陽菜の後ろ姿が見えなくなっても、しばらく自転車置き場を動けなかった。
「お、まだいたのか」
忘れ物を取りに戻ってきたらしい環先輩と、鉢合わせした。俺の顔を一瞥すると、環先輩は何も聞かずに、隣の自転車のサドルに腰を乗せた。
「連星の話、まだ考えてんのか」
「……陽菜に、言わなきゃいけないことがあるんです。でも、いざとなると、言葉が止まる」
「『……いや』ってやつか」
「はい」
環先輩は、暗くなり始めた空を見上げた。頭の真上に近いところで、白い星がひとつ、もう光っていた。
「あれ、ベガな。織姫」
顎で、星を指す。
「あの光、二十五年くらい前に向こうを出発したやつだぞ。届くまで、それだけかかる。でも、出発させなきゃ、いつまで経っても届かない」
「……環先輩でも、そういうこと言うんですね」
「わはは、失礼な奴だな」
環先輩は立ち上がった。
「送るタイミングは、お前が決めろ。それだけ」
◇ ◇ ◇
まっすぐ家に帰る気になれず、気づけば、土手道にハンドルを切っていた。
陽菜と取引をした川原だった。あの日は、雨が川面を叩いていた。今は、対岸の街灯が、水面にぽつぽつと滲んでいるだけだ。
石の護岸に腰を下ろした。
あの日、陽菜が膝を抱えて座っていたのは、たぶん、この少し下流だった。雨で髪が頬に張りついていて、俺が「探した」と言ったら、「そんなに必死になって、探すことないのに」と言った。
取引、しない?
あの一言から、全部が始まった。由希奈を探してもらう代わりに、期限のことを教える。おあいこ。悪だくみみたい、と陽菜は笑った。
その取引は、もう終わった。由希奈は見つかって、悠真のデータは消えると決まった。陽菜の言ったとおりだ。取引、終わりだね。
なのに、俺はまだ、ここに座っている。
スマホを取り出して、陽菜とのトーク画面を開いた。
『さっきはごめん』
打って、消した。
『あれは、そういう意味じゃなくて』
打って、消した。そういう意味じゃない、と言い切れないから、あのとき声が出なかったのだ。
足元の石を一つ拾った。平べったくて、手のひらに収まるくらいの大きさだった。
三回跳ねたら、送る。
誰にともなく、そう決めた。子どもみたいな賭けだった。自分で決められないことを、石に決めてもらおうとしている。
腕を振って、低く投げた。
石は、一回も跳ねずに、ぼちゃんと沈んだ。
「……だよな」
声に出して、少しだけ笑った。自分の情けなさに、というより、石にまで背中を押してもらおうとした自分の計算高さに。三回跳ねたら送る。跳ねなかったから送らない。そうやって、また誰かに、何かに、決めてもらおうとしていた。
もう一度、画面に向き直る。今度は、消さずに打ち続けてみた。
『科学館の少し前、部室で、悠真さんと話してる陽菜を見た。画面の数字が九十四だった。顔が一秒止まった。言わなかった。数字が下がってるのを見て、ほっとしたから。バス停で言った「よかった」も、半分は』
そこまで打って、指が止まった。
長すぎる。重すぎる。これを、文字だけで渡されて、陽菜はどんな顔で読むんだろう。夜中に、一人で。
七時の画面の前で、完璧な相槌に囲まれて。
全部、消した。
これは、画面の上で言うことじゃない。陽菜の顔を見て、陽菜が怒るなら怒るのを見て、言うことだ。
いつか、同じことを思った夜があった。小森とのトーク画面を開いて、閉じた夜。ここで打つ言葉じゃない、と思った夜。あのときは、翌日、ちゃんと話しに行けた。
今度も、行けるだろうか。
ポケットの中で、スマホが震えた。一瞬、心臓が跳ねる。
環先輩だった。
『ちゃんと帰れよ。川に落ちるなよ。わはは』
「……なんで川にいるって分かるんだよ」
思わず声に出た。当てずっぽうなのか、見透かされているのか、判断がつかない。どちらにしても、環先輩らしかった。
『落ちてません』と返した。
すぐに既読がついて、『わはは』とだけ返ってきた。
対岸の街灯が、また一つ、灯った。俺は立ち上がって、濡れてもいないズボンの尻を払った。
家に帰ると、夕飯は半分できあがっていた。
「遅かったね」
「部活が長引いて」
嘘ではなかった。本当でもなかった。
食卓には、アジの南蛮漬けが並んでいた。父が、嬉しそうに箸を伸ばす。
「蒼太、天文部はどうだ。星、見えてるか」
「……まあ、たまに」
「星ばっかり見てると、足元の石につまずくぞ」
父は、得意げに言った。
「上ばっかり見てないで、たまには下も見ろってことだ」
川の底に、一回も跳ねずに沈んでいった石を思い出した。
「……もう、つまずいた」
「お、そうか。早いな」
父は、よく分からないまま笑った。
「今の、うまいこと言ったつもり?」
母が、呆れたように父を見た。
「言ったつもりだ」
「つもり、ね」
いつもの言い合いだった。俺は苦笑いして、味噌汁をすすった。
母が、ふとこちらを見た。何か言いかけるように口を開いて、それから、閉じた。
「おかわり、あるからね」
それだけだった。母は、言わないと決めたことは言わない人だ。仕事のことも、たぶん、息子のことも。
何も知らない家族の食卓が、今夜は少し遠かった。遠いのに、ちゃんと温かかった。
◇ ◇ ◇
夜も更けた頃、眠れなくて台所に降りた。
流しの横で、母のエスプレッソマシンが、小さな緑のランプを灯していた。形から入るタイプの母が、ストレス発散に買ったやつだ。一瞬だけ手を伸ばしかけて、やめた。あの苦さは、今夜はいらなかった。
代わりに、戸棚からココアの缶を出した。子どもの頃、眠れない夜に、母がよく作ってくれた飲み物だ。
牛乳を小鍋に入れて、火にかける。ぼんやりしているうちに、縁がふつふつと泡立ちはじめた。
「温めすぎ」
背後から声がして、振り返った。パジャマ姿の母が、台所の入り口に立っていた。
「……起きてたの」
「喉渇いただけ」
母は、冷蔵庫から麦茶を出してコップに注いだ。
「ココアはね、沸騰させると膜が張るの。昔から言ってるでしょ」
「覚えてない」
「覚えてないのね」
母は、少しだけ笑った。
「作ってたのは、いつも私だったもんね」
小鍋の牛乳には、もう、うっすらと膜が張っていた。
母は麦茶を飲み干して、コップを流しに置いた。何か聞かれるかと思った。聞かれなかった。
「おやすみ。早く寝なさいよ」
「うん。おやすみ」
足音が、階段を上がっていく。膜の張ったココアを、スプーンでかき混ぜた。膜は、崩れても、なかなか溶けなかった。
部屋に戻って、マグカップを机に置く。スマホを手に取ると、指が勝手に、インスタのアイコンを押していた。
メッセージリクエスト。二年以上前の日付。たった一行。
『久しぶり。元気にしてる? もしよかったら、また話したいな』
科学館の日から三日。開いては閉じてきた画面だった。今夜を逃したら、たぶん、もう開けない。
返信欄に、指を置いた。
『二年、気づかなかった。ごめん。まだ、話せる?』
送信済み、の表示が出た。夜の十一時を回っていた。非常識な時間だった。
三分後、画面が震えた。着信。由希奈だった。
◇ ◇ ◇
「……もしもし」
「あ、由希奈? 夜遅くに、ごめん」
「平気。起きてた」
短い返事に、少しだけ肩の力が抜けた。電話の向こうで、テレビの音が微かに聞こえる。
「メッセージ、ほんとに、見てなかった」
「知ってる」
「え」
「この前の顔で、分かった。ほんとに知らない顔だった」
電話の向こうで、由希奈が小さく笑う気配がした。
「二年越しの既読。ギネスかも」
「……そんな記録、いらない」
「それそれ」
しばらく、他愛もない話をした。受験のこと。塾の模試の点数が微妙だったこと。数年ぶりの電話なのに、間の取り方は、あの頃と変わっていなかった。
「由希奈は、今、幸せ?」
気づいたら、聞いていた。
「うん。幸せ」
即答だった。
「バイトも楽しかったし、友達もいる。大学、福祉のほう目指す。おばあちゃんのことがあったから」
「……そっか」
「あの頃のことも、たまに思い出すよ。でも、重くない。ちゃんと、今が楽しいから」
その言葉が、胸の奥に静かに落ちてきた。
「蒼太は?」
「俺?」
「今、幸せ?」
すぐには答えられなかった。
浮かんだのは、由希奈の顔じゃなかった。街灯の下で、赤くなった目の縁。じゃあ、どういう意味、と言ったときの、まっすぐな声。
「……分からない」
「そっか」
由希奈はそれ以上聞かなかった。
「いいんじゃない。分かってるふりするより」
うちの顧問も似たようなことを言う、と言いかけて、やめた。
◇ ◇ ◇
「由希奈」
「なに」
「手紙のこと、もう気にしなくていいから。あれ、迷惑とかじゃなくて。ずっと大事に持ってた。……好きだったから。由希奈のこと」
言い切ってから、心臓が耳の奥で鳴っているのが分かった。
「知ってる」
由希奈は、あっさり言った。
「わたしも。好きだった、中学のとき」
「……え」
「転校決まったとき、言おうと思った。でも、言ったら蒼太、待つって言いそうだった。いつ戻れるか分からないのに。だから、何も言わずに消えた」
何年も抱えてきた問いに、静かに答えが置かれた。あの日、由希奈が何も言わずに去ったのは、俺を軽く扱ったからじゃなかった。
「ごめん。勝手に決めて」
「謝ることじゃない」
「でも、何年も、宙ぶらりんにした」
「……じゃあ、俺たち、また」
言いかけて、自分で止まった。
その先を、本当に言いたいのか。電話の向こうにいるのは、手紙の中の十四歳の由希奈じゃない。受験を控えて、福祉を目指す、知らない高校生の由希奈だ。そして俺が、さっき「幸せ?」と聞かれて思い浮かべたのは、この声じゃなかった。
「……違うな」
「うん。違うと思う」
由希奈の声が、少しだけ柔らかくなった。
「わたし、もう、あの頃のわたしじゃない。蒼太も、たぶん」
「区切りって、どうやってつけたの。おばあさんのことも、俺のことも」
「一回じゃ、つかない」
由希奈は言った。
「何回も、同じ気持ちに向き合う。そのたびに、ちょっとずつ軽くなる。だから、今すぐ全部きれいにしなくていい」
少しの沈黙のあと、電話の向こうで、由希奈が小さく呟いた。
「……本日はご来場、誠にありがとうございました」
「え、今の何」
「あ、ごめん」
笑いを含んだ声だった。
「閉館アナウンス。毎日聞いてたら、寝る前に勝手に出るようになった」
思わず、吹き出した。
「蒼太も、そろそろ寝な」
「うん。……受験、頑張って」
「ありがと」
「ありがとう、由希奈」
「なんに対して?」
「全部、かな」
「それそれ。相変わらず、まわりくどい」
最後の声が、少しだけ優しく聞こえた。
「またね、蒼太」
◇ ◇ ◇
通話が切れた。ココアは、すっかり冷めていた。口に含むと、甘さだけがまだ残っていた。
生きてる人は、止まっててくれない。
由希奈は、俺の知らないあいだに、悲しみを抱えたまま、ちゃんと前に進んでいた。同じ街にいるのに、もう、同じ場所にはいない。
画面の中の悠真は、それとは違う。いつまでも同じ場所に立って、同じ言い回しで、同じように相槌を打つ。陽菜が変わっても、変わらない。だから、少しずつ、ずれていく。
——ずれていく?
九十四から、九十二。話しかける回数が減ると、数字は下がる。相手が変わっても、数字は下がる。母は、そう言っていた。
陽菜は、変わった。この夏、確かに。
その考えを、まだうまく言葉にはできなかった。けれど、陽菜に言わなきゃいけないことは、はっきりしていた。
あの「よかった」の本当の意味。九十四の数字を見て、黙っていたこと。それから——
机の上のマグカップを脇へどけて、陽菜とのトーク画面を開いた。シャーペンの芯を鳴らす、いつもの間はいらなかった。
『明日、話したいことがある』
送信済み、の表示が浮かぶ。
既読は、つかなかった。もう寝ているのかもしれない。まだ、画面を見る気になれないのかもしれない。
冷めたココアの最後の一口を飲み干した。マグカップの底に、茶色いかすが少しだけ残っていた。
「お、まだいたのか」
忘れ物を取りに戻ってきたらしい環先輩と、鉢合わせした。俺の顔を一瞥すると、環先輩は何も聞かずに、隣の自転車のサドルに腰を乗せた。
「連星の話、まだ考えてんのか」
「……陽菜に、言わなきゃいけないことがあるんです。でも、いざとなると、言葉が止まる」
「『……いや』ってやつか」
「はい」
環先輩は、暗くなり始めた空を見上げた。頭の真上に近いところで、白い星がひとつ、もう光っていた。
「あれ、ベガな。織姫」
顎で、星を指す。
「あの光、二十五年くらい前に向こうを出発したやつだぞ。届くまで、それだけかかる。でも、出発させなきゃ、いつまで経っても届かない」
「……環先輩でも、そういうこと言うんですね」
「わはは、失礼な奴だな」
環先輩は立ち上がった。
「送るタイミングは、お前が決めろ。それだけ」
◇ ◇ ◇
まっすぐ家に帰る気になれず、気づけば、土手道にハンドルを切っていた。
陽菜と取引をした川原だった。あの日は、雨が川面を叩いていた。今は、対岸の街灯が、水面にぽつぽつと滲んでいるだけだ。
石の護岸に腰を下ろした。
あの日、陽菜が膝を抱えて座っていたのは、たぶん、この少し下流だった。雨で髪が頬に張りついていて、俺が「探した」と言ったら、「そんなに必死になって、探すことないのに」と言った。
取引、しない?
あの一言から、全部が始まった。由希奈を探してもらう代わりに、期限のことを教える。おあいこ。悪だくみみたい、と陽菜は笑った。
その取引は、もう終わった。由希奈は見つかって、悠真のデータは消えると決まった。陽菜の言ったとおりだ。取引、終わりだね。
なのに、俺はまだ、ここに座っている。
スマホを取り出して、陽菜とのトーク画面を開いた。
『さっきはごめん』
打って、消した。
『あれは、そういう意味じゃなくて』
打って、消した。そういう意味じゃない、と言い切れないから、あのとき声が出なかったのだ。
足元の石を一つ拾った。平べったくて、手のひらに収まるくらいの大きさだった。
三回跳ねたら、送る。
誰にともなく、そう決めた。子どもみたいな賭けだった。自分で決められないことを、石に決めてもらおうとしている。
腕を振って、低く投げた。
石は、一回も跳ねずに、ぼちゃんと沈んだ。
「……だよな」
声に出して、少しだけ笑った。自分の情けなさに、というより、石にまで背中を押してもらおうとした自分の計算高さに。三回跳ねたら送る。跳ねなかったから送らない。そうやって、また誰かに、何かに、決めてもらおうとしていた。
もう一度、画面に向き直る。今度は、消さずに打ち続けてみた。
『科学館の少し前、部室で、悠真さんと話してる陽菜を見た。画面の数字が九十四だった。顔が一秒止まった。言わなかった。数字が下がってるのを見て、ほっとしたから。バス停で言った「よかった」も、半分は』
そこまで打って、指が止まった。
長すぎる。重すぎる。これを、文字だけで渡されて、陽菜はどんな顔で読むんだろう。夜中に、一人で。
七時の画面の前で、完璧な相槌に囲まれて。
全部、消した。
これは、画面の上で言うことじゃない。陽菜の顔を見て、陽菜が怒るなら怒るのを見て、言うことだ。
いつか、同じことを思った夜があった。小森とのトーク画面を開いて、閉じた夜。ここで打つ言葉じゃない、と思った夜。あのときは、翌日、ちゃんと話しに行けた。
今度も、行けるだろうか。
ポケットの中で、スマホが震えた。一瞬、心臓が跳ねる。
環先輩だった。
『ちゃんと帰れよ。川に落ちるなよ。わはは』
「……なんで川にいるって分かるんだよ」
思わず声に出た。当てずっぽうなのか、見透かされているのか、判断がつかない。どちらにしても、環先輩らしかった。
『落ちてません』と返した。
すぐに既読がついて、『わはは』とだけ返ってきた。
対岸の街灯が、また一つ、灯った。俺は立ち上がって、濡れてもいないズボンの尻を払った。
家に帰ると、夕飯は半分できあがっていた。
「遅かったね」
「部活が長引いて」
嘘ではなかった。本当でもなかった。
食卓には、アジの南蛮漬けが並んでいた。父が、嬉しそうに箸を伸ばす。
「蒼太、天文部はどうだ。星、見えてるか」
「……まあ、たまに」
「星ばっかり見てると、足元の石につまずくぞ」
父は、得意げに言った。
「上ばっかり見てないで、たまには下も見ろってことだ」
川の底に、一回も跳ねずに沈んでいった石を思い出した。
「……もう、つまずいた」
「お、そうか。早いな」
父は、よく分からないまま笑った。
「今の、うまいこと言ったつもり?」
母が、呆れたように父を見た。
「言ったつもりだ」
「つもり、ね」
いつもの言い合いだった。俺は苦笑いして、味噌汁をすすった。
母が、ふとこちらを見た。何か言いかけるように口を開いて、それから、閉じた。
「おかわり、あるからね」
それだけだった。母は、言わないと決めたことは言わない人だ。仕事のことも、たぶん、息子のことも。
何も知らない家族の食卓が、今夜は少し遠かった。遠いのに、ちゃんと温かかった。
◇ ◇ ◇
夜も更けた頃、眠れなくて台所に降りた。
流しの横で、母のエスプレッソマシンが、小さな緑のランプを灯していた。形から入るタイプの母が、ストレス発散に買ったやつだ。一瞬だけ手を伸ばしかけて、やめた。あの苦さは、今夜はいらなかった。
代わりに、戸棚からココアの缶を出した。子どもの頃、眠れない夜に、母がよく作ってくれた飲み物だ。
牛乳を小鍋に入れて、火にかける。ぼんやりしているうちに、縁がふつふつと泡立ちはじめた。
「温めすぎ」
背後から声がして、振り返った。パジャマ姿の母が、台所の入り口に立っていた。
「……起きてたの」
「喉渇いただけ」
母は、冷蔵庫から麦茶を出してコップに注いだ。
「ココアはね、沸騰させると膜が張るの。昔から言ってるでしょ」
「覚えてない」
「覚えてないのね」
母は、少しだけ笑った。
「作ってたのは、いつも私だったもんね」
小鍋の牛乳には、もう、うっすらと膜が張っていた。
母は麦茶を飲み干して、コップを流しに置いた。何か聞かれるかと思った。聞かれなかった。
「おやすみ。早く寝なさいよ」
「うん。おやすみ」
足音が、階段を上がっていく。膜の張ったココアを、スプーンでかき混ぜた。膜は、崩れても、なかなか溶けなかった。
部屋に戻って、マグカップを机に置く。スマホを手に取ると、指が勝手に、インスタのアイコンを押していた。
メッセージリクエスト。二年以上前の日付。たった一行。
『久しぶり。元気にしてる? もしよかったら、また話したいな』
科学館の日から三日。開いては閉じてきた画面だった。今夜を逃したら、たぶん、もう開けない。
返信欄に、指を置いた。
『二年、気づかなかった。ごめん。まだ、話せる?』
送信済み、の表示が出た。夜の十一時を回っていた。非常識な時間だった。
三分後、画面が震えた。着信。由希奈だった。
◇ ◇ ◇
「……もしもし」
「あ、由希奈? 夜遅くに、ごめん」
「平気。起きてた」
短い返事に、少しだけ肩の力が抜けた。電話の向こうで、テレビの音が微かに聞こえる。
「メッセージ、ほんとに、見てなかった」
「知ってる」
「え」
「この前の顔で、分かった。ほんとに知らない顔だった」
電話の向こうで、由希奈が小さく笑う気配がした。
「二年越しの既読。ギネスかも」
「……そんな記録、いらない」
「それそれ」
しばらく、他愛もない話をした。受験のこと。塾の模試の点数が微妙だったこと。数年ぶりの電話なのに、間の取り方は、あの頃と変わっていなかった。
「由希奈は、今、幸せ?」
気づいたら、聞いていた。
「うん。幸せ」
即答だった。
「バイトも楽しかったし、友達もいる。大学、福祉のほう目指す。おばあちゃんのことがあったから」
「……そっか」
「あの頃のことも、たまに思い出すよ。でも、重くない。ちゃんと、今が楽しいから」
その言葉が、胸の奥に静かに落ちてきた。
「蒼太は?」
「俺?」
「今、幸せ?」
すぐには答えられなかった。
浮かんだのは、由希奈の顔じゃなかった。街灯の下で、赤くなった目の縁。じゃあ、どういう意味、と言ったときの、まっすぐな声。
「……分からない」
「そっか」
由希奈はそれ以上聞かなかった。
「いいんじゃない。分かってるふりするより」
うちの顧問も似たようなことを言う、と言いかけて、やめた。
◇ ◇ ◇
「由希奈」
「なに」
「手紙のこと、もう気にしなくていいから。あれ、迷惑とかじゃなくて。ずっと大事に持ってた。……好きだったから。由希奈のこと」
言い切ってから、心臓が耳の奥で鳴っているのが分かった。
「知ってる」
由希奈は、あっさり言った。
「わたしも。好きだった、中学のとき」
「……え」
「転校決まったとき、言おうと思った。でも、言ったら蒼太、待つって言いそうだった。いつ戻れるか分からないのに。だから、何も言わずに消えた」
何年も抱えてきた問いに、静かに答えが置かれた。あの日、由希奈が何も言わずに去ったのは、俺を軽く扱ったからじゃなかった。
「ごめん。勝手に決めて」
「謝ることじゃない」
「でも、何年も、宙ぶらりんにした」
「……じゃあ、俺たち、また」
言いかけて、自分で止まった。
その先を、本当に言いたいのか。電話の向こうにいるのは、手紙の中の十四歳の由希奈じゃない。受験を控えて、福祉を目指す、知らない高校生の由希奈だ。そして俺が、さっき「幸せ?」と聞かれて思い浮かべたのは、この声じゃなかった。
「……違うな」
「うん。違うと思う」
由希奈の声が、少しだけ柔らかくなった。
「わたし、もう、あの頃のわたしじゃない。蒼太も、たぶん」
「区切りって、どうやってつけたの。おばあさんのことも、俺のことも」
「一回じゃ、つかない」
由希奈は言った。
「何回も、同じ気持ちに向き合う。そのたびに、ちょっとずつ軽くなる。だから、今すぐ全部きれいにしなくていい」
少しの沈黙のあと、電話の向こうで、由希奈が小さく呟いた。
「……本日はご来場、誠にありがとうございました」
「え、今の何」
「あ、ごめん」
笑いを含んだ声だった。
「閉館アナウンス。毎日聞いてたら、寝る前に勝手に出るようになった」
思わず、吹き出した。
「蒼太も、そろそろ寝な」
「うん。……受験、頑張って」
「ありがと」
「ありがとう、由希奈」
「なんに対して?」
「全部、かな」
「それそれ。相変わらず、まわりくどい」
最後の声が、少しだけ優しく聞こえた。
「またね、蒼太」
◇ ◇ ◇
通話が切れた。ココアは、すっかり冷めていた。口に含むと、甘さだけがまだ残っていた。
生きてる人は、止まっててくれない。
由希奈は、俺の知らないあいだに、悲しみを抱えたまま、ちゃんと前に進んでいた。同じ街にいるのに、もう、同じ場所にはいない。
画面の中の悠真は、それとは違う。いつまでも同じ場所に立って、同じ言い回しで、同じように相槌を打つ。陽菜が変わっても、変わらない。だから、少しずつ、ずれていく。
——ずれていく?
九十四から、九十二。話しかける回数が減ると、数字は下がる。相手が変わっても、数字は下がる。母は、そう言っていた。
陽菜は、変わった。この夏、確かに。
その考えを、まだうまく言葉にはできなかった。けれど、陽菜に言わなきゃいけないことは、はっきりしていた。
あの「よかった」の本当の意味。九十四の数字を見て、黙っていたこと。それから——
机の上のマグカップを脇へどけて、陽菜とのトーク画面を開いた。シャーペンの芯を鳴らす、いつもの間はいらなかった。
『明日、話したいことがある』
送信済み、の表示が浮かぶ。
既読は、つかなかった。もう寝ているのかもしれない。まだ、画面を見る気になれないのかもしれない。
冷めたココアの最後の一口を飲み干した。マグカップの底に、茶色いかすが少しだけ残っていた。
