていた。
だから私は、入院中の暇つぶしも兼ねて、夢の中で起こったことを書き始めた。
最初はただの記録だった。
けれど、書いているうちに、私は気づいた。
あの世界が、もう一度私の中で動き始めている。
エリザが話す。
エリザベスが笑う。
印刷工房の職人たちが活字を並べる。
紙にインクが押し付けられる。
そして -。
「ケイト!」
また誰かが私を呼ぶ。
「だから恵子だってば!」
私は笑いながら、文章を書き続けた。
やがて一冊分の物語になった。
退院の日。
母と一緒に病院を出た。
学校に戻ると、友達が休んでいる間のノートをコピーしてくれていた。
「恵子、大丈夫?」
「うん!」
教科の先生たちも、休んでいた間のノートはそれで大丈夫だと言ってくれた。
私はいつもの教室に戻った。
聖歌隊にも戻った。
聖堂にも行った。
赤い絨毯。
木の椅子。
パイプオルガン。
十字架。
アップライトピアノ。
全部、事故に遭う前と同じだった。
……ただ一つ。
私の中には、誰にも話せないような記憶がたくさん増えていた。
そして私は、入院中に書いた原稿を読み返した。
タイトルは -。
『わがままな私が、南北戦争で侍女になった理由』
私は笑った。
「……我ながら、すごいタイトル」
そして原稿の最後のページを開いた。
そこには、あの世界から帰ってきた私が、自分自身について語る場面が書かれていた。
私はペンを持った。
最後の文章を書き終える。
そして、そっとペンを置いた。
これで終わり。
……のはずだった。
数週間後。
私は聖ミシェル女学院大学の図書館にいた。
古い洋書の特別展示が行われていたからだ。
私は何気なく展示ケースを眺めていた。
その中に、一冊の古い本があった。
革張りの表紙。
黄ばんだページ。
そして、背表紙に刻まれた名前。
「……McBride?」
私は立ち止まった。
マクブライド。
あの夢の中で何度も聞いた名前。
展示説明を読む。
十九世紀後半に創業。
アメリカの児童書出版で大きな役割を果たした出版社。
創業者 -エリザ・マクブライド。
「…………」
私は本を見つめた。
司書の方にお願いして、詳しい資料を見せてもらった。
そして、古い本の扉を開いた。
最初のページ。
その次のページ。
そして
献辞があった。
私はそこに書かれた文字を、一字ずつ読んだ。
この本を、私たちに出版社への道を記してくれたケイトに捧げます。
「…………」
手が震えた。
「ケイト……」
私は本を見つめた。
「……私?」
その時。
「小川さん?」
後ろから声がした。
振り返る。
そこに立っていたのは、英語の先生であるエミリー・マクブライド先生だった。
先生は私の手元の本を見た。
そして、目を見開いた。
「その本……」
「先生?」
「どこで見つけたの?」
「ここです。展示されていて……」
先生はしばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「マクブライド家には、昔から伝わっている話があるの」
「昔から?」
「ええ」
先生は本を見つめた。
「私の先祖、エリザ・マクブライドの日記が残っているの」
「……日記」
私は息を呑んだ。
「そこには、奇妙な少女のことが書かれている」
先生の声が少し震えた。
「自分の名前を『恵子』と言っていた少女」
「…………」
「でも、家族にはその名前がうまく聞き取れなかった」
先生は私を見た。
「だから、記録では『Kate』になっている」
私は額を押さえた。
「……やっぱり」
「何?」
「私、ずっと恵子だって言ってたのに……」
先生が笑った。
「そして、その少女は本について、とても詳しかったそうよ」
「…………」
「印刷についても、子どもの本についても」
私は何も言えなかった。
「それからね」
先生は続けた。
「マクブライド家には、もう一つ不思議な話があるの」
「何ですか?」
「代々、同じような夢を見る人が時々いるのよ」
私は顔を上げた。
「黒い髪の少女が現れる夢」
「……!」
「少女は、本を抱えている」
私は自分の胸に手を当てた。
「そして、いつもこう言うの」
先生は私を見つめた。
「『本は、未来に残る』って」
私は、何も言えなかった。
窓の外から、午後の光が差し込んでいた。
図書館の静かな空気。
本棚に並ぶ無数の本。
その一冊一冊が、誰かの人生を越えて残っていく。
私は思った。
あの出来事は、本当に夢だったのだろうか。
それとも私の魂が経験した現実だったのだろうか?
私は本をそっと閉じた。
そして、自分が入院中に書いた原稿を思い出した。
最初の一行。
最後の一行。
私はそれを思い浮かべながら、静かに笑った。
そう。
読者が今まで読んできたこの物語は
私自身が、入院中に書いた物語だったのだ。
そして、私は最後のページにこう書いた。
「ごきげんよう!私の名前は小川恵子と申します。
聖ミシェル女学院中学校・高等学校の高校の方に通っています。」
ね、もうわかったでしょう?
あなたが今まで読んできた話は私が書いた物なの。
それではごきげんよう!さようなら!
