君の好きが、計算だとしても

 翌週の部活は、パソコン室での作業だった。望遠鏡が自動で撮った星の明るさの記録から、簡易的な学習モデルが「惑星が前を横切ったかもしれない」候補を選び出す。それを部員が目で一件ずつ確認していく、地味な作業だ。
 判定には、必ずパーセンテージがついている。九十六。八十二。ときどき、四十三なんていう自信なさげな数字も混じる。
「これ、また外れてる」
 隣の席から、小森の声がした。
「候補、九十四パーセントって出てるけど、これ多分ノイズだよ。前にも同じ形、見た」
「詳しいね」
「AIって、それらしく見えるものを選ぶのは得意なんだけど。たまに、こういう変な形にも自信満々でハンコ押してくるんだよね」
 数字の後ろにある自信は、正しさとは限らない。母の言っていた98%のことを、思い出さずにはいられなかった。
「お、お前ら息合ってきたな」
 覗きに来た環先輩が茶々を入れる。小森は「べつに」とだけ返して、画面に向き直った。その横顔から、ほんの少しだけ硬さが抜けていた。
 
 ◇ ◇ ◇

 その日の放課後。閉室間際の図書室に参考書を探しに寄ると、窓際の閲覧席に小森の後ろ姿があった。壁の時計の針は、ちょうど七時を指していた。
 イヤホンをつけて、机に立てたスマホに向かって、声を潜めて何か話している。開いたページは、さっきから一枚もめくられていない。
 体が勝手に止まった。気づけば、書架の陰に身を寄せていた。
「おかえり。……うん、今日はね」
「うん」「そっか」「うん、大丈夫」
 画面の端に、屋根の形のアイコンが見えた。通話中を示す緑のランプが灯っている。
 部室で見たときは、頭で分かっただけだった。今こうして音として聞いてしまうと、それが彼女の毎日の一部なのだと、体のほうが先に理解した。
 小森は小さく笑って、また何か囁いた。「えへへ」ではない、もっと柔らかい笑い方だった。俺の前では、一度も聞いたことのない笑い方だった。
 少し間があって、イヤホンの向こうの誰かが何か言ったらしい。小森は、画面にだけ聞こえる声で答えた。
「……うん。わたしも」
 何に対しての「わたしも」なのかは、書架の陰までは届かなかった。
 見てはいけないものを見ている自覚はあった。それでも目を逸らせないまま、小森が席を立つ気配がして、慌てて反対側の通路へ移動した。参考書は結局一冊も手に取らず、逃げるように図書室を出た。
 
 ◇ ◇ ◇

 その夜、ベッドに寝転がって、スマホの検索窓に「AI 故人 再現」と打ち込んだ。母の会社の名前を自分の指で打つことには、なぜか抵抗があった。
 出てくる記事は似たようなものばかりだった。「グリーフケアの新しい形」という見出しと、「故人の尊厳を軽んじている」という見出しが、同じ検索結果に当たり前のように並んでいる。
 ある記事の一文に、目が止まった。
 『実際に対話している利用者には、遺族ではなく、故人と親しかった友人や恋人も少なくない。ただし契約者はあくまで遺族であり、データを残すか消すかを選ぶ権利は、IDを借りて対話している側にはない』
 小森は、たぶんこっちだ。悠真という人の家族が契約して、小森はその好意でIDを借りているだけなのかもしれない。だとしたら、あの声を残すか消すかを決めるのは小森じゃない。小森には選ぶ権利も、もしかしたら、知らされる権利もない。
 画面を閉じかけて、指が止まった。
 検索窓に、別の名前を打っていた。
 『及川由希奈』
 四文字を打つのに、ずいぶん時間がかかった。取引では、小森に探してもらうことになっている。でも、自分で一度も探さないまま人に頼むのは、なんだかずるい気がした。
 検索ボタンの上で、親指が止まる。
 出てくるのが、知らない高校の知らない制服の写真だったら。俺の知らない誰かと笑っている写真だったら。
 一文字ずつ、消した。
 悠真という名前は、押せたくせに。
 
 ◇ ◇ ◇

 翌日の夕飯で、母が独り言みたいに話し始めた。
「今日ね、十月末の件で、契約者さんに順番に確認の連絡してるんだけど。決めきれない人、やっぱり多くて」
「また仕事の話、持ち帰ってる」
 父が呆れたように口を挟む。
「言ってないってば。今日が初めて」
「絶対言ってた。先週も」
「はいはい、名探偵。味噌汁冷めるよ」
 いつもの軽い言い合いの中で、俺の箸だけが止まっていた。
 十月末。
 秋、としか知らなかった期限に、日付がついた。
 小森との約束を思い出す。分かったことは、なるべく早く教えて。俺は「破らない」と言い切った。
 それなのに、口が動かなかった。これは、母が家でうっかり漏らした仕事の話だ。それを外へ持ち出していいのか。持ち出したとして、小森に日付だけを渡して、何になるのか。決める権利のない人に、決められない日付だけを告げる。それは、親切なのか。
「……いや」
 何かを聞こうとして、言葉にならなかった。
「蒼太、箸止まってるけど」
「あ……いや、なんでもない」
 
 ◇ ◇ ◇

 翌日の部活。小森は望遠鏡を覗く俺の手元を見て、眉を寄せた。
「遠野、焦点の合わせ方、またおかしいよ」
「——あ、悪い」
「いいけど。前も同じとこで詰まってたよね」
 小森はしばらく俺の横顔を見ていた。
「なんか、遠野って」
「なに」
「聞きたいことあっても、途中でやめるよね。『……いや』って」
 図星だった。返す言葉がない。
「気になったなら、聞けばいいのに」
「……いや、それは」
「ほら、また言った」
 小森が小さく吹き出した。
「遠野の気持ちって、計算に出てこない誤差っぽいよね。あるのは分かるけど、誰にも証明できない」
 計算、という言葉に、昨日の食卓が重なった。十月末。まだ渡していない、日付。
「……それ、褒めてる?」
「さあ、どうだろ」
 小森は望遠鏡から手を離した。
「自販機、行ってくる。奢ってあげる。サイダーでいい?」
 戻ってきた小森が、片方の缶を差し出す。冷たい表面に、細かい水滴がすぐに浮かんだ。今日は、なぜかすぐには開ける気になれなかった。
「開けないの?」
「ちょっと、喉渇いてないだけ」
 嘘だった。小森も、自分の缶のプルタブに指をかけたまま、開けずにいる。二人分の缶が、開けられないまま、机の上でぬるくなっていく。
「進捗、ある?」
 小森が、缶の縁を指でなぞりながら聞いた。
「……まだ、はっきりしたことは」
 嘘ではなかった。本当でもなかった。
「そっか」
 小森はそれ以上聞かなかった。それから、ふざけたように付け足した。
「えへへ、なんてね」
 何に対しての「なんてね」なのか、分からなかった。目が合いそうになって、彼女のほうが先に視線を逸らした。
 
 ◇ ◇ ◇

 帰り道。自転車を押しながら、まだ何も言えていない自分のことを考えていた。
 見なかったことにするのは、やめると決めた。それなのに今度は、知ってしまったことを、渡せずにいる。引き出しにしまう手紙が一通、増えただけみたいだった。
 翌週、皆瀬先生が観測ノートの提出日を知らせに部室へ顔を出した。俺を見て、珍しく足を止める。
「遠野くん、なんか、顔つきが化石を掘り当てる前の学生みたいね」