いつもなら、とっくに家に帰っている時間だった。
今日に限って、日直で居残りになった。日誌を書いて職員室に届けるだけの、簡単な仕事のはずだった。それなのに担当の先生がなかなかつかまらず、解放されたのは下校時刻をだいぶ過ぎてからだった。
昇降口へ向かう途中、鞄の底に沈んでいた薄い本を思い出した。前回の観測の日、環先輩に押しつけられた観測ガイドブックだ。
「悪いけど、地学講義室の本棚に返しといてくれるか。わたし、このあと用事あるから」
備品扱いらしく、表紙には返却期限のシールが貼られたままになっている。今日中に返さないと、借りっぱなしを注意されるのは俺のほうだ。
三階の廊下は、西日で橙色に染まっていた。話し声も足音も、いつもよりずっと少ない。
天文部には、専用の部室というものがない。部員が「部室」と呼んでいるのは、地学の授業で使う地学講義室を、活動日だけ間借りしている場所だ。望遠鏡や観測道具は隣の準備室にしまってあって、講義室のほうは、ほかの理科室と同じように冷房が効く。活動日は週三回。それ以外の日に、あの部屋に用のある人間はいない。
はずだった。地学講義室のドアが、少しだけ開いていた。
「あれ」
隙間から、冷えた空気が廊下の熱と入れ替わるように流れてくる。机に向かう小森の後ろ姿があった。長い髪を一つに束ねて、涼しい顔でノートに何か書き込んでいる。
夜のドームで見る横顔とは、まるで違った。夜は星に向いていた視線が、今は手元のノートに落ちている。同じ人のはずなのに、光の中にいるだけで、少し知らない人みたいに見えた。
「今日、部活ないよね」
声をかけると、小森はびくっと振り返った。
「あ、遠野。びっくりした」
「なんでいるの、こんな日に」
「涼みに来た。うち、まだクーラー壊れてて」
小森はノートを軽く閉じた。
「ここ、鍵さえ借りれば活動日じゃなくても入れるんだよ。遠野こそ、なんで?」
「環先輩に頼まれて、本、返しに」
鞄からガイドブックを出すと、小森は「ああ、それ」と笑った。
「先輩、いっつも人に押しつけるよね、そういうの」
「気づいたら、断れなくなってる」
本棚に戻すのに、一分もかからなかった。それでも、そのまま帰る流れにはならなかった。
「ついでだし、少し涼んでけば?」
断る理由が思いつかなかった。窓際の席に座ると、吹き出し口から乾いた風がまっすぐ当たる。廊下の暑さが嘘みたいだった。
「自販機、行ってくる」
小森が立ち上がる。
「奢ってあげる。何がいい?」
「——いや、悪いし」
「いいから。日直お疲れさま代」
そういえば、初めて話した夜も、この子は聞かれてもいないのに、のど飴を差し出してきた。人に何かをあげることに、迷いがないタイプなのかもしれない。
しばらくして、小森は缶を二本持って戻ってきた。
「ジンジャエールしかなかった。この時間、だいたい売り切れてるんだよね」
「贅沢は言えないか」
プルタブを開けると、しゅわっという音と一緒に、冷たい飛沫が指にかかった。
◇ ◇ ◇
たわいもない話を、しばらくした。
「夏休みって、部活どうなるの」
「合宿あるよ、九月に。去年は雨で何も見えなかったから、今年こそって環先輩が息巻いてる」
「先輩、いつもそんな感じなの」
「うん。空回りしてるとこも含めて、憎めない人だよね」
小森は笑いながら、ペンの尻でこめかみを軽く叩いた。その仕草が、ドームで見るときより近く感じられた。同じ学年なのに、こうして二人きりで話すのはほとんど初めてだと、途中で気づいた。クラスが違うというだけで、知らないことばかりだ。
用もないのに、誰かと喋り続けるのはいつぶりだろう。気づけば、缶の中身はもう半分もなかった。時間の減り方が、いつもより速い。
そのとき、机の上の小森のスマホが、短く鳴った。アラームの音だった。画面に、19:00の数字が浮かんでいる。
「あ、ごめん」
小森はアラームを止めると、ごく自然な仕草で、画面の隅のアイコンをタップした。屋根の形をした、小さなアイコンだった。小さな画面いっぱいに、映像が広がる。
覗くつもりはなかった。ただ、近すぎて目に入ってしまった。
画面の中に、男の子の顔があった。柔らかい笑顔で、こちらを——正確には、小森を——見ている。台所らしき背景。少し粒子の粗い映像だったけれど、間違いなく、動いて、喋っている顔だった。
「おかえり」
画面の中の彼が言った。
「ただいま」
小森は、当たり前のように返した。
「今日、暑かったよね」
「うん、こっちも」
恋人同士か、家族のような、ありふれたやり取りだった。ただ、その自然さのどこかに、小さく引っかかるものがあった。
相槌のタイミングが、妙に一定なのだ。間の取り方が、毎回同じリズムを刻んでいる。
「今日、なんかあった?」
「んー、特には」
画面の中の彼が、優しく目を細める。
「陽菜は? 今日、どうだった」
「部室で涼んでる」
小森は、こちらをちらりとも見ずに続けた。
「あ、そうだ。新しい部員が入ったんだよ」
心臓が、小さく跳ねた。それは、たしかに俺のことだった。それなのに小森は、その部員がすぐ隣に座っていることには、まるで触れなかった。
画面の中の彼は、何も知らないまま相槌を打ち続けている。
「そっか。よかったね」
「うん」
「よかったね」
同じ言葉が、同じ調子で、二回。
「今の、誰?」
口に出してから、遅すぎたと思った。小森の手が、ぴたりと止まる。空気が、ほんの少しだけ変わった。
画面の中の彼が、こちらに気づいて視線を上げた——気がした。気のせいだったのかもしれない。
「……友達」
小森は、画面をこちらから隠すようにスマホの向きを変えた。「悠真、ちょっと待ってて」という小さな声が、画面の向こうへ投げかけられる。
短すぎる説明だった。それ以上、聞ける空気ではなかった。それでも、あの一定すぎる相槌と、悠真という名前が、小さな棘のように頭に残った。
「……遠野?」
小森の声で、我に返った。何秒くらい黙っていたのか、自分でも分からない。
「あ、ごめん。なんでもない」
慌てて缶に口をつける。ぬるくなった炭酸は、やけに気の抜けた味がした。小森はスマホをポケットにしまうと、それ以上は何も言わなかった。ただ、こちらの様子を窺う視線だけを感じた。
「そろそろ、帰ろっか」
「……うん」
短く答えたつもりが、思ったより声が掠れた。小森はそれに気づかず、荷物をまとめ始める。窓の外では、ヒグラシが鳴いていた。
昇降口までの道、いつもどおりたわいもない話を続ける小森の横顔を、俺はさっきまでと少し違う目で見ていた。
◇ ◇ ◇
その夜、ベッドに寝転がって、スマホの検索窓を開いた。
指が、勝手に動いていた。
『悠真』
検索ボタンを押す前に、一度止まった。名字は知らない。学校も、年も知らない。知っているのは、小森が画面に向かって呼んだ、その二文字だけだ。
押した。
出てきたのは、俳優のプロフィールと、サッカー選手の移籍のニュースと、「男の子の名前ランキング」の記事だった。どうやら、ここ何年も上位の常連らしい。同じ名前の人間が、この国には山ほどいる。
「……そりゃ、そうか」
独り言が、天井に吸い込まれていった。
『悠真 高校生』と足してみた。知らない学校の、知らない部活の集合写真が出てきた。どれも、あの画面の中の顔とは違った。
もう一語、足そうとして、指が止まった。
『小森』
打ちかけて、消した。
何をしてるんだろう、と思った。小森が、こちらから画面を隠すようにスマホの向きを変えたときの、あの手つき。「……友達」という、短すぎる説明。隠したいから、隠したのだ。それを、本人のいないところで、検索窓の中から覗き込もうとしている。
嘘が下手な人は、笑ってごまかす前の、小さな静止だけは消せない。初めての観測の夜、そう思った。でも、その静止を、わざわざこっちから掘り返していいとは、誰も言っていない。
検索窓の文字を、全部消した。画面を伏せて、枕の横に置く。
それでも、目を閉じると、あの声がした。
おかえり。よかったね。よかったね。
同じ言葉が、同じ調子で、耳の奥で二回鳴った。
今日に限って、日直で居残りになった。日誌を書いて職員室に届けるだけの、簡単な仕事のはずだった。それなのに担当の先生がなかなかつかまらず、解放されたのは下校時刻をだいぶ過ぎてからだった。
昇降口へ向かう途中、鞄の底に沈んでいた薄い本を思い出した。前回の観測の日、環先輩に押しつけられた観測ガイドブックだ。
「悪いけど、地学講義室の本棚に返しといてくれるか。わたし、このあと用事あるから」
備品扱いらしく、表紙には返却期限のシールが貼られたままになっている。今日中に返さないと、借りっぱなしを注意されるのは俺のほうだ。
三階の廊下は、西日で橙色に染まっていた。話し声も足音も、いつもよりずっと少ない。
天文部には、専用の部室というものがない。部員が「部室」と呼んでいるのは、地学の授業で使う地学講義室を、活動日だけ間借りしている場所だ。望遠鏡や観測道具は隣の準備室にしまってあって、講義室のほうは、ほかの理科室と同じように冷房が効く。活動日は週三回。それ以外の日に、あの部屋に用のある人間はいない。
はずだった。地学講義室のドアが、少しだけ開いていた。
「あれ」
隙間から、冷えた空気が廊下の熱と入れ替わるように流れてくる。机に向かう小森の後ろ姿があった。長い髪を一つに束ねて、涼しい顔でノートに何か書き込んでいる。
夜のドームで見る横顔とは、まるで違った。夜は星に向いていた視線が、今は手元のノートに落ちている。同じ人のはずなのに、光の中にいるだけで、少し知らない人みたいに見えた。
「今日、部活ないよね」
声をかけると、小森はびくっと振り返った。
「あ、遠野。びっくりした」
「なんでいるの、こんな日に」
「涼みに来た。うち、まだクーラー壊れてて」
小森はノートを軽く閉じた。
「ここ、鍵さえ借りれば活動日じゃなくても入れるんだよ。遠野こそ、なんで?」
「環先輩に頼まれて、本、返しに」
鞄からガイドブックを出すと、小森は「ああ、それ」と笑った。
「先輩、いっつも人に押しつけるよね、そういうの」
「気づいたら、断れなくなってる」
本棚に戻すのに、一分もかからなかった。それでも、そのまま帰る流れにはならなかった。
「ついでだし、少し涼んでけば?」
断る理由が思いつかなかった。窓際の席に座ると、吹き出し口から乾いた風がまっすぐ当たる。廊下の暑さが嘘みたいだった。
「自販機、行ってくる」
小森が立ち上がる。
「奢ってあげる。何がいい?」
「——いや、悪いし」
「いいから。日直お疲れさま代」
そういえば、初めて話した夜も、この子は聞かれてもいないのに、のど飴を差し出してきた。人に何かをあげることに、迷いがないタイプなのかもしれない。
しばらくして、小森は缶を二本持って戻ってきた。
「ジンジャエールしかなかった。この時間、だいたい売り切れてるんだよね」
「贅沢は言えないか」
プルタブを開けると、しゅわっという音と一緒に、冷たい飛沫が指にかかった。
◇ ◇ ◇
たわいもない話を、しばらくした。
「夏休みって、部活どうなるの」
「合宿あるよ、九月に。去年は雨で何も見えなかったから、今年こそって環先輩が息巻いてる」
「先輩、いつもそんな感じなの」
「うん。空回りしてるとこも含めて、憎めない人だよね」
小森は笑いながら、ペンの尻でこめかみを軽く叩いた。その仕草が、ドームで見るときより近く感じられた。同じ学年なのに、こうして二人きりで話すのはほとんど初めてだと、途中で気づいた。クラスが違うというだけで、知らないことばかりだ。
用もないのに、誰かと喋り続けるのはいつぶりだろう。気づけば、缶の中身はもう半分もなかった。時間の減り方が、いつもより速い。
そのとき、机の上の小森のスマホが、短く鳴った。アラームの音だった。画面に、19:00の数字が浮かんでいる。
「あ、ごめん」
小森はアラームを止めると、ごく自然な仕草で、画面の隅のアイコンをタップした。屋根の形をした、小さなアイコンだった。小さな画面いっぱいに、映像が広がる。
覗くつもりはなかった。ただ、近すぎて目に入ってしまった。
画面の中に、男の子の顔があった。柔らかい笑顔で、こちらを——正確には、小森を——見ている。台所らしき背景。少し粒子の粗い映像だったけれど、間違いなく、動いて、喋っている顔だった。
「おかえり」
画面の中の彼が言った。
「ただいま」
小森は、当たり前のように返した。
「今日、暑かったよね」
「うん、こっちも」
恋人同士か、家族のような、ありふれたやり取りだった。ただ、その自然さのどこかに、小さく引っかかるものがあった。
相槌のタイミングが、妙に一定なのだ。間の取り方が、毎回同じリズムを刻んでいる。
「今日、なんかあった?」
「んー、特には」
画面の中の彼が、優しく目を細める。
「陽菜は? 今日、どうだった」
「部室で涼んでる」
小森は、こちらをちらりとも見ずに続けた。
「あ、そうだ。新しい部員が入ったんだよ」
心臓が、小さく跳ねた。それは、たしかに俺のことだった。それなのに小森は、その部員がすぐ隣に座っていることには、まるで触れなかった。
画面の中の彼は、何も知らないまま相槌を打ち続けている。
「そっか。よかったね」
「うん」
「よかったね」
同じ言葉が、同じ調子で、二回。
「今の、誰?」
口に出してから、遅すぎたと思った。小森の手が、ぴたりと止まる。空気が、ほんの少しだけ変わった。
画面の中の彼が、こちらに気づいて視線を上げた——気がした。気のせいだったのかもしれない。
「……友達」
小森は、画面をこちらから隠すようにスマホの向きを変えた。「悠真、ちょっと待ってて」という小さな声が、画面の向こうへ投げかけられる。
短すぎる説明だった。それ以上、聞ける空気ではなかった。それでも、あの一定すぎる相槌と、悠真という名前が、小さな棘のように頭に残った。
「……遠野?」
小森の声で、我に返った。何秒くらい黙っていたのか、自分でも分からない。
「あ、ごめん。なんでもない」
慌てて缶に口をつける。ぬるくなった炭酸は、やけに気の抜けた味がした。小森はスマホをポケットにしまうと、それ以上は何も言わなかった。ただ、こちらの様子を窺う視線だけを感じた。
「そろそろ、帰ろっか」
「……うん」
短く答えたつもりが、思ったより声が掠れた。小森はそれに気づかず、荷物をまとめ始める。窓の外では、ヒグラシが鳴いていた。
昇降口までの道、いつもどおりたわいもない話を続ける小森の横顔を、俺はさっきまでと少し違う目で見ていた。
◇ ◇ ◇
その夜、ベッドに寝転がって、スマホの検索窓を開いた。
指が、勝手に動いていた。
『悠真』
検索ボタンを押す前に、一度止まった。名字は知らない。学校も、年も知らない。知っているのは、小森が画面に向かって呼んだ、その二文字だけだ。
押した。
出てきたのは、俳優のプロフィールと、サッカー選手の移籍のニュースと、「男の子の名前ランキング」の記事だった。どうやら、ここ何年も上位の常連らしい。同じ名前の人間が、この国には山ほどいる。
「……そりゃ、そうか」
独り言が、天井に吸い込まれていった。
『悠真 高校生』と足してみた。知らない学校の、知らない部活の集合写真が出てきた。どれも、あの画面の中の顔とは違った。
もう一語、足そうとして、指が止まった。
『小森』
打ちかけて、消した。
何をしてるんだろう、と思った。小森が、こちらから画面を隠すようにスマホの向きを変えたときの、あの手つき。「……友達」という、短すぎる説明。隠したいから、隠したのだ。それを、本人のいないところで、検索窓の中から覗き込もうとしている。
嘘が下手な人は、笑ってごまかす前の、小さな静止だけは消せない。初めての観測の夜、そう思った。でも、その静止を、わざわざこっちから掘り返していいとは、誰も言っていない。
検索窓の文字を、全部消した。画面を伏せて、枕の横に置く。
それでも、目を閉じると、あの声がした。
おかえり。よかったね。よかったね。
同じ言葉が、同じ調子で、耳の奥で二回鳴った。
