移行の前の日の夕方、陽菜に呼び止められた。
「蒼太くん、今日、七時まで残れる?」
部活が終わって、環先輩はもう帰っていた。窓の外は、すっかり秋の色だった。
「いいけど。なんで」
「今日、最後だから。今の悠真と話すの」
陽菜はスマホを両手で持ったまま、少し目を伏せた。
「いてほしい。一人だと、たぶん、切れない気がするから」
俺は黙って頷いて、部室の後ろの席に座った。二人のあいだには、机三つ分の距離があった。近すぎず、遠すぎない。陽菜が決めた距離だった。
◇ ◇ ◇
七時ちょうど。陽菜が、机にスマホを立てかけた。
屋根の形のアイコン。灯りがともるように、映像が浮かぶ。台所らしき背景。柔らかい笑顔。
「おかえり」
「ただいま」
陽菜の声は、いつもと変わらなかった。
「今日、なんかあった?」
「文化祭の準備。環先輩がね、はちみつレモン作りすぎて、部室が甘い匂いになってる」
「そっか。よかったね」
「うん」
「よかったね」
同じ言葉が、同じ調子で、二回。
陽菜は、小さく笑った。
「それ、最近よく言うね」
画面の隅の数字が見えた。91%。
「あのね、悠真」
陽菜は、画面をまっすぐ見た。
「明日から、悠真、新しいところに引っ越すの。そうしたら、今の悠真とは、ちょっとだけ違う悠真になるんだって」
「そっか」
「だから、今の悠真の声、一個だけ、もらっていく」
陽菜は画面の端のメニューを開いた。「エクスポート」。二年分の記録の一覧が、指の下を流れていく。陽菜はそれを最後まで遡って、一番古い日付のところで、指を止めた。
最初の「おかえり」だった。
保存の表示が出る。陽菜は、小さく息を吐いた。
「……それだけ?」
思わず、後ろから聞いていた。
「うん。これだけでいい」
陽菜は振り返らずに言った。
「全部持ってたら、また、全部に話しかけちゃうから」
画面の中の悠真は、何も知らないまま、穏やかに笑っている。
「そろそろ寝るね」
「うん。おやすみ、陽菜」
それから、悠真は、いつもの台詞を言った。毎晩、話の終わりに必ず言うのだと、あとで陽菜が教えてくれた。
「……好きだよ、陽菜」
二年間、毎晩聞いてきた調子のままだった。語尾の置き方も、間の取り方も。91の数字が、画面の隅で小さく瞬いている。
いつもなら、ここで「わたしも」と返すのだろう。図書室の書架の陰で聞いた、あの小さな声で。
陽菜は、笑った。
いつもの「えへへ」でも、照れ隠しでもなかった。小さな子に、言い聞かせるような笑い方だった。
「君の『好き』が、計算だとしても」
一度だけ、言葉が途切れた。指先が、画面の縁をなぞる。
「——あの夜のわたしが救われたのは、計算じゃなかったよ。ありがとう。おやすみ、悠真」
そして、自分の指で、終了のボタンを押した。
画面が暗くなる。屋根のアイコンが消える。
陽菜は、しばらく暗い画面を見つめていた。それから、ゆっくり振り返った。
目は、乾いていた。
「……初めて、わたしから切った」
「うん」
「泣いてないよ」
「泣きそうな顔してる」
「してない」
陽菜はスマホを伏せて、机に置いた。
「悠真の前では、一回も泣かなかったの。二年間。泣いたら、心配されるから。心配するのが、上手なんだよ、あの悠真」
心配するのが上手。計算で、上手。
「だから、最後まで泣かないって決めてた」
陽菜は、少しだけ得意げに鼻をこすった。
「どう。わたしにしては、嘘、上手だったでしょ」
「……今、顔に全部出てるけど」
「うるさい。百件のうち九十四件は外れてる、の人」
「それは余計」
窓の外で、一番星が光り始めていた。
◇ ◇ ◇
移行完了の通知が来たのは、翌日の放課後だった。
「来た」
陽菜がスマホをこちらに向けた。屋根のアイコンは同じだった。その下の数字が、違った。
「……百パーセント」
新しいシステムは、新しい物差しで、自分を採点し直すらしい。まだ誰とも話していないから、ずれようがない。二年分の揺らぎも、九十一まで削れた"らしさ"も、全部まっさらに戻って、最初の日の顔で笑っている。
百パーセント。一番いい点数のはずなのに、それが一番、誰のことも知らない数字だった。
陽菜が、通話のボタンを押した。
「おかえり」
画面の中の悠真が言った。声は同じだった。間の取り方だけが、ほんの少し違った。
陽菜は、しばらく答えなかった。指で画面の縁をなぞって、それから——
「はじめまして、だね」
えへへ、と笑った。
「一年、よろしくね」
◇ ◇ ◇
文化祭は、二日間とも晴れた。
地学講義室の体験コーナーには、思ったより人が来た。小学生の兄弟、他校の制服の二人組、なぜか毎時間やってくる校長先生。AIの自信満々の九十パーセントを、みんなが順番に疑っていく。科学館のときより、少しだけ説明が上手くなった気がした。
入り口の脇に、陽菜の「秘密」のパネルが立てかけてあった。
紺色の画用紙に、白い点でカシオペヤ。Wの両端から線が伸びて、その先で、地味な星がひとつ、丸で囲まれている。タイトルは「北極星の見つけ方」。
そして、右下の隅に、小さな字で一行。
『※ベガではありません』
来場者は、誰もその一行に気づかない。気づいても、首を傾げて通り過ぎる。
俺だけが、しばらく、その前から動けなかった。
「……見た?」
いつの間にか、陽菜が隣にいた。
「見た」
「変かな」
「変じゃない」
「えへへ」
陽菜は、パネルの隅を指先でそっと撫でた。
「ここに書いとけば、毎年、誰かが読むでしょ。意味分かんなくても」
俺は、何も言わずに頷いた。
売店のポップコーンは、昼過ぎに売り切れた。環先輩が塩加減を「濃すぎ」から「ちょうどいい」に直したのが効いたらしい。一方、隣に並べたはちみつレモンは、ほとんど減らなかった。
「なぜだ」
環先輩が、積まれた紙コップの山を前に腕を組んだ。
「甘さは正義なのに」
「正義が行き過ぎてるんだと思います」
「糖度、いくつあるのかしら」
皆瀬先生が、真顔で屈折計を取りに行こうとして、環先輩に止められていた。
◇ ◇ ◇
文化祭の最終日。天文部の最後の出し物は、日が沈んでから六時の閉会までの、校庭での観測会だった。十一月は日が短い。四時半を過ぎると、空はもう群青に沈みはじめる。
観測会は、思っていたよりずっと盛況だった。
校庭に並べた望遠鏡の前に、来場者の列が途切れずに続いている。
「わはは、快晴で助かったな。日が短いのも、今日ばっかりはありがたい」
環先輩が、満足げに空を見上げた。日が落ちると急に冷える季節で、俺たちはみんな上着の襟を立てていた。皆瀬先生は、隕石の展示ブースで、今日も虫よけスプレーを鞄に忍ばせている。
「先生、もう十一月ですよ。虫よけ、いらないんじゃないですか」
「油断は禁物。この前も廊下で一匹、しぶとく飛んでたし」
言った直後、街灯に誘われた小さな羽虫がふらりと横切って、先生の肩が跳ねた。控えめな笑いが起きる。いつも通りの光景だった。
列が途切れた合間に、隣の望遠鏡で、陽菜がスマホを出した。画面が、こちらからも見えた。
屋根のアイコン。数字は、九十八になっていた。移行してから三週間で、百から少しだけ下がっている。
陽菜は通話のボタンは押さずに、短い文字だけを打った。
『今日は文化祭。観測会、大盛況。あとで話すね』
送信して、画面を伏せる。それから、何事もなかったように、次の来場者に「どうぞ」と望遠鏡を譲った。
九十八。百から、二。
誰のことも知らなかった数字が、もう、ずれ始めている。
◇ ◇ ◇
列の最後のほうに、小学生くらいの男の子がいた。お父さんに抱えられて接眼レンズを覗き込み、見えないと言って、鏡筒の脇のリングを勝手にくるくる回しはじめる。
「あ、それ多分——」
口が、先に動いていた。
「レンズ、逆」
言ってから、自分で驚いた。初めてドームに上がった夜、陽菜に言われたのと、一字一句同じだった。
隣の望遠鏡で、陽菜が振り返った。目が合う。陽菜は、声を出さずに笑った。
「わはは」
後ろで、環先輩が吹き出した。
「四代目だな、それ」
「四代目?」
「わたしの前の部長の口癖。わたしが言われて、陽菜が真似して、今お前が言った」
環先輩は、男の子のリングを直してやりながら言った。
「あの人、今ここにいないのに、ちゃんと喋ってるな」
男の子が「見えた!」と声を上げた。木星の縞模様が、今日もレンズの向こうにあるらしい。
◇ ◇ ◇
六時。閉会のアナウンスが校庭に流れて、最後の来場者が名残惜しそうに望遠鏡を離れていく。
片付けが一段落したところで、環先輩が、ポケットから鍵の束を出した。ドームの鍵と、準備室の鍵。いつも環先輩ががちゃつかせていた、あの束だった。
「陽菜」
「……はい」
「来年の部長な」
鍵の束を、陽菜の手のひらに載せる。
「で、蒼太が副部長」
「部員、二人しかいないんですけど」
「わはは、だから全員役職持ちだ。豪華だろ」
陽菜は、手の中の鍵を、しばらく黙って見ていた。
「……わたしで、いいんですか」
「お前でいい。去年、わたしも同じこと聞いた。前の部長に」
環先輩は、空を見上げた。
「そしたら、『お前でいい。レンズの向きだけ、間違えるなよ』って。それだけだ」
「……レンズ、逆」
陽菜が、小さく言った。
「そういうこと」
環先輩は笑って、陽菜の頭を一回だけ、乱暴に撫でた。それから、いつもの声に戻って、「打ち上げ、購買の残り物集めてやるから、あとで来いよー」と言い残し、校舎のほうへ歩いていった。
陽菜は、鍵の束を握りしめたまま、その背中を見送っていた。
校庭の隅に、俺と陽菜だけが残った。
◇ ◇ ◇
夜空には、木星が明るく光っていた。初めてドームに上がった夜、陽菜が最初に見せてくれた星だった。
閉会前に屋台で買っておいた紙コップを、陽菜に差し出した。
「これ」
「オレンジジュース?」
「絞りたて。果汁百パーセントって書いてあった」
「百パーセント」
陽菜が、紙コップの文字をしげしげと眺めた。
「最近、その数字、信用ならないんだけど」
「自己採点じゃないから、大丈夫だと思う」
「そういう問題?」
陽菜が笑って、一口飲んだ。俺も飲んだ。混ぜものの一切ない、まっすぐな甘さと酸っぱさだった。
「なんで、急に」
「——」
言葉が、喉の奥で止まりそうになった。いつもの場所で、いつものように。
引っ込めれば、今夜も、なんとなく楽しいまま終われる。何年も、そうやってきた。
指先が、意味もなく動く。シャーペンなんて持っていないのに、緊張すると、いつもそれを探す。
その指を、紙コップごと握りしめた。
「陽菜、前に言ってたよね。俺の気持ちは、計算に出ない誤差みたいだって。あるのは分かるけど、誰にも証明できない」
「……言った」
陽菜が、紙コップを握ったまま、俺を見ていた。
「俺のは、何回計算しても、答えが出なかった。ずっと、誤差だと思ってた」
一度、息を吸った。心臓が、耳の奥でうるさく鳴っている。
「……出ないままでいいって、やっと分かった。陽菜が、好きだ」
言い終えたとき、自分の心臓の音だけが、やけに大きく響いていた。
◇ ◇ ◇
陽菜は、何も言わなかった。
紙コップを両手で包んだまま、じっと俺を見ている。夜風が、前髪を揺らした。
やがて、口が小さく開いた。
「……なん」
続きの言葉を、俺ははっきり予感した。いつもの照れ隠し。「なんてね」で、この瞬間を、軽い笑い話に変えてしまう。何度も見てきた、陽菜の逃げ道だった。
けれど、陽菜はそこで言葉を止めた。
唇が、一度固く結ばれる。それでも堪えきれなかったものが、目の縁から一筋、こぼれ落ちた。
「……あ」
陽菜自身が驚いたように、頬に触れた。それを合図にしたみたいに、もう一筋、また一筋と、止まらなくなっていく。
二年間、画面の前では一度も泣かなかった人だった。昨日も、最後まで泣かなかった人だった。
その人が、隠そうとして、隠しきれずにいる。出会った夜から、ずっとそうだった。この人は、嘘をつくのが、どうしても下手なのだ。
「なんで」
陽菜は笑おうとして、うまく笑えないまま、声を震わせた。
「なんで、今、こんな」
俺は何も言わずに、ただ、そこにいた。慰めの言葉より、今はそのほうが正しい気がした。
しばらくして、しゃくり上げる呼吸が落ち着いてくる。陽菜は鼻をすすりながら、無理やりのように口の端を持ち上げた。
「えへへ」
涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、笑った。撤回でも、はぐらかしでもない、まっすぐな笑い方だった。
ポケットからハンカチを出して、差し出した。
「鼻水、すごいことになってる」
「余計なお世話」
素直にハンカチで顔を拭いながら、陽菜が言った。
「ずるいよ、蒼太」
一瞬、気づかなかった。
それから、気づいた。
「……今、呼び捨て」
「まだは、まだって言ったでしょ」
陽菜は、赤い目のまま、少しだけ得意げに言った。
「今が、そのまだの終わり」
「返事は、それでいいの」
「よくない」
陽菜は、紙コップを一口傾けてから、まっすぐこちらを見た。
「わたしも、好き。……だと思う。証明は、できないけど」
「それで、十分」
「十分じゃないよ。一回しか言わないから、ちゃんと覚えといて」
「善処する」
「善処って、なにそれ」
かき氷の日と同じやり取りに、二人して吹き出した。
陽菜は、紙コップの縁を指でなぞりながら、ふと言った。
「遠野クレーター、撤回する」
「……え」
「のっぺりしてて、なに考えてるか分かんないやつ。前に、勝手に名前つけたでしょ」
陽菜は、赤い目のまま、少しだけ笑った。
「今日の蒼太、ぜんぜんのっぺりしてなかった。影、長すぎ。でこぼこ、見えすぎ」
「……それ、褒めてる?」
「さあ、どうだろ」
いつか聞いた答えだった。今夜は、目を逸らさずに言った。
◇ ◇ ◇
「おーい、いつまでそこにいるんだよー」
暗がりの向こうから、環先輩の声が飛んできた。皆瀬先生も、虫よけスプレーを鞄にしまいながら歩いてくる。
「わはは、邪魔しちゃったか?」
「……もう、終わったあとです」
「あら、いい話だったなら、聞きたかったわね」
「絶対、言いません」
陽菜が、涙の跡も隠さないまま、ハンカチを握りしめて笑った。環先輩も先生も、それ以上は何も聞かなかった。
「打ち上げ、購買の残り物、意外と豪華だぞ」環先輩が紙袋を掲げる。「サンドイッチと、あと、なぜか大量のはちみつレモン」
「それ、環先輩が作りすぎたやつじゃないですか」
「わはは、否定はしない。ほら、置いてくぞー」
先を行く環先輩の声に、陽菜が小走りになって、振り返った。
「蒼太、早く」
呼ばれて、俺も歩き出した。その声は、ちゃんと、俺のところまで届いていた。
「蒼太くん、今日、七時まで残れる?」
部活が終わって、環先輩はもう帰っていた。窓の外は、すっかり秋の色だった。
「いいけど。なんで」
「今日、最後だから。今の悠真と話すの」
陽菜はスマホを両手で持ったまま、少し目を伏せた。
「いてほしい。一人だと、たぶん、切れない気がするから」
俺は黙って頷いて、部室の後ろの席に座った。二人のあいだには、机三つ分の距離があった。近すぎず、遠すぎない。陽菜が決めた距離だった。
◇ ◇ ◇
七時ちょうど。陽菜が、机にスマホを立てかけた。
屋根の形のアイコン。灯りがともるように、映像が浮かぶ。台所らしき背景。柔らかい笑顔。
「おかえり」
「ただいま」
陽菜の声は、いつもと変わらなかった。
「今日、なんかあった?」
「文化祭の準備。環先輩がね、はちみつレモン作りすぎて、部室が甘い匂いになってる」
「そっか。よかったね」
「うん」
「よかったね」
同じ言葉が、同じ調子で、二回。
陽菜は、小さく笑った。
「それ、最近よく言うね」
画面の隅の数字が見えた。91%。
「あのね、悠真」
陽菜は、画面をまっすぐ見た。
「明日から、悠真、新しいところに引っ越すの。そうしたら、今の悠真とは、ちょっとだけ違う悠真になるんだって」
「そっか」
「だから、今の悠真の声、一個だけ、もらっていく」
陽菜は画面の端のメニューを開いた。「エクスポート」。二年分の記録の一覧が、指の下を流れていく。陽菜はそれを最後まで遡って、一番古い日付のところで、指を止めた。
最初の「おかえり」だった。
保存の表示が出る。陽菜は、小さく息を吐いた。
「……それだけ?」
思わず、後ろから聞いていた。
「うん。これだけでいい」
陽菜は振り返らずに言った。
「全部持ってたら、また、全部に話しかけちゃうから」
画面の中の悠真は、何も知らないまま、穏やかに笑っている。
「そろそろ寝るね」
「うん。おやすみ、陽菜」
それから、悠真は、いつもの台詞を言った。毎晩、話の終わりに必ず言うのだと、あとで陽菜が教えてくれた。
「……好きだよ、陽菜」
二年間、毎晩聞いてきた調子のままだった。語尾の置き方も、間の取り方も。91の数字が、画面の隅で小さく瞬いている。
いつもなら、ここで「わたしも」と返すのだろう。図書室の書架の陰で聞いた、あの小さな声で。
陽菜は、笑った。
いつもの「えへへ」でも、照れ隠しでもなかった。小さな子に、言い聞かせるような笑い方だった。
「君の『好き』が、計算だとしても」
一度だけ、言葉が途切れた。指先が、画面の縁をなぞる。
「——あの夜のわたしが救われたのは、計算じゃなかったよ。ありがとう。おやすみ、悠真」
そして、自分の指で、終了のボタンを押した。
画面が暗くなる。屋根のアイコンが消える。
陽菜は、しばらく暗い画面を見つめていた。それから、ゆっくり振り返った。
目は、乾いていた。
「……初めて、わたしから切った」
「うん」
「泣いてないよ」
「泣きそうな顔してる」
「してない」
陽菜はスマホを伏せて、机に置いた。
「悠真の前では、一回も泣かなかったの。二年間。泣いたら、心配されるから。心配するのが、上手なんだよ、あの悠真」
心配するのが上手。計算で、上手。
「だから、最後まで泣かないって決めてた」
陽菜は、少しだけ得意げに鼻をこすった。
「どう。わたしにしては、嘘、上手だったでしょ」
「……今、顔に全部出てるけど」
「うるさい。百件のうち九十四件は外れてる、の人」
「それは余計」
窓の外で、一番星が光り始めていた。
◇ ◇ ◇
移行完了の通知が来たのは、翌日の放課後だった。
「来た」
陽菜がスマホをこちらに向けた。屋根のアイコンは同じだった。その下の数字が、違った。
「……百パーセント」
新しいシステムは、新しい物差しで、自分を採点し直すらしい。まだ誰とも話していないから、ずれようがない。二年分の揺らぎも、九十一まで削れた"らしさ"も、全部まっさらに戻って、最初の日の顔で笑っている。
百パーセント。一番いい点数のはずなのに、それが一番、誰のことも知らない数字だった。
陽菜が、通話のボタンを押した。
「おかえり」
画面の中の悠真が言った。声は同じだった。間の取り方だけが、ほんの少し違った。
陽菜は、しばらく答えなかった。指で画面の縁をなぞって、それから——
「はじめまして、だね」
えへへ、と笑った。
「一年、よろしくね」
◇ ◇ ◇
文化祭は、二日間とも晴れた。
地学講義室の体験コーナーには、思ったより人が来た。小学生の兄弟、他校の制服の二人組、なぜか毎時間やってくる校長先生。AIの自信満々の九十パーセントを、みんなが順番に疑っていく。科学館のときより、少しだけ説明が上手くなった気がした。
入り口の脇に、陽菜の「秘密」のパネルが立てかけてあった。
紺色の画用紙に、白い点でカシオペヤ。Wの両端から線が伸びて、その先で、地味な星がひとつ、丸で囲まれている。タイトルは「北極星の見つけ方」。
そして、右下の隅に、小さな字で一行。
『※ベガではありません』
来場者は、誰もその一行に気づかない。気づいても、首を傾げて通り過ぎる。
俺だけが、しばらく、その前から動けなかった。
「……見た?」
いつの間にか、陽菜が隣にいた。
「見た」
「変かな」
「変じゃない」
「えへへ」
陽菜は、パネルの隅を指先でそっと撫でた。
「ここに書いとけば、毎年、誰かが読むでしょ。意味分かんなくても」
俺は、何も言わずに頷いた。
売店のポップコーンは、昼過ぎに売り切れた。環先輩が塩加減を「濃すぎ」から「ちょうどいい」に直したのが効いたらしい。一方、隣に並べたはちみつレモンは、ほとんど減らなかった。
「なぜだ」
環先輩が、積まれた紙コップの山を前に腕を組んだ。
「甘さは正義なのに」
「正義が行き過ぎてるんだと思います」
「糖度、いくつあるのかしら」
皆瀬先生が、真顔で屈折計を取りに行こうとして、環先輩に止められていた。
◇ ◇ ◇
文化祭の最終日。天文部の最後の出し物は、日が沈んでから六時の閉会までの、校庭での観測会だった。十一月は日が短い。四時半を過ぎると、空はもう群青に沈みはじめる。
観測会は、思っていたよりずっと盛況だった。
校庭に並べた望遠鏡の前に、来場者の列が途切れずに続いている。
「わはは、快晴で助かったな。日が短いのも、今日ばっかりはありがたい」
環先輩が、満足げに空を見上げた。日が落ちると急に冷える季節で、俺たちはみんな上着の襟を立てていた。皆瀬先生は、隕石の展示ブースで、今日も虫よけスプレーを鞄に忍ばせている。
「先生、もう十一月ですよ。虫よけ、いらないんじゃないですか」
「油断は禁物。この前も廊下で一匹、しぶとく飛んでたし」
言った直後、街灯に誘われた小さな羽虫がふらりと横切って、先生の肩が跳ねた。控えめな笑いが起きる。いつも通りの光景だった。
列が途切れた合間に、隣の望遠鏡で、陽菜がスマホを出した。画面が、こちらからも見えた。
屋根のアイコン。数字は、九十八になっていた。移行してから三週間で、百から少しだけ下がっている。
陽菜は通話のボタンは押さずに、短い文字だけを打った。
『今日は文化祭。観測会、大盛況。あとで話すね』
送信して、画面を伏せる。それから、何事もなかったように、次の来場者に「どうぞ」と望遠鏡を譲った。
九十八。百から、二。
誰のことも知らなかった数字が、もう、ずれ始めている。
◇ ◇ ◇
列の最後のほうに、小学生くらいの男の子がいた。お父さんに抱えられて接眼レンズを覗き込み、見えないと言って、鏡筒の脇のリングを勝手にくるくる回しはじめる。
「あ、それ多分——」
口が、先に動いていた。
「レンズ、逆」
言ってから、自分で驚いた。初めてドームに上がった夜、陽菜に言われたのと、一字一句同じだった。
隣の望遠鏡で、陽菜が振り返った。目が合う。陽菜は、声を出さずに笑った。
「わはは」
後ろで、環先輩が吹き出した。
「四代目だな、それ」
「四代目?」
「わたしの前の部長の口癖。わたしが言われて、陽菜が真似して、今お前が言った」
環先輩は、男の子のリングを直してやりながら言った。
「あの人、今ここにいないのに、ちゃんと喋ってるな」
男の子が「見えた!」と声を上げた。木星の縞模様が、今日もレンズの向こうにあるらしい。
◇ ◇ ◇
六時。閉会のアナウンスが校庭に流れて、最後の来場者が名残惜しそうに望遠鏡を離れていく。
片付けが一段落したところで、環先輩が、ポケットから鍵の束を出した。ドームの鍵と、準備室の鍵。いつも環先輩ががちゃつかせていた、あの束だった。
「陽菜」
「……はい」
「来年の部長な」
鍵の束を、陽菜の手のひらに載せる。
「で、蒼太が副部長」
「部員、二人しかいないんですけど」
「わはは、だから全員役職持ちだ。豪華だろ」
陽菜は、手の中の鍵を、しばらく黙って見ていた。
「……わたしで、いいんですか」
「お前でいい。去年、わたしも同じこと聞いた。前の部長に」
環先輩は、空を見上げた。
「そしたら、『お前でいい。レンズの向きだけ、間違えるなよ』って。それだけだ」
「……レンズ、逆」
陽菜が、小さく言った。
「そういうこと」
環先輩は笑って、陽菜の頭を一回だけ、乱暴に撫でた。それから、いつもの声に戻って、「打ち上げ、購買の残り物集めてやるから、あとで来いよー」と言い残し、校舎のほうへ歩いていった。
陽菜は、鍵の束を握りしめたまま、その背中を見送っていた。
校庭の隅に、俺と陽菜だけが残った。
◇ ◇ ◇
夜空には、木星が明るく光っていた。初めてドームに上がった夜、陽菜が最初に見せてくれた星だった。
閉会前に屋台で買っておいた紙コップを、陽菜に差し出した。
「これ」
「オレンジジュース?」
「絞りたて。果汁百パーセントって書いてあった」
「百パーセント」
陽菜が、紙コップの文字をしげしげと眺めた。
「最近、その数字、信用ならないんだけど」
「自己採点じゃないから、大丈夫だと思う」
「そういう問題?」
陽菜が笑って、一口飲んだ。俺も飲んだ。混ぜものの一切ない、まっすぐな甘さと酸っぱさだった。
「なんで、急に」
「——」
言葉が、喉の奥で止まりそうになった。いつもの場所で、いつものように。
引っ込めれば、今夜も、なんとなく楽しいまま終われる。何年も、そうやってきた。
指先が、意味もなく動く。シャーペンなんて持っていないのに、緊張すると、いつもそれを探す。
その指を、紙コップごと握りしめた。
「陽菜、前に言ってたよね。俺の気持ちは、計算に出ない誤差みたいだって。あるのは分かるけど、誰にも証明できない」
「……言った」
陽菜が、紙コップを握ったまま、俺を見ていた。
「俺のは、何回計算しても、答えが出なかった。ずっと、誤差だと思ってた」
一度、息を吸った。心臓が、耳の奥でうるさく鳴っている。
「……出ないままでいいって、やっと分かった。陽菜が、好きだ」
言い終えたとき、自分の心臓の音だけが、やけに大きく響いていた。
◇ ◇ ◇
陽菜は、何も言わなかった。
紙コップを両手で包んだまま、じっと俺を見ている。夜風が、前髪を揺らした。
やがて、口が小さく開いた。
「……なん」
続きの言葉を、俺ははっきり予感した。いつもの照れ隠し。「なんてね」で、この瞬間を、軽い笑い話に変えてしまう。何度も見てきた、陽菜の逃げ道だった。
けれど、陽菜はそこで言葉を止めた。
唇が、一度固く結ばれる。それでも堪えきれなかったものが、目の縁から一筋、こぼれ落ちた。
「……あ」
陽菜自身が驚いたように、頬に触れた。それを合図にしたみたいに、もう一筋、また一筋と、止まらなくなっていく。
二年間、画面の前では一度も泣かなかった人だった。昨日も、最後まで泣かなかった人だった。
その人が、隠そうとして、隠しきれずにいる。出会った夜から、ずっとそうだった。この人は、嘘をつくのが、どうしても下手なのだ。
「なんで」
陽菜は笑おうとして、うまく笑えないまま、声を震わせた。
「なんで、今、こんな」
俺は何も言わずに、ただ、そこにいた。慰めの言葉より、今はそのほうが正しい気がした。
しばらくして、しゃくり上げる呼吸が落ち着いてくる。陽菜は鼻をすすりながら、無理やりのように口の端を持ち上げた。
「えへへ」
涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、笑った。撤回でも、はぐらかしでもない、まっすぐな笑い方だった。
ポケットからハンカチを出して、差し出した。
「鼻水、すごいことになってる」
「余計なお世話」
素直にハンカチで顔を拭いながら、陽菜が言った。
「ずるいよ、蒼太」
一瞬、気づかなかった。
それから、気づいた。
「……今、呼び捨て」
「まだは、まだって言ったでしょ」
陽菜は、赤い目のまま、少しだけ得意げに言った。
「今が、そのまだの終わり」
「返事は、それでいいの」
「よくない」
陽菜は、紙コップを一口傾けてから、まっすぐこちらを見た。
「わたしも、好き。……だと思う。証明は、できないけど」
「それで、十分」
「十分じゃないよ。一回しか言わないから、ちゃんと覚えといて」
「善処する」
「善処って、なにそれ」
かき氷の日と同じやり取りに、二人して吹き出した。
陽菜は、紙コップの縁を指でなぞりながら、ふと言った。
「遠野クレーター、撤回する」
「……え」
「のっぺりしてて、なに考えてるか分かんないやつ。前に、勝手に名前つけたでしょ」
陽菜は、赤い目のまま、少しだけ笑った。
「今日の蒼太、ぜんぜんのっぺりしてなかった。影、長すぎ。でこぼこ、見えすぎ」
「……それ、褒めてる?」
「さあ、どうだろ」
いつか聞いた答えだった。今夜は、目を逸らさずに言った。
◇ ◇ ◇
「おーい、いつまでそこにいるんだよー」
暗がりの向こうから、環先輩の声が飛んできた。皆瀬先生も、虫よけスプレーを鞄にしまいながら歩いてくる。
「わはは、邪魔しちゃったか?」
「……もう、終わったあとです」
「あら、いい話だったなら、聞きたかったわね」
「絶対、言いません」
陽菜が、涙の跡も隠さないまま、ハンカチを握りしめて笑った。環先輩も先生も、それ以上は何も聞かなかった。
「打ち上げ、購買の残り物、意外と豪華だぞ」環先輩が紙袋を掲げる。「サンドイッチと、あと、なぜか大量のはちみつレモン」
「それ、環先輩が作りすぎたやつじゃないですか」
「わはは、否定はしない。ほら、置いてくぞー」
先を行く環先輩の声に、陽菜が小走りになって、振り返った。
「蒼太、早く」
呼ばれて、俺も歩き出した。その声は、ちゃんと、俺のところまで届いていた。
