その夜は、なかなか寝つけなかった。
画面の中の柔らかい笑顔と、「おかえり」という挨拶と、小森の「えへへ」。目を閉じるたびに、交互に浮かんでは消えていく。
夕飯のときの母の話も、頭から離れなかった。契約の更新を決められないまま期限を迎えた人のデータが、今日の午前中で消えたという話。声も、話し方の癖も、全部。
小森は、たぶん、そういうことが起きるのを知らない。
天井を睨んで、何度も寝返りを打った。それでも、答えは最初から一つしかなかった。
明日、話す。それだけ決めて、ようやく眠りに落ちた。
◇ ◇ ◇
翌日の放課後。部室に入ると、小森はいつものようにノートを広げて、今夜の観測計画を書き込んでいた。
「あ、遠野、おはよ……って、もう夕方か」
「……うん」
そこへ環先輩が、鍵の束をがちゃつかせながら顔を出した。
「わはは、今日も曇りらしいぞ。晴れ間狙えるかもって話だけどな。わたし職員室に呼ばれてるから、先行くわ」
環先輩が行ってしまうと、部室には小森と二人だけが残った。急に静かになった空気の中で、心臓の音がやけに大きく聞こえる。
深呼吸を一つ挟んで、口を開いた。
「この前、小森がスマホで話してるところ、見た」
「……うん」
「悠真さんって人、もう亡くなってるんだよね」
小森の目が、大きく見開かれた。ペンが乾いた音を立てて、ノートの上に転がる。
「……なんで、そこまで」
「母さんが、あのアプリを運営してる会社に勤めてる。悠真さんのことは、環先輩から少しだけ聞いた」
小森はしばらく、何も言えないまま俺を見ていた。それから、無理やりいつもの調子を取り戻そうとするのが分かった。
「あー、そこまでバレてた? えへへ。まあ、いつかはって思ってたけど」
軽い声だった。ノートに視線を戻して、何事もなかったようにペン先を動かす。
「別に、隠すようなことじゃないし。ちょっとしたお守りみたいなものだから」
「お守り、なんだ」
「そうだよ。だから、気にしなくていい」
ペンを持つ指先に、少しだけ力が入っていた。笑っているのに、目だけが笑っていない。
「本当に、それだけなのかな」
「……何が言いたいの」
声のトーンが、わずかに落ちた。それでも俺は続けた。
「毎晩、話してるんだよね。お守りって呼ぶには、ちょっと重すぎない、かなって」
「重いとか軽いとか、遠野に決められることじゃないと思うけど」
「決めようとしてるわけじゃない。ただ——」
「ただ、何」
小森の声から、明るさが少しずつ剥がれていく。ノートを持つ手が、白くなるくらい握られていた。
「いつまでも同じ形で続けられるとは、限らないんじゃないかって」
言った瞬間、しまったと思った。案の定、小森の顔から表情が消えた。
「……なんで、そんなこと言うの」
「そういう意味じゃなくて」
「じゃあ、どういう意味。今のままじゃダメだって言いたいわけ?」
「違う。ただ、心配で——」
「心配とか、いらない」
小森の声が、初めてはっきりと震えた。怒っているというより、何かに追い詰められているような震え方だった。
「遠野に、何が分かるの。ちょっと画面見ただけで。わたしが、どれだけ——」
言葉が途切れた。小森は唇を強く結んで、それ以上は続けなかった。目の縁に、涙の膜が張っている。
「小森——」
「ごめん。今日、無理」
ノートも筆箱も鞄に詰めきれないまま、抱えるようにして、小森は部室を出ていった。振り返らなかった。ドアの閉まる音が、思ったより大きく響いた。
◇ ◇ ◇
一人になった部室で、しばらく動けなかった。
さっきの自分の台詞を、頭の中で巻き戻す。聞き返すほど、彼女のしていることを否定しているようにしか聞こえなかった。
窓の外の空が、いつの間にか灰色の雲に覆われている。
気づいたら、鞄を掴んで部室を飛び出していた。
自転車置き場には、小森の自転車がまだあった。遠くへは行っていないはずだ。
購買の前。自販機コーナー。渡り廊下。図書室。思いつく場所を片っ端から回った。どこにもいない。
校門を出て、通学路を当てもなく走った。小森の家の方向すら、正確には知らない。それでも走った。信号が赤に変わりかけているのを駆け抜けて、後ろでクラクションが鳴った。
遠くで、雷が低く唸った。
土手沿いの道に出たところで、最初の一粒が頬に当たった。二粒、三粒と続く。
視界の隅に、小さな人影が見えた。川原に座り込んで、膝を抱えている。長い髪が、風に煽られて頬に張りついていた。
「小森!」
土手を駆け下りた。息が切れて、うまく声が出ない。雨脚が、はっきりと強まり始めていた。
小森が、驚いたように顔を上げた。
「……なんで」
「探した。ずっと」
それだけ言うのが精一杯だった。膝に手をついて、荒い息を整える。心臓がうるさいのは、走ったせいなのか、別の理由なのか、自分でも分からなかった。
「……そんなに必死になって、探すことないのに」
声が、また震えていた。さっきとは違う震え方だった。
「探すよ。心配だったから」
「……なんで、そこまで」
「分からない。でも、放っておけなかった」
断りもなく、隣に腰を下ろした。雨音だけが、しばらく二人のあいだを埋めていた。
「さっきは、ごめん」
俺のほうから口を開いた。
「言い方、間違えた。心配してるつもりで、小森を追い詰めただけだった」
「……わたしも」
小森は膝に顔を埋めたまま、小さく言った。
「ちゃんと聞く前に、感情的になった。ごめん」
「怖かった?」
小森の肩が、小さく跳ねた。
「……うん」
しばらくして、認めた。
「怖かった。誰かに本当のこと指摘されるのが。認めたら、終わっちゃう気がして」
「終わるって、何が」
「分かんない。この状態、かな。誰にも見つからずに、誰にも壊されずに、続けてられる状態」
「……それは、俺も同じかもしれない」
小森が、初めて顔を上げた。
「中学のとき、想い合ってた子がいた。由希奈っていう。おばあさんの介護で急に転校して、何も言えないまま、いなくなった」
自分でも驚くくらい、すらすらと言葉が出た。何年も、誰にも話せなかったことのはずなのに。
「手紙を、今も引き出しにしまってる。何度も読み返してるくせに、返事は書けない。連絡先も分からない。それでも、月に一度は取り出してしまう」
「……ずっと?」
「うん。ずっと」
雨の向こうの川面を見たまま、続けた。
「踏み込んで何かが壊れるのが、怖かった。だから何もしないまま、時間だけが過ぎた。気づいたら、由希奈がどこで何してるのかも分からなくなってた」
「今も、好きなの」
直球すぎる問いに、一瞬、詰まった。それでも今日は、ごまかす気になれなかった。
「……分からない。でも、もう一度ちゃんと話せたらって、ずっと思ってる。まだ間に合うなら」
「それで、さっき、あんなこと言ったの」
「たぶん。小森が同じことになるのが、嫌だった。何年も経ってから、あのとき言えばよかったって、一人で抱えることになるのが」
小森は黙っていた。膝を抱える腕に、少し力がこもった。
「悠真さんとの話が、いつまでも今のままではいられないかもしれない」
言葉を選びながら、続けた。
「昨日、はっきりそう思った。それがいつなのか、正確な日付までは、まだ分からない。分かっても、母さんの仕事の話だから、全部は言えないかもしれない。でも、その日が来たとき、小森が一人で受け止めることにだけは、なってほしくなかった」
「……その日、秋とか、そのくらい?」
「うん。そのくらい」
嘘はつきたくなかった。小森は小さく息を吐いた。
「変なの。ちゃんと教えてくれないくせに、心配だけしてくる」
「矛盾してるのは、自分でも分かってる」
「じゃあさ」
小森が顔を上げた。目の縁はまだ赤い。それでも、声にはいつもの芯が戻りかけていた。
「取引、しない?」
「……取引?」
「わたし、由希奈さん探すの手伝う。人探し、たぶん得意なほうだから。SNSとか、当時の同級生のツテとか。遠野一人でやるより、たぶん早い」
思いがけない申し出だった。
「その代わり、遠野も力貸して。お母さんが運営会社にいるなら、契約とか期限とか、普通の人より分かるでしょ」
「個人情報とかは、さすがに分からない。母さん、家で仕事の話あんまりしないし。でも、仕組みとか、期限の感じくらいなら」
「十分だよ」
小森は頷いた。
「全部知りたいわけじゃない。ただ、わたしの知らないうちに何かが終わっちゃうのだけは、嫌なの。分かったことは、なるべく早く教えて」
「分かった」
「よし、成立」
小森は、少しだけいつもの表情に戻った。
「なんか、悪だくみみたい」
「悪だくみって」
「だって、そうでしょ。遠野は由希奈さんのため。わたしは悠真のため。おあいこ」
「……おあいこ、か」
繰り返した自分の声が、思ったより低く出た。
「約束、破らないでよ」
「破らない」
言い切った自分の声に、一拍遅れて驚いた。
小森はしばらく、こちらを見つめていた。それから、ようやく「えへへ」と笑った。今度のそれは照れ隠しではなく、ただのまっすぐな笑い方だった。
◇ ◇ ◇
雨が、少しずつ弱まっていく。
「戻ろっか」
「うん」
立ち上がると、小森のスカートの裾から水が滴った。俺のシャツも、背中までぐっしょりだ。二人で顔を見合わせて、思わず吹き出した。
「これで帰ったら、絶対なんか聞かれる」
「川に落ちたって言えば?」
「どっちが」
「遠野が。わたしを助けようとして」
「話、盛るな」
笑っている小森の顔を、少しだけ長く見てしまっていたことに、遅れて気づいた。雨上がりの薄明かりのせいだと思うことにした。
土手を並んで歩く。濡れたスニーカーが、一歩ごとにぐしゅっと鳴った。隣で、小森の靴も同じ音を立てている。
「……変な音」
「お互いさま」
小森が、まだ少し掠れた声で笑った。
画面の中の柔らかい笑顔と、「おかえり」という挨拶と、小森の「えへへ」。目を閉じるたびに、交互に浮かんでは消えていく。
夕飯のときの母の話も、頭から離れなかった。契約の更新を決められないまま期限を迎えた人のデータが、今日の午前中で消えたという話。声も、話し方の癖も、全部。
小森は、たぶん、そういうことが起きるのを知らない。
天井を睨んで、何度も寝返りを打った。それでも、答えは最初から一つしかなかった。
明日、話す。それだけ決めて、ようやく眠りに落ちた。
◇ ◇ ◇
翌日の放課後。部室に入ると、小森はいつものようにノートを広げて、今夜の観測計画を書き込んでいた。
「あ、遠野、おはよ……って、もう夕方か」
「……うん」
そこへ環先輩が、鍵の束をがちゃつかせながら顔を出した。
「わはは、今日も曇りらしいぞ。晴れ間狙えるかもって話だけどな。わたし職員室に呼ばれてるから、先行くわ」
環先輩が行ってしまうと、部室には小森と二人だけが残った。急に静かになった空気の中で、心臓の音がやけに大きく聞こえる。
深呼吸を一つ挟んで、口を開いた。
「この前、小森がスマホで話してるところ、見た」
「……うん」
「悠真さんって人、もう亡くなってるんだよね」
小森の目が、大きく見開かれた。ペンが乾いた音を立てて、ノートの上に転がる。
「……なんで、そこまで」
「母さんが、あのアプリを運営してる会社に勤めてる。悠真さんのことは、環先輩から少しだけ聞いた」
小森はしばらく、何も言えないまま俺を見ていた。それから、無理やりいつもの調子を取り戻そうとするのが分かった。
「あー、そこまでバレてた? えへへ。まあ、いつかはって思ってたけど」
軽い声だった。ノートに視線を戻して、何事もなかったようにペン先を動かす。
「別に、隠すようなことじゃないし。ちょっとしたお守りみたいなものだから」
「お守り、なんだ」
「そうだよ。だから、気にしなくていい」
ペンを持つ指先に、少しだけ力が入っていた。笑っているのに、目だけが笑っていない。
「本当に、それだけなのかな」
「……何が言いたいの」
声のトーンが、わずかに落ちた。それでも俺は続けた。
「毎晩、話してるんだよね。お守りって呼ぶには、ちょっと重すぎない、かなって」
「重いとか軽いとか、遠野に決められることじゃないと思うけど」
「決めようとしてるわけじゃない。ただ——」
「ただ、何」
小森の声から、明るさが少しずつ剥がれていく。ノートを持つ手が、白くなるくらい握られていた。
「いつまでも同じ形で続けられるとは、限らないんじゃないかって」
言った瞬間、しまったと思った。案の定、小森の顔から表情が消えた。
「……なんで、そんなこと言うの」
「そういう意味じゃなくて」
「じゃあ、どういう意味。今のままじゃダメだって言いたいわけ?」
「違う。ただ、心配で——」
「心配とか、いらない」
小森の声が、初めてはっきりと震えた。怒っているというより、何かに追い詰められているような震え方だった。
「遠野に、何が分かるの。ちょっと画面見ただけで。わたしが、どれだけ——」
言葉が途切れた。小森は唇を強く結んで、それ以上は続けなかった。目の縁に、涙の膜が張っている。
「小森——」
「ごめん。今日、無理」
ノートも筆箱も鞄に詰めきれないまま、抱えるようにして、小森は部室を出ていった。振り返らなかった。ドアの閉まる音が、思ったより大きく響いた。
◇ ◇ ◇
一人になった部室で、しばらく動けなかった。
さっきの自分の台詞を、頭の中で巻き戻す。聞き返すほど、彼女のしていることを否定しているようにしか聞こえなかった。
窓の外の空が、いつの間にか灰色の雲に覆われている。
気づいたら、鞄を掴んで部室を飛び出していた。
自転車置き場には、小森の自転車がまだあった。遠くへは行っていないはずだ。
購買の前。自販機コーナー。渡り廊下。図書室。思いつく場所を片っ端から回った。どこにもいない。
校門を出て、通学路を当てもなく走った。小森の家の方向すら、正確には知らない。それでも走った。信号が赤に変わりかけているのを駆け抜けて、後ろでクラクションが鳴った。
遠くで、雷が低く唸った。
土手沿いの道に出たところで、最初の一粒が頬に当たった。二粒、三粒と続く。
視界の隅に、小さな人影が見えた。川原に座り込んで、膝を抱えている。長い髪が、風に煽られて頬に張りついていた。
「小森!」
土手を駆け下りた。息が切れて、うまく声が出ない。雨脚が、はっきりと強まり始めていた。
小森が、驚いたように顔を上げた。
「……なんで」
「探した。ずっと」
それだけ言うのが精一杯だった。膝に手をついて、荒い息を整える。心臓がうるさいのは、走ったせいなのか、別の理由なのか、自分でも分からなかった。
「……そんなに必死になって、探すことないのに」
声が、また震えていた。さっきとは違う震え方だった。
「探すよ。心配だったから」
「……なんで、そこまで」
「分からない。でも、放っておけなかった」
断りもなく、隣に腰を下ろした。雨音だけが、しばらく二人のあいだを埋めていた。
「さっきは、ごめん」
俺のほうから口を開いた。
「言い方、間違えた。心配してるつもりで、小森を追い詰めただけだった」
「……わたしも」
小森は膝に顔を埋めたまま、小さく言った。
「ちゃんと聞く前に、感情的になった。ごめん」
「怖かった?」
小森の肩が、小さく跳ねた。
「……うん」
しばらくして、認めた。
「怖かった。誰かに本当のこと指摘されるのが。認めたら、終わっちゃう気がして」
「終わるって、何が」
「分かんない。この状態、かな。誰にも見つからずに、誰にも壊されずに、続けてられる状態」
「……それは、俺も同じかもしれない」
小森が、初めて顔を上げた。
「中学のとき、想い合ってた子がいた。由希奈っていう。おばあさんの介護で急に転校して、何も言えないまま、いなくなった」
自分でも驚くくらい、すらすらと言葉が出た。何年も、誰にも話せなかったことのはずなのに。
「手紙を、今も引き出しにしまってる。何度も読み返してるくせに、返事は書けない。連絡先も分からない。それでも、月に一度は取り出してしまう」
「……ずっと?」
「うん。ずっと」
雨の向こうの川面を見たまま、続けた。
「踏み込んで何かが壊れるのが、怖かった。だから何もしないまま、時間だけが過ぎた。気づいたら、由希奈がどこで何してるのかも分からなくなってた」
「今も、好きなの」
直球すぎる問いに、一瞬、詰まった。それでも今日は、ごまかす気になれなかった。
「……分からない。でも、もう一度ちゃんと話せたらって、ずっと思ってる。まだ間に合うなら」
「それで、さっき、あんなこと言ったの」
「たぶん。小森が同じことになるのが、嫌だった。何年も経ってから、あのとき言えばよかったって、一人で抱えることになるのが」
小森は黙っていた。膝を抱える腕に、少し力がこもった。
「悠真さんとの話が、いつまでも今のままではいられないかもしれない」
言葉を選びながら、続けた。
「昨日、はっきりそう思った。それがいつなのか、正確な日付までは、まだ分からない。分かっても、母さんの仕事の話だから、全部は言えないかもしれない。でも、その日が来たとき、小森が一人で受け止めることにだけは、なってほしくなかった」
「……その日、秋とか、そのくらい?」
「うん。そのくらい」
嘘はつきたくなかった。小森は小さく息を吐いた。
「変なの。ちゃんと教えてくれないくせに、心配だけしてくる」
「矛盾してるのは、自分でも分かってる」
「じゃあさ」
小森が顔を上げた。目の縁はまだ赤い。それでも、声にはいつもの芯が戻りかけていた。
「取引、しない?」
「……取引?」
「わたし、由希奈さん探すの手伝う。人探し、たぶん得意なほうだから。SNSとか、当時の同級生のツテとか。遠野一人でやるより、たぶん早い」
思いがけない申し出だった。
「その代わり、遠野も力貸して。お母さんが運営会社にいるなら、契約とか期限とか、普通の人より分かるでしょ」
「個人情報とかは、さすがに分からない。母さん、家で仕事の話あんまりしないし。でも、仕組みとか、期限の感じくらいなら」
「十分だよ」
小森は頷いた。
「全部知りたいわけじゃない。ただ、わたしの知らないうちに何かが終わっちゃうのだけは、嫌なの。分かったことは、なるべく早く教えて」
「分かった」
「よし、成立」
小森は、少しだけいつもの表情に戻った。
「なんか、悪だくみみたい」
「悪だくみって」
「だって、そうでしょ。遠野は由希奈さんのため。わたしは悠真のため。おあいこ」
「……おあいこ、か」
繰り返した自分の声が、思ったより低く出た。
「約束、破らないでよ」
「破らない」
言い切った自分の声に、一拍遅れて驚いた。
小森はしばらく、こちらを見つめていた。それから、ようやく「えへへ」と笑った。今度のそれは照れ隠しではなく、ただのまっすぐな笑い方だった。
◇ ◇ ◇
雨が、少しずつ弱まっていく。
「戻ろっか」
「うん」
立ち上がると、小森のスカートの裾から水が滴った。俺のシャツも、背中までぐっしょりだ。二人で顔を見合わせて、思わず吹き出した。
「これで帰ったら、絶対なんか聞かれる」
「川に落ちたって言えば?」
「どっちが」
「遠野が。わたしを助けようとして」
「話、盛るな」
笑っている小森の顔を、少しだけ長く見てしまっていたことに、遅れて気づいた。雨上がりの薄明かりのせいだと思うことにした。
土手を並んで歩く。濡れたスニーカーが、一歩ごとにぐしゅっと鳴った。隣で、小森の靴も同じ音を立てている。
「……変な音」
「お互いさま」
小森が、まだ少し掠れた声で笑った。
