君の好きが、計算だとしても

 家に帰ってから風呂に入るまでのあいだに、必ず一度だけ立ち寄る場所がある。
 自分の部屋の、勉強机の一番下の引き出しだ。
「ただいま」も言わずに二階へ上がる俺を、階下から母の声が追いかけてきた。
「お風呂沸いてるよー。上がったらご飯ね。今日、唐揚げとアジの南蛮漬け」
「うん」
 何の変哲もないやり取りをして、部屋のドアを閉める。昨夜みたいに、母がノートパソコンを持ち帰っている気配はない。今日はただの、いつもの夕方だ。
 汗ばんだシャツの袖をまくるより先に、引き出しを開けた。中には、授業には使わない古いノートと、口の開いたグミの小袋。それから、一通の封筒。
 もう何度も読み返して、角が丸くなり、折り目がやわらかくなっている。宛名は俺。差出人は、及川(おいかわ)由希奈(ゆきな)。
 
 ◇ ◇ ◇

 中学二年の秋、由希奈は突然いなくなった。
 学級会で担任が「及川さんは来週、転校します」と言った。それが、俺の知ったことの全部だった。本人からは、何も。
 あとから噂で聞いた。おばあさんの認知症が急に進んで、専門のケアができる施設が隣県にしかなかったらしい。母親が頻繁に付き添う必要があって、結局、家族ごと施設の近くへ引っ越すことになったのだという。準備する時間なんて、彼女にもなかったのだと思う。
 お互いに、たぶん、好きだった。それを言葉にする前に、彼女はいなくなった。最後の登校日、俺は「元気で」すら言えなかった。言おうとして、「——いや」で引っ込めたのを、今でも覚えている。
 クラスのグループチャットはあった。スマホも二人とも持っていた。それでも、個人の連絡先を交換するという発想が、当時の俺たちにはなかった。毎日同じ教室で会える相手に、わざわざ連絡先を聞く。それは、実際の気持ち以上に踏み込んだことに思えた。由希奈がグループを抜けたとき、俺の手元には、彼女に直接届く手段が何も残っていなかった。
 手紙は、そのあとで届いた。少し癖のあるシャープペンの字だった。線の細いところと太いところの差が大きい。急いで書いたのか、何度も書き直したのか、今となっては分からない。
 ベッドに腰を下ろし、グミを一粒、口に放り込む。コーラ味。安売りのときにまとめ買いしたやつで、今週でようやく最後の一袋になった。酸っぱいコーティングが舌の上で溶けていくのを感じながら、便箋を開く。
 読まなくても、中身はほとんど覚えている。それでも文字を目で追うたび、喉の奥が少し締めつけられた。何度読んでも、慣れない締めつけ方だった。
 隣のノートには、書いては送らなかった言葉が、日付ごとに並んでいる。返事を書こうとして、便箋の途中で止まってしまった夜の跡だ。スマホの下書きフォルダにも、同じものが何通か眠っている。
 『元気にして』
 『あのさ、この前の話なんだけど』
 『——いや、なんでもない』
 どれも途中で指が止まって、送信しなかったものだ。送っていないのだから、既読も未読もつくはずがない。それでも俺の中では、ずっと「未読フォルダ」に入ったままだった。
 三秒で既読がつく相手もいれば、何年経っても、送るかどうかすら決められない相手もいる。
 由希奈は、どこかで生きている。それなのに俺は、彼女をまるで死んだ人みたいに、引き出しにしまっている。選ばずに持ち続けていれば、傷つかずに済む。そうやって、自分を守ってきたつもりだった。
 グミをもう一粒。今度は少し萎びていて、思ったより硬かった。奥歯で噛みながら、ノートの表紙を指でなぞる。制服のサイズも、声も、もうあの頃とは違うはずだ。それなのに、この引き出しの中だけ、中学二年の秋で時間が止まっている。
 俺は、こういう人間だ。踏み込まない。確かめない。ただ、持ち続ける。
 だから、小森のことも、たぶん同じになる。
 その考えが浮かんだ瞬間、手が止まった。
 小森は、死んだ人と毎晩話している。母の会社が作った、優しい声の誰かと。俺はそれを、確かに見てしまった。見てしまった以上、由希奈のときと同じように黙って、見なかったことにして、月日が過ぎるのを待つこともできる。今までの俺なら、間違いなくそうしていた。
 ——小森に、話してみようか。
 そう思った瞬間、もう一人の自分が水を差した。
 ——いや。急に踏み込んで、何になる。困らせるだけだ。それに、見ただけで、確かめたわけじゃない。もう少し様子を見てからでも——
 結局、封筒を引き出しの奥にしまい直した。グミの空袋を、ゴミ箱に投げる。今日も、いつも通りの結末だった。何かを見なかったことにするのは、体が覚えているくらい簡単なことだった。
 
 ◇ ◇ ◇

 風呂から上がると、夕飯の支度はほとんどできていた。唐揚げと、アジの南蛮漬けと、味噌汁と白飯。母は珍しく食卓についたまま、スマホの画面を見つめて動かずにいた。
「お、南蛮漬け、二日連続か」
 父が嬉しそうに席に着く。
「これ、俺のリクエストが通ったってことでいいのか」
「たまたまです」
「たまたまで二日連続は出ないだろ、普通」
 母がようやく顔を上げて、小さく笑った。それだけで、少し空気がやわらいだ。
「……母さん?」
「あ、ごめん。ちょっと、仕事の連絡」
 母はスマホを伏せて、箸を取った。それでも、いつもより表情が硬い。
「なんかあったの」
「うん……まあ、いいか。もう終わった話だし」
 母は味噌汁を一口すすった。
「秋の移行とは別の話なんだけどね。"おかえり"の契約者さんの一人が、契約の更新をずっと決められなくて。返事がないまま期限が来て、データ、今日の午前中で自動的に消えちゃったの」
 箸が、止まった。
「消えたって、その人の——」
「声も、話し方の癖も、全部。もう復元できない。作り直すには、写真とか音声とか、一から集め直さないといけないけど……そんなに簡単に集まるものでもないし」
 母は、それ以上は話さなかった。それで十分だった。
 決められないまま先延ばしにしていたら、ある日、選択肢そのものがなくなる。悩んでいるあいだにも、期限は律儀に近づいてきて、待ってはくれない。
 
 ◇ ◇ ◇

 食後、部屋に戻ってからも、しばらく机の前から動けなかった。
 もう少し様子を見てからでも。何年もそう思ってきた。由希奈に対しても、ずっと。それで、何も失っていないつもりだった。
 でも、本当にそうだろうか。
 小森が何気なく続けている毎晩の対話にも、いつか必ず期限が来る。今日、母の会社の誰かが、それを身をもって示した。悩んでいるうちに、選択肢はなくなる。小森はまだ、そのことを知らない。知っているのは、たぶん、俺だけだ。
 由希奈のときは、何も知らないまま、時間が過ぎるのを待った。今度は違う。今度は、俺が先に知ってしまっている。
「様子を見てから」に、もう根拠はなかった。
 スマホを手に取る。小森とのトーク画面を開いて、また閉じた。ここで打つ言葉じゃない。