取引が成立した翌日から、俺たちは、どういう顔をすればいいのか分からなくなった。
共犯者、という言葉が一番近い。お互いの一番隠したいことを知っていて、それを交換する約束までしている。なのに、教室も違えば、話題もない。廊下ですれ違うたび、小森は小さく顎を引いて会釈をしてくる。取引先への挨拶みたいだった。俺も会釈を返す。ますます取引先っぽくなった。
夜には、スマホに短いメッセージが届いた。
『進捗は?』
『まだ何も』
『こっちも』
それで終わりだった。業務連絡にしても素っ気ない。
「お前ら、なんかあった?」
ある日の片付け中、環先輩がドームの掃除用具をしまいながら、思い出したように聞いてきた。
「いや、べつに」
「急に仲良くなったと思ったら、急に他人行儀だな。どっちなんだよ」
どっちなのか、こっちが聞きたかった。
◇ ◇ ◇
その週の金曜日、天文部は初めて、正式な夜間観測をした。
部員が三人になって、屋上の使用許可がようやく下りたのだ。これまでは、ドームの中で先生に立ち会ってもらって、少しだけ覗くのがやっとだったらしい。職員室から戻ってきた環先輩は、許可証を両手で掲げて、部室を一周した。
「見ろ、正式な紙だ。判子も押してある。わはは、これでもう、先生に頼み込んで十分だけ屋上に出してもらう生活とはお別れだ」
「そんな生活してたんですか」
「してた。去年は、ほぼ毎回、土下座寸前だった」
「寸前で止めてたんですね」
「部長の威厳があるからな」
その威厳のまま、環先輩は俺の肩をばんばん叩いた。
「お前のおかげだぞ、蒼太。三人目、万歳だ」
「……俺、入っただけですけど」
「入っただけで、部が一個救われることもあるんだよ」
◇ ◇ ◇
夜の屋上は、昼間の熱をまだ少しだけ残していた。
東の空に、半分の月が浮かんでいた。環先輩が望遠鏡を月に向けて、ピントを合わせる。皆瀬先生は、ドームの入り口から一歩も出ないまま、虫よけスプレーを全身に吹きつけていた。
「先生、こっち来ないんですか」
「行くわよ。蚊取り線香に火がついたら」
蚊取り線香は、先生の足元で、三つ同時に煙を上げていた。
七時を回って、階段を上がってくる足音がした。
「ごめん、遅れた」
小森だった。息が少しだけ上がっている。七時二十分。
初めての観測の夜も、たしか、七時を十五分過ぎていた。何か言いかけて、やめた。取引相手が遅刻した理由を、取引の外で聞く権利が、今の俺にあるのか分からなかった。
「よし、全員そろったな」環先輩が、足元のクーラーボックスから瓶を取り出した。
「許可記念だ。ラムネで乾杯な」
「先生の分は?」
「ドームから出てこないから、あとで届ける」
玉押しで押し込むと、ビー玉がからんと落ちて、泡が指まであふれた。小森が「わ、わ」と慌てて瓶を遠ざける。環先輩だけが、一滴もこぼさずに開けてみせて、得意げに鼻を鳴らした。
「蒼太、先に覗いてみろ」
環先輩に促されて、接眼レンズに目を当てた。
息を呑んだ。
月の表面が、そこにあった。灰色の平らなところと、白く光るでこぼこ。欠けている側との境目では、クレーターの縁が、影を長く伸ばしている。教科書の写真と同じもののはずなのに、今、この瞬間の光だと思うと、まるで違って見えた。
「……でこぼこ、すご」
「境目のとこが一番きれいに見えるんだよ」
隣で、小森が言った。
「影が長くなるから、でこぼこが立体的に見えるの。満月だと、真正面から光が当たって、逆にのっぺりしちゃう」
「満月のほうが、よく見えるんだと思ってた」
「みんなそう思う」
小森が、少しだけ得意げに笑った。取引の話をしていないときの小森は、こんなふうに笑うのだと思った。
「じゃあ、問題な」
環先輩が、腕を組んで言った。
「月って、いつ見ても同じ模様だろ。ウサギの餅つき。あれ、なんでだと思う?」
「……月が、回ってないから?」
「惜しい。回ってはいる」
「回ってるのに、同じ面?」
「ヒント。地球の周りを一周するのと、自分が一回転するのが、ちょうど同じ時間」
頭の中で、月をぐるっと回してみた。地球の周りを回りながら、同じ速さで、自分も回る。
「……ずっと、こっちに同じ顔を向けてる?」
「正解」
環先輩が、指をぱちんと鳴らした。
「だから、月の裏側は、地球からは絶対に見えない。何万年経っても、ずっと同じ顔だけ見せてる」
「ずっと、同じ顔だけ」
口の中で繰り返した。
隣で、小森が接眼レンズから目を離した。月を見上げたまま、しばらく何も言わなかった。
「……それって、ちょっと、ずるいよね」
「ずるい?」
「裏側がどうなってるか、こっちは一生分からないのに。向こうは、いつも同じ、きれいな顔だけ見せてくれる」
小森は、少しだけ笑った。
「こっちは、ほっとするけどね。いつ見ても同じだから」
小森は、ラムネの瓶を傾けた。ビー玉が瓶のくびれに引っかかって、からん、と鳴った。最後の一口は、なかなか出てこなかった。
それ以上は、小森は何も言わなかった。
俺は、小森のポケットの中のスマホのことを考えていた。毎晩七時に、同じ調子で「おかえり」と言う誰か。いつ見ても同じ、きれいな顔だけを見せてくれる誰か。
「裏側も、探査機が撮ってるんだぞ」
環先輩が、空気を読んだのか読んでいないのか分からない声で言った。
「クレーターだらけで、表よりずっとでこぼこらしい。わはは、見せられない顔してるんだな、月も」
「先輩、言い方」
小森が吹き出した。俺も、つられて笑った。
ドームの入り口のほうで、短い悲鳴が上がった。蚊取り線香の煙をかいくぐって、カマキリが一匹、皆瀬先生の袖にしがみついたらしい。
「……今のは、聞かなかったことにして」
先生は真顔で袖を振りながら、そう言った。環先輩が「わはは、無理です」と即答した。
月は、そのあいだもずっと、同じ顔でこちらを見下ろしていた。
◇ ◇ ◇
九時前に、観測はお開きになった。
望遠鏡を分解して、準備室まで運ぶ。鏡筒は環先輩が抱えて、三脚は俺と小森で一本ずつ持った。暗い階段を、スマホのライトで足元を照らしながら降りていく。
「ねえ」
踊り場で、小森が言った。
「クレーターって、名前ついてるの知ってる?」
「……知らない」
「ついてるの。昔の学者とか、有名な人の名前。コペルニクスとか、ティコとか」
小森は、三脚を持ち直した。
「わたし、自分のクレーター欲しいんだよね」
「どうやったら、もらえるの」
「すっごい発見するか、死んだあと偉い人に選ばれるか」
「どっちも遠いな」
「遠いね」
小森は笑った。
「だから、勝手につけることにしてる。さっき見えた、境目のとこの、影がいちばん長かったやつ。あれ、今日から小森クレーター」
「勝手すぎるだろ」
「いいの。誰にも迷惑かけてないし」
小森は、少し考えるように首を傾げた。
「遠野のも、つけてあげよっか」
「いらない」
「遠野クレーター。のっぺりしてるやつ。満月のときみたいに、なに考えてるか分かんないから」
「……いや、それは」
「ほら、出た」
小森が吹き出して、三脚の脚が壁にごつんと当たった。下の踊り場から、環先輩の「備品は丁寧になー」という声が上がってくる。
準備室に三脚を立てかけて、廊下に出た。昇降口の前で、小森は一度だけスマホを見た。画面の光が、顔の半分だけを青く照らした。
「じゃあね、遠野」
「うん」
「進捗、あったら連絡して」
また、取引の言葉に戻っていた。でも、さっき踊り場で笑った声は、取引の外にあった気がした。
その夜、ベッドの上でスマホを開くと、小森から一言だけ届いていた。
『小森クレーター、ちゃんと覚えといてね』
『覚えてない』と打って、消した。
『覚えとく』と送った。
三秒で、既読がついた。
共犯者、という言葉が一番近い。お互いの一番隠したいことを知っていて、それを交換する約束までしている。なのに、教室も違えば、話題もない。廊下ですれ違うたび、小森は小さく顎を引いて会釈をしてくる。取引先への挨拶みたいだった。俺も会釈を返す。ますます取引先っぽくなった。
夜には、スマホに短いメッセージが届いた。
『進捗は?』
『まだ何も』
『こっちも』
それで終わりだった。業務連絡にしても素っ気ない。
「お前ら、なんかあった?」
ある日の片付け中、環先輩がドームの掃除用具をしまいながら、思い出したように聞いてきた。
「いや、べつに」
「急に仲良くなったと思ったら、急に他人行儀だな。どっちなんだよ」
どっちなのか、こっちが聞きたかった。
◇ ◇ ◇
その週の金曜日、天文部は初めて、正式な夜間観測をした。
部員が三人になって、屋上の使用許可がようやく下りたのだ。これまでは、ドームの中で先生に立ち会ってもらって、少しだけ覗くのがやっとだったらしい。職員室から戻ってきた環先輩は、許可証を両手で掲げて、部室を一周した。
「見ろ、正式な紙だ。判子も押してある。わはは、これでもう、先生に頼み込んで十分だけ屋上に出してもらう生活とはお別れだ」
「そんな生活してたんですか」
「してた。去年は、ほぼ毎回、土下座寸前だった」
「寸前で止めてたんですね」
「部長の威厳があるからな」
その威厳のまま、環先輩は俺の肩をばんばん叩いた。
「お前のおかげだぞ、蒼太。三人目、万歳だ」
「……俺、入っただけですけど」
「入っただけで、部が一個救われることもあるんだよ」
◇ ◇ ◇
夜の屋上は、昼間の熱をまだ少しだけ残していた。
東の空に、半分の月が浮かんでいた。環先輩が望遠鏡を月に向けて、ピントを合わせる。皆瀬先生は、ドームの入り口から一歩も出ないまま、虫よけスプレーを全身に吹きつけていた。
「先生、こっち来ないんですか」
「行くわよ。蚊取り線香に火がついたら」
蚊取り線香は、先生の足元で、三つ同時に煙を上げていた。
七時を回って、階段を上がってくる足音がした。
「ごめん、遅れた」
小森だった。息が少しだけ上がっている。七時二十分。
初めての観測の夜も、たしか、七時を十五分過ぎていた。何か言いかけて、やめた。取引相手が遅刻した理由を、取引の外で聞く権利が、今の俺にあるのか分からなかった。
「よし、全員そろったな」環先輩が、足元のクーラーボックスから瓶を取り出した。
「許可記念だ。ラムネで乾杯な」
「先生の分は?」
「ドームから出てこないから、あとで届ける」
玉押しで押し込むと、ビー玉がからんと落ちて、泡が指まであふれた。小森が「わ、わ」と慌てて瓶を遠ざける。環先輩だけが、一滴もこぼさずに開けてみせて、得意げに鼻を鳴らした。
「蒼太、先に覗いてみろ」
環先輩に促されて、接眼レンズに目を当てた。
息を呑んだ。
月の表面が、そこにあった。灰色の平らなところと、白く光るでこぼこ。欠けている側との境目では、クレーターの縁が、影を長く伸ばしている。教科書の写真と同じもののはずなのに、今、この瞬間の光だと思うと、まるで違って見えた。
「……でこぼこ、すご」
「境目のとこが一番きれいに見えるんだよ」
隣で、小森が言った。
「影が長くなるから、でこぼこが立体的に見えるの。満月だと、真正面から光が当たって、逆にのっぺりしちゃう」
「満月のほうが、よく見えるんだと思ってた」
「みんなそう思う」
小森が、少しだけ得意げに笑った。取引の話をしていないときの小森は、こんなふうに笑うのだと思った。
「じゃあ、問題な」
環先輩が、腕を組んで言った。
「月って、いつ見ても同じ模様だろ。ウサギの餅つき。あれ、なんでだと思う?」
「……月が、回ってないから?」
「惜しい。回ってはいる」
「回ってるのに、同じ面?」
「ヒント。地球の周りを一周するのと、自分が一回転するのが、ちょうど同じ時間」
頭の中で、月をぐるっと回してみた。地球の周りを回りながら、同じ速さで、自分も回る。
「……ずっと、こっちに同じ顔を向けてる?」
「正解」
環先輩が、指をぱちんと鳴らした。
「だから、月の裏側は、地球からは絶対に見えない。何万年経っても、ずっと同じ顔だけ見せてる」
「ずっと、同じ顔だけ」
口の中で繰り返した。
隣で、小森が接眼レンズから目を離した。月を見上げたまま、しばらく何も言わなかった。
「……それって、ちょっと、ずるいよね」
「ずるい?」
「裏側がどうなってるか、こっちは一生分からないのに。向こうは、いつも同じ、きれいな顔だけ見せてくれる」
小森は、少しだけ笑った。
「こっちは、ほっとするけどね。いつ見ても同じだから」
小森は、ラムネの瓶を傾けた。ビー玉が瓶のくびれに引っかかって、からん、と鳴った。最後の一口は、なかなか出てこなかった。
それ以上は、小森は何も言わなかった。
俺は、小森のポケットの中のスマホのことを考えていた。毎晩七時に、同じ調子で「おかえり」と言う誰か。いつ見ても同じ、きれいな顔だけを見せてくれる誰か。
「裏側も、探査機が撮ってるんだぞ」
環先輩が、空気を読んだのか読んでいないのか分からない声で言った。
「クレーターだらけで、表よりずっとでこぼこらしい。わはは、見せられない顔してるんだな、月も」
「先輩、言い方」
小森が吹き出した。俺も、つられて笑った。
ドームの入り口のほうで、短い悲鳴が上がった。蚊取り線香の煙をかいくぐって、カマキリが一匹、皆瀬先生の袖にしがみついたらしい。
「……今のは、聞かなかったことにして」
先生は真顔で袖を振りながら、そう言った。環先輩が「わはは、無理です」と即答した。
月は、そのあいだもずっと、同じ顔でこちらを見下ろしていた。
◇ ◇ ◇
九時前に、観測はお開きになった。
望遠鏡を分解して、準備室まで運ぶ。鏡筒は環先輩が抱えて、三脚は俺と小森で一本ずつ持った。暗い階段を、スマホのライトで足元を照らしながら降りていく。
「ねえ」
踊り場で、小森が言った。
「クレーターって、名前ついてるの知ってる?」
「……知らない」
「ついてるの。昔の学者とか、有名な人の名前。コペルニクスとか、ティコとか」
小森は、三脚を持ち直した。
「わたし、自分のクレーター欲しいんだよね」
「どうやったら、もらえるの」
「すっごい発見するか、死んだあと偉い人に選ばれるか」
「どっちも遠いな」
「遠いね」
小森は笑った。
「だから、勝手につけることにしてる。さっき見えた、境目のとこの、影がいちばん長かったやつ。あれ、今日から小森クレーター」
「勝手すぎるだろ」
「いいの。誰にも迷惑かけてないし」
小森は、少し考えるように首を傾げた。
「遠野のも、つけてあげよっか」
「いらない」
「遠野クレーター。のっぺりしてるやつ。満月のときみたいに、なに考えてるか分かんないから」
「……いや、それは」
「ほら、出た」
小森が吹き出して、三脚の脚が壁にごつんと当たった。下の踊り場から、環先輩の「備品は丁寧になー」という声が上がってくる。
準備室に三脚を立てかけて、廊下に出た。昇降口の前で、小森は一度だけスマホを見た。画面の光が、顔の半分だけを青く照らした。
「じゃあね、遠野」
「うん」
「進捗、あったら連絡して」
また、取引の言葉に戻っていた。でも、さっき踊り場で笑った声は、取引の外にあった気がした。
その夜、ベッドの上でスマホを開くと、小森から一言だけ届いていた。
『小森クレーター、ちゃんと覚えといてね』
『覚えてない』と打って、消した。
『覚えとく』と送った。
三秒で、既読がついた。
