君の好きが、計算だとしても

 機材ケースを閉じ終えた頃には、窓の外の光が、少しずつ橙色に変わり始めていた。
「今日、大成功だったな」
 環先輩が満足げに言う。
「わはは、来年もやりたいくらいだ」
「担当の人も、来年もぜひって言ってましたよ」
「マジか。よし、来年の予算、今から確保しとくか」
 そんな会話を少し離れたところで聞きながら、俺は陽菜と並んで、ノートパソコンのケーブルを巻き取っていた。
 ふと、隣の陽菜の手元が目に入った。ケーブルを巻く指先が、いつもより忙しない。午後のあいだ、彼女が何度もポケットに手をやっていたのを思い出した。あのときは、気にも留めなかった。由希奈のことで、頭がいっぱいだったから。
「陽菜、さっきから、なんか落ち着かなくない?」
「……そう見える?」
 力のない笑い方だった。
「手紙の、返事?」
「うん」
 陽菜はケーブルを巻く手を止めなかった。
「今日来るとは思ってないんだけどね。なんとなく、そわそわしちゃって」
 
 ◇ ◇ ◇

 そのとき、陽菜のスマホが震えた。
 陽菜の肩が、目に見えて強張った。画面に表示された名前が、ちらりと見えた。「深澤さん」——悠真の、ご家族だ。
「……ちょっと、電話」
 陽菜は機材の陰に移動して、電話に出た。俺はケーブルを巻く手を止めて、その背中を見ていた。
 声は聞こえない。それでも、陽菜の肩の角度、頷くたびに揺れる後れ毛、床を見つめたまま動かない爪先。そのどれもが、何かを必死に受け止めようとしている人の形をしていた。
「……はい。……そう、なんですね」
 ときどき漏れる声が、震えていた。
「あ、いえ、そんな……はい、大丈夫です。本当に」
 何が大丈夫なのかは分からない。それでも、その震え方だけで、大丈夫ではないことだけは伝わってきた。
 今日一日、俺は自分の再会のことばかり考えていた。そのあいだ陽菜は、この電話を待ちながら、変わらない調子で子どもたちに説明を続けていたのだ。
「……分かりました。ありがとうございます」
 電話を切った陽菜の顔から、血の気が引いていた。ゆっくりと、こちらに戻ってくる。
「どうしたの」
「悠真の、お母さんから」
 陽菜の声は、かろうじて平静を保っていた。
「システム、更新しないことにしたって」
「更新、しない」
「うん。悩んだけど、区切りをつけるって。データ、十月末で消えることになった」
 陽菜は一度、言葉を切った。
「手紙、ちゃんと読んでくれたみたい。ありがとうって言われた。……それだけで、ちょっと救われた」
 救われた、という言葉とは裏腹に、声の底に、隠しきれないものが滲んでいた。
 十月末。陽菜はもう、その日付を知っていた。それでも、知っているのと、悠真のお母さんの声で言い渡されるのとでは、重さがまるで違うのだと、その顔を見て分かった。
「……理由も、聞いた?」
「お母さんも、ときどき、悠真と話してたんだって」
 陽菜は床を見たまま言った。
「この前、久しぶりに話したら、『おかえり』って言われて、なんか、違う人みたいだったって。笑うところで、笑わなかったって」
 笑うところで、笑わなかった。
「それで画面を見たら、数字が九十二まで下がってた。前は九十四くらいあったのに。……それで、決めたって」
 九十四。
 部室のドアの陰で見た、あの数字だった。笑みの形のまま止まった口元。一秒。
 俺はあのとき、知っていた。数字が下がっていることも、顔が止まったことも。言うべきだと思って、言わなかった。
 言っていたら、何か変わったのだろうか。分からない。分からないけれど、黙っていたのは、陽菜のためじゃなかった。それだけは分かっていた。
「そう、なんだ」
 声が震えていないか、自分でも分からなかった。
 
 ◇ ◇ ◇

 陽菜は、しばらく視線を落としたまま動かなかった。ケーブルを持つ手が、小さく震えていた。声を出せば何かが決壊してしまうと分かっているような、そんな震え方だった。
「陽菜」
 思わず名前を呼んだ。その先の言葉はなかった。
「大丈夫」
 陽菜は顔を上げずに言った。
「ちゃんと、分かってたことだから」
 分かっていたことと、受け止められることは、たぶん別の話だ。
「取引、終わりだね」
 続けて、陽菜がそう言った。冗談めかしたつもりらしかったけれど、うまく笑えていなかった。
「……そうだな」
 それしか返せなかった。由希奈は見つかった。悠真のデータは、消えると決まった。取引の理由は、両方とも消えた。
 それなのに、その言葉を口にした瞬間、胸の奥が思ったよりずっと強く痛んだ。
「ごめん」
 陽菜が言った。
「今日、蒼太くんの大事な日だったのに。こんな空気にして」
「それは違う。陽菜が謝ることじゃない」
 陽菜は何も言わずに、小さく頷いた。目の縁が赤い。それでも、涙だけは頑なにこぼさなかった。
「片付け、続けよう」
 やがて、陽菜のほうから沈黙を破った。いつもより少し硬い声だった。
 少し離れたところで、環先輩がこちらを見ていた。いつもの「わはは」を、今日だけは口にしなかった。
 
 ◇ ◇ ◇

 バス停までの道を、環先輩と先生から少し遅れて、二人で歩いた。街灯がぽつぽつと灯り始めている。
 バス停の看板が見えてきたところで、陽菜が足を止めた。
「ねえ、蒼太くん」
「なに」
「わたし、負けた気がする」
「負けた、って」
「悠真のお母さんに、伝わらなかったんだと思う。わたしが、どれだけ悠真のこと大事に思ってたか。手紙、読んでくれたって。それでも、答えは変わらなかった」
「そんなことは」
「ある」
 陽菜はきっぱり遮った。それから、声を落とした。
「九十二まで下がったのだって、わたしのせいだと思う。七時の電話より、蒼太くんとの時間を選んだ日が、何日もあったから」
 街灯の下で、陽菜の目の縁が、また赤くなっていた。
 何か言わなければと思った。陽菜が自分を責めるのを、止めたかった。悠真さんのためにも、陽菜のためにも、これでよかったんだと。区切りがつくことは、悪いことばかりじゃないんだと。
 そう言いたかったのに、口から出たのは、半分だけだった。
「……これで、よかったのかもしれない」
 言ってから、しまったと思った。
 陽菜の足が、止まったままになった。
「よかった、って」
 ゆっくりと、こちらを見る。
「なにが」
「——いや、そういう意味じゃ」
「じゃあ、どういう意味」
 あの川原と、同じ台詞だった。
 答えようとして、声が出なかった。そういう意味じゃない、と言い切れなかった。部室のドアの陰で、下がっていく数字を見て、胸が少し軽くなった自分を、俺は知っていた。
 陽菜は、俺の沈黙を最後まで待った。それから、小さく息を吐いた。
「……わたし、歩いて帰る」
「陽菜」
「大丈夫。駅まで、近いから」
 角を曲がってきたバスのライトが、二人のあいだを横切った。陽菜は振り返らずに、来た道を歩いていった。
 俺は、追いかけなかった。追いかけて、何を言えばいいのか分からなかった。
 
 ◇ ◇ ◇

 帰りのバスの中、窓の外を流れていく夕暮れの街を、ぼんやり眺めていた。後ろの席で、環先輩と皆瀬先生が「陽菜は?」「歩いて帰るって」と話している声が聞こえた。
 九十四から、九十二へ。
 陽菜が悠真と積み重ねてきた二年間が、たった二ポイントの下落で裁かれようとしている。
 その二ポイントの中に、俺の分が、きっと混ざっている。
 鞄の中で、開けないままのソーダ水の缶が、かすかに鳴った。窓に映る自分の顔が、いつもよりずっと頼りなく見えた。
 
 ◇ ◇ ◇

 翌日の部活。
 昇降口で、陽菜とすれ違った。
 陽菜は、小さく顎を引いて、会釈をした。
 取引が始まったばかりの頃の、あの会釈だった。取引先への挨拶みたいだと、二人で笑った、あの会釈。俺も会釈を返した。今日は、誰も笑わなかった。
 部室では、陽菜はいつもの席に座らなかった。窓際の、一番遠い机に観測ノートを置いて、黙ってページを開いた。環先輩が一瞬だけこちらを見て、何も言わずに視線を戻した。
 六時半を回った頃、陽菜は荷物をまとめて立ち上がった。
「お先に失礼します」
 誰に向けたのか分からない声だった。ドアが閉まる。壁の時計を見た。七時に間に合うように、帰ったのだと思った。
 もう消えると決まった誰かのところへ。
 そう考えた瞬間、自分の中に、また小さく冷たいものが動いた。それが何なのか、昨日のバス停で、もう知ってしまっていた。俺はシャーペンの芯を、意味もなく三回鳴らした。
 その夜、夕飯の席で、母がぽつりと言った。
「今日ね、一件、終わらせるって決めたご家族がいて」
 箸が止まった。
「電話で、ありがとうって言われたの。消すって決めた人に、ありがとうって」
 母は、味噌汁の椀を両手で包んだ。
「こっちのほうが、泣きそうになった」
 どの家族なのか、母は言わなかった。言えない仕事だ。それでも、頭の中には、一つの名前しか浮かばなかった。
「……その人、大丈夫そうだった?」
「分からない」
 母は、少しだけ笑った。
「でも、決めた人の声だった。迷ってる人の声とは、違うのよ」
 決めた人の声。陽菜は、昨日、電話の向こうでその声を聞いたのだ。そのすぐあとに、俺は、あの言葉を言った。
 
 ◇ ◇ ◇

 二日目は、パソコン室での作業だった。
 AIが選んだ惑星の候補を、一件ずつ目で確かめていく。夏休み前にもやった、地味な仕事だ。陽菜は教室の反対の端の席に座って、一度もこちらを見なかった。
 画面に、次の候補が出た。
 判定、九十二パーセント。
 マウスを握った手が、止まった。光の減り方のグラフは、ギザギザしている。たぶん、ノイズだ。九十二パーセントの自信で、間違えている。
「ノイズ」の欄に、チェックを入れた。
 たった二文字の数字に、指が震えた。俺はこの数字を、一つ残らず疑うことはできても、陽菜に向かって、何一つ言えずにいる。
「よーし、休憩な」
 環先輩が、白い箱を抱えて入ってきた。ドーナツだった。
「空気がどんよりしてるからな。甘さで中和する作戦だ。わはは」
「先輩、その作戦、根拠あるんですか」
「ない。でも甘さは正義だろ」
 箱の中身は、見事に全部チョコレートがけだった。環先輩の正義は、いつも少しだけ行き過ぎている。
 陽菜は、ドーナツを一つ受け取って、小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
 それだけだった。環先輩が、ドーナツを持ったまま、首を傾げた。
「……えへへ、がないな」
 陽菜は答えずに、自分の席に戻った。環先輩は、残った箱をしばらく見下ろしてから、俺のほうに一つ放ってよこした。受け取ったドーナツは、やけに重かった。
 その夜、ベッドの上で、インスタを開いた。
 メッセージリクエスト。二年以上前の日付。『久しぶり。元気にしてる?』
 返信欄に指を置いて、『ごめん』と打った。消した。『気づかなかった』と打った。消した。
 画面を閉じる。引き出しの中の手紙と、同じ場所に、また一通、しまい込んだみたいだった。
 
 ◇ ◇ ◇

 三日目の今日は、部室に入ってきた陽菜が俺の顔を見て、すっと視線を逸らし、そのまま自分の机に向かった。
 それだけのことが、こんなに胸に刺さるとは思わなかった。
 観測ノートを取りに行くタイミングも、いつの間にかお互いにずらすようになっていた。同じ部屋にいるのに、意識して、視界に入らないように動いている。
「蒼太、今日も元気ないな」
 環先輩が、望遠鏡にカバーをかけながら言った。
「——いや、大丈夫です」
「その『大丈夫です』が、一番大丈夫じゃなさそうなんだよな、お前の場合」
 返す言葉がなかった。環先輩は「わはは」の代わりに、小さくため息をついた。
「無理に聞かないけどさ。……陽菜のほうも、相当だぞ」
「どういう意味ですか」
「あいつ、この三日、観測ノートほとんど白紙。あと、チラシの追加分、締め切り過ぎても出てこない。陽菜が締め切り破るの、わたし初めて見た」
 環先輩は脚を畳む手を止めなかった。
「顔色も良くないしな。わはは、って言いたいとこだけど、今回ばかりは笑えないわ」
 手が、止まった。陽菜は怒って、俺を避けているだけなのだと思っていた。
 皆瀬先生も、部室の空気を察しているのか、いつもより口数が少なかった。それでも、俺と陽菜のどちらにも肩入れする素振りは見せない。いつも通りに提出期限を告げて、帰り支度を始める。
 帰り際、思いきって声をかけた。
「先生。『わからない』は負けじゃない、始まりだって、言ってましたよね」
「言ったわね」
「今、分からないことだらけで。でも、何も始まってない気がします」
 先生は少し考えるように、天井を見上げた。
「分からないままでいる強さと、分からないことを、何もしない言い訳にするのは、似てるようで全然違うのよ」
 鞄を肩にかけ直す。
「化石の欠けたところ、無理に埋めないほうがいいって言ったでしょう。でも、放っておいていいって意味じゃない。今、目の前にある部分だけは、ちゃんと磨く。そうしないと、どこが欠けてるのかすら、正確には分からないままよ」
「磨く、ですか」
「遠野くんの場合は、たぶん、言葉にすることかしらね」
 先生はいたずらっぽく笑った。
「詳しい事情は、聞かないでおくけど」
 先生は鞄を持って部室を出ると、迷いなく左に曲がった。
「先生、職員室、右です」
 廊下に顔を出して言うと、先生は足を止めて、少しだけ笑った。
「知ってる。今日は、こっちから帰るの。母の施設、こっちの門のほうが近いから」
「……施設」
「言ってなかったかしら」
 先生は、何でもないことみたいに言った。
「母ね、認知症なの。この前の面会では、私のこと、妹と間違えてた」
 何と返せばいいのか、分からなかった。
 雨の部室で、先生は「介護をしてる家族がよく口にする感覚ね」と言っていた。他人ごとみたいな言い方だった。
「私の方向音痴、昔からなのよ。でも、困ったことはなかった。道は全部、母が覚えててくれたから」
 先生は、廊下の窓の外に目をやった。
「今は、母のほうが、帰り道を覚えてない」
 鞄の持ち手を、先生は一度だけ握り直した。
「だから今度は、私が覚える番なんだけど。これが、なかなかね」
「……『わからない』は、負けじゃない、始まり」
 気づいたら、口に出していた。
「そう」
 先生は、少し驚いたようにこちらを見て、それから頷いた。
「あれ、半分は自分に言ってるの。毎週、面会の帰りに」
 それだけ言うと、先生は左の廊下を歩いていった。突き当たりの角で一度立ち止まり、しばらく考えてから、ちゃんと正しいほうへ曲がった。
 
 ◇ ◇ ◇

 最後に部室を出ようとしたとき、陽菜の机の端に、観測ノートが開いたまま置かれているのに気づいた。
 見るつもりはなかった。ただ、開いたページが目に入った。
 几帳面な字で、日付と天気と、見えた星が並んでいる。最後の書き込みは、科学館の日だった。「8月28日 晴れ。ワークショップ。」
 その下に、一行だけ、書きかけの文字があった。
「悠真の」
 そこで、鉛筆が止まっていた。消しゴムで消そうとした跡が、うっすらと残っている。
 ノートをそっと閉じた。陽菜が律儀に積み重ねてきたものが、あの日を境に、そっくり止まっている。怒りだけでは説明のつかない止まり方だった。
 自転車置き場で、陽菜と鉢合わせた。互いに何も言わず、違う方向へ漕ぎ出す。小さくなっていく後ろ姿を、俺はその場に立ったまま見送っていた。
 取引は終わった。隣にいる理由は、もうどこにもない。
 それでも、あの「よかった」を、あのままにしておくわけにはいかなかった。