君の好きが、計算だとしても

 一年後の十一月。三年になった俺たちの、引退前、最後の観測会の日だった。
 朝、スマホに環先輩からメッセージが届いていた。大学の天文サークルに入ったらしい。
 『最後の観測会、晴れるといいな。わはは』
 文字でまで律儀に「わはは」を送ってくるところは、一年経っても変わらなかった。

 ◇ ◇ ◇

 陽菜が決めたのは、その少し前。十月の、最後の週の夜だった。
 七時の少し前、陽菜はドームの鍵を開けた。部長になってから、陽菜のポケットで毎日がちゃついている、あの鍵の束だ。
「ちょっとだけ、一人にして」
「うん」
「すぐ終わるから。……たぶん」
 陽菜は、ドームの中に入っていった。扉が、静かに閉まる。
 俺は、フェンスの前で待った。
 去年の今頃は、部室の後ろの席で、机三つ分離れて座っていた。今年は、ドームの壁一枚ぶん。距離としては、そんなに変わらない。変わったのは、そこに座っていてほしいと言われなくなったことだった。陽菜は、もう一人で行ける。
 ドームの隙間から、声はほとんど漏れてこなかった。
 一度だけ、笑い声が聞こえた。えへへ、ではなかった気がする。もっと短くて、もっと、誰かに向けた笑い方だった。
 それからしばらく、何も聞こえなかった。
 街の灯りの上に、星がひとつずつ増えていく。北の空に、カシオペヤのWが出ていた。Wの両端から線を伸ばして、五つ分。地味な星が、今夜も同じ場所にいた。
 二十分くらいして、扉が開いた。
 陽菜は、鍵の束を指に引っかけて出てきた。目の縁が、少しだけ赤い。それでも、口元はちゃんと笑っていた。
「お待たせ」
「うん」
「……聞かないの」
「聞かない」
「えへへ。そう言うと思った」
 陽菜は、俺の隣に来て、フェンスにもたれた。手の中のスマホは、画面を下に向けたままだった。見せてくれなかったし、見せてほしいとも思わなかった。
「決めたよ。ちゃんと、自分で」
 それだけ言って、陽菜は北の空を指さした。
「カシオペヤ。Wの両端から——」
「五つ分」
「正解」
 陽菜が、少しだけ得意げに笑った。
 それから陽菜は、西の空の高いところを、一度だけ見上げた。白く光る、織姫の星。去年の合宿の夜は、両方の星に同じくらいの時間をかけていた。今夜は、違った。
 唇が、小さく動いた。何と言ったのかは、聞こえなかった。
 陽菜は、北の空に目を戻した。それきり、西は見なかった。
 どちらを選んだのか、俺は今も、陽菜の口からは聞いていない。
 ただ、陽菜のスマホの中には、三年前の日付がついた最初の「おかえり」が、一つだけ残っている。それだけは知っている。
 由希奈とは、あれから一度だけ、駅の改札で会った。塾の帰りだと言っていた。「コスモス、今年も咲いた」とだけ言って、手を振って、反対側のホームへ歩いていった。それで十分だった。

 ◇ ◇ ◇

 放課後の屋上。
 ドームの反対側、フェンスの前で、見慣れない一年生が一人、ぼんやり空を見上げていた。いつかの俺と、同じ場所だった。
 少し迷ってから、声をかけた。
「星、好き?」
 振り返った一年生は、逆光の中で、目をぱちぱちさせた。
「……別に。なんとなく」
 思わず、笑ってしまった。
「天文部、来る? いま、部員足りなくてさ」
「は?」
 後ろから、階段を上がってくる足音がした。
「蒼太、勧誘、下手すぎ」
 陽菜が、上着のポケットから小さな袋を取り出す。個包装ののど飴が、何粒か入っていた。
「舐める? ミントと梅、両方あるよ」
 一年生は、袋と陽菜の顔を見比べてから、答えるより先に手を伸ばした。
「……梅で」
 陽菜と、顔を見合わせた。
 あの夜の俺と、同じ答えだった。予測変換で、先に打ち込まれていたみたいに。
 ドームの向こうで、星がひとつ、またひとつと、見え始めていた。