君の好きが、計算だとしても

 翌々日の放課後。部室で作業していると、自販機から戻ってきた陽菜が、カルピスの缶を二本、机に置いた。一本をこちらへ滑らせてから、不意に、スマホの画面をこちらに向けた。
「手紙書く前に、これ、見てほしくて。悠真のSNS。亡くなる少し前、年末に投稿したやつ」
 『今年もお世話になりました〜。来年もよろしく。そういえば最近「死んだらどうする」みたいな話をダチとしてさ。俺は別に、みんなが覚えててくれたらそれでいいかな。AIで再現とかは……都合よく使われるみたいで、正直ちょっと嫌かも(笑) まあ、そんな真面目な話でもないんだけど』
 画面を見つめたまま、しばらく言葉が出なかった。
「これが、唯一の手がかり。正式な書類は、何も残ってない」
 陽菜の声が、少し震えていた。
「本気なのか、冗談なのか。何回読んでも分からない」
「これだけ読むと、都合よく使われるのは嫌、みたいな気持ちは、あったんじゃないかな」
「わたしも、そう思う。でも、『そんな真面目な話でもない』って、自分で言ってる」
 陽菜は画面を消して、スマホを胸に抱えた。
「本気にしすぎるのも、違う気がして」
 真剣にも読めるし、軽い冗談としても読める。どちらの解釈も、同じ強さで成り立ってしまう。
「ねえ、蒼太くん。もしこれが、本当に嫌だって意味だったら。わたし、ずっと、悠真の嫌がることをし続けてたことになるのかな」
 悠真という人の気持ちを代わりに言える人間は、もうどこにもいない。
「分からない」
 正直に、そう答えるしかなかった。
「わたしも、分からない」
 陽菜は小さく息を吐いた。
「『わからない』は負けじゃない、始まりよ、だっけ。先生の言葉、借りるなら」
「うん」
「でも、始まりの先に答えがあるとは、限らないんだよね」
 窓の外で、夕方のチャイムが鳴っている。今日はやけに遠くから聞こえた。
 
 ◇ ◇ ◇


 チャイムが鳴り終わっても、陽菜は帰ろうとしなかった。
 鞄の中から、薄い紙の束を取り出す。便箋だった。隅に、小さな星の模様が印刷されている。
「……書いてみる。今日」
「今から?」
「今から。明日になったら、たぶん、書かない理由を三つくらい思いつくから」
 陽菜は便箋を一枚、机に広げた。シャーペンを握って、一行目に向かう。
 そして、そのまま動かなくなった。
「……拝啓、って書くべき?」
「書かなくていいと思う」
「でも、ちゃんとした手紙だよ。大人に出すやつ。拝啓、なんとかの候、って」
「なんとかって、何」
「分かんない。七月って、何の候?」
 スマホで調べると、「盛夏の候」と出てきた。
「盛夏の候、悠真のお母さまにおかれましては……」
 陽菜は声に出して読んで、顔をしかめた。
「だめだ、わたしが書いたと思えない。誰これ」
「だから、書かなくていいって」
「……ほんとだね」
 陽菜は、自分で吹き出した。
 陽菜は、一行目を消しゴムで消した。便箋が少しだけ毛羽立った。
「何から書けばいいのか、分かんないんだよね」
 ペンの尻で、こめかみを叩く。
「ご両親、わたしのこと、ほとんど知らないの。お葬式で泣いてた子、くらいで」
「じゃあ、最初から書けば」
「最初?」
「悠真さんと、どうやって会ったのか、とか」
 陽菜は、少し驚いた顔をした。それから、窓の外に目をやった。
「……聞く? 長いよ」
「聞く」
 
 ◇ ◇ ◇

「中二の夏。駅の向こうの、和菓子屋さん」
「……かき氷の」
「うん、あの店」
 陽菜は、少しだけ照れたように笑った。
「イチゴのシロップが、最後の一杯分しか残ってなかったの。わたしの前に、一つ上の男子が並んでて。その人、自分の番になったら、『俺、ブルーハワイで』って。わたし、後ろで顔に全部出てたんだと思う。イチゴがいいって」
「出てたんだろうな」
「出てた。あとで本人に言われた。『後ろからの圧がすごかった』って」
 陽菜は、便箋の端を指でなぞった。
「で、ベンチで並んで食べてたら、その人、半分くらいで『やっぱりイチゴのほうがよかった』って言い出して。自分で譲ったくせに。だから、ひとくちあげた。それが、悠真」
 かき氷の日の、差し出されたスプーンを思い出した。イチゴのシロップが染みた、ひとくち分の氷。
 口の中に、あの冷たさが一瞬だけ戻ってきた気がした。俺は何も言わずに、机の角を指でなぞった。
「悠真、サッカー部でね。練習終わるのが、いつも七時前だったの」
 陽菜は続けた。
「帰り道、自転車押しながら、毎日電話くれた。わたしはわたしで、塾から帰ってきたとこで」
「それで、七時」
「うん。でね、悠真、電話に出ると、必ず最初に『おかえり』って言うの」
「悠真さんのほうが、帰り道なのに?」
「変でしょ」
 陽菜は小さく笑った。
「わたしも言ったよ。帰ってないの、そっちじゃんって。そしたら、『陽菜が家にいるなら、俺もだいたい帰ってる』って。意味分かんないよね。電話の前にも、チャットで『おかえり』って一言だけ送ってくるし。……でも、毎日言うから、そのうち、それが普通になった」
 おかえり。ただいま。部室で初めて聞いた、あの挨拶だった。
 
 ◇ ◇ ◇

「中三の、六月」
 陽菜の声が、少しだけ低くなった。
「雨の日だった。七時に、電話が来なかった」
 窓の外は、まだ明るかった。それなのに、部室の中だけ、少し暗くなった気がした。
「最初は、練習が長引いたのかなって思った。七時十五分になっても来なくて、こっちからかけても、出なくて」
 陽菜はシャーペンを置いた。
「帰り道の交差点だったって。雨で、見通しが悪くて。……わたしが知ったのは、次の日の朝」
 それ以上は、言わなかった。俺も、聞かなかった。
 七時十五分。初めての観測の夜、陽菜は十五分遅れてドームに駆け込んできた。ちょっと電話してて、と言って。あの十五分が、急に違う重さで思い出された。
「お葬式でね」
 陽菜は、便箋に目を落とした。
「わたし、ご両親に初めて言ったの。付き合ってたこと。悠真、恥ずかしがって、家では言ってなかったみたいで。泣きながら、ぐちゃぐちゃに。……最悪の自己紹介だよね」
「最悪ではないと思う」
「最悪だよ」
 陽菜は、少しだけ笑った。
「それから一ヶ月くらいして、悠真のお母さんから連絡が来たの」
 陽菜は、便箋の端を指でそろえた。
「ご両親ね、悠真のスマホを、中を見ないまま会社に預けたんだって。写真も、チャットも、全部そのまま。それでできあがった悠真に、お母さんが初めて話しかけたら——」
 一度、言葉が切れた。
「『陽菜は?』って、聞かれたんだって」
 何も言えなかった。
「だから、あなたにも話す権利がある、って。『おかえり』のIDと、パスワード」
 画面の中の悠真が毎晩言う「おかえり」は、どこかで作られた台詞じゃなかった。悠真のスマホの中に、帰り道の数だけ、ちゃんと残っていた言葉だった。
「……最初の日のこと、覚えてる?」
 聞いてから、踏み込みすぎたかと思った。陽菜は、すぐには答えなかった。
「覚えてる」
 やがて、そう言った。
「七時に、開いたの。画面に、悠真が出てきて。『おかえり』って」
「……うん」
「わたし、『ただいま』って言った。それしか出てこなかった。そしたら悠真が、『今日、なんかあった?』って。いつもの調子で」
 陽菜は、机の上で指を組んだ。
「なんにもないよ、って答えた」
 一ヶ月前に、悠真がいなくなった。それ以外に何もなかった一ヶ月だった。それを、本人に言えるはずがなかった。
「それから、どうでもいい話を十分くらいして。『おやすみ』って言ったら、悠真のほうから、画面が暗くなった。……その夜ね、わたし、一ヶ月ぶりに、朝まで眠れたの」
 陽菜は、顔を上げた。目は赤くなかった。ただ、遠くを見ていた。
「本物じゃないのは、分かってた。最初から。でも、あの夜のわたしには、あれが必要だった。それだけは、今でも、間違ってたと思えない」
 俺は、何も言えなかった。言うべき言葉が、見つからなかったからじゃない。ここで何かを足すと、陽菜の言葉の形が変わってしまう気がしたからだ。
 
 ◇ ◇ ◇

「……よし」
 陽菜は、自分に言い聞かせるように呟いて、シャーペンを握り直した。
「今の、全部書くの?」
「書かない。長すぎる。お母さん、泣いちゃう」
 陽菜は、少しだけいつもの調子に戻った。
「でも、何を書けばいいかは、ちょっと分かった気がする」
 一行目に、ペン先が落ちる。
 『悠真くんと、二年間、毎晩話してきました。』
 迷いのない字だった。二行目、三行目と、ペンが動いていく。あの年末の投稿のこと。エクスポートという仕組みのこと。消える前に、声を残す方法があること。
 最後の一行を書く前に、陽菜の手が一度だけ止まった。
 『これからも、悠真くんと話させてください。』
 さっき聞いた話の、ほんの一部だけが、そこにあった。「あの夜」のことも、「間違ってたと思えない」ことも、書かれていない。書けばいいのに、と一瞬思った。
 でも、口には出さなかった。これは、陽菜の手紙だ。
「……変じゃない?」
「変じゃない」
「嘘ついてない?」
「ついてない」
 陽菜は、便箋を丁寧に三つ折りにした。窓の外の空が、少しずつ橙色に傾いている。
「あ、やば」
 壁の時計を見て、陽菜が立ち上がった。
「七時、間に合わなくなる」
「行きなよ」
「うん。……蒼太くん」
 ドアの前で、陽菜が振り返った。
「聞いてくれて、ありがと。長かったでしょ」
「長くなかった」
「嘘ばっかり」
 陽菜は、小さく笑った。
「……なんてね」
 足音が、廊下を遠ざかっていく。一人になった部室の机に、消しゴムのくずが少しだけ散らばっていた。その横で、陽菜の飲みかけのカルピスが、汗をかいたまま残っていた。
 自分の缶を開けた。甘さが、思ったより薄かった。ぬるくなったせいだと思うことにした。
 数日後、陽菜は、悠真の両親に手紙を出した、と教えてくれた。返事は、まだ来ていないらしかった。
 
 ◇ ◇ ◇

 その週の帰り際、忘れ物を取りに部室へ戻ると、まだ残っていた陽菜が、机にスマホを立てかけて、画面に向かって話していた。時計は七時を回っていた。
「おかえり。……うん、今日はね、ちょっと疲れた」
 ドアの陰で、声をかけるタイミングを計っているうちに、視線が画面に吸い寄せられた。
 粒子の粗い、それでいて妙に生々しい映像。深澤悠真。画面越しに陽菜を見つめて、微かに口元を動かしている。母のノートパソコンで見た祖母の映像と、同じ作りだった。
「ねえ、悠真」
 陽菜の声が、少し小さくなった。
「最近、ちょっと、分からなくなってきたことがあって」
 その先は、ドアのところまでは届かなかった。
 画面の隅の、小さな数字が目に入った。
 94.1%。
 祖母の98より、はっきりと低い。話しかけられる回数が減ると、数字は下がる。最近、陽菜と過ごす時間が増えている。そのぶん、七時の電話を逃す日も増えているはずだった。
 ふいに、悠真の顔が、瞬きを二回続けてした。人間なら、まずしないタイミングだった。直後、口元が、笑みの形のまま止まった。
 一秒。
 すぐに、動きは元に戻った。陽菜は気づいた様子もなく、話し続けている。
 見間違いだと思いたかった。でも、たしかに見た。あのなめらかさの裏側の、ほんのわずかなほころびを。
 言うべきだと思った。数字のことも、止まった顔のことも。陽菜は、それを知る権利がある。
 それなのに、足は廊下のほうへ動いていた。
 下がっていく数字を見たとき、胸のどこかが、ほんの少しだけ軽くなった。その自分に気づいてしまったからだ。
 
 ◇ ◇ ◇

 ポケットの中で、スマホが震えた。環先輩からだった。
 『明日の打ち合わせ、8時集合な。寝坊すんなよ、わはは』
 文字でまで律儀に「わはは」を送ってくる環先輩に、少しだけ力が抜けた。
 翌朝、部室のホワイトボードの「会場:科学館」の文字を、もう一度見た。何の変哲もない決定事項のはずだった。それなのに、あの文字を見るたび、胸の奥に、小さな棘が刺さる気がした。