君の好きが、計算だとしても

「よし、キャッチコピー、これで決定な」
 環先輩が満足げに、最終稿をプリントアウトした。「AIより先に、あなたが見つける」。陽菜が細かい言葉のニュアンスを足して、仕上げたものだ。
「蒼太くんの『百件のうち九十四件は外れてる』が採用されなくて、よかったね」
「あれは、ボツで正解」
 軽口を交わしながら、刷り上がったチラシを折っていく。折り目をつけるたび、指先にインクの匂いが移った。
 十月末。
「まだ確かめてるとこ」と、かき氷を挟んで言ったあの日から、嘘は一度も訂正されていない。訂正する機会なら、毎日あった。そのたびに、チラシの角を意味もなく揃え直すみたいに、先へ延ばしてきた。
 
 ◇ ◇ ◇

 その日の作業中、陽菜が何度もスマホを確認しているのに気づいた。真剣な顔で、指先が画面の上を何かを探すように動いている。
「……いた」
 独り言にしては、はっきりした声だった。
「何か見つかった?」
 聞くと、陽菜は慌ててスマホをポケットに滑り込ませた。
「ううん、なんでもない。ただの調べもの」
 いつもなら、引き下がらなかったかもしれない。けれど、隠しごとをしているのは俺も同じだ。お互いさまだ、と自分に言い聞かせて、それ以上は聞かなかった。
 
 ◇ ◇ ◇

 翌週、環先輩が会場候補の進捗を報告した。
「科学館、正式に問い合わせてみた。うちの活動内容にぴったりだって、担当の人も乗り気だったぞ。市民センターは料金、公民館は機材の持ち込みがネックだしな」
 候補が絞られていく中で、陽菜が、思ったよりはっきりした声で口を挟んだ。
「会場、科学館がいいと思う。プラネタリウムもあるし、駅からも近いし、学生団体は割引もあるみたい」
 理由はどれも筋が通っていた。環先輩も俺も、特に異論はなかった。
「よし、決まりな。話が早い」
 ホワイトボードに「会場:科学館」と大きく丸がついた。
「陽菜、やけに科学館推しだね」
 からかうと、陽菜は「プラネタリウム、単純に好きなだけだよ」と笑った。
 会議が解散したあと、二人で机を並べ直していると、陽菜の手が一瞬止まった。
「さっきの。プラネタリウムが好きだから、だけじゃないよね」
「……なんで、そう思うの」
「理由が、いつもよりちゃんとしすぎてたから」
 陽菜はしばらく黙っていた。
「別に、取引のためだけじゃないんだけど」
 言いかけて、口をつぐむ。
「……なんでもない。忘れて。えへへ、秘密。……なんてね」
 照れ隠しで、話はそこで終わった。
 
 ◇ ◇ ◇

 数日後の放課後。部室に残っていたのは、俺と陽菜の二人だけだった。観測ノートを整理していた陽菜が、ふと手を止めた。
「ねえ、蒼太くん」
 ノートの表紙を指でなぞりながら、続ける。
「悠真のデータのこと、なんとかならないかな。蒼太くんのお母さんの会社のルートで。期限、延ばしてもらうとか」
 これまでの取引は、情報を渡すだけの約束だった。それが今、もっと具体的な頼みごとに変わろうとしていた。しかも俺は、その情報すら、まだちゃんと渡していない。
「……調べてみる」
 それだけ答えるのが精一杯だった。
「無理にとは言わないから」
 陽菜は慌てたように付け加えた。
「できる範囲でいいの」
 応えられなければ、陽菜をがっかりさせる。踏み込みすぎれば、母の信頼を裏切る。いつの間にか、身動きの取れない場所に立っていた。
 
 ◇ ◇ ◇

 その夜、台所に降りると、母が見慣れない小さな機械の前に立っていた。
「それ、何」
「エスプレッソマシン。奮発しちゃった。ストレス発散。形から入るタイプなの、私」
 半ば強引に渡されたカップを口に運ぶ。想像していたよりずっと濃くて、苦い。
「苦っ」
「あはは、蒼太には早かったか」
 母は楽しそうに、自分の分を持ってリビングのソファに座った。俺も、その隣に座った。
「……一人だけ期限を延ばすのって、できるの」
 母のカップが、一瞬止まった。
「なに、急に」
「たとえば。契約者の知り合いが、困ってたら」
「無理」
 母は迷わずに首を振った。
「移行の期限は、全契約者一律。誰か一人だけ延ばしたら、ほかの人たちに説明がつかない。……なに、蒼太。誰か知り合いにでもいるの」
「——いや」
 反射的に引っ込めて、自分の癖に苦笑いした。
「たとえ話」
「その『いや』、お母さんには通じないよ」
 母は、カップ越しにこちらを見た。
「蒼太、ちっちゃい頃からそれ言うとき、絶対なんか隠してるもん」
 降参するしかなかった。
「……知り合いが、困ってる。俺に何もできないのは分かってる。でも、何かできることがあるなら、知りたい」
 母は、しばらく俺の顔を見ていた。それから、小さく息を吐いた。
「契約者さんの事情は、私からは何も言えない。それは仕事だから。規則も曲げられない」
 エスプレッソを一口飲む。
「……でもね、更新しない場合でも、思い出として残せるものはあるの。全部の記録じゃなくて、選んだいくつかのやり取りとか、声のメッセージとか。エクスポート機能っていって、消える前に、そういう形で渡せる」
「それ、知らなかった」
「あんまり宣伝してないから。悲しい選択を勧めるみたいで、営業的には気が引けるのよ」
 母は少し自嘲するように笑った。
「でも、ちゃんとある。契約者さんが望めば」
 契約者さん。陽菜は、契約者じゃない。
「それ、契約者本人が言わないと駄目なんだよね」
「そう。第三者からの申し出は受け付けられない。でも、これは規則じゃなくて、情報。ちゃんと伝わるべき人に伝われば」
 エスプレッソの苦味が、舌の奥に残っていた。飲み下すしかない種類の苦さだった。それでも、ようやく、自分がすべきことの輪郭が見えた気がした。
 
 ◇ ◇ ◇

 翌日の放課後、陽菜を部室に呼び出した。
「話したいことがある。二つ」
「なに、急に。二つって」
「まず、謝らなきゃいけないこと。期限の日付。かき氷のとき、まだ確かめてるって言ったけど、あれ、嘘だった。あの時にはもう、母さんから聞いてた」
 陽菜の表情が、固まった。
「……いつ」
「十月末。母の会社の、システム刷新の日」
 陽菜は何も言わなかった。握りしめた手の指先が、白くなっている。
「日付だけ渡しても、陽菜は何も決められない。決める権利がないのに、日付だけ知らされるのって、ただつらいだけなんじゃないかって。……そう思ってた。本当は、渡すのが怖かっただけかもしれない」
「……それで」
 陽菜の声は、思っていたよりずっと静かだった。
「二つ目は」
「一人だけ期限を延ばすのは、絶対にできないって。それは、もうどうにもならない。でも、更新しない場合でも、全部が消えるわけじゃない。選んだやり取りとか、声のメッセージとか、消える前に残しておける仕組みがあるらしい。エクスポート機能」
「それ、誰でも頼めるの」
「……契約者だけ。悠真さんのご両親が望んだ場合だけ。陽菜が直接頼むことは、できない」
 陽菜の顔が、一瞬曇った。
「じゃあ、意味ない」
「意味、あると思う。陽菜が、悠真さんのご両親に、ちゃんと話せば。今まで、好意に甘えて黙ってただけなんだろ。今度は陽菜のほうから、伝えれば」
「なんて伝えるの。IDだけ借りてる、ただの元カノが」
「ただの元カノじゃない。二年間、毎晩、悠真さんと向き合ってきた人だろ。その言葉には、意味があると思う」
 陽菜は、長いあいだ黙っていた。
「……嘘ついたのは、ちょっと、許してない」
「うん」
「でも、今日ちゃんと言ったのは、覚えとく」
 陽菜は小さく息を吐いた。
「……考えてみる。手紙、書いてみようかな」
「一人で抱えなくていい。文面とか、一緒に考えるから」
 陽菜は少し驚いたようにこちらを見て、それから、「えへへ」ではない、静かな笑い方をした。