君の好きが、計算だとしても

 雨続きだった天気が、ようやく夏らしく戻ってきた。
 期末テストが明けて、最初の活動日。部室のホワイトボードには、環先輩の字で「夏イベント準備」と書かれていた。
「系外惑星の判定の資料、市の図書館にいいのがあるらしいんだよな。誰か、取りに行ってきてくれないか。わたしは生徒会の用事で抜けるから、行けないけど」
 皆瀬先生が資料をめくりながら、ちらりとこちらを見た。
「遠野くんと小森さん、今日は特に用事なかったわよね」
「わはは、じゃあ決まりな」
 環先輩が、リクエストのメモを押しつけてくる。
「図書館、駅の反対側だから。二人で行けば早いだろ」
「先生、道案内は大丈夫なんですか」と俺。
「今日は行かないから平気」
「行かないから平気、って自分で言っちゃうんだ」
 小森が小さく突っ込んで、部室に笑いが起きた。
 その笑い声に送り出されるようにして、俺たちは部室を出た。部活の用事で、小森と二人きりで学校の外へ出るのは、これが初めてだった。
「なんか、外で並んで歩くの、新鮮だね」
 小森が日差しに目を細める。
「部室とドームでしか会ってなかったから」
「川原は?」
「あれはノーカン。二人ともずぶ濡れだったし」
「バス停までは?」
「あれもノーカン。傘、一本しかなかったし」
「基準が分からない」
「わたしが決めてるの」
 図書館までは歩いて二十分。たわいもない話をしながら、駅前の通りを抜けていった。
 
 ◇ ◇ ◇

 図書館は、平日の午後だからか、思ったより空いていた。
「これじゃない?」
 自然科学の書架の前で、小森が高い段の本に手を伸ばした。背伸びしても、指先が背表紙をかすめるだけだ。見かねて、代わりに取った。
「……ありがと」
 カウンターで尋ねると、年配の司書さんが別の書架まで案内してくれた。
「学校の課題?」
「天文部の、イベント準備なんです」
「あら、素敵ね。仲良さそうで」
 思わず、小森と顔を見合わせた。否定するタイミングを逃して、二人とも曖昧に頷くしかなかった。
「今の反応、逆に怪しかったね」
 司書さんが離れてから、小森が噴き出した。
 判定基準の表や観測データの例が載ったページを、必要な分だけコピーする。
「わたしたちにしては、生産的な一日かも」
「『わたしたちにしては』は、余計」
 
 ◇ ◇ ◇

 帰り道、小さな和菓子屋の軒先に、「氷」とだけ書かれた色褪せたのぼりが揺れていた。
「あ、かき氷」
 小森が足を止める。
「食べてく?」
「奢ってあげる。何色にする?」
「……いや、こっちが払うって」
「いいから」
 押し切られて、店先のベンチに並んで座った。店の奥で、氷を削る音が規則正しく響いている。
「……ブルーハワイで」
「わたしは、イチゴ」
 運ばれてきたかき氷は、想像していたより山盛りだった。木のスプーンで一口すくうと、冷たさが舌の上でほどけていく。
「小森って、よく人に奢るよね」
「あー」
 小森は少し照れたように笑った。
「環先輩にも言われる。人にあげるの、好きなタイプなんだって」
「なんで、そういう性格になったの」
「さあ」
 スプーンをくわえたまま、小森は空を見上げた。
「あげたところで減るもんじゃないし。それに、あげられるうちに、あげとかないとって思うのかも。物でも、気持ちでも」
 あげられるうちに。その言い方に、一瞬、空気が変わった。それ以上は聞かなかった。氷は、目に見えて少しずつ溶けていった。
 
 ◇ ◇ ◇

「そういえば」
 半分ほど食べたところで、小森が切り出した。
「由希奈さんのこと、ちょっと分かったよ」
 スプーンを持つ指が、止まった。
「当時の同級生っぽい人のSNS、見つけてさ。少しだけやり取りしてみた。明るくて、面倒見のいい子だったって」
「……うん。そういう子だった」
「去年くらいに、家族でこっちに戻ってきたらしいって。噂だけど」
「こっちに?」
「うん。もしかしたら、同じ市内にいるかもしれない」
 胸の奥が、ざわついた。中学の記憶の中で止まったままの由希奈が、今、同じ空の下で、俺の知らない高校生になっている。
「あと、これはまだ確証ないんだけど。科学館とかプラネタリウムとか、そういうのが好きだったらしいよ。理系科目も得意だったって」
「……それは、知ってた」
 中学の理科の時間、星座早見盤を誰よりも速く回していた手を、思い出した。
「そっちは? 何か分かった?」
「……うん」
 言葉を選んだ。
「詳しくは言えないけど、期限、思ってるより近いかもしれない。データを移すか消すか、決めなきゃいけない日が」
 小森のスプーンが、器の縁で止まった。
「あと、これは絶対に伝えておきたくて。決められないまま先延ばしにしてると、ある日突然、選択肢そのものがなくなるらしい。期限を過ぎたら、機械的にデータが消えて、二度と戻らないって」
 小森の表情が、一瞬、強張った。
「……それ、結構重要な話じゃない?」
「ごめん。もっと早く言うべきだった」
「日付は?」
「……それは、まだ、確かめてるとこ」
 口が勝手にそう答えていた。確かめるも何も、母の口から、もう聞いている。
「そっか」
 小森は氷を一口すくった。
「ううん、言ってくれて良かった。全部話せないのだって、遠野なりの事情があるんでしょ」
「……分かってくれるんだ」
「そりゃ、わたしだって全部話せてるわけじゃないし。おあいこ」
 おあいこ。その言葉が、今日は少し痛かった。
 
 ◇ ◇ ◇

「悠真がさ」
 不意に、小森が氷を見つめたまま言った。
「こういう甘いの、好きだったんだよね。夏になると、よく一緒に食べに行ってた。悠真、いっつもブルーハワイ頼むくせに、途中で絶対『やっぱりイチゴのほうがよかった』って言い出すの」
「あ、それ、分かるかも」
 思わず口を挟んでいた。ちょうど、隣のイチゴのほうが美味しそうに見えていたところだった。
「……遠野も?」
 小森の手が、一瞬止まった。
「贅沢な悩みだよ、それ。って、悠真にもいつも言ってた」
 声が、いつもより低く、静かだった。
「あ、ごめん。変なこと言った」
「ううん」
 小森は小さく首を振った。それから、少しだけ声を震わせて言った。
「じゃあ、ひとくちね」
 差し出されたスプーンに、イチゴのシロップが染みた氷が少しだけ載っていた。悠真にしていたのと、きっと同じ仕草で。俺はそれを、黙って受け取った。
「いなくなってから、余計にこういうの思い出す。何でもない瞬間に」
 小森はスプーンを、意味もなく氷に差し込んだ。
「変だよね。もう二年も経つのに」
「変じゃないと思う。二年経ったからって、思い出さなくなる理由にはならない」
 小森が、少し驚いたようにこちらを見た。それから、噛みしめるように小さく頷いた。
「ごめん、湿っぽい話」
「——いや」
 言いかけて、今度は途中で止めなかった。
「聞かせてくれて、ありがとう」
 言ってから、気づいた。今の話を、俺は「取引で交換する情報」として聞いていなかった。取引だから聞いたんじゃない。彼女の話だから、聞きたかった。
 木漏れ日が揺れて、かき氷の表面がまた少し溶けた。俺の器の青に、さっきもらったイチゴの赤が、じわりと滲んで混ざっていく。どこからが青で、どこからが赤なのか、もう分からなかった。
 
 ◇ ◇ ◇

「ねえ」
 小森が、ふとこちらを見た。
「わたしたち、いつまで名字で呼び合ってるんだろうね」
「……え」
「なんか、今さらな気がして。陽菜って呼んでいいよ」
 不意打ちだった。うまく返事ができない。
「小森は、俺のこと、どう呼ぶの」
「んー」
 小森はスプーンの柄をくるくる回した。
「蒼太くん、でいい? 呼び捨ては、まだ無理」
「まだ、って」
「まだは、まだ」
 あっさりした口調だった。それでいて、耳の先が赤くなっている。
「ほら、呼んでみてよ。試しに」
「今?」
「今」
「……いや、それは」
「『いや』、禁止」
 即座に遮られた。スプーンの先を、こちらに向けて。
「一回だけでいいから」
 逃げ場がなかった。息を吸う。
「……陽菜」
 口にしてみると、思ったより、するりと出てきた。たった二文字なのに、言った瞬間に、これまでと違う距離がそこに生まれた。
「えへへ」
 陽菜が笑った。いつもの笑い方のはずなのに、今日は少し違って聞こえた。
「じゃあ、これからちゃんと呼んでよ、蒼太くん」
「善処する」
「善処って、なにそれ」
 軽口を交わしながらも、陽菜はどこか落ち着かない様子で、スプーンの柄を回し続けていた。
 
 ◇ ◇ ◇

「やば、長居しちゃった」
 陽菜が伸びをして立ち上がった。日は、いつの間にかだいぶ傾いていた。
 自販機の前を通りかかると、陽菜が「あ、水分補給」と言って、また財布を出そうとする。今度は、俺が先に小銭を入れた。
「今日は、俺が」
 陽菜は少し意外そうな顔をしてから、「えへへ、じゃあ、お言葉に甘えて」と笑った。
「ねえ、蒼太くん」
「なに」
「由希奈さん、見つかったら、どうするつもり?」
「……分からない。会って何を話せばいいのかも、まだ」
「会いたい、とは思ってるんだ」
「うん。それは、ずっと」
「見つかったら、ちゃんと背中押すから」陽菜は前を向いたまま言った。
「約束だし」
「ありがとう」
 お互いに、一番隠したかったことを、もう知っている。知られてなお、こうして並んで歩いている。
 
 ◇ ◇ ◇

 部室に戻ると、今夜の観測のために残っていた環先輩が待ち構えていた。
「お、資料、借りてこれたか」
「はい、これです」
 コピーの束をぱらぱらめくって、環先輩は満足げに頷いた。それから、俺たちの顔を交互に見る。
「わはは、助かった。……で、お前ら、なんか雰囲気変わったな」
「べつに」
 陽菜と、声がそろった。環先輩は「詮索はしない主義だからな」と笑って、それ以上は聞いてこなかった。
「そういえば陽菜、今日、七時の電話、もう過ぎてるんじゃないか」
「……あ」
 陽菜がスマホの時刻を確かめる。
「ほんとだ。とっくに」
 初めての観測の夜を思い出した。十五分遅れて、ドームに駆け込んできた陽菜。ちょっと電話してて、という声。スマホをしまう、名残惜しそうな指。
 あれも、七時だった。
「大丈夫か、それ」
「平気平気。今日はいいかなって。……なんてね」
 いつもの照れ隠しにしては、少し間が空きすぎていた。冗談めかした口調の奥に、本音が滲んでいた。俺は何も言わずに、その言葉を聞いていた。
 窓から差し込む夕方の光が、部室の床に長く伸びている。舌の奥に、溶けたかき氷の甘さが、まだかすかに残っていた。