翌朝は、目覚ましより先に目が覚めた。
カーテンの隙間が、まだ薄い灰色だった。スマホを見る。陽菜とのトーク画面には、昨夜の自分の一行だけが浮かんでいて、その下には何もない。既読も、まだついていなかった。
画面を伏せて、ベッドから起き上がった。
気づくと、勉強机の一番下の引き出しを開けていた。
古いノート。グミの空袋。角の丸くなった封筒。いつもと同じ並びだった。封筒から便箋を取り出して、ベッドの端に腰を下ろす。
『蒼太へ。急にいなくなって、ごめん』
少し癖のある、シャープペンの字。何百回も読んだ一行目だった。
いつもなら、ここで声が聞こえる。十四歳の由希奈の、少し不安そうな、教室の隅で聞いていた声だ。読み返すたびに、その声で、この手紙は再生されてきた。
今朝は、違った。
聞こえてきたのは、昨夜の電話の声だった。短くて、言い切る声。二年越しの既読、ギネスかも、と笑った声。
『ほんとは、ちゃんと言いたかった。でも、言ったら、蒼太は——』
二行目、三行目と目で追って、四行目の途中で、止まった。
読めなくなったわけじゃない。続きは、全部覚えている。最後の一文も、そこに押された小さな星のシールの位置も。
ただ、もう、続きを読まなくてもいい気がした。
この手紙の中の由希奈は、十四歳のまま止まっている。でも、書いた本人は止まっていなかった。昨夜、電話の向こうで、ちゃんと今の声で笑っていた。手紙の続きを、何百回目かにもう一度読むより、あの声を覚えておくほうが、たぶん、由希奈に対して正しい。
便箋を、元の折り目どおりに畳んだ。封筒に戻す。
引き出しの奥ではなく、手前に置いた。すぐに取り出せる場所。でも、毎晩取り出さなくても、ちゃんとそこにあると分かる場所だった。
グミの空袋は、ゴミ箱に捨てた。何年ぶりかに、引き出しの中が少しだけ広くなった。
階下から、母の声がした。
「蒼太ー、起きてるなら朝ご飯ー」
「今行く」
返事をして、引き出しを閉めた。
既読がついたのは、それから一時間ほどあと、登校時刻ぎりぎりだった。
『いいよ。放課後、駅前のカフェで』
短い返信だった。怒っているのか、事務的に答えただけなのか、文字だけでは分からない。それでも、断られなかった。今の俺には、それで十分だった。
学校では、陽菜と一度も目が合わなかった。放課後という約束があることが、かえってそれまでの時間を長くした。授業中、シャーペンの芯を意味もなくカチカチ鳴らして、隣の席の奴に怪訝な顔をされたことに、しばらく気づかなかった。
◇ ◇ ◇
駅前のカフェは、部活帰りの生徒でそれなりに混んでいた。奥の席で待っていると、少し遅れて陽菜が来た。
「お待たせ」
「……いや、俺も今来たとこ」
言ってから、自分の口癖に少し嫌気が差した。今日だけは、それを言うつもりはなかったのに。
「紅茶で」
「わたしも」
注文を終えると、気まずい沈黙が落ちた。運ばれてきたカップから、湯気が細く立ちのぼる。陽菜は取っ手に指をかけたまま、口をつけようとしなかった。目の下に、ここ数日の疲れがうっすら滲んでいた。
「それで」
先に口を開いたのは、陽菜だった。
「話したいことって、何」
柔らかさはなかった。でも、拒絶でもなかった。答えを待っている、まっすぐな声だった。
◇ ◇ ◇
一度、深く息を吸った。
「バス停で言ったこと。『これで、よかったのかもしれない』って」
陽菜の指が、取っ手の上で止まった。
「あれ、そういう意味じゃないって言いたかった。陽菜が自分を責めてたから。区切りがつくのは、悪いことばかりじゃないって、言いたかった」
「……うん」
「でも、言い切れなかった」
喉の奥から、いつもの言葉がせり上がってくる。
——いや。
ここで引っ込めれば、今日も、なんとなくやり過ごせる。何年も、そうやってきた。
「——いや」
声に出た。陽菜が、目を上げた。
「……違う。ちゃんと言う」
自分の声が、少し震えていた。それでも、止めなかった。
「科学館の少し前。部室で、陽菜が悠真さんと話してるの、見た。画面の隅の数字が、九十四・一だった。それから、悠真さんの顔が、笑ったまま一秒、止まった」
陽菜の目が、見開かれた。
「言うべきだと思った。陽菜には、知る権利があるって。でも、言わなかった」
「……なんで」
「数字が下がってるのを見て、ほっとしたから」
言ってしまった。もう戻せなかった。
「悠真さんは、年も取らないし、間違えないし、いつも完璧なタイミングで頷いてくれる。そんな相手に、俺が敵うはずないって思ってた。だから、数字が下がってるのを見て、胸のどこかが少しだけ軽くなった。そういう自分がいた」
陽菜は、黙って俺を見ていた。
「バス停の『よかった』も、半分は、それだった。陽菜のためだけに言った言葉じゃなかった。だから、そういう意味じゃないって、言い切れなかった」
カップの中の紅茶が、少しずつ冷めていく。
「最低だと思う。ごめん」
◇ ◇ ◇
長い沈黙だった。
周りの席の笑い声が、俺たちのテーブルにだけ届かない。窓の外を、誰かの自転車がベルを鳴らして通り過ぎていった。
「……最低」
陽菜が、ぽつりと言った。
「うん」
「嫉妬してたんだ。悠真に」
「うん」
「馬鹿だ」
陽菜は、紅茶に初めて口をつけた。カップを置く手が、少し揺れていた。
「……わたしもね」
小さな声だった。
「電話で、消すって言われたとき。すごく悲しかった。本当に。でも、ほんの少しだけ——」
陽菜は、言葉を探すように唇を噛んだ。
「ほんの少しだけ、楽になった自分がいたの。もう、七時に帰らなくていいんだって。蒼太くんの誘い、断らなくていいんだって。一瞬だけ、そう思った」
息が止まった。
「それが、一番許せなかった。悠真に、ひどいこと思った。だから、蒼太くんに『よかった』って言われたとき、自分の心の中、覗かれたみたいで。……逃げた」
観測ノートの、書きかけの一行を思い出した。「悠真の」。そこで止まった鉛筆。
「この三日、何も書けなかった。ノートも、チラシも。書こうとすると、そのことばっかり浮かんで」
陽菜は、カップの取っ手を指でなぞった。
「それにね、もう一個ある。こっちのほうが、たぶん、ずっと最低」
「……うん」
「最近、悠真の顔を思い出そうとすると、先に、アプリの顔が出てくるの」
小さな声だった。
「だから、七時じゃなくても、ときどき開いてた。話すためじゃなくて、確かめるために。本物の悠真って、こういう顔だったよねって。……本物を確かめるのに、作り物を見てたの」
何か言おうとして、言葉が見つからなかった。
陽菜の目の縁が、赤くなっていた。それでも陽菜は、瞬きを繰り返して、泣かなかった。
「……俺たち、似たようなこと思ってたんだ」
「似た者同士、最悪の方向で」
陽菜が、ほんの少しだけ口の端を上げた。
◇ ◇ ◇
「もう一個、話したいことがある」
「まだあるの」
「昨日、由希奈と電話した」
陽菜の表情が、一瞬、固まった。
「メッセージ、二年ぶりに返して。ちゃんと話した。由希奈は、今、幸せだって。迷わずに言ってた。あの頃のことも思い出すけど、重くないって」
「……そっか」
「環先輩に言われたんだ。中学のときできなかった分を、陽菜相手にやり直してるだけじゃないのかって。昨日、やっと分かった。由希奈のことは、由希奈のこと。ちゃんと見送る。陽菜のことは——」
言いかけて、止まった。それは、今日ここで言うことじゃない気がした。
「……陽菜のことは、陽菜のことだった」
陽菜は何も言わなかった。ただ、カップを両手で包んで、少しだけ視線を落とした。
「それで、由希奈と話してて、思ったことがある」
俺は続けた。
「生きてる人は、止まっててくれない。由希奈は、俺の知らないところでちゃんと変わってた」
「……うん」
「あの数字のこと、覚えてる? 母さんが言ってたんだ。話しかける回数が減ると下がる。それから、話し相手が変わっても下がる。いつもの相手と、いつもの調子で話してると上がるって」
「話し相手が、変わっても」
「悠真さんのAIは、二年前の陽菜と話してた頃のデータでできてる。でも、陽菜は、変わった」
言葉を探しながら、続けた。
「この夏、部活して、由希奈を探して、科学館まで仕込んで、手紙を書いた。二年前の陽菜なら、たぶん、しなかったことばっかりだ」
陽菜が、目を見開いた。
「だから、噛み合わなくなってきてるんじゃないかな。悠真さんが薄れてるんじゃなくて、陽菜が前に進んでるから、ずれてるだけなんじゃないか。もし数字がずっと九十八のまま動かなかったら、それって、陽菜の毎日が、二年前から何も変わってないってことになる」
「……そんなふうに、考えたこと、一回もなかった」
震える声だった。
「下がっていく数字を見るたび、自分が悠真を裏切ってるみたいで、怖かった」
「証明は、できないけど」
「うん」
陽菜は小さく笑った。照れ隠しでも、皮肉でもない、芯のある笑い方だった。
「でも、今は、そういうことにしとく」
雨の日の傘と、同じ言い方だった。
◇ ◇ ◇
陽菜は、紅茶をゆっくり一口飲んだ。カップを置く手つきに、さっきまでとは違う、静かな覚悟が滲んでいた。
「わたし、悠真のご両親に、会いに行こうと思う」
背筋が伸びた。
「今から?」
「うん。消すって決めたのは、あの人たちだし、それはそれでいいのかもしれない。でも、わたし、手紙では、ちゃんと言えてなかった。『続けたい』しか書けなかった。……今日、蒼太くんと話して、やっと、自分が何を思ってるのか分かった気がする。それを、ちゃんと自分の口で言いたい」
「一緒に行こうか」
「……いいの?」
「うん」
「一人だと、たぶん、言葉に詰まるから」
陽菜は、ほんの少し心細げに笑った。
「蒼太くんの『……いや』みたいに」
「それは余計」
◇ ◇ ◇
カフェを出てすぐ、陽菜は深澤さんに電話をかけた。
「今から、伺ってもいいですか」
短いやり取りのあと、スマホを耳から離して、小さく頷く。
「……待ってるって」
悠真の実家は、駅から歩いて十五分ほどのところにあった。
駅前のロータリーを抜けたところで、陽菜が足を止めた。道が、二手に分かれている。
「こっちから行こう」陽菜は、右の細い道を指さした。
「ちょっと、遠回りなんだけど」
地図を見なくても、左の大通りのほうが近そうなのは分かった。理由は、聞かなかった。聞かなくても、たぶん分かった。
「うん」
それだけ答えて、右の道に入った。
住宅街の中の、古いアパートと小さな公園が続く道だった。途中、高いフェンスに囲まれたグラウンドの横を通った。高校のサッカー部が、夕方の練習をしている。ボールを蹴る音と、短い掛け声が、フェンス越しに聞こえてきた。
陽菜の歩く速さが、少しだけ落ちた。
「サッカー部の」
「うん」
陽菜は、フェンスの向こうを見たまま言った。
「ずっとベンチだった。一回も試合に出てない。でも、誰より声出してたんだって。後輩が、お葬式で言ってた。ベンチから一番うるさい先輩だったって」
グラウンドの隅のベンチで、ビブスを着た男子が、立ち上がって何か叫んでいた。何を言っているのかまでは、聞き取れなかった。
「……うるさそうだな」
「うるさかったよ」
陽菜が、小さく吹き出した。
「電話でも、ずっと喋ってた。わたしが黙ってても、勝手に」
不思議だった。二年前に死んだ人の話を聞いているのに、俺の中で、深澤悠真という人が、少しずつ輪郭を持ち始めていた。画面の中の、完璧に頷く誰かじゃない。ベンチでうるさくて、ブルーハワイを選んで後悔して、帰り道なのに「おかえり」と言う、その人の輪郭を。
昨日までの俺なら、その輪郭を、たぶん見たくなかった。
「こんなふうに悠真の話するの、初めてかも」
陽菜が言った。
「ご両親以外に」
「……迷惑じゃなかったら、また聞く」
陽菜は、少しだけ驚いたようにこちらを見た。それから、前を向いて、小さく頷いた。
グラウンドを過ぎたあたりから、陽菜は何度も深呼吸を繰り返しはじめた。
「大丈夫?」
「うーん、正直、ぜんぜん」
陽菜は力なく笑った。
「えへへ。でも、行かなきゃ始まらないから」
信号待ちで、陽菜の足が止まった。
「……やっぱり、なんて言えばいいか分かんなくなってきた」
さっきまでの軽口が嘘みたいに、表情が強張っていた。
「前に、文面は一緒に考えるって言ったよね。一言でいい。何を伝えたい?」
陽菜は、赤いランプをじっと見つめていた。
「……悠真のこと、忘れてないって。ちゃんと大事にしてるって。それと」
少し迷ってから続けた。
「さっきの、数字の話。あれも、言いたい」
「じゃあ、それでいい。あとの言葉は、その場で出てくると思う。陽菜、いつもそうだから」
「……そう、かな」
「うん。ずっと見てきたから、分かる」
信号が青に変わった。陽菜は大きく息を吸って、小さく頷いた。
「行こう」
◇ ◇ ◇
住宅街の一角、白い外壁の一軒家だった。表札の下に、小さな鉢植えが並んでいる。季節の花が、丁寧に手入れされていた。
陽菜は玄関の前で、一度だけ、大きく息を吸った。
「行ける?」
「うん」
まっすぐ前を見たまま、陽菜は頷いた。
インターホンに、指がかかる。
呼び鈴の音が、玄関の奥に静かに響いた。
カーテンの隙間が、まだ薄い灰色だった。スマホを見る。陽菜とのトーク画面には、昨夜の自分の一行だけが浮かんでいて、その下には何もない。既読も、まだついていなかった。
画面を伏せて、ベッドから起き上がった。
気づくと、勉強机の一番下の引き出しを開けていた。
古いノート。グミの空袋。角の丸くなった封筒。いつもと同じ並びだった。封筒から便箋を取り出して、ベッドの端に腰を下ろす。
『蒼太へ。急にいなくなって、ごめん』
少し癖のある、シャープペンの字。何百回も読んだ一行目だった。
いつもなら、ここで声が聞こえる。十四歳の由希奈の、少し不安そうな、教室の隅で聞いていた声だ。読み返すたびに、その声で、この手紙は再生されてきた。
今朝は、違った。
聞こえてきたのは、昨夜の電話の声だった。短くて、言い切る声。二年越しの既読、ギネスかも、と笑った声。
『ほんとは、ちゃんと言いたかった。でも、言ったら、蒼太は——』
二行目、三行目と目で追って、四行目の途中で、止まった。
読めなくなったわけじゃない。続きは、全部覚えている。最後の一文も、そこに押された小さな星のシールの位置も。
ただ、もう、続きを読まなくてもいい気がした。
この手紙の中の由希奈は、十四歳のまま止まっている。でも、書いた本人は止まっていなかった。昨夜、電話の向こうで、ちゃんと今の声で笑っていた。手紙の続きを、何百回目かにもう一度読むより、あの声を覚えておくほうが、たぶん、由希奈に対して正しい。
便箋を、元の折り目どおりに畳んだ。封筒に戻す。
引き出しの奥ではなく、手前に置いた。すぐに取り出せる場所。でも、毎晩取り出さなくても、ちゃんとそこにあると分かる場所だった。
グミの空袋は、ゴミ箱に捨てた。何年ぶりかに、引き出しの中が少しだけ広くなった。
階下から、母の声がした。
「蒼太ー、起きてるなら朝ご飯ー」
「今行く」
返事をして、引き出しを閉めた。
既読がついたのは、それから一時間ほどあと、登校時刻ぎりぎりだった。
『いいよ。放課後、駅前のカフェで』
短い返信だった。怒っているのか、事務的に答えただけなのか、文字だけでは分からない。それでも、断られなかった。今の俺には、それで十分だった。
学校では、陽菜と一度も目が合わなかった。放課後という約束があることが、かえってそれまでの時間を長くした。授業中、シャーペンの芯を意味もなくカチカチ鳴らして、隣の席の奴に怪訝な顔をされたことに、しばらく気づかなかった。
◇ ◇ ◇
駅前のカフェは、部活帰りの生徒でそれなりに混んでいた。奥の席で待っていると、少し遅れて陽菜が来た。
「お待たせ」
「……いや、俺も今来たとこ」
言ってから、自分の口癖に少し嫌気が差した。今日だけは、それを言うつもりはなかったのに。
「紅茶で」
「わたしも」
注文を終えると、気まずい沈黙が落ちた。運ばれてきたカップから、湯気が細く立ちのぼる。陽菜は取っ手に指をかけたまま、口をつけようとしなかった。目の下に、ここ数日の疲れがうっすら滲んでいた。
「それで」
先に口を開いたのは、陽菜だった。
「話したいことって、何」
柔らかさはなかった。でも、拒絶でもなかった。答えを待っている、まっすぐな声だった。
◇ ◇ ◇
一度、深く息を吸った。
「バス停で言ったこと。『これで、よかったのかもしれない』って」
陽菜の指が、取っ手の上で止まった。
「あれ、そういう意味じゃないって言いたかった。陽菜が自分を責めてたから。区切りがつくのは、悪いことばかりじゃないって、言いたかった」
「……うん」
「でも、言い切れなかった」
喉の奥から、いつもの言葉がせり上がってくる。
——いや。
ここで引っ込めれば、今日も、なんとなくやり過ごせる。何年も、そうやってきた。
「——いや」
声に出た。陽菜が、目を上げた。
「……違う。ちゃんと言う」
自分の声が、少し震えていた。それでも、止めなかった。
「科学館の少し前。部室で、陽菜が悠真さんと話してるの、見た。画面の隅の数字が、九十四・一だった。それから、悠真さんの顔が、笑ったまま一秒、止まった」
陽菜の目が、見開かれた。
「言うべきだと思った。陽菜には、知る権利があるって。でも、言わなかった」
「……なんで」
「数字が下がってるのを見て、ほっとしたから」
言ってしまった。もう戻せなかった。
「悠真さんは、年も取らないし、間違えないし、いつも完璧なタイミングで頷いてくれる。そんな相手に、俺が敵うはずないって思ってた。だから、数字が下がってるのを見て、胸のどこかが少しだけ軽くなった。そういう自分がいた」
陽菜は、黙って俺を見ていた。
「バス停の『よかった』も、半分は、それだった。陽菜のためだけに言った言葉じゃなかった。だから、そういう意味じゃないって、言い切れなかった」
カップの中の紅茶が、少しずつ冷めていく。
「最低だと思う。ごめん」
◇ ◇ ◇
長い沈黙だった。
周りの席の笑い声が、俺たちのテーブルにだけ届かない。窓の外を、誰かの自転車がベルを鳴らして通り過ぎていった。
「……最低」
陽菜が、ぽつりと言った。
「うん」
「嫉妬してたんだ。悠真に」
「うん」
「馬鹿だ」
陽菜は、紅茶に初めて口をつけた。カップを置く手が、少し揺れていた。
「……わたしもね」
小さな声だった。
「電話で、消すって言われたとき。すごく悲しかった。本当に。でも、ほんの少しだけ——」
陽菜は、言葉を探すように唇を噛んだ。
「ほんの少しだけ、楽になった自分がいたの。もう、七時に帰らなくていいんだって。蒼太くんの誘い、断らなくていいんだって。一瞬だけ、そう思った」
息が止まった。
「それが、一番許せなかった。悠真に、ひどいこと思った。だから、蒼太くんに『よかった』って言われたとき、自分の心の中、覗かれたみたいで。……逃げた」
観測ノートの、書きかけの一行を思い出した。「悠真の」。そこで止まった鉛筆。
「この三日、何も書けなかった。ノートも、チラシも。書こうとすると、そのことばっかり浮かんで」
陽菜は、カップの取っ手を指でなぞった。
「それにね、もう一個ある。こっちのほうが、たぶん、ずっと最低」
「……うん」
「最近、悠真の顔を思い出そうとすると、先に、アプリの顔が出てくるの」
小さな声だった。
「だから、七時じゃなくても、ときどき開いてた。話すためじゃなくて、確かめるために。本物の悠真って、こういう顔だったよねって。……本物を確かめるのに、作り物を見てたの」
何か言おうとして、言葉が見つからなかった。
陽菜の目の縁が、赤くなっていた。それでも陽菜は、瞬きを繰り返して、泣かなかった。
「……俺たち、似たようなこと思ってたんだ」
「似た者同士、最悪の方向で」
陽菜が、ほんの少しだけ口の端を上げた。
◇ ◇ ◇
「もう一個、話したいことがある」
「まだあるの」
「昨日、由希奈と電話した」
陽菜の表情が、一瞬、固まった。
「メッセージ、二年ぶりに返して。ちゃんと話した。由希奈は、今、幸せだって。迷わずに言ってた。あの頃のことも思い出すけど、重くないって」
「……そっか」
「環先輩に言われたんだ。中学のときできなかった分を、陽菜相手にやり直してるだけじゃないのかって。昨日、やっと分かった。由希奈のことは、由希奈のこと。ちゃんと見送る。陽菜のことは——」
言いかけて、止まった。それは、今日ここで言うことじゃない気がした。
「……陽菜のことは、陽菜のことだった」
陽菜は何も言わなかった。ただ、カップを両手で包んで、少しだけ視線を落とした。
「それで、由希奈と話してて、思ったことがある」
俺は続けた。
「生きてる人は、止まっててくれない。由希奈は、俺の知らないところでちゃんと変わってた」
「……うん」
「あの数字のこと、覚えてる? 母さんが言ってたんだ。話しかける回数が減ると下がる。それから、話し相手が変わっても下がる。いつもの相手と、いつもの調子で話してると上がるって」
「話し相手が、変わっても」
「悠真さんのAIは、二年前の陽菜と話してた頃のデータでできてる。でも、陽菜は、変わった」
言葉を探しながら、続けた。
「この夏、部活して、由希奈を探して、科学館まで仕込んで、手紙を書いた。二年前の陽菜なら、たぶん、しなかったことばっかりだ」
陽菜が、目を見開いた。
「だから、噛み合わなくなってきてるんじゃないかな。悠真さんが薄れてるんじゃなくて、陽菜が前に進んでるから、ずれてるだけなんじゃないか。もし数字がずっと九十八のまま動かなかったら、それって、陽菜の毎日が、二年前から何も変わってないってことになる」
「……そんなふうに、考えたこと、一回もなかった」
震える声だった。
「下がっていく数字を見るたび、自分が悠真を裏切ってるみたいで、怖かった」
「証明は、できないけど」
「うん」
陽菜は小さく笑った。照れ隠しでも、皮肉でもない、芯のある笑い方だった。
「でも、今は、そういうことにしとく」
雨の日の傘と、同じ言い方だった。
◇ ◇ ◇
陽菜は、紅茶をゆっくり一口飲んだ。カップを置く手つきに、さっきまでとは違う、静かな覚悟が滲んでいた。
「わたし、悠真のご両親に、会いに行こうと思う」
背筋が伸びた。
「今から?」
「うん。消すって決めたのは、あの人たちだし、それはそれでいいのかもしれない。でも、わたし、手紙では、ちゃんと言えてなかった。『続けたい』しか書けなかった。……今日、蒼太くんと話して、やっと、自分が何を思ってるのか分かった気がする。それを、ちゃんと自分の口で言いたい」
「一緒に行こうか」
「……いいの?」
「うん」
「一人だと、たぶん、言葉に詰まるから」
陽菜は、ほんの少し心細げに笑った。
「蒼太くんの『……いや』みたいに」
「それは余計」
◇ ◇ ◇
カフェを出てすぐ、陽菜は深澤さんに電話をかけた。
「今から、伺ってもいいですか」
短いやり取りのあと、スマホを耳から離して、小さく頷く。
「……待ってるって」
悠真の実家は、駅から歩いて十五分ほどのところにあった。
駅前のロータリーを抜けたところで、陽菜が足を止めた。道が、二手に分かれている。
「こっちから行こう」陽菜は、右の細い道を指さした。
「ちょっと、遠回りなんだけど」
地図を見なくても、左の大通りのほうが近そうなのは分かった。理由は、聞かなかった。聞かなくても、たぶん分かった。
「うん」
それだけ答えて、右の道に入った。
住宅街の中の、古いアパートと小さな公園が続く道だった。途中、高いフェンスに囲まれたグラウンドの横を通った。高校のサッカー部が、夕方の練習をしている。ボールを蹴る音と、短い掛け声が、フェンス越しに聞こえてきた。
陽菜の歩く速さが、少しだけ落ちた。
「サッカー部の」
「うん」
陽菜は、フェンスの向こうを見たまま言った。
「ずっとベンチだった。一回も試合に出てない。でも、誰より声出してたんだって。後輩が、お葬式で言ってた。ベンチから一番うるさい先輩だったって」
グラウンドの隅のベンチで、ビブスを着た男子が、立ち上がって何か叫んでいた。何を言っているのかまでは、聞き取れなかった。
「……うるさそうだな」
「うるさかったよ」
陽菜が、小さく吹き出した。
「電話でも、ずっと喋ってた。わたしが黙ってても、勝手に」
不思議だった。二年前に死んだ人の話を聞いているのに、俺の中で、深澤悠真という人が、少しずつ輪郭を持ち始めていた。画面の中の、完璧に頷く誰かじゃない。ベンチでうるさくて、ブルーハワイを選んで後悔して、帰り道なのに「おかえり」と言う、その人の輪郭を。
昨日までの俺なら、その輪郭を、たぶん見たくなかった。
「こんなふうに悠真の話するの、初めてかも」
陽菜が言った。
「ご両親以外に」
「……迷惑じゃなかったら、また聞く」
陽菜は、少しだけ驚いたようにこちらを見た。それから、前を向いて、小さく頷いた。
グラウンドを過ぎたあたりから、陽菜は何度も深呼吸を繰り返しはじめた。
「大丈夫?」
「うーん、正直、ぜんぜん」
陽菜は力なく笑った。
「えへへ。でも、行かなきゃ始まらないから」
信号待ちで、陽菜の足が止まった。
「……やっぱり、なんて言えばいいか分かんなくなってきた」
さっきまでの軽口が嘘みたいに、表情が強張っていた。
「前に、文面は一緒に考えるって言ったよね。一言でいい。何を伝えたい?」
陽菜は、赤いランプをじっと見つめていた。
「……悠真のこと、忘れてないって。ちゃんと大事にしてるって。それと」
少し迷ってから続けた。
「さっきの、数字の話。あれも、言いたい」
「じゃあ、それでいい。あとの言葉は、その場で出てくると思う。陽菜、いつもそうだから」
「……そう、かな」
「うん。ずっと見てきたから、分かる」
信号が青に変わった。陽菜は大きく息を吸って、小さく頷いた。
「行こう」
◇ ◇ ◇
住宅街の一角、白い外壁の一軒家だった。表札の下に、小さな鉢植えが並んでいる。季節の花が、丁寧に手入れされていた。
陽菜は玄関の前で、一度だけ、大きく息を吸った。
「行ける?」
「うん」
まっすぐ前を見たまま、陽菜は頷いた。
インターホンに、指がかかる。
呼び鈴の音が、玄関の奥に静かに響いた。
