「よし、今日は夏のイベントの相談な」
部室に全員がそろうなり、環先輩はホワイトボードに大きく「会場」と書きつけた。
八月の終わりに、天文部で市民向けのワークショップを開く。AIが選んだ惑星の候補を、来た人に自分の目で判定してもらう体験イベントだ。文化祭の展示は、そのあと秋にじっくり詰める。そういう段取りだった。
「まず、会場どうする問題な。校内の視聴覚室だと、機材的にちょっと厳しいって話だったろ」
環先輩が候補を書き出していく。
「市民センターの多目的ホール。公民館。あと、科学館。プラネタリウム併設だし、天文系なら箱として合うだろ」
「科学館、高くないですか」
「そこは調べる。わはは、わたし、行動力だけはあるから」
「行動力『だけ』って、自分で言っちゃうんだ」
陽菜がすかさず突っ込んだ。
部室に小さな笑いが起きた。ホワイトボードには、まだ何も決まっていない候補の名前が三つ並んだ。
◇ ◇ ◇
会議が一段落すると、環先輩はさっそく電話をかけに部室を出ていった。俺と陽菜には、イベント用のチラシ作りが割り振られた。二人でパソコン室に移動する。
「ポップコーン、食べる?」
陽菜が鞄から、電子レンジ用の袋を取り出した。
「文化祭の売店候補なんだって。環先輩の提案で。味見係、頼まれちゃった」
袋を開けると、バターの匂いがパソコン室の乾いた空気に広がった。二人でつまみながら、チラシの文面を練っていく。
「『君の目が、望遠鏡になる夜』」
「悪くないけど、ちょっと気取ってる」
「『AIより先に、あなたが見つける』」
「あ、それ好き」
「じゃあ、蒼太くんも一個くらい出しなよ」
「『百件のうち九十四件は、外れてる』」
「暗いよ。誰も来ないやつじゃん、それ」
「……正直なだけだろ」
陽菜が吹き出して、ポップコーンを一粒、俺の頭に投げた。
コピーが決まると、次はイラストだった。
「絵、どうする?」
陽菜が、真っ白なレイアウトの枠を指さした。
「AIに描かせたら、一瞬だけど」
「『AIより先に、あなたが見つける』のチラシの絵を、AIが描くの?」
「……矛盾してるね」
「してる」
「じゃあ、手描き」
陽菜は、コピー用紙を一枚、俺の前に滑らせた。
「蒼太くん、望遠鏡描いて。見本、そこにあるから」
準備室から持ってきた小さい望遠鏡を見ながら、シャーペンを動かした。筒。三脚。レンズ。十分かけて、それらしいものができあがった。
陽菜が、覗き込んだ。
「……大根?」
「望遠鏡」
「脚の生えた大根だよ、これ」
「見本どおりに描いた」
「見本、泣いてるよ」
陽菜は、お腹を抱えて笑った。
「えへへ、ごめん。でも、これはこれで味がある。採用しよっか。『大根より先に、あなたが見つける』」
「絶対に嫌だ」
結局、絵は陽菜が描いた。さらさらと数本の線を引くだけで、ちゃんと望遠鏡に見えた。接眼レンズのところに、小さな目を一つ描き足す。それだけで、誰かが星を覗いている絵になった。
「ずるい」
「練習したもん。観測ノートで」
陽菜は、ペンのキャップを閉めた。
「その代わり、タイトルの字、蒼太くんが書いて」
「なんで」
「わたしの字、丸すぎるんだよね。チラシの顔には、ちょっと頼りない」
言われるまま、太いペンで「AIより先に、あなたが見つける」と書いた。一文字ずつ、ゆっくり。
書き終えると、陽菜が、少し驚いたように紙を持ち上げた。
「……字、きれいなんだ」
「普通だろ」
「普通じゃないよ。ちゃんと、読んでほしい人がいる字」
陽菜は、紙を光にかざした。
「なんか、手紙とか書き慣れてそう」
手が、止まった。
引き出しの中の、書いては送らなかった言葉たち。日付ごとに並んだ、途中で止まった文章。書くだけは、何年も書いてきた。
「……書くだけは、書くから」
「送らないの?」
「送らないのも、ある」
陽菜は、それ以上は聞かなかった。ただ、俺の書いた字を、しばらく黙って見ていた。
「じゃあ、これは送ろうね」陽菜は、紙を丁寧にクリアファイルに挟んだ。
「印刷して、町じゅうに」
「送るっていうか、配るだろ」
「同じだよ。読んでほしい人に、届けるんだから」
二人でペンを動かす時間が、思いのほか心地よかった。キャッチコピーの一つ一つに真剣に頭を悩ませる横顔。ポップコーンの塩加減にまで「環先輩、これ濃すぎ」と赤ペンでメモする几帳面さ。そういう細部のほうが、由希奈の面影より、今の俺にはずっと鮮明に見えた。
気づいた瞬間、妙な後ろめたさが胸をよぎった。この取引は、由希奈を探してもらうためのものだったはずだ。それなのに、この時間そのものが、いつの間にか目的にすり替わりかけている。
だから、この気持ちには、まだ名前をつけないでおくことにした。
◇ ◇ ◇
「そういえば」
チラシのレイアウトが固まってきたところで、陽菜が話題を変えた。
「由希奈さんのこと、もうちょっとだけ調べてみたんだけど」
指先が、無意識にシャーペンを探して止まった。
「本人のアカウントは、やっぱり見つからなかった。代わりに、家族のアカウントっぽいのを見つけて」
陽菜は少し言い訳するような口調になった。
「ごめん、勝手なことしたかも」
「いや、責めてない」
むしろ、そこまでしてくれたことに驚いていた。
言われてみれば、俺は由希奈の名前を、検索窓に打っては消したことしかなかった。手紙を大事にしまい込むことと、実際に消息を追うことは、まるで別の行為だったのだと、今さら気づく。
「で、何か分かったの」
「一年くらい前の投稿に、法事っぽい写真があって。喪服の家族の写真。それで、もしかして、おばあちゃん、去年あたりに亡くなったのかもって……確証はないんだけど」
言葉が出なかった。由希奈はおばあさんの介護のために転校した。その先に、こういう結末があったかもしれないとは、考えたこともなかった。
「しかも、そのコメント欄に、親戚っぽい人が書いてて。『おばあちゃんの意思、ちゃんと守れてよかったね』って」
「意思、って」
「うちの親戚でも、たまに聞く話なんだけど」
陽菜は記憶を探るように、視線を上に向けた。
「亡くなったあと、AIとかで再現していいかどうか、生きてるうちに決めておける書類があるんだって。臓器提供のカードみたいなやつ」
「デジタルシャドウ提供意思表明書」
口が勝手に、正式名称を言っていた。母の会社の説明書類で、何度か見た名前だ。
「あ、そっか」
陽菜が目を丸くした。
「お母さんの会社の。さすが、関係者」
「関係者っていうか、門前の小僧」
「なにそれ」
「習わぬ経を読む、っていう」
「おじいちゃんみたい」
陽菜は笑ってから、また画面に目を戻した。
「由希奈さんのおばあちゃん、たぶん、その書類で『しない』って書いてたんだと思う。家族、AIとかは一切使ってないっぽい。代わりに、おばあちゃんが好きだった花を毎年庭で育てたり、命日に得意料理を家族で作って食べたり。そういう写真は、何枚かあった」
「……認知症だったんだよね、由希奈のおばあさん」
「うん。そういうこと、書いてあった気がする」
「別れのないさよなら、ってやつか」
陽菜が、小さく目を見開いた。
「先生が言ってたやつだ。じゃあ由希奈さんって、二つとも経験してるんだ。蒼太くんとの、さよならの言えない別れと、おばあちゃんとの、別れのないさよなら」
言われてみて、初めて、由希奈が抱えていたものの大きさが見えた。中学生の由希奈は、俺の知らないところで、二つの喪失を同時に抱えていたことになる。彼女が突然いなくなったことを、俺は自分だけの被害みたいに感じていた。それが、急に恥ずかしくなった。
「なんか、それはそれで、綺麗だなって思った」
陽菜がぽつりと言った。
「花とか、料理とか。ちゃんと選んで、見送ってる感じがして」
その声に、羨ましさに似た響きが混じっているのを、俺は聞き逃さなかった。
「なんで、そこまで調べてくれたの」
「取引、覚えてる?」
陽菜はそう言ってから、少し間を置いた。
「でも、正直、約束だからってだけでもない。蒼太くんがあんなに大事に手紙持ってる相手が、今どんなふうに生きてるのか、単純に知りたくなったのもある」
「悠真は」
ぽつりと、陽菜が言った。
「何か、残してたのかな。……分かんない。誰にも、聞けない」
これまで聞いたどの言葉より、はっきりとした不安が滲んでいた。
「悠真のご両親が、正式な契約者なの。わたしがIDもらって使ってるのは、あの人たちの好意でしかない」
陽菜は自嘲するように笑った。
「お葬式のとき、我慢できなくて、ずっと言えなかったこと、ご両親の前で泣きながら話しちゃって。それを聞いた悠真のお母さんが、しばらくしてから、『あなたにも、話す権利があると思う』って、IDを教えてくれたの」
「じゃあ、今、陽菜が続けてる対話は」
「宙ぶらりんのまま、続いてる感じ」
陽菜は苦笑した。
「由希奈さんのおばあちゃんみたいに、はっきり『しない』って書いてあるなら、まだいい。家族も迷わなくて済むから。うちは、誰も何も決められないまま、なんとなく続いてる」
何も言えなかった。十月末という日付が、喉の奥まで出かかって、止まった。
「えへへ、暗い話しすぎたね」
陽菜が無理に明るい声を作った。
「ポップコーン、もう一袋作ろっか」
「……いや、まだこっち、半分残ってるし」
◇ ◇ ◇
その日の夕飯。母はスマホを伏せたまま、味噌汁の椀を両手で持って、しばらく口をつけなかった。
「繁忙期?」
「うん。ご家族に、一件ずつ電話してる。移しますか、消しますかって」母は短く言った。「今日、同じ人に三回、切られた」
「……なんで」
「答えたくないんだと思う。答えたら、決まっちゃうから」
母はそれだけ言って、ようやく味噌汁を一口飲んだ。
答えたら、決まっちゃうから。
誰も何も決められないまま、なんとなく続いてる。陽菜の声が、その言葉に重なった。
「蒼太、最近よく黙り込むな」
父が箸を止めた。
「——いや」
反射的に返して、自分の癖に苦笑いした。食卓の隅、キッチンカレンダーの十月のページに、母が赤いペンで丸をつけているのが見えた。何の印か、聞かなくても分かった。
◇ ◇ ◇
翌日の放課後。パソコン室でチラシの続きをしていると、環先輩が顔を出した。
「科学館、電話してみたぞ。市民科学ワークショップの枠、八月末ならまだ空きあるってさ」
「ほんとですか」
「マジマジ。候補の一つってことで、今度、担当の人と打ち合わせな」
陽菜が、小さく頷くのが見えた。その表情に、ほかの候補の名前が出たときとは少しだけ違う何かが混じっていた。そのときは、気にも留めなかった。
作業を終えて、鞄に荷物を詰めていると、陽菜が言った。
「蒼太くん、そろそろ帰る?」
「うん。……あのさ」
思いきって、口にしてみた。
「このあと、どっかで晩飯食べてかない? 駅前に新しくできたうどん屋、気になってて」
陽菜は一瞬、迷うような顔をした。スマホを出して、時刻を確かめる。
「……うどん、気になる。気になるんだけど」
少しだけ、気まずそうに笑った。
「七時までには、家、帰りたくて」
「七時」
「うん。毎日、その時間に、ちょっとだけ話す時間、作ってるから」
誰と、とは言わなかった。言わなくても分かった。うどん屋に寄れば、確実に間に合わない。
「そっか」
「ごめん、また今度」
「いや、全然」
そう答えながら、胸の奥に鈍い痛みが広がっていった。彼女の一日には、二年前から、七時という時間に決まった場所が用意されている。張り合う相手が生きている人間なら、まだ対等に張り合えたかもしれない。相手は、もうこの世にいない。それなのに、七時だけは、律儀に毎日、彼のために空けられている。
「じゃあ、また明日」
陽菜はいつもの調子で手を振って、足早に部室を出ていった。
◇ ◇ ◇
「蒼太、ちょっといいか」
自転車置き場へ向かう途中で、声をかけられた。環先輩が、片手に天体観測誌を挟んだまま歩いてくる。
「お前、連星って知ってるか」
環先輩は、指先で宙に円を二つ描いてみせた。
「二つの星が、互いの重力で結びついて、一緒に回ってる状態。もし片方が先に燃え尽きて、光らなくなったとしてもな。もう片方は、その重力から簡単には逃げられない。律儀に、そいつの周りを回り続けることだって珍しくないんだぞ」
「……それが、何か」
「さっきの、見てた」
隠しもせずに言った。
「陽菜が、七時の何かのために、お前の誘い断っただろ」
心臓が、小さく跳ねた。
「それとな。陽菜が最近、どっかの中学の同級生のSNSばっか見てるのも、隣にいりゃ分かる。あれ、お前の探し物だろ」
返事ができなかった。環先輩は、それを答えと受け取ったらしい。
「で、お前はどうなんだ。本当に陽菜のために動いてんのか? それとも、中学の誰かっていう、もう光らなくなった星の周りを、まだぐるぐる回ってるだけなんじゃないのか。ちゃんと光ってる星が、すぐ隣にあるのに」
すぐには、言葉が出なかった。
「……そんなつもりじゃ」
「つもりの話はしてない」
環先輩は、いつもの緩さを消して、まっすぐ俺を見た。
「お前、その誰かにできなかった分を、陽菜相手にやり直してるだけなんじゃないかって、聞いてる」
図星なのか、ただ驚いているだけなのか、自分でも判断がつかなかった。
「悪いな、直球すぎて」
環先輩は少し表情を緩めた。
「天文部の部長だからな。星の話でしか、うまく言えないんだよ、わたしは。わはは」
それだけ言うと、返事を待たずに歩いていった。
自転車のサドルに跨ったまま、しばらくペダルを踏めなかった。見上げた空の端で、星がひとつ、光り始めていた。
部室に全員がそろうなり、環先輩はホワイトボードに大きく「会場」と書きつけた。
八月の終わりに、天文部で市民向けのワークショップを開く。AIが選んだ惑星の候補を、来た人に自分の目で判定してもらう体験イベントだ。文化祭の展示は、そのあと秋にじっくり詰める。そういう段取りだった。
「まず、会場どうする問題な。校内の視聴覚室だと、機材的にちょっと厳しいって話だったろ」
環先輩が候補を書き出していく。
「市民センターの多目的ホール。公民館。あと、科学館。プラネタリウム併設だし、天文系なら箱として合うだろ」
「科学館、高くないですか」
「そこは調べる。わはは、わたし、行動力だけはあるから」
「行動力『だけ』って、自分で言っちゃうんだ」
陽菜がすかさず突っ込んだ。
部室に小さな笑いが起きた。ホワイトボードには、まだ何も決まっていない候補の名前が三つ並んだ。
◇ ◇ ◇
会議が一段落すると、環先輩はさっそく電話をかけに部室を出ていった。俺と陽菜には、イベント用のチラシ作りが割り振られた。二人でパソコン室に移動する。
「ポップコーン、食べる?」
陽菜が鞄から、電子レンジ用の袋を取り出した。
「文化祭の売店候補なんだって。環先輩の提案で。味見係、頼まれちゃった」
袋を開けると、バターの匂いがパソコン室の乾いた空気に広がった。二人でつまみながら、チラシの文面を練っていく。
「『君の目が、望遠鏡になる夜』」
「悪くないけど、ちょっと気取ってる」
「『AIより先に、あなたが見つける』」
「あ、それ好き」
「じゃあ、蒼太くんも一個くらい出しなよ」
「『百件のうち九十四件は、外れてる』」
「暗いよ。誰も来ないやつじゃん、それ」
「……正直なだけだろ」
陽菜が吹き出して、ポップコーンを一粒、俺の頭に投げた。
コピーが決まると、次はイラストだった。
「絵、どうする?」
陽菜が、真っ白なレイアウトの枠を指さした。
「AIに描かせたら、一瞬だけど」
「『AIより先に、あなたが見つける』のチラシの絵を、AIが描くの?」
「……矛盾してるね」
「してる」
「じゃあ、手描き」
陽菜は、コピー用紙を一枚、俺の前に滑らせた。
「蒼太くん、望遠鏡描いて。見本、そこにあるから」
準備室から持ってきた小さい望遠鏡を見ながら、シャーペンを動かした。筒。三脚。レンズ。十分かけて、それらしいものができあがった。
陽菜が、覗き込んだ。
「……大根?」
「望遠鏡」
「脚の生えた大根だよ、これ」
「見本どおりに描いた」
「見本、泣いてるよ」
陽菜は、お腹を抱えて笑った。
「えへへ、ごめん。でも、これはこれで味がある。採用しよっか。『大根より先に、あなたが見つける』」
「絶対に嫌だ」
結局、絵は陽菜が描いた。さらさらと数本の線を引くだけで、ちゃんと望遠鏡に見えた。接眼レンズのところに、小さな目を一つ描き足す。それだけで、誰かが星を覗いている絵になった。
「ずるい」
「練習したもん。観測ノートで」
陽菜は、ペンのキャップを閉めた。
「その代わり、タイトルの字、蒼太くんが書いて」
「なんで」
「わたしの字、丸すぎるんだよね。チラシの顔には、ちょっと頼りない」
言われるまま、太いペンで「AIより先に、あなたが見つける」と書いた。一文字ずつ、ゆっくり。
書き終えると、陽菜が、少し驚いたように紙を持ち上げた。
「……字、きれいなんだ」
「普通だろ」
「普通じゃないよ。ちゃんと、読んでほしい人がいる字」
陽菜は、紙を光にかざした。
「なんか、手紙とか書き慣れてそう」
手が、止まった。
引き出しの中の、書いては送らなかった言葉たち。日付ごとに並んだ、途中で止まった文章。書くだけは、何年も書いてきた。
「……書くだけは、書くから」
「送らないの?」
「送らないのも、ある」
陽菜は、それ以上は聞かなかった。ただ、俺の書いた字を、しばらく黙って見ていた。
「じゃあ、これは送ろうね」陽菜は、紙を丁寧にクリアファイルに挟んだ。
「印刷して、町じゅうに」
「送るっていうか、配るだろ」
「同じだよ。読んでほしい人に、届けるんだから」
二人でペンを動かす時間が、思いのほか心地よかった。キャッチコピーの一つ一つに真剣に頭を悩ませる横顔。ポップコーンの塩加減にまで「環先輩、これ濃すぎ」と赤ペンでメモする几帳面さ。そういう細部のほうが、由希奈の面影より、今の俺にはずっと鮮明に見えた。
気づいた瞬間、妙な後ろめたさが胸をよぎった。この取引は、由希奈を探してもらうためのものだったはずだ。それなのに、この時間そのものが、いつの間にか目的にすり替わりかけている。
だから、この気持ちには、まだ名前をつけないでおくことにした。
◇ ◇ ◇
「そういえば」
チラシのレイアウトが固まってきたところで、陽菜が話題を変えた。
「由希奈さんのこと、もうちょっとだけ調べてみたんだけど」
指先が、無意識にシャーペンを探して止まった。
「本人のアカウントは、やっぱり見つからなかった。代わりに、家族のアカウントっぽいのを見つけて」
陽菜は少し言い訳するような口調になった。
「ごめん、勝手なことしたかも」
「いや、責めてない」
むしろ、そこまでしてくれたことに驚いていた。
言われてみれば、俺は由希奈の名前を、検索窓に打っては消したことしかなかった。手紙を大事にしまい込むことと、実際に消息を追うことは、まるで別の行為だったのだと、今さら気づく。
「で、何か分かったの」
「一年くらい前の投稿に、法事っぽい写真があって。喪服の家族の写真。それで、もしかして、おばあちゃん、去年あたりに亡くなったのかもって……確証はないんだけど」
言葉が出なかった。由希奈はおばあさんの介護のために転校した。その先に、こういう結末があったかもしれないとは、考えたこともなかった。
「しかも、そのコメント欄に、親戚っぽい人が書いてて。『おばあちゃんの意思、ちゃんと守れてよかったね』って」
「意思、って」
「うちの親戚でも、たまに聞く話なんだけど」
陽菜は記憶を探るように、視線を上に向けた。
「亡くなったあと、AIとかで再現していいかどうか、生きてるうちに決めておける書類があるんだって。臓器提供のカードみたいなやつ」
「デジタルシャドウ提供意思表明書」
口が勝手に、正式名称を言っていた。母の会社の説明書類で、何度か見た名前だ。
「あ、そっか」
陽菜が目を丸くした。
「お母さんの会社の。さすが、関係者」
「関係者っていうか、門前の小僧」
「なにそれ」
「習わぬ経を読む、っていう」
「おじいちゃんみたい」
陽菜は笑ってから、また画面に目を戻した。
「由希奈さんのおばあちゃん、たぶん、その書類で『しない』って書いてたんだと思う。家族、AIとかは一切使ってないっぽい。代わりに、おばあちゃんが好きだった花を毎年庭で育てたり、命日に得意料理を家族で作って食べたり。そういう写真は、何枚かあった」
「……認知症だったんだよね、由希奈のおばあさん」
「うん。そういうこと、書いてあった気がする」
「別れのないさよなら、ってやつか」
陽菜が、小さく目を見開いた。
「先生が言ってたやつだ。じゃあ由希奈さんって、二つとも経験してるんだ。蒼太くんとの、さよならの言えない別れと、おばあちゃんとの、別れのないさよなら」
言われてみて、初めて、由希奈が抱えていたものの大きさが見えた。中学生の由希奈は、俺の知らないところで、二つの喪失を同時に抱えていたことになる。彼女が突然いなくなったことを、俺は自分だけの被害みたいに感じていた。それが、急に恥ずかしくなった。
「なんか、それはそれで、綺麗だなって思った」
陽菜がぽつりと言った。
「花とか、料理とか。ちゃんと選んで、見送ってる感じがして」
その声に、羨ましさに似た響きが混じっているのを、俺は聞き逃さなかった。
「なんで、そこまで調べてくれたの」
「取引、覚えてる?」
陽菜はそう言ってから、少し間を置いた。
「でも、正直、約束だからってだけでもない。蒼太くんがあんなに大事に手紙持ってる相手が、今どんなふうに生きてるのか、単純に知りたくなったのもある」
「悠真は」
ぽつりと、陽菜が言った。
「何か、残してたのかな。……分かんない。誰にも、聞けない」
これまで聞いたどの言葉より、はっきりとした不安が滲んでいた。
「悠真のご両親が、正式な契約者なの。わたしがIDもらって使ってるのは、あの人たちの好意でしかない」
陽菜は自嘲するように笑った。
「お葬式のとき、我慢できなくて、ずっと言えなかったこと、ご両親の前で泣きながら話しちゃって。それを聞いた悠真のお母さんが、しばらくしてから、『あなたにも、話す権利があると思う』って、IDを教えてくれたの」
「じゃあ、今、陽菜が続けてる対話は」
「宙ぶらりんのまま、続いてる感じ」
陽菜は苦笑した。
「由希奈さんのおばあちゃんみたいに、はっきり『しない』って書いてあるなら、まだいい。家族も迷わなくて済むから。うちは、誰も何も決められないまま、なんとなく続いてる」
何も言えなかった。十月末という日付が、喉の奥まで出かかって、止まった。
「えへへ、暗い話しすぎたね」
陽菜が無理に明るい声を作った。
「ポップコーン、もう一袋作ろっか」
「……いや、まだこっち、半分残ってるし」
◇ ◇ ◇
その日の夕飯。母はスマホを伏せたまま、味噌汁の椀を両手で持って、しばらく口をつけなかった。
「繁忙期?」
「うん。ご家族に、一件ずつ電話してる。移しますか、消しますかって」母は短く言った。「今日、同じ人に三回、切られた」
「……なんで」
「答えたくないんだと思う。答えたら、決まっちゃうから」
母はそれだけ言って、ようやく味噌汁を一口飲んだ。
答えたら、決まっちゃうから。
誰も何も決められないまま、なんとなく続いてる。陽菜の声が、その言葉に重なった。
「蒼太、最近よく黙り込むな」
父が箸を止めた。
「——いや」
反射的に返して、自分の癖に苦笑いした。食卓の隅、キッチンカレンダーの十月のページに、母が赤いペンで丸をつけているのが見えた。何の印か、聞かなくても分かった。
◇ ◇ ◇
翌日の放課後。パソコン室でチラシの続きをしていると、環先輩が顔を出した。
「科学館、電話してみたぞ。市民科学ワークショップの枠、八月末ならまだ空きあるってさ」
「ほんとですか」
「マジマジ。候補の一つってことで、今度、担当の人と打ち合わせな」
陽菜が、小さく頷くのが見えた。その表情に、ほかの候補の名前が出たときとは少しだけ違う何かが混じっていた。そのときは、気にも留めなかった。
作業を終えて、鞄に荷物を詰めていると、陽菜が言った。
「蒼太くん、そろそろ帰る?」
「うん。……あのさ」
思いきって、口にしてみた。
「このあと、どっかで晩飯食べてかない? 駅前に新しくできたうどん屋、気になってて」
陽菜は一瞬、迷うような顔をした。スマホを出して、時刻を確かめる。
「……うどん、気になる。気になるんだけど」
少しだけ、気まずそうに笑った。
「七時までには、家、帰りたくて」
「七時」
「うん。毎日、その時間に、ちょっとだけ話す時間、作ってるから」
誰と、とは言わなかった。言わなくても分かった。うどん屋に寄れば、確実に間に合わない。
「そっか」
「ごめん、また今度」
「いや、全然」
そう答えながら、胸の奥に鈍い痛みが広がっていった。彼女の一日には、二年前から、七時という時間に決まった場所が用意されている。張り合う相手が生きている人間なら、まだ対等に張り合えたかもしれない。相手は、もうこの世にいない。それなのに、七時だけは、律儀に毎日、彼のために空けられている。
「じゃあ、また明日」
陽菜はいつもの調子で手を振って、足早に部室を出ていった。
◇ ◇ ◇
「蒼太、ちょっといいか」
自転車置き場へ向かう途中で、声をかけられた。環先輩が、片手に天体観測誌を挟んだまま歩いてくる。
「お前、連星って知ってるか」
環先輩は、指先で宙に円を二つ描いてみせた。
「二つの星が、互いの重力で結びついて、一緒に回ってる状態。もし片方が先に燃え尽きて、光らなくなったとしてもな。もう片方は、その重力から簡単には逃げられない。律儀に、そいつの周りを回り続けることだって珍しくないんだぞ」
「……それが、何か」
「さっきの、見てた」
隠しもせずに言った。
「陽菜が、七時の何かのために、お前の誘い断っただろ」
心臓が、小さく跳ねた。
「それとな。陽菜が最近、どっかの中学の同級生のSNSばっか見てるのも、隣にいりゃ分かる。あれ、お前の探し物だろ」
返事ができなかった。環先輩は、それを答えと受け取ったらしい。
「で、お前はどうなんだ。本当に陽菜のために動いてんのか? それとも、中学の誰かっていう、もう光らなくなった星の周りを、まだぐるぐる回ってるだけなんじゃないのか。ちゃんと光ってる星が、すぐ隣にあるのに」
すぐには、言葉が出なかった。
「……そんなつもりじゃ」
「つもりの話はしてない」
環先輩は、いつもの緩さを消して、まっすぐ俺を見た。
「お前、その誰かにできなかった分を、陽菜相手にやり直してるだけなんじゃないかって、聞いてる」
図星なのか、ただ驚いているだけなのか、自分でも判断がつかなかった。
「悪いな、直球すぎて」
環先輩は少し表情を緩めた。
「天文部の部長だからな。星の話でしか、うまく言えないんだよ、わたしは。わはは」
それだけ言うと、返事を待たずに歩いていった。
自転車のサドルに跨ったまま、しばらくペダルを踏めなかった。見上げた空の端で、星がひとつ、光り始めていた。
