君の好きが、計算だとしても

「おばあちゃんの声、聞いてみる?」
 母がそう言ったのは、夕飯の最中だった。
 豚の生姜焼きに、アジの南蛮漬け、具だくさんの味噌汁と白飯。特別なことは何もない、いつもの夕食だった。テレビは天気予報から情報番組に変わっていて、誰もろくに見ていないのに、誰も消そうとしない。
 その食卓の端に、母はノートパソコンを置いた。うちでは滅多にないことだった。母は仕事の話を家に持ち帰らない人だ。それだけに、湯気の向こうの画面が妙に重く見えた。
 画面には、屋根の形をした小さなアイコンと、「おかえり」という柔らかい字体のロゴ。その下に案件番号と、細かく波打つグラフ、それから「復元精度:98%」という数字が並んでいる。役所の申請書みたいに、そっけない体裁だった。中央には、まだ何も映っていない黒い四角の枠がある。
 見覚えのある形に、一瞬、箸が止まった。屋根のアイコン。どこかで、これと同じものを——記憶の輪郭が、まだうまく像を結ばない。
「98%って、何の数字」
「AIが、どれだけ自信を持って本人らしく返事できてるかの点数、かな。声とか、表情の動かし方とか」
「誰が採点してるの」
「AI自身」
 母は少し苦笑いした。
「自分で自分を採点してるの。だから、本当に似てるかどうかとは、ずれることもある。家族の方から『98%も似てるなんて思えない』って言われることも、正直ある」
「ずっと98のまま?」
「ううん、毎日ちょっとずつ動く。それに、これ、話し相手の返し方も込みで採点してるのね。いつもの相手と、いつもの調子で話してると上がる。相手が変わったり、話しかけられなくなったりすると、下がっていく」
「話しかけないと、下がるんだ」
「使われなくなった言葉から、忘れられていくみたいなものかな」
 母は箸を置き、トラックパッドに指を滑らせた。迷いのない手つきだった。何度もこの画面を開いてきたのだろう。
「——ちょっとだけ、繋いでみる?」
 答える前に、母がボタンを押していた。
 
 ◇ ◇ ◇

 黒い枠に、灯りがともるように映像が浮かんだ。台所らしき背景。粒子の粗い、それでいて妙に生々しい映像の中に、懐かしい顔があった。
 すごい、と素直に思った。写真でしか見なくなった人が、動いて、こちらを見ている。魔法みたいだ、という子どもじみた感想が、頭の隅をよぎる。
 一拍おいて、スピーカーの向こうで、誰かが小さく息を吸う気配がした。息なんて吸うはずがないのに、たしかにそう聞こえた。
「蒼太、ちゃんと食べとるか」
 八年ぶりの声だった。
 語尾を少し伸ばす「食べとる」の言い方。言葉の切り方。何年も思い出さずにいたものが、耳の奥で、ふいにはっきりと像を結んだ。画面の中の顔が、言葉に合わせて、ほんの少し眉を寄せる。その動き方まで、記憶と重なっていた。
 祖母が死んだのは、俺が九歳のときだった。
 母方の祖母だ。母が仕事で遅くなる日、俺は学校帰りに祖母の家に寄っていた。玄関を開けると、いつも味噌汁の匂いがした。煮干しと鰹節で、面倒がらずに出汁を取る人だった。目の前の味噌汁とは、正直、少し違う。もっと塩気が強くて、もっと不器用な味だった。
 祖母は、いつもこのセリフから話しかけてきた。一言一句、同じだった。
 ただ、そのあとに続くはずの一言が、なかった。
 ——父さんも、ちゃんと食べさせてもらっとるか。
 娘婿のことまで、いつも気にかける人だった。データの中に、それは残っていなかったらしい。98%の残りの2%は、案外こういう場所に隠れているのかもしれない。
 その欠けた一言に気づいた瞬間、目の奥が、つんと熱くなった。悲しいのとは少し違う。覚えていたはずのものが、少しだけ欠けている。その事実に、鼻の奥が痛くなった。
「……うん。食べとる」
 気づいたら、返事をしていた。
 画面の中の祖母が、嬉しそうに目を細める。その下で、数字が小さく動いた。98から、97.4へ。
「ほらね」
 母が言った。
「蒼太とは、久しぶりだから」
 味噌汁の椀を持ったまま、俺はしばらく動けなかった。指先が、テーブルの上で意味もなく動いている。シャーペンの芯を鳴らす、考えごとをするときの癖の名残だ。手には何も持っていないのに、指だけが勝手にそれを探していた。
 
 ◇ ◇ ◇

「……これ、仕事の?」
「うん。私が作ってるサービス。"おかえり"っていうの」
 母が株式会社カケハシで、AIの開発をしていることは知っていた。「話すAIを作ってる」と、ざっくり聞いたことがあるくらいだ。それが誰と話すためのAIなのかを、実物として目の前に出されたのは、この夜が初めてだった。
「亡くなった人が遺した声とか、動画とか、写真とか、書いた文章とか。そういうのを全部AIに覚えさせて、その人らしい表情で、その人らしい返事をするようにするの。残された家族が、もう一度、顔を見ながら話せるように」
 母は味噌汁をひと口すすった。
「本当は、契約者さんのデータは持ち帰れない。これは、おばあちゃんの古いテープと手紙から、私が自分で作ったデモ」
「なんで、作ったの」
「さあ」
 母は少し考えた。
「自分の作ってるものが本当は何なのか、一度ちゃんと分かっておきたかったのかもね」
 隣でアジをつまんでいた父が、口を挟んだ。
「お義母さん、生きてたら絶対『そんなもん作るな』って言うぞ」
「分かってる。だから私も、これでいいのか分かってない」
 母は、笑っていなかった。
「救われる人もいる。もう一回声を聞けて、やっと泣けたって人。でも、そこから出られなくなる人もいる。毎晩話して、亡くなったことを認められなくなる人。どっちが正解なのかは、計算しても出ないの」
 湯気の向こうで、母は再生ボタンをもう一度押そうとして、やめた。
「それに、秋には大きな仕事がある。システムが全部新しくなるの。作った側の責任ってことで、移行の確認はうちのチームの担当。今の人格データを新しい仕組みに移すか、契約と一緒に消すか、全部のご家族に選んでもらわないといけない。移しても、癖とか話し方は完全には残らない」
「決められない人も、いるんじゃないの」
「一番多いのが、それ」
 母はノートパソコンを閉じた。屋根のアイコンが、画面の暗転と一緒に消える。
 その瞬間、頭の中で、何かが音を立てて繋がった。
 屋根の形のアイコン。部室で見た、動いて喋る顔。「おかえり」という挨拶。一定すぎる相槌。
 ——まさか。
「今の、聞かなかったことにしてね」
 冗談めかした母の声が、遠くに聞こえた。夕飯はいつも通りに戻っていった。それでも味噌汁を一口飲むたび、頭の中では、別のことばかり考えていた。
 
 ◇ ◇ ◇

 その夜、布団に入ってから、祖母の家の台所を思い出した。
 小学校から歩いて十分の、古い平屋だった。鍵はいつも開いていて、玄関を開けると、煮干しの匂いがした。祖母がいない日は、食卓の上に、決まってメモが置いてあった。
 『蒼太へ おやつは戸棚の上から二段目』
 チラシの裏に、鉛筆で書いた字だった。大きくて、少し右に傾いている。「蒼」の字だけ、いつも画数が一本多かった。
 『宿題してから遊ぶこと』
 『雨が降ったら、傘は玄関の青いの』
 たまに、メモの横に、ラップをかけたタッパーが置いてあった。中身は、たいていアジの南蛮漬けだった。
 『父さんにも持っていき』
 それを両手で抱えて、家まで歩いて帰る。酢の匂いが、ランドセルの中まで染みた。父は、そのタッパーを開けるたびに「お義母さんの南蛮漬けは、日本一だな」と言った。母は「私のは?」と聞いて、父は毎回、少しだけ返事に詰まっていた。
 うちの南蛮漬けは、祖母の味を、母が真似したものだ。今夜の食卓にも、並んでいた。父が、いつものように、真っ先に箸を伸ばしていた。
 ——父さんも、ちゃんと食べさせてもらっとるか。
 画面の中の祖母は、その一言を言わなかった。
 でも、たぶん、祖母はずっと言っていたのだ。声じゃなくて、タッパーで。メモの端っこで。母が真似した酢の匂いの中で。八年経っても、うちの食卓には、まだ祖母の南蛮漬けが並んでいる。
 データの中に残らなかった2%は、案外、こういう場所に残っているのかもしれない。
 そう思ったら、少しだけ眠れそうな気がした。
 目を閉じる直前、部室で見た、あの柔らかい笑顔が浮かんだ。小森の毎晩には、その2%が残る場所が、ちゃんとあるんだろうか。
 
 ◇ ◇ ◇

 翌日の部活。望遠鏡の片付けが終わったところで、俺は環先輩の隣に並んだ。小森は少し離れた場所で、顧問の皆瀬先生と何か話し込んでいる。
「環先輩」
「ん?」
「悠真って、誰なんですか」
 それだけ聞いた。ケースを閉じかけていた環先輩の手が、止まった。
「……どこで、その名前」
「小森の、スマホ」
 環先輩は、しばらく何も言わなかった。ケースの留め金を、意味もなく指でなぞっている。
「あいつから、聞いたんじゃないんだな」
「はい」
「……そうか」
 いつもの緩さが、すっと消えていた。
「深澤(ふかざわ)悠真は、もういない人だ。それだけ覚えとけ」
「もういない、って」
「それ以上は、わたしの口からは言わない」
 いつもより低い声だった。
「陽菜のことは、放っといてやれ。あいつなりに、大事にしてるものだから」
 それだけ言うと、環先輩は望遠鏡を担いで準備室へ入っていった。
 しばらくして戻ってきたときには、もういつもの顔だった。
「陽菜ー、先生の話、終わったかー。わはは、長かったな」
 わざと大きな声で手を振る。小森は「終わりました」と笑って、こちらへ歩いてきた。いつもと何も変わらない声だった。
 本人の知らないところで、事情に触れてしまった。その重さが、胸の底に静かに沈んでいった。
 祖母の声は、優しかった。
 それだけで、俺は少し怖くなった。こんなに優しい声を、人は手放せるのだろうか。
 小森は毎晩、その優しい声と話している。そしてそれは、秋になれば、消えてしまうかもしれないのだ。