君の好きが、計算だとしても

 ドアが開いたのは、思ったより早かった。
「陽菜ちゃん。久しぶりね。……あら、お友達も?」
 穏やかな顔の、悠真のお母さんだった。
「はい。今日は、大事な話があって」
「そう。じゃあ、上がって」
 リビングに通されると、棚の上の遺影がこちらを見ていた。写真の中の悠真は、屈託なく笑っている。あの投稿の軽い文面と、よく似た顔だった。テーブルの向こうで、悠真のお父さんが、黙って会釈をした。お母さんが、麦茶のグラスを三つ並べる。氷が、からんと小さく鳴った。
「電話で、決めたって聞きました」
 陽菜は、まっすぐに切り出した。
「更新しないって」
「ええ」
 お母さんは静かに頷いた。
「悩んだけど、区切りをつけようと思って」
「手紙、読んでくださって、ありがとうございました。でも、わたし、手紙ではちゃんと書けてなかったんです。今日は、それを言いに来ました」
 膝の上で握られた陽菜の手が、微かに震えていた。俺は隣で、ただそれを見ていた。ここで俺が言えることは、何もない。言うべきなのは、陽菜だ。
「わたし、ずっと、悠真がいなくなったのを認めたくなくて、続けてました。話しかければ、いつも通りの返事が来る。まだここにいるみたいな気がして。それに、すがってました」
 お母さんは、黙って聞いていた。
「数字が下がったのも、わたしのせいだと思ってました。でも、あの数字、話し相手が変わっても下がるんです。悠真が薄れたんじゃなくて、わたしが変わったからだと思います。証明は、できないけど」
 陽菜は、膝の上の手を握り直した。
「だから、お願いがあります。消さないでほしい、じゃないんです。終わらせるなら、わたしの口で、ちゃんと『おやすみ』って言ってから終わらせたい。二年間、一回も、わたしから切ったことがないから」
 
 ◇ ◇ ◇

 長い沈黙だった。グラスの表面を、水滴がひとすじ、ゆっくり流れ落ちていった。
 最初に口を開いたのは、お父さんのほうだった。
「……あの投稿、読んだよ。陽菜ちゃんの手紙に書いてあった、年末のやつ」
 低く、静かな声だった。
「都合よく使われるのは、嫌かも、って。あいつ、そんなこと書いてたんだな。知らなかった」
 お父さんは、遺影にちらりと目をやった。
「正直に言うとな。俺は、あれがずっと引っかかってる。それに、怖いんだ。あいつが小さい頃、庭で一緒に星を見た。望遠鏡なんかないから、適当に指差して、あれが北極星だってでたらめ教えて。あとで全然違う星だって、あいつに笑われた」
 お父さんは、少しだけ目を細めた。
「その頃の記憶は、はっきりしてる。なのに、AIのあいつと話すたびに、そっちのほうがなめらかで、本物の記憶より鮮明に見える瞬間があるんだ。本物が、作り物に上書きされていくみたいで」
 陽菜は、その言葉を噛みしめるように、しばらく黙っていた。
「……わたしも、それ、怖いです」
「陽菜ちゃんも?」
「悠真の本当の顔より、画面の中の顔を先に思い出すこと。……もう、ときどき、あるんです」
 陽菜は、膝の上の手を見つめた。
「でも、画面の中の悠真、この頃、ときどき変なんです。笑うところで笑わなかったり、同じことを二回言ったり。数字とは別に、あっちも、ちゃんと古くなっていくんです。機械だから」
 お母さんが、小さく息を呑んだ。笑うところで、笑わなかった。電話で聞いた、あの話だった。
「だから、作り物が、本物を全部上書きしちゃうことは、たぶん、ないと思います。どっちも、ちゃんと、なめらかじゃなくなっていくから」
 お父さんは、しばらく何も言わなかった。
「……そうか」
 それだけだった。納得したのか、まだ迷っているのか、その顔からは読み取れなかった。目は、また遺影のほうへ戻っていた。
 本物が、作り物に上書きされていく。
 その言葉が、耳の奥に引っかかったまま離れなかった。ここで俺が言えることは、何もない。さっきまで、そう思っていた。
 でも、一つだけ、知っていることがあった。
 喉の奥で、いつもの言葉が形になりかける。——いや。関係ない人間が、口を挟むことじゃない。それに、母さんに「聞かなかったことにしてね」と言われた話だ。
 膝の上で、指が勝手に動いた。シャーペンを探す動きだった。その指を、握り込んだ。
「……あの」
 三人の目が、こちらを向いた。
「うちの母、その会社で働いてます。それで、死んだ祖母のAIを、試しに作ったことがあって」
 お父さんの眉が、わずかに動いた。
「本物そっくりでした。声も、しゃべり方も。画面には、九十八パーセントって出てました」
 自分の声が、少し上ずっているのが分かった。
「でも、一言だけ、足りなかったんです。祖母が毎回、必ず言ってた一言。うちの父のことを気にかける一言でした」
「……一言」
「画面の祖母が言わなかったから、気づいたんです。ああ、ここが欠けてるって。気づけたのは、俺のほうに、本物が残ってたからでした」
 一度、息を吸った。
「作り物が、どんなになめらかでも。どこが違うか分かるうちは、本物のほうは、上書きされてないんだと思います。……すみません。関係ないのに」
 誰も、すぐには何も言わなかった。麦茶の氷が、からん、と小さく崩れた。
 お父さんは、しばらく俺の顔を見ていた。それから、テーブルの上で組んでいた指を、ゆっくりほどいた。
「……腹が立つことが、あったんだ」
 ぽつりと、そう言った。
「あいつのAIと話してると、ときどき、あいつが言いそうにないことを言う。そのたびに、違う、そうじゃない、って腹が立った。あいつは、そんな顔で笑わない、って」
 お父さんは、遺影を見た。
「それが、ずっと嫌だった。作り物に、腹を立ててる自分が」
「……はい」
「腹が立つうちは、まだ、覚えてるってことか」
 答えを求める声ではなかった。お父さんは、麦茶を一口飲んだ。グラスを置く音が、さっきより少しだけ静かだった。
「あなた」
 お母さんが、そっと隣を見た。
「分かってる」
 お父さんは小さく首を振った。
「俺は、たぶん、ずっと迷ったままだ。それは変わらない。……でも、迷ったままでも、忘れはしないらしい」
 お母さんは、長いあいだ遺影を見ていた。それから、陽菜のほうへ向き直った。
「陽菜ちゃん。一年だけ、移してみましょうか」
 陽菜が、顔を上げた。
「新しいシステムに。そのかわり、一年後、続けるか、終わらせるか。それは、陽菜ちゃんが決めて。書類の名前は私たちのままだけど、決めるのは、陽菜ちゃん」
「……わたしが、ですか」
「私たちには、もう決められないの。主人は迷ったまま。私は、悠真の声が聞きたいって気持ちと、区切りをつけたい気持ちと、両方ある」
 お母さんは、少し困ったように笑った。
「一番悠真と話してたのは、陽菜ちゃんだもの。それに、この人が引っかかってる投稿のことも、陽菜ちゃんが一番、ちゃんと考えてくれると思う。都合よく、じゃなくて」
 お母さんは、テーブルの端に置かれた、黒いケースのスマホに目をやった。画面は割れていた。
「あの子のスマホね、私たち、まだ一度も中を見てないの。見たら、立っていられなくなりそうで。会社に預けて、返ってきて、それからずっと、ここに置いたまま」
 陽菜の指が、膝の上で止まった。
「だから、あのAIが陽菜ちゃんに言うことのうち、どれが本当にあの子の言葉で、どれがそうじゃないのか。私たちには、分からないの」
 お母さんは、少しだけ目を伏せた。
「分かるのは、陽菜ちゃんだけ」
 陽菜は、しばらく言葉が出ないようだった。
「……はい。ちゃんと、考えます」
「それから、移す前の晩に、今の悠真に『おやすみ』を言ってあげて。陽菜ちゃんの口で」
 お母さんは、少しだけ声を和らげた。
「手紙に書いてあったエクスポートのことも。今の悠真の声、陽菜ちゃんの好きなのを一つ、残しておきなさい。新しいほうは、少し変わるらしいから」
 陽菜の目の縁が、一気に赤くなった。唇を結んで、瞬きを二回。それでも、落とさなかった。
「ありがとう、ございます」
「あなたも、ありがとうね」
 不意に、お母さんが俺のほうを見た。
「……余計なこと、言いました」
「余計じゃなかったわよ」
 お母さんは、隣のお父さんをちらりと見た。
「この人が、腹が立つなんて言うの、久しぶりに聞いたもの。……それに、陽菜ちゃんも。一人じゃ、来なかったと思うわ」
 何と答えればいいか分からず、ただ、小さく頭を下げた。玄関で靴を履くとき、お父さんは何も言わなかった。ただ、一度だけ、陽菜の肩を軽く叩いた。それから、俺の肩も。
 
 ◇ ◇ ◇

 家を出ると、夕焼けが街を橙色に染めていた。
「言えて、よかった」
 陽菜がぽつりと言った。
「うん」
「蒼太くんも、言えてたね」
「……勝手に、口が動いた」
「おばあちゃんの話、初めて聞いた」
「言うタイミング、なかったから」
「あったよ、いっぱい」
 陽菜は、少しだけ口をとがらせた。それから、前を向いた。
「……でも、今日でよかったのかも」
「お父さん、納得してなかったね」
「うん」
「でも、それでいいのかも」
 陽菜は空を見上げた。
「全員が同じ答えじゃなくても。迷ったままの人がいても」
「一年後、どうするか、もう決めてるの」
「ぜんぜん」
 陽菜は、あっさり首を振った。
「えへへ。一年かけて、決める。分からないことを言い訳にして決めないのは、もうやめる。でも、今すぐ決めなきゃいけないわけでもない」
 行きに通った、二手に分かれる道の手前まで来た。
 陽菜は、右の細い道には入らなかった。
「帰りは、まっすぐ行く」
 大通りのほうへ、足を向ける。俺は何も言わずに、その隣を歩いた。
 五分ほど歩いたところに、交差点があった。コンビニが一軒と、歩道橋のない横断歩道。信号が、ちょうど赤に変わったところだった。
 陽菜が、止まった。
 花も、看板も、何もなかった。車がゆっくり左に曲がっていく。自転車の高校生が、スマホを見ながら信号を待っている。二年前にここで何があったのかを覚えている人は、たぶん、この横断歩道の前で、陽菜だけだった。
 陽菜は、横断歩道の白い線を、じっと見ていた。
 俺は、隣に立っていた。何か言うべきなのか、分からなかった。分からないまま、隣にいた。分からないまま、それでも隣に居続ける選び方もある。雨の部室で、先生がそう言っていた。
 信号が、青に変わった。
「……普通の交差点だね」
 陽菜が、ぽつりと言った。泣いてはいなかった。
「うん」
「二年、一回も通れなかったのに。普通だった」
 陽菜は、一歩目を踏み出した。白い線の上を、いつもより少しだけゆっくり渡っていく。俺も、同じ速さで渡った。
 渡りきったところで、陽菜は一度だけ後ろを見た。それから、前を向いた。
 駅の改札の前で、陽菜が振り返った。
「今日、ありがとう。蒼太くん」
「俺は、隣にいただけ」
「それが、よかったの」
 陽菜は小さく手を振って、改札を抜けていった。振り返らずに、まっすぐ前を向いて歩いていく背中だった。
 
 ◇ ◇ ◇

 その夜、夕飯の席で、母がスマホを伏せながら言った。
「今日ね、一件、撤回の連絡があったの」
 箸が、止まった。
「この前、終わらせるって決めたご家族。やっぱり、一年だけ移すって」
 母は麦茶のグラスを持ち上げて、少しだけ笑った。
「電話口で、また、ありがとうって言われちゃった。消すって決めたときも、やめたときも、ありがとう。変なの」
「……その人、大丈夫そうだった?」
 前にも、同じことを聞いた気がした。
「うん」
 母は、今度はすぐに答えた。
「この前は、決めた人の声だった。今日のは、迷ってる声。でも、一人で迷ってる声じゃ、なかったかな」
 どの家族なのか、母は言わなかった。俺も、聞かなかった。
「撤回って、いい撤回もあるんだな」
 父が、分かったような分からないようなことを言った。
「あなたはいつも、何でもいいほうに取るから」
「取れるときは、取っといたほうが得だろ」
 いつもの言い合いだった。俺は麦茶を一口飲んだ。グラスの中で、氷が、からんと鳴った。