君の好きが、計算だとしても

 科学館の駐車場に降りた瞬間、八月の終わりの日差しが、機材ケースを抱えた背中に落ちてきた。
 市民科学ワークショップ、当日。天文部がこの一ヶ月、準備を重ねてきた本番だった。
「いい天気で何より。屋内イベントには関係ないけどな」
 環先輩が額の汗を拭う。プラネタリウムのドームが、青空の下で白く丸く光っていた。ガラス張りのエントランスには、俺たちの作ったチラシが貼り出されている。「AIより先に、あなたが見つける」。自分たちの字が、知らない場所で知らない人に読まれている。少しだけ、誇らしかった。
「機材、こっちに運んでいいですか?」
 陽菜が、ノートパソコンのバッグを担いで、館の担当者に声をかけている。この一ヶ月、彼女はいつもより熱心だった。理由を、俺はまだ知らない。
 館内に入ると、ひんやりした空気が汗ばんだ肌を撫でた。俺たちに割り当てられたのは、ロビーの一角の長机だった。ノートパソコンを並べ、プロジェクターを調整し、説明パネルを立てる。皆瀬先生も朝から同行していて、今日は虫よけスプレーの代わりに、日焼け止めを片手に指示を出していた。
「今日は屋内だから平気ですよね、先生」
 環先輩がからかう。
「屋内は平気。虫、出てこないでしょ、さすがに」
「油断してると出ますよ、意外と」
「やめてよ、脅かすの」
 本気で顔をしかめる先生に、部室と変わらない空気が戻ってきて、少し緊張がほぐれた。
 俺と陽菜は、惑星判定の体験ブースの担当だった。配線をつないでいると、陽菜がちらりとこちらを見た。
「緊張する?」
「……いや、そんなには」
「嘘ばっかり。手、震えてるよ」
 言われて初めて、自分の手元に気づいた。
「……あれ」
 長机の向こうで、環先輩が機材ケースの底を覗き込んだまま固まっていた。
「どうしたんですか」
「変換アダプタが、ない」
「え」
「ノートパソコンとプロジェクターをつなぐ、あの小さいやつ。部室の机の上に、置いてきた。……気がする」
 開場まで、あと十五分だった。
「わはは……」
 環先輩は笑いかけて、途中でやめた。
「いや、笑ってる場合じゃないな、これ」
「先輩が『わはは』を途中でやめるの、初めて見ました」
「わたしもだ」
 皆瀬先生が腕時計を見て、「学校まで往復四十分」と冷静に計算した。そのあとで「私が行くと、たぶん一時間半」と付け足した。誰も反論しなかった。
「受付で聞いてくる」
 言うより先に、陽菜が走り出していた。ロビーの向こう、案内カウンターのほうへ。
 五分もしないうちに、陽菜は小さな黒いアダプタを握って戻ってきた。
「貸してくれた。案内係の人が、予備あるからって」
「陽菜、お前、天才か」
 環先輩が両手を合わせて拝んだ。
「えへへ。聞いただけだよ」
 陽菜はそう言って、アダプタを俺に手渡した。指先が、ほんの少しだけ冷たかった。走ってきたにしては、息がほとんど上がっていない。そのかわり、笑い方が、いつもより一段明るかった。
 そのときは、ただ、ほっとしているのだと思った。
 
 ◇ ◇ ◇

 ワークショップは、午前中から盛況だった。
「これが、AIが選んだ惑星の候補です」
 俺は、ブースに集まった小学生くらいの子どもたちに画面を見せた。
「でも、この中には、本物じゃないのも混ざってるんです」
「え、AIって間違えるの?」
「間違えます。九割当たってても、外れることはある。だから最後は、人間の目でもう一回確かめるんです」
「じゃあ、これは? 惑星? 違うやつ?」
 一人の男の子が、画面を指差した。
「どう思う? ヒントは、光が暗くなってるところの形」
「んー……ギザギザしてる」
「そう、それ。本物の惑星なら、もっとなめらかなカーブになる。だからこれは、たぶんノイズ」
「当たった!」
 男の子が、振り返って親に報告する。部内で何度も練習した台詞より、こうして一緒に考えるほうが、ずっと伝わる。そう実感して、少し肩の力が抜けた。
 隣の机では、陽菜が、小学校の低学年くらいの女の子と向き合っていた。画面を覗き込む女の子の髪に、星の形のヘアピンが留まっている。
「ねえ、AIって、嘘つくの?」
 女の子が、真剣な顔で聞いた。さっき、九十パーセントと出ていた候補がノイズだと分かって、納得がいかないらしい。
「うーん」
 陽菜は、少しだけ考えた。
「嘘は、つかないと思う。AIは、嘘をつこうとは思ってないから」
「でも、間違えたよ」
「うん。間違えることはある。しかも、すっごく自信満々で間違えるの」
 陽菜は、画面の九十パーセントの数字を指さした。
「ほら。九十点ですって、胸張ってるでしょ」
「えらそう」
「えらそうだよね」
 陽菜が笑う。
「だから、一緒に見てあげる人がいるの。この子がちゃんと合ってるか、隣で確かめてあげる人。今日は、あなたがその係」
 女の子は、少し得意げに頷いて、次の画面に身を乗り出した。
「自信満々で間違える」。陽菜が何気なく口にしたその言葉が、なぜか耳に残った。毎晩七時に、完璧な調子で相槌を打つ誰かのことを、俺は思い出していた。陽菜がそれを思い出していたのかどうかは、分からない。横顔は、ずっと女の子のほうを向いていた。
 女の子が、次の候補を「これは本物」と言い当てた。陽菜は、自分のことみたいに手を叩いた。
「蒼太くん、説明うまくなったね」
 作業の合間に、陽菜が耳打ちしてきた。
「そう?」
「うん。最初、めちゃくちゃ棒読みだったのに」
「それは言わなくていい」
 軽口を返しながら、俺の目は、無意識にロビーの向こうを何度も泳いでいた。何を探しているのか、自分でも分からないまま。
 隣のブースでは、皆瀬先生が隕石の標本を見せていた。「これ、宇宙から降ってきた石なんですけど」と言った直後、小さな羽虫が横切って、先生の表情が一瞬だけ引きつった。それでも、来場者の前では決して取り乱さない。そのプロ意識に、密かに感心した。
 
 ◇ ◇ ◇

 十一時半。館の担当の人が、長机まで顔を出した。
「次の投影、空席あるから、よかったら部員さんもどうぞ。二十分だけの短いやつだけど」
「じゃあ、蒼太と陽菜、先に行ってこい」
 環先輩が即決した。
「ブースは、わたしと先生で回す。部長の特権だ」
「特権、使い方おかしくないですか」
「いいから行け。午後、倍働いてもらう」
 プラネタリウムのドームに入ると、ひんやりした暗がりが、体ごと包んできた。リクライニングの椅子に並んで座る。天井が、ゆっくりと夕焼けの色から夜の色に変わっていく。
 星が、ひとつ、またひとつと灯った。
 学校の屋上で見る空より、ずっと多い。ずっと鮮やかで、ずっと完璧だった。雲もない。街の灯りもない。風も吹かない。
「……作り物だって分かってるのに」
 隣で、陽菜が小さく言った。
「ここ来ると、ちょっとだけ、泣きそうになるんだよね」
「本物じゃないのに?」
「本物じゃないから、かも」
 陽菜の声は、暗がりに溶けそうなくらい静かだった。
「ここの星は、絶対に曇らないから」
 何か言おうとして、やめた。解説の声が、北の空に矢印を出して、北極星の見つけ方を説明し始めた。
 陽菜は、矢印のほうを見ていなかった。天頂の近く、ひときわ白く光る星を、投影が終わるまで、ずっと見上げていた。
 
 ◇ ◇ ◇

 昼過ぎ、環先輩が休憩の号令をかけた。
「よし、三十分休憩。順番に飯食ってこい」
 俺は館内のカフェスペースに向かった。せめて何か冷たいものを。プラネタリウムの入り口の前を通り過ぎようとして、足が止まった。
 案内カウンターの前で、スタッフエプロンの女の子が、小さな男の子に星座早見盤を回してみせていた。円盤をくるりと回して、今夜の空に合わせる。迷いのない、速い手つきだった。
 中学の理科の時間。誰よりも速く早見盤を回していた手を、俺は知っていた。
 横顔が、こちらを向きかけた。
 とっさに、体が反対を向いた。
 ——いや。今じゃない。向こうは仕事中だし、何を話せばいいのかも分からない。見なかったことにすれば、いつも通りに戻れる。
 気づけば、カフェスペースの自販機の前にいた。小銭を入れて、ボタンを押す。ソーダ水の缶が、がこん、と落ちてくる。
 拾い上げた缶が、手のひらに冷たかった。
 中学の最後の日も、こうだった。「元気で」の三文字を、「——いや」で引っ込めた。それから何年も、引き出しの中で、送らない返事を書き続けた。
 同じことを、また、やろうとしている。
 缶を握ったまま、来た道を引き返した。
 案内カウンターの前には、もう男の子はいなかった。エプロン姿の背中が、早見盤をカウンターに戻している。
 喉の奥で、いつもの言葉がせり上がってくる。飲み込んだ。
「……由希奈」
 背中が、止まった。
 ゆっくりと、振り返る。
「……蒼太」
 記憶の中より、少し髪が伸びている。それ以外は、驚くほど変わっていない。いや、変わっていないように見えて、まとう空気がまるで違った。中学の頃の、どこか不安げなかげりが、どこにも見当たらない。
 呼んだのは、俺のほうだった。それなのに、その先の言葉が続かなかった。喉の奥にたくさん詰まっているはずなのに、一つも形にならない。
「元気そう。よかった」
 先に言ったのは、由希奈だった。
「ここで、バイトしてるんだ」
「うん。プラネタリウムの案内係」
「知らなかった」
「言ってないから」
 短い言葉の応酬に、間が生まれる。沈黙は、気まずくはなかった。ただ、その静けさの中に、何年分もの時間が横たわっていた。
「今日、イベントやってるの、知ってた?」
「うん。従業員向けの掲示で。学校の名前、見た」
「それで」
「今日、シフト入れた」
 偶然の再会だと、勝手に思い込んでいた。彼女のほうは、この日を知って迎えていたのだ。
「……声、かけようと思ってた。午後の休憩で」
 由希奈は、エプロンの紐を指に巻いた。
「先、越された」
 
 ◇ ◇ ◇

「あの手紙」
 由希奈が、先に口を開いた。
「迷惑だったよね。ごめん」
「そんなこと——」
「急にいなくなって、手紙だけ。身勝手だった」
「身勝手なんかじゃ」
「うん、平気」
 由希奈は、俺の言葉を静かに遮った。
「もう、大丈夫だから」
 喉の奥が、急に狭くなった。言い返したいのに、声が出ない。目の奥が、じわりと熱を持った。
 大丈夫、って。俺はまだ、ぜんぜん大丈夫じゃないのに。
 それでも、聞かずにはいられなかった。
「なんで、連絡くれなかったの」
 責めるつもりはなかった。それなのに、声に棘が混じった。
 由希奈は、少し驚いたようにこちらを見た。
「一回だけ、したよ」
「え」
「インスタ。共通の友達が、蒼太のアカウント教えてくれて。メッセージだけ、送った」
 淡々とした声だった。
「既読、つかなかった」
 心臓が、大きく跳ねた。覚えがない。通知も、何も。
「いつ、それ」
「二年くらい前。おばあちゃんが施設に入って、少し落ち着いた頃」
「……見てなかったと、思う。本当に」
「うん。いいの」
「よくないだろ」
「いいの」
 由希奈は繰り返した。
「あの頃のわたし、たぶん重かった。おばあちゃんのことも、家のことも。全部話したら、蒼太を巻き込んでた」
「そんなの——」
「蒼太のせいにしたいんじゃない」
 由希奈は小さく首を振った。
「返事が来なかったから、わたしも、それ以上は頑張らなかった。楽なほうに逃げただけ。だから、お互いさま」
 何も返せなかった。彼女の側にも、彼女なりの「踏み込まない理由」があった。俺が手紙を引き出しにしまい続けたのと、形は違っても、たぶん同じ種類の臆病さだった。
「おばあさんのこと、聞いた」
 かろうじて、そう言った。
「うん」
 由希奈は窓の外に目を移した。
「大変だった。でも、ちゃんと見送れた」
 ちゃんと、見送れた。
「……AIとか、考えなかったの」
 口にしてから、しまったと思った。由希奈は、少しだけ目を細めた。
「おばあちゃんが、書いてたから。『しない』って。元気な頃に」
「そっか」
「お母さんは、ちょっとだけ迷ってた。でも、書いてあったから。迷わずに済んだ」
 迷わずに済んだ。陽菜の言っていたことと、同じだった。
「それで、こっちに戻ってきたんだ」
「うん。施設の近くにいる理由、なくなったから」
「花、育ててるんだってね。おばあさんの好きだった」
 由希奈が、少し意外そうな顔をした。
「コスモス。……なんで知ってるの」
「一緒に来てる部員が、調べてくれて」
「部員」
 由希奈は、ロビーの向こうのブースに目をやった。陽菜が、子どもにパソコンの画面を見せている。
「……あの子? 朝、アダプタ借りに来た子。わたしの名札見て、一瞬、固まってた」
「うん」
「そっか」
 由希奈の口元に、小さな笑みが浮かんだ。
「あの子が、ここ、選んだんだ」
 それ以上は聞いてこなかった。何かを察したような、それでいて、それを口にしない笑い方だった。
「ここのバイト、いつまで」
「今月いっぱい」
「辞めるの?」
「受験。来年に向けて、塾に集中する。大学、ちゃんと目指すから」
 今月いっぱい。あと一週間もない。
「だから、今日会えたの、ちょうどよかった」
 由希奈はあっさり言った。
「来月だったら、もう、ここにはいなかった」
 
 ◇ ◇ ◇

「蒼太、変わってないね」
 しばらくの沈黙のあと、由希奈がぽつりと言った。
「そう、かな」
「言いたいことあるとき、ちょっと黙る。まだあるでしょ、その癖」
 図星だった。何も言えずにいると、由希奈が小さく笑った。
「それそれ。その顔」
 数年ぶりに見る、由希奈の笑い方だった。記憶の中と、寸分違わない。それなのに、その笑顔が、もう俺に向けられたものではなく、旧友への親しみだけでできていると分かって、胸の奥が静かにきしんだ。
「バイト、戻らないと」
「うん」
「元気で。またね、蒼太」
 軽く手を振って、由希奈はカウンターの内側へ戻っていった。
 涙も、劇的な言葉もなかった。取り残されていたのは、俺のほうだけだった。
 由希奈には、歩いていく先がある。陽菜が毎晩向き合っている画面の中の顔には、それがない。二年前のまま止まって、それでも完璧な優しさだけを返し続けている。生きている由希奈にすら追いつけない俺が、止まったままの誰かに、勝てるはずもなかった。
 
 ◇ ◇ ◇

 手の中のソーダ水は、すっかりぬるくなっていた。開ける気には、なれなかった。
 スマホを取り出す。指が、勝手にインスタのアイコンを探していた。メッセージ一覧の隅に、一度も開いたことのない小さな文字があった。
「メッセージリクエスト」。
 フォローしていない相手からの連絡が、まとめて放り込まれる場所らしい。タップすると、そこに由希奈の名前があった。
 二年以上前の日付。たった一行。
 『久しぶり。元気にしてる? もしよかったら、また話したいな』
 短い、由希奈らしい文面だった。既読の印はついていない。二年間、ずっとここにあった。俺が一度も、この場所を開かなかったというだけで。
 缶を持つ手に、力がこもった。
 返事が来なかったから、それ以上は頑張らなかった。楽なほうに、逃げただけ。
 俺も同じだった。届いていたことにすら気づかずに済んでいた。都合よく、何も知らないままでいられた。
 
 ◇ ◇ ◇

「大丈夫だった?」
 いつの間にか、陽菜が隣に立っていた。
「……見てたのか」
「ごめん。心配で」
「陽菜が、ここを選んだんだよね」
 陽菜は、しばらく黙ってから、小さく頷いた。
「うん。由希奈さんがここで働いてるって突き止めて、それで、会場の候補に推した」
「いつから、知ってた」
「会場決める前から」
 陽菜は目を伏せた。
「家族の投稿に、由希奈さんらしい人が制服っぽい格好で写り込んでて。後ろに、ここのロゴが小さく見えた。それで、ホームページのスタッフ紹介を隅々まで見たら、名前はなかったけど、写真の感じが、たぶん同じ人だなって」
 部室で「……いた」と呟いた声を、思い出した。
「そこまで、よく気づいたね」
「その写真、暇さえあれば見返してたから。気づいたっていうより、見つけるまでやめられなかった、が正しいかも」
「……朝のアダプタ」
「うん」
 陽菜は、少しだけ気まずそうに笑った。
「貸してくれたの、由希奈さん。わたしのほうが、先に会っちゃった。ずるいよね」
 指先が冷たかったこと。明るすぎた笑い方。あれは、ほっとしていたんじゃなかった。
「なんで、黙って進めたの」
「言ったら、蒼太くん、来なかったと思ったから」
 陽菜は少し間を置いた。
「それに……由希奈さんに会わせたら、蒼太くんの中の何かが、区切りつくんじゃないかって」
「俺のため、ってこと?」
「半分は。もう半分は」
 陽菜は自嘲するように笑った。
「わたしのため、だったのかも。由希奈さんの家族が、ちゃんと『選んで』見送ってるのを知って、なんか羨ましかった。その人を、自分の目で見てみたかった」
 正直な答えだった。責める気にはなれなかった。感謝と、戸惑いと、少しの苛立ちが、うまく整理できないまま胸の中で混ざっていた。
「勝手なことして、ごめん」
「……ありがとう、って言うべきなんだと思う。今は、まだ、うまく言えないけど」
 陽菜は少しほっとしたように、小さく笑った。「えへへ」ではない、静かな笑い方だった。
 ソーダ水の缶は、開けないまま鞄にしまった。午後の部の始まりを告げる環先輩の声が、ロビーの向こうから聞こえてきた。