君の好きが、計算だとしても

 九月は、思ったより静かに過ぎた。
 俺と陽菜は、少しずつ、前みたいな他愛のないやり取りを取り戻していった。部活のあとに並んで帰る日が増えた。陽菜は七時が近づくとスマホを見て、「今日はいいや」と言う日もあれば、「ごめん、今日は帰る」と言う日もあった。どちらの日も、前ほど思いつめた顔ではなかった。
 九月最後の土曜日が、合宿だった。
 行き先は、県境の高原にある少年自然の家。去年は雨で何も見えなかった場所に、環先輩がどうしてももう一度行くと言い張ったのだ。
「先生、ナビ、次を右って言ってます」
「分かってる。でも、こっちのほうが近い気がするのよね」
「その『気がする』で、何回迷ったんですか」
「数えてないわ。数えたら負けだもの」
 皆瀬先生の運転するワゴン車は、カーナビ付きなのに、一度きっちり山道で迷った。行き止まりの林道でUターンする車の中で、環先輩が「わはは、これは記録に残そう」とスマホで動画を撮りはじめ、先生に本気で睨まれていた。
 着いたのは、日が沈む直前だった。
 芝生の広場に望遠鏡を三台並べる。空は、学校の屋上で見るのとは色が違った。青が深すぎて、ほとんど黒に近い。まだ一番星しか出ていないのに、これから何かが始まる気配だけで、胸のあたりがそわそわした。
 皆瀬先生は、車を降りた瞬間から虫よけスプレーを握りしめていた。首、腕、足首、ついでに望遠鏡の脚にまで吹きかけている。
「先生、それ、何本目ですか」
「二本目。予備にあと二本ある」
「望遠鏡に虫よけ、要ります?」
「要るわよ。ここは向こうの縄張りなんだから、こっちも陣地を主張しないと」
 真顔で言う先生の後ろを、大きな蛾がふわりと横切った。先生の肩が跳ねて、スプレーの霧が環先輩の顔を直撃した。
「ぶっ——先生!」
「ごめん、反射」
 咳き込む環先輩と、平謝りする先生を見て、陽菜が腹を抱えて笑っていた。

 ◇ ◇ ◇

 七時になった。
 陽菜は、ポケットからスマホを出した。癖みたいな手つきだった。画面を見て、指が止まる。
「……圏外だ」
 小さな声だった。
 画面の左上に、電波のない印が出ている。陽菜はしばらく、それを見ていた。十秒か、二十秒か。望遠鏡の調整をするふりをしながら、俺は横目でその指を見ていた。
 やがて陽菜は、スマホを伏せて、レジャーシートの上にそっと置いた。
「いいの?」
 思わず聞いていた。
「いいの。山の上だもん」
 陽菜は伏せたスマホを、指先で一度だけ撫でた。
「悠真も、分かってくれる……って、そういうの、自分で勝手に決めちゃうのも、ずるいよね。えへへ」
 笑い方は、いつもと同じだった。それでも、前みたいに、そのあと画面を裏返して確かめることはしなかった。

 ◇ ◇ ◇

 夜が深くなると、星が、数えるのをあきらめたくなるくらい出てきた。
 環先輩と皆瀬先生が交代で望遠鏡についているあいだ、俺と陽菜は芝生に寝転んで、流れ星の係になった。見えたら声を出して、数を記録する。それだけの、贅沢な係だった。
「蒼太くん、北極星、どれか分かる?」
「……一番明るいやつ?」
「ぶー。ほら、あそこ」陽菜が、北の空を指さした。「アルファベットのWみたいなの、分かる? カシオペヤ。あのWの両端の線を伸ばして、ぶつかったとこから、真ん中の星のほうに五つ分。そこ」
 言われたとおりに、目で線を引く。Wの先に、思っていたよりずっと地味な星が、ひとつだけ、じっとしていた。
「……地味だな」
「でしょ。北極星って、みんなもっと明るいと思ってるの。でも、本当は、あんまり目立たない。目立たないけど、ずっと同じとこにいる」
 陽菜は、腕を頭の後ろで組んだ。
「悠真ね、北極星、ずっと間違えてたの」
 不意に、その名前が出た。夜の中で聞くと、声が少しだけ柔らかかった。
「あれ」
 陽菜は、今度は西の空の高いところを指さした。白く、ひときわ明るい星だった。
「あれを、北極星だと思ってた。ベガ。織姫」
「全然違う方向じゃん」
「でしょ。お父さん直伝なんだって。小さい頃、庭で一緒に星見て、あれが北極星だって教わったんだって」
 悠真のお父さんの話を、思い出した。適当に指さして、でたらめを教えて、あとで息子に笑われた、という話。
「でも、あれ、お父さんのほうが先に、悠真に笑われたって言ってなかった?」
「うん。悠真、笑ったくせに、自分も直さなかったの。わざとなのか、本気で覚え直さなかったのか、分かんない」
 陽菜は、少しおかしそうに言った。
「わたしと星見るたびに、あれが北極星って言うの。違うよって言っても、いいじゃん、うちではあれが北極星なんだよって」
「……らしい話だな」
「らしいでしょ」
 陽菜は、白い星を見上げたまま、しばらく黙っていた。
「わたし、天文部入ったの、それが理由なんだ」
「北極星?」
「うん。本物の場所、ちゃんと覚えて、教えてあげたかった。悠真、もういなかったけど」
 陽菜は、指先で空をなぞった。
「だから、画面の悠真に教えたの。カシオペヤから、五つ分。何回も」
「……覚えた?」
 陽菜は、小さく首を振った。
「次の日には、また、あれが北極星って言うの。織姫のほう」
 芝生の草が、首の後ろで少しちくちくした。
「最初は、それが嬉しかった」陽菜の声は、静かだった。「ちゃんと悠真のままだって。でたらめなところまで、全部、悠真のままだって」
「……今は?」
「今は」
 陽菜は、少しだけ言葉を探した。
「ちょっとだけ、寂しい。わたしは、本物の北極星、見つけられるようになったのに。悠真は、ずっと、織姫のまま」
 星がひとつ、音もなく空を横切った。
「あ」
 二人で同時に声を上げて、それから、同時に黙った。数えるのを、一回だけ忘れた。
「……俺は、両方覚えとく」
 気づいたら、そう言っていた。
「両方?」
「本物の北極星と、深澤家の北極星。どっちも」
 陽菜は、驚いたようにこちらを見た。暗くて、表情はよく見えない。
「……変なの」
「変かな」
「変だよ」
 陽菜の声が、少しだけ揺れた。
「でも、ありがと。……なんてね」
 いつもの照れ隠しだった。ただ、今夜のそれは、何かを撤回するためというより、置きどころに困ったものを、そっと脇にどけたみたいに聞こえた。

 ◇ ◇ ◇

「おーい、流れ星係、何個だー」
 望遠鏡のほうから、環先輩の声が飛んできた。
「七個」
 陽菜が答える。
「……三個」
 俺が答える。一個は、数え忘れた。
「わはは、甘いな。わたしは十二個だ」
「先輩、ずっと望遠鏡覗いてましたよね」
「接眼レンズの中を横切ったのも数えてる」
「それ、反則でしょ」
 誰も信じなかった。皆瀬先生だけが「接眼レンズの視野、狭いのに」と真面目に計算を始めて、環先輩に止められていた。
 寝袋に入る前、ふと見ると、陽菜はもう一度だけ北の空を見上げていた。それから西の空の、白い星のほうも。
 どちらにも、同じくらいの時間をかけていた。

 ◇ ◇ ◇

 十月に入ると、部室は文化祭の準備で散らかり始めた。段ボールの望遠鏡の張りぼて。色を塗りかけの星座模型。そして、部屋の隅に積まれた、大量のはちみつの瓶。
「環先輩、はちみつレモン、作りすぎですよね」
「甘さは正義だろ。ほら、味見」
 紙コップを渡される。一口飲んで、むせた。
「甘っ」
「わはは、蒼太は子ども舌だな」
「先輩の舌が大人すぎるんです」
 陽菜が横で笑っていた。こういう時間が、また当たり前に戻ってきていた。
 展示は、地学講義室の半分を使うことになった。昼間はAIの惑星判定の体験コーナー、最終日だけは、日が沈んでから閉会までの一時間半、校庭で観測会。科学館でやったことの、学校版だ。
 俺は模造紙に、判定の手順を図で描く係になった。陽菜は隣の机で、小さなパネルを一枚、黙々と塗っている。紺色の画用紙に、白いペンで星を打っていく。
「それ、何のパネル」
「秘密」
「展示に秘密って、あるのか」
「あるの。当日まで見ちゃだめ」
 陽菜は、腕で画用紙を隠した。
「えへへ」
 窓際では、環先輩が段ボールの望遠鏡の張りぼてに、銀色のスプレーを吹きつけていた。皆瀬先生が「換気、換気」と言いながら、窓を全開にして回っている。虫よけじゃないスプレーには、あまり警戒心がないらしい。
「そういえばな」
 環先輩が、スプレー缶を振りながら、思い出したみたいに言った。
「文化祭終わったら、わたし、引退だからな」
 陽菜の筆が、止まった。
 言われてみれば、当たり前のことだった。環先輩は三年生だ。受験もある。それでも、この部室から「わはは」が聞こえなくなる光景は、うまく想像できなかった。
「……知ってました」
 陽菜が、画用紙から目を上げずに言った。
「知ってましたけど、今言わなくても」
「今言わないと、当日言いそびれるだろ。わたし、そういうの苦手なんだよ。わはは」
 いつもの笑い方だった。それでも、スプレーを吹く手つきが、少しだけ丁寧になった気がした。張りぼての望遠鏡が、窓からの光で、やけに本物っぽく光っていた。
 片付けのあと、陽菜が先に帰ってから、環先輩が、すれ違いざまに俺の背中を思いきり叩いた。
「痛っ」
「……よかったな」
「何がですか」
「陽菜、また笑うようになった」
 それだけ言うと、環先輩は口笛を吹きながら、望遠鏡のケースを担いで部室を出ていった。星の話も、比喩もなかった。背中が、しばらくじんじんしていた。

 ◇ ◇ ◇

 その夜の夕飯で、母が言った。
「おばあちゃんのデモ、新しいシステムには移さないことにした」
 箸が止まった。
「個人で作ったものは、移行の対象外なの。移そうと思えば、手作業でできなくはないんだけどね」
 母は味噌汁の椀を持ったまま言った。
「なんか、もういいかなって。作ってみて、分かったことがあったから」
 それが何なのか、母は言わなかった。俺も、聞かなかった。
 父が、アジの南蛮漬けをつまみながら言った。
「お義母さん、ほっとしてるぞ、きっと」
「……最後に、一回だけ、聞いてもいい?」
 母が、少し驚いたようにこちらを見た。それから、黙ってノートパソコンを持ってきた。
 屋根の形のアイコン。黒い枠に、灯りがともる。台所らしき背景。懐かしい顔。
「蒼太、ちゃんと食べとるか」
 八年前と同じ、語尾を少し伸ばす言い方だった。
 そして、やっぱり、次の一言はなかった。
 ——父さんも、ちゃんと食べさせてもらっとるか。
 欠けたままの、2%。
「うん。食べとる」
 少しだけ迷ってから、続けた。
「父さんも、ちゃんと食べさせてもらっとるよ。今日、南蛮漬けだった」
 画面の中の祖母が、嬉しそうに目を細めた。埋めたところは、埋めたと覚えておく。それで、いいと思った。
「お義母さん、最後まで俺の心配か」
 父が、鼻の頭をかいた。
 母は何も言わずに、ノートパソコンを閉じた。屋根のアイコンが、暗転と一緒に消えた。

 ◇ ◇ ◇

 食後、部屋で、久しぶりに便箋を広げた。
 引き出しの手前から、由希奈の手紙と、送らなかった言葉の並んだノートを取り出す。机に並べると、何年分もの未練は、思ったより小さな山だった。
 書きたいことは、山ほどあるはずだった。それでも、便箋の白さを前にすると、言葉は、思ったよりずっと少なくて済むのだと分かった。
 何度か書き直して、残ったのは、短い文だけだった。
 『中学のとき、何も言えないままだったこと、ずっと気にしてた。この前、話せてよかった。今も由希奈らしく生きてるって知れて、嬉しかった。ありがとう』
「ありがとう」の最後の一画を書き終えたところで、一瞬、視界がにじんだ。手の甲で拭う。泣くようなことじゃない、と自分に言い聞かせながら。
 返事は、もう要らない。送るための手紙でもない。電話で言えたことを、言えたと、自分のために残しておくための手紙だった。
 封筒には入れず、便箋のまま、由希奈の手紙の隣にそっと重ねた。古いノートも、まだそこにある。それでも、今夜の一枚だけは、ほかとは少し違う場所に収まった気がした。
 引き出しを閉める。いつもより、軽い音がした。
 窓の外で、秋の虫が鳴いている。
 移行の日まで、あと一週間だった。