「遠野くん、なんか、顔つきが化石を掘り当てる前の学生みたいね」
皆瀬先生は部室のドアにもたれかかって、値踏みするように俺を見た。
「……それ、どういう顔ですか」
「迷ってるけど、掘る前から答えが分かってる気がして怖い、みたいな顔」
言い当てられた気がして、目を逸らした。
外は朝から雨だった。夜間観測は中止。三人とも、それぞれ書類仕事や片付けで時間を潰している。小森は自分の席で、提出用のレポートに向かっていた。
「先生、今日、車ですか。傘、濡れてないですけど」
環先輩が何気なく聞いた。
「歩きよ。傘は持ってたけど、途中で道を間違えて、遠回りしてたら止んでたの」
「わはは、また迷ったんですか」
先生の方向音痴は、部内では有名だった。専門は宇宙生物学。生命の起源に迫る研究をしているはずなのに、通学路の三叉路一つ、いまだに攻略できていないらしい。
窓の外を、大きな蛾が横切った。先生は反射的に肩を跳ね上げ、椅子ごと半歩下がった。
「……先生?」
「なんでもない。虫は、専門外」
「この前、ドームでカマキリ出たとき、悲鳴あげてましたよね」
小森が口を挟んだ。
「あれは悲鳴じゃなくて威嚇。向こうが先に威嚇してきたから、こっちも返しただけ」
澄まし顔の先生に、部室に小さな笑いが起きた。
◇ ◇ ◇
「せっかくだから、雑談でもしましょうか」
ホットミルクのマグカップを両手で包みながら、先生はポケットから石を取り出した。拳より少し小さい、渦巻き模様の刻まれた石だった。
「アンモナイト。授業で見せようと思って持ってきたの。ほら、回して」
石が机の上を順番に回っていく。俺の手に来たとき、模様の一部が途中で途切れているのに気づいた。
「欠けてるでしょう」
先生が言った。
「さて問題。この欠けたところ、研究者はどうやって埋めると思う?」
「石膏とかで埋める?」
小森が首を傾げる。
「見た目の話じゃなくて。この部分がどんな形だったか、どう決めるかって話」
「想像で描く、とか」と環先輩。
「惜しい。想像は想像でも、根拠のある想像」
「……同じ種類の、ほかの化石と比べる?」
俺が言うと、先生は指をぱちんと鳴らした。
「正解。近い種類の化石と比べて、たぶんこうだろうって推測で埋める。でもね、埋め方を間違えると、まるで別の生き物になるの。昔の学者が組み立てた恐竜の骨格なんて、今の基準で見ると、トゲを鼻の上に付けてたりするのよ。本当は親指だったのに」
「親指を、鼻に」
環先輩が吹き出した。
「埋めること自体は悪くない。問題は、埋めたところを『埋めた』って覚えてるかどうか。それを忘れて、最初から全部知ってた顔をし始めると、危ないの」
「先生は、このアンモナイト、どう埋めてるんですか」
小森が聞いた。
「今のところ、埋めてない」
先生は石を受け取って、窓の光にかざした。
「無理に埋めるくらいなら、欠けたままにしておくほうが誠実だと思ってる。新しい証拠が出てきたら、そのとき埋め直せばいい」
小森は、先生の手の中の石をじっと見ていた。
◇ ◇ ◇
窓の外の雨脚が、少し強くなった。
「化石とか隕石とか、痕跡から、なくなったものを組み立て直すでしょう。あれ、人間の心でも似たことが起きるのよ」
先生はマグカップを置いた。
「じゃあ、もう一問。『いなくなったのに、まだいる気がする』ってこと、ある?」
部室が少し静かになった。
「……卒業した先輩」
環先輩が、ぽつりと言った。
「去年までいた三年の。今でもドームでレンズの向き直すとき、あの人の声で『逆』って聞こえる」
小森が、ちらりと環先輩を見た。
「いい例ね。体はここにないのに、心の中ではまだいる。行方不明の家族を待つ人なんかが、よく経験する気持ち。ポーリン・ボスっていう心理学者が、これに『あいまいな喪失』って名前をつけたの。はっきりしない、なくし方。……簡単に言うと、『さよならの言えない別れ』」
「さよならの、言えない別れ」
口の中で繰り返した。引き出しの奥の封筒が、頭に浮かんだ。挨拶もできないまま、いなくなった人。どこかで生きているのに、俺の中では中学二年の秋のまま止まっている人。
「じゃあ逆は?」
先生が続けた。
「『いるのに、いない気がする』」
「……それ、なんか怖い」
小森が小さく言った。
「たとえば、認知症。体はそこにいるのに、心のほうが先に遠くへ行ってしまう。介護をしてる家族がよく口にする感覚ね。こっちは『別れのないさよなら』」
認知症。由希奈のおばあさんのことを、思い出した。由希奈は、あの家で、こっちの喪失と暮らしていたのかもしれない。
「どっちも、答えが出ないまま続くのがつらいところなの」
先生は言った。
「亡くなってしまえば、悲しくても区切りはつく。でも、いるのかいないのか分からない状態は、区切りがつかない。人によっては、そっちのほうがずっと苦しい」
亡くなってしまえば、区切りはつく。
その言葉に、ふと引っかかった。
悠真という人は、亡くなっている。本当なら、区切りのつく側だ。それなのに小森は毎晩、「おかえり」と言われている。いなくなったのに、いる。
母の会社は、区切りのつくはずの別れを、区切りのつかない別れに作り替えているのかもしれない。
隣を見ると、小森が石を持たないほうの手を、膝の上で固く握っていた。
◇ ◇ ◇
「先生は」
気づけば、口を開いていた。
「分からないことだらけで、それでも研究、続けられるんですか」
先生は少し驚いたように目を見開いて、それから、ふっと笑った。
「『わからない』は、負けじゃない。始まりよ」
短い言葉だった。雨音の中で、それだけがやけにはっきり耳に残った。
「分からないことを、分からないままにしておける強さって、案外馬鹿にできないの。無理やり埋めて分かったふりをするほうが、よっぽど危ない」
「でも、分からないままだと、苦しくないですか」
小森が小さな声で聞いた。
「苦しいわよ、そりゃ」
先生はあっさり頷いた。
「ただ、苦しいことと、間違うことは別。分からないまま、それでも隣に居続けるって選び方も、ちゃんとあるの」
小森が、小さく息を呑んだ。
「そうそう、遠野くん」
先生は思い出したように付け足した。
「今度、化石の授業やるから、ちゃんと寝てきてね」
「……いや、大丈夫です」
「その『……いや』、信用ならないのよね」
先生は満足そうに笑うと、マグカップを持って環先輩のほうへ移っていった。
◇ ◇ ◇
雨音だけが残った。小森はレポートに視線を戻していたけれど、ペン先はほとんど動いていなかった。
「……さっきの話」
俺は言った。
「なんか、分かる気がした。答えが出なくても隣にいられるって。ちょっと、救われた」
小森はしばらく黙っていた。
「由希奈さんのこと?」
「うん」
「じゃあ聞くけど」
小森は静かに続けた。
「答えのないまま隣にいるって、遠野は、由希奈さんにできてるの?」
「——いや」
言いかけて、引っ込めた。できているとは、とても言えなかった。何年も持ち続けているだけで、隣にいるのとは程遠い。
小森もそれ以上は聞かなかった。机の上のアンモナイトを、指先でそっとなぞっている。欠けた部分を確かめるように、何度も同じところを。
「先生の言うこと、なんかずるいよね」
小さな声だった。
「分からなくてもいいなんて言われたら、逃げてもいい気がしてくる」
「逃げてるつもり、なの」
「さあ」
小森は曖昧に笑った。
「えへへ、分かんない。……なんてね」
いつもの照れ隠しのはずなのに、今日は、本当に分からないことをそのまま口にしたように聞こえた。
◇ ◇ ◇
部活が終わる頃になっても、雨は降り続いていた。
昇降口で靴を履き替えていると、皆瀬先生が傘を片手に、きょろきょろあたりを見回していた。
「先生、どうしたんですか」
「職員室、こっちで合ってたかしら」
「……逆方向です」
「あら、そう。じゃあ逆から行くわ」
真顔でそう言って、先生は迷いなく間違った方向へ歩いていった。宇宙生物学者は、今日も校舎の中で迷子になるらしい。
自転車置き場へ向かうと、屋根の端で、小森が空を見上げていた。
「……傘、忘れた」
誰に言うでもない声だった。
「朝、降ってただろ」
「降ってたから、今日はバスで来たの。バス停から学校まで近いし、走ればいけると思って。帰りのこと、考えてなかった」
「計画性」
「ないの。知ってるでしょ」
小森は、屋根の下から一歩出ようとして、また戻った。雨脚は、朝よりも強くなっていた。
少しだけ迷ってから、傘を開いた。
「バス停まで」
小森は、一瞬きょとんとした。それから、「……いいの?」と小さく聞いた。
「取引の、ついで」
「そういうことにしとく」
並んで歩き出して、すぐに問題に気づいた。片手で傘、片手で自転車。ハンドルがふらつくたびに、傘が傾いて、小森の肩に雨が落ちる。
「遠野、傘、下手」
「自転車のせいだって」
「貸して」
小森が、俺の手から傘を取った。自転車の横に並んで、二人の上に傘をかざす。少しだけ背伸びをしている。今度は、俺の肩に雨が落ちた。
「……さっきより、こっちが濡れてるけど」
「文句言わない。傘は、背の低いほうが持つと、低いほうが勝つの」
「なんだそのルール」
「今作った」
えへへ、と小森は笑った。雨の音で、いつもより少しだけ小さく聞こえた。
◇ ◇ ◇
校門を出ると、しばらく二人とも黙っていた。濡れたアスファルトを、自転車のタイヤがしゃりしゃりと鳴らしていく。
「さっきの、先生の話」
先に口を開いたのは、小森だった。
「ちょっと救われたって、遠野、言ってたよね」
「……言った」
「名前がつくと、楽になるのかな。わたしのは、どっちなんだろうって、ずっと考えてた」
小森は、傘の骨の先を見上げたまま言った。
「いないのに、いる。一個目の、さよならの言えない別れ? でも、あれって、返事がないから苦しいんでしょ。わたしのは、返事がある。毎晩」
言葉が、喉の奥で止まった。
いなくなったのに、いる。しかも、返事をする。雨の部室で、俺が考えていたことだった。それを、小森は自分の言葉で、もう考えていた。
「……じゃあ、どっちでもないのかも」
「三個目?」
「三個目」
「名前、まだないやつだ」
小森は、少しだけ笑った。
「先生に言ったら、つけてくれるかな」
「つけてくれそうだけど、たぶん、長い名前になる」
「英語で、三単語くらいのやつね」
「論文に出てきそうなやつ」
「やだな、それ」
笑いながら、小森の傘を持つ手が、少しだけ低くなった。雨粒が一つ、俺の頬に落ちた。
◇ ◇ ◇
バス停には、屋根がついていた。時刻表を見ると、次のバスは六時四十分。小森はスマホで時間を確かめて、小さく息を吐いた。間に合う、という顔だった。何に間に合うのかは、聞かなくても分かった。
バスのライトが、雨の向こうから近づいてくる。
小森が、畳んだ傘を差し出した。
「ありがと」
「持ってけ」
「え」
「俺、この先、自転車だから。どうせ濡れる」
「遠野、もう濡れてるけど」
「だから、もう一緒」
小森は、傘と俺の顔を見比べた。それから、傘をぎゅっと握り直した。
「……明日、返す」
「うん」
「取引とは、別で」
バスのドアが開いた。小森は乗り込んで、窓際の席から、一度だけ小さく手を振った。
バスが見えなくなるまで、その場に立っていた。雨は、まだ降り続いていた。
濡れながら、自転車を押す。さよならの言えない別れ。別れのないさよなら。それから、まだ名前のない、三個目。
口の中で順番に並べてみる。自転車を押す足が、来たときより少しだけ軽かった。
皆瀬先生は部室のドアにもたれかかって、値踏みするように俺を見た。
「……それ、どういう顔ですか」
「迷ってるけど、掘る前から答えが分かってる気がして怖い、みたいな顔」
言い当てられた気がして、目を逸らした。
外は朝から雨だった。夜間観測は中止。三人とも、それぞれ書類仕事や片付けで時間を潰している。小森は自分の席で、提出用のレポートに向かっていた。
「先生、今日、車ですか。傘、濡れてないですけど」
環先輩が何気なく聞いた。
「歩きよ。傘は持ってたけど、途中で道を間違えて、遠回りしてたら止んでたの」
「わはは、また迷ったんですか」
先生の方向音痴は、部内では有名だった。専門は宇宙生物学。生命の起源に迫る研究をしているはずなのに、通学路の三叉路一つ、いまだに攻略できていないらしい。
窓の外を、大きな蛾が横切った。先生は反射的に肩を跳ね上げ、椅子ごと半歩下がった。
「……先生?」
「なんでもない。虫は、専門外」
「この前、ドームでカマキリ出たとき、悲鳴あげてましたよね」
小森が口を挟んだ。
「あれは悲鳴じゃなくて威嚇。向こうが先に威嚇してきたから、こっちも返しただけ」
澄まし顔の先生に、部室に小さな笑いが起きた。
◇ ◇ ◇
「せっかくだから、雑談でもしましょうか」
ホットミルクのマグカップを両手で包みながら、先生はポケットから石を取り出した。拳より少し小さい、渦巻き模様の刻まれた石だった。
「アンモナイト。授業で見せようと思って持ってきたの。ほら、回して」
石が机の上を順番に回っていく。俺の手に来たとき、模様の一部が途中で途切れているのに気づいた。
「欠けてるでしょう」
先生が言った。
「さて問題。この欠けたところ、研究者はどうやって埋めると思う?」
「石膏とかで埋める?」
小森が首を傾げる。
「見た目の話じゃなくて。この部分がどんな形だったか、どう決めるかって話」
「想像で描く、とか」と環先輩。
「惜しい。想像は想像でも、根拠のある想像」
「……同じ種類の、ほかの化石と比べる?」
俺が言うと、先生は指をぱちんと鳴らした。
「正解。近い種類の化石と比べて、たぶんこうだろうって推測で埋める。でもね、埋め方を間違えると、まるで別の生き物になるの。昔の学者が組み立てた恐竜の骨格なんて、今の基準で見ると、トゲを鼻の上に付けてたりするのよ。本当は親指だったのに」
「親指を、鼻に」
環先輩が吹き出した。
「埋めること自体は悪くない。問題は、埋めたところを『埋めた』って覚えてるかどうか。それを忘れて、最初から全部知ってた顔をし始めると、危ないの」
「先生は、このアンモナイト、どう埋めてるんですか」
小森が聞いた。
「今のところ、埋めてない」
先生は石を受け取って、窓の光にかざした。
「無理に埋めるくらいなら、欠けたままにしておくほうが誠実だと思ってる。新しい証拠が出てきたら、そのとき埋め直せばいい」
小森は、先生の手の中の石をじっと見ていた。
◇ ◇ ◇
窓の外の雨脚が、少し強くなった。
「化石とか隕石とか、痕跡から、なくなったものを組み立て直すでしょう。あれ、人間の心でも似たことが起きるのよ」
先生はマグカップを置いた。
「じゃあ、もう一問。『いなくなったのに、まだいる気がする』ってこと、ある?」
部室が少し静かになった。
「……卒業した先輩」
環先輩が、ぽつりと言った。
「去年までいた三年の。今でもドームでレンズの向き直すとき、あの人の声で『逆』って聞こえる」
小森が、ちらりと環先輩を見た。
「いい例ね。体はここにないのに、心の中ではまだいる。行方不明の家族を待つ人なんかが、よく経験する気持ち。ポーリン・ボスっていう心理学者が、これに『あいまいな喪失』って名前をつけたの。はっきりしない、なくし方。……簡単に言うと、『さよならの言えない別れ』」
「さよならの、言えない別れ」
口の中で繰り返した。引き出しの奥の封筒が、頭に浮かんだ。挨拶もできないまま、いなくなった人。どこかで生きているのに、俺の中では中学二年の秋のまま止まっている人。
「じゃあ逆は?」
先生が続けた。
「『いるのに、いない気がする』」
「……それ、なんか怖い」
小森が小さく言った。
「たとえば、認知症。体はそこにいるのに、心のほうが先に遠くへ行ってしまう。介護をしてる家族がよく口にする感覚ね。こっちは『別れのないさよなら』」
認知症。由希奈のおばあさんのことを、思い出した。由希奈は、あの家で、こっちの喪失と暮らしていたのかもしれない。
「どっちも、答えが出ないまま続くのがつらいところなの」
先生は言った。
「亡くなってしまえば、悲しくても区切りはつく。でも、いるのかいないのか分からない状態は、区切りがつかない。人によっては、そっちのほうがずっと苦しい」
亡くなってしまえば、区切りはつく。
その言葉に、ふと引っかかった。
悠真という人は、亡くなっている。本当なら、区切りのつく側だ。それなのに小森は毎晩、「おかえり」と言われている。いなくなったのに、いる。
母の会社は、区切りのつくはずの別れを、区切りのつかない別れに作り替えているのかもしれない。
隣を見ると、小森が石を持たないほうの手を、膝の上で固く握っていた。
◇ ◇ ◇
「先生は」
気づけば、口を開いていた。
「分からないことだらけで、それでも研究、続けられるんですか」
先生は少し驚いたように目を見開いて、それから、ふっと笑った。
「『わからない』は、負けじゃない。始まりよ」
短い言葉だった。雨音の中で、それだけがやけにはっきり耳に残った。
「分からないことを、分からないままにしておける強さって、案外馬鹿にできないの。無理やり埋めて分かったふりをするほうが、よっぽど危ない」
「でも、分からないままだと、苦しくないですか」
小森が小さな声で聞いた。
「苦しいわよ、そりゃ」
先生はあっさり頷いた。
「ただ、苦しいことと、間違うことは別。分からないまま、それでも隣に居続けるって選び方も、ちゃんとあるの」
小森が、小さく息を呑んだ。
「そうそう、遠野くん」
先生は思い出したように付け足した。
「今度、化石の授業やるから、ちゃんと寝てきてね」
「……いや、大丈夫です」
「その『……いや』、信用ならないのよね」
先生は満足そうに笑うと、マグカップを持って環先輩のほうへ移っていった。
◇ ◇ ◇
雨音だけが残った。小森はレポートに視線を戻していたけれど、ペン先はほとんど動いていなかった。
「……さっきの話」
俺は言った。
「なんか、分かる気がした。答えが出なくても隣にいられるって。ちょっと、救われた」
小森はしばらく黙っていた。
「由希奈さんのこと?」
「うん」
「じゃあ聞くけど」
小森は静かに続けた。
「答えのないまま隣にいるって、遠野は、由希奈さんにできてるの?」
「——いや」
言いかけて、引っ込めた。できているとは、とても言えなかった。何年も持ち続けているだけで、隣にいるのとは程遠い。
小森もそれ以上は聞かなかった。机の上のアンモナイトを、指先でそっとなぞっている。欠けた部分を確かめるように、何度も同じところを。
「先生の言うこと、なんかずるいよね」
小さな声だった。
「分からなくてもいいなんて言われたら、逃げてもいい気がしてくる」
「逃げてるつもり、なの」
「さあ」
小森は曖昧に笑った。
「えへへ、分かんない。……なんてね」
いつもの照れ隠しのはずなのに、今日は、本当に分からないことをそのまま口にしたように聞こえた。
◇ ◇ ◇
部活が終わる頃になっても、雨は降り続いていた。
昇降口で靴を履き替えていると、皆瀬先生が傘を片手に、きょろきょろあたりを見回していた。
「先生、どうしたんですか」
「職員室、こっちで合ってたかしら」
「……逆方向です」
「あら、そう。じゃあ逆から行くわ」
真顔でそう言って、先生は迷いなく間違った方向へ歩いていった。宇宙生物学者は、今日も校舎の中で迷子になるらしい。
自転車置き場へ向かうと、屋根の端で、小森が空を見上げていた。
「……傘、忘れた」
誰に言うでもない声だった。
「朝、降ってただろ」
「降ってたから、今日はバスで来たの。バス停から学校まで近いし、走ればいけると思って。帰りのこと、考えてなかった」
「計画性」
「ないの。知ってるでしょ」
小森は、屋根の下から一歩出ようとして、また戻った。雨脚は、朝よりも強くなっていた。
少しだけ迷ってから、傘を開いた。
「バス停まで」
小森は、一瞬きょとんとした。それから、「……いいの?」と小さく聞いた。
「取引の、ついで」
「そういうことにしとく」
並んで歩き出して、すぐに問題に気づいた。片手で傘、片手で自転車。ハンドルがふらつくたびに、傘が傾いて、小森の肩に雨が落ちる。
「遠野、傘、下手」
「自転車のせいだって」
「貸して」
小森が、俺の手から傘を取った。自転車の横に並んで、二人の上に傘をかざす。少しだけ背伸びをしている。今度は、俺の肩に雨が落ちた。
「……さっきより、こっちが濡れてるけど」
「文句言わない。傘は、背の低いほうが持つと、低いほうが勝つの」
「なんだそのルール」
「今作った」
えへへ、と小森は笑った。雨の音で、いつもより少しだけ小さく聞こえた。
◇ ◇ ◇
校門を出ると、しばらく二人とも黙っていた。濡れたアスファルトを、自転車のタイヤがしゃりしゃりと鳴らしていく。
「さっきの、先生の話」
先に口を開いたのは、小森だった。
「ちょっと救われたって、遠野、言ってたよね」
「……言った」
「名前がつくと、楽になるのかな。わたしのは、どっちなんだろうって、ずっと考えてた」
小森は、傘の骨の先を見上げたまま言った。
「いないのに、いる。一個目の、さよならの言えない別れ? でも、あれって、返事がないから苦しいんでしょ。わたしのは、返事がある。毎晩」
言葉が、喉の奥で止まった。
いなくなったのに、いる。しかも、返事をする。雨の部室で、俺が考えていたことだった。それを、小森は自分の言葉で、もう考えていた。
「……じゃあ、どっちでもないのかも」
「三個目?」
「三個目」
「名前、まだないやつだ」
小森は、少しだけ笑った。
「先生に言ったら、つけてくれるかな」
「つけてくれそうだけど、たぶん、長い名前になる」
「英語で、三単語くらいのやつね」
「論文に出てきそうなやつ」
「やだな、それ」
笑いながら、小森の傘を持つ手が、少しだけ低くなった。雨粒が一つ、俺の頬に落ちた。
◇ ◇ ◇
バス停には、屋根がついていた。時刻表を見ると、次のバスは六時四十分。小森はスマホで時間を確かめて、小さく息を吐いた。間に合う、という顔だった。何に間に合うのかは、聞かなくても分かった。
バスのライトが、雨の向こうから近づいてくる。
小森が、畳んだ傘を差し出した。
「ありがと」
「持ってけ」
「え」
「俺、この先、自転車だから。どうせ濡れる」
「遠野、もう濡れてるけど」
「だから、もう一緒」
小森は、傘と俺の顔を見比べた。それから、傘をぎゅっと握り直した。
「……明日、返す」
「うん」
「取引とは、別で」
バスのドアが開いた。小森は乗り込んで、窓際の席から、一度だけ小さく手を振った。
バスが見えなくなるまで、その場に立っていた。雨は、まだ降り続いていた。
濡れながら、自転車を押す。さよならの言えない別れ。別れのないさよなら。それから、まだ名前のない、三個目。
口の中で順番に並べてみる。自転車を押す足が、来たときより少しだけ軽かった。
