君の好きが、計算だとしても

「星、好き?」
 放課後の屋上。誰もいないはずの場所で、聞き覚えのない声がした。
 振り返ると、同じ制服の女子がフェンスの前に立って、こちらをまっすぐ見ていた。逆光で顔はよく見えない。それでも、その声にだけは迷いがなかった。
「……別に。なんとなく」
「ふうん」
 彼女は少し首を傾げた。
「じゃあ、天文部、来る?」
「は? ……小森、だっけ」
 出席番号か何かで聞いた覚えのある名前だった。クラスが違うから、顔と名前が一致していたわけじゃない。
「正解。小森陽菜(ひな)、二年」
 少し驚いたように、それでも嬉しそうに言って、彼女は屋上の反対側を指さした。ドーム型の観測室が、夕日を跳ね返して白く光っている。
「あそこの部活。いま部員、わたしと環先輩の二人しかいなくて」
 いきなりすぎる勧誘に、返す言葉が見つからない。
「二人だと、夜間観測の申請が通らないの。生徒が三人以上いないと、屋上も校庭も使わせてもらえなくて」
「それは、大変そうだね」
 他人事みたいに答えると、彼女はじっとこちらを見た。
「環先輩と二人きりの部活、正直けっこうきつい。『わはは』しか言わない人と二人きりの部室って、想像できる?」
「……できない、かも」
「でしょ。だから誰でもいいから、あと一人欲しかった」
 あっさり言ってのける。
「暇そうだったし。屋上でぼーっと空見てる人なら、たぶん嫌いじゃないよね」
 見透かされたようで、落ち着かなかった。それでも、断る理由も見当たらない。帰宅部の俺に、ほかの予定があるわけでもなかった。
「……考えとく」
「今夜七時から、ドームで最初の観測やるから。来られそうなら来て」
 それだけ言うと、彼女は軽い足取りで出口へ向かった。呼び止める間もなかった。
 
 ◇ ◇ ◇

 結局、その夜、俺は屋上にいた。断る理由がなかった、というのは半分本当だ。残りの半分は、あの押しの強さに、少しだけ興味が湧いたからだと思う。
 屋上のドームは、夜になると思ったより風が強い。ウィンドブレーカーの襟を立てながら、俺は入り口に置いてあった望遠鏡の説明書とにらめっこしていた。天体観測なんて、生まれて初めてだ。
 七時を十五分過ぎても、呼び出した本人は来なかった。
 からかわれたのかもしれない。帰ろうか、と思いかけたところで、階段の下のほうから、小さな声が上がってきた。
「……うん。また明日ね」
 誰かと電話しているらしい。昼間の押しの強さが嘘みたいな、ずいぶん柔らかい声だった。
 一拍おいて、階段を駆け上がってくる足音がした。
「ごめん、遅れた。ちょっと電話してて」
 息を弾ませた小森が、ドームの入り口で手を合わせた。握ったままのスマホの画面に、屋根の形をした小さなアイコンが一瞬だけ見えた。ポケットに押し込む指が、なぜか少しだけ、名残惜しそうだった。
「……遅い」
「えへへ、ごめんごめん。来てくれたんだ」
「そっちが来いって言ったんだろ」
「言ったけど、半々かと思ってた」
 小森は俺の手元を覗き込むと、細い手を伸ばして、鏡筒の脇のリングに触れた。
「あ、それ多分——レンズ、逆」
「え」
「環先輩がいたら、絶対ここで一回外して怒るやつだよ」
 後ろで一つに束ねた髪が揺れる。羽織った上着の袖から、日焼けした腕がのぞいていた。人見知りとは無縁そうな、まっすぐな目つき。リングに添えた指先は、迷いなく動いている。
「遠野(とおの)蒼太(そうた)、だよね。屋上でよくぼーっとしてるの、前から知ってた」
「……見られてたんだ、それ」
「そりゃ、屋上の主だし、わたし」
 軽口を交わしながら、小森は慣れた手つきでリングを緩め、向きを直した。開いた観測ノートには、俺よりずっと几帳面な字で、今夜の月齢と天気が書き込まれている。
「去年の合宿で、環(たまき)先輩が同じミスしてね。当時の三年の先輩に、こっぴどく叱られてたの」
「環先輩が?」
「うん。それ以来、レンズの向きには人一倍うるさいの、あの人」
 小森はおかしそうに笑って、空を見上げた。
「その先輩、もう卒業しちゃったんだけどね。今もたぶん、どこかで同じこと言ってると思う。『レンズ、逆』って」
 なんでもないことみたいに、彼女は言った。その場にいない誰かが、今もすぐそばで喋っているみたいに。
「小森って、人の真似うまいよね」
「え、そう?」
「さっきの環先輩の口調も、それっぽかった」
「言われてみれば」
 小森は首を傾げた。
「人のこと観察するの、好きなのかも」
「環先輩のこと、実は苦手だったりする?」
 からかい半分で聞くと、小森の目が一瞬泳いだ。
「そんなことない。いい人だし」
「今、目、逸れてたけど」
「え、逸れてた? やば」
 即座にうろたえる姿に、こっちのほうが驚いた。ごまかそうとして、ごまかしきれていない。取り繕う技術が、根本的に足りない人らしい。
「小森って、嘘つくの下手だよね」
「よく言われる」
 悪びれもせずに認めた。
「顔に全部出るんだって。自分では、そんなつもりないんだけど」
「便利な人生だ。いろんな意味で」
「馬鹿にしてる?」
「いや、してない。……いや、してないっていうか」
 言い訳しようとして、余計なことまで口が動いた。
「もぐら叩きみたいに出てくるその『いや』、なに」
 小森が笑う。
「遠野こそ、動揺すると説明が多くなるタイプ?」
「そんなことは」
「今も、なんかいっぱい喋ってたけど」
「——いや」
 図星を突かれるたび、こっちは言葉を引っ込め、あっちは顔に全部出す。噛み合っているのかいないのか、自分でもよく分からなかった。
 
 ◇ ◇ ◇

 レンズの向きが決まると、小森が真っ先に、望遠鏡を一つの明るい点に合わせてくれた。
「覗いてみて。木星」
 接眼レンズの向こうに、小さな円盤が浮かんでいた。うっすらと、縞模様まで見える。教科書の写真でしか知らなかったものが、今、この屋上から、本当に見えている。
「……すご」
「でしょ」
 小森が、自分のことみたいに得意げに言った。
 そこから先は、目当ての星が視界に入るのを待つだけの、手持ちぶさたな時間になった。小森は望遠鏡から一歩離れて、上着のポケットから小さな袋を取り出した。個包装ののど飴が、何粒か入っている。
「舐める? ミントと梅、両方あるよ」
 袋を差し出して、彼女が笑う。夜風で袋の口がぱたぱた揺れた。その笑い方を、なぜか一瞬、必要以上にちゃんと見てしまった。理由を考える前に、目を逸らした。
「……梅で」
 答えるより先に、手が伸びていた。ミント派か梅派か、聞かれる前にもう選んでいた気がする。こちらの答えを、予測変換で先に打ち込まれていたみたいに。
 ドームの隙間から、星がひとつ、またひとつと見え始める。小森は望遠鏡の向きをこまめに直しながら、ときどき「あ、それ、いい感じ」とか「先輩ならたぶんこうする」とか、独り言みたいに呟いた。誰かに教わったことを、その誰かの口調のまま思い出しているようだった。
「なんか、小森って」
「なに」
「その場にいない人のこと、よく喋るね」
 一瞬、彼女の手が止まった。
 本当に一瞬だった。すぐにいつもの調子に戻る。
「そう? べつに普通じゃない」
「……いや、普通ではないと思う」
「先輩とか、友達とか。頭の中に、その人の声のサンプルがいっぱい溜まってるんだと思う。だから、いなくても勝手に再生される。便利でしょ」
「便利、なのかな。それ」
「さあ」
 彼女は肩をすくめた。
「でも、いないよりは、いる感じがするから。えへへ」
 軽く受け流されて、それ以上は聞かなかった。それでも、さっきの一瞬止まった手のことは、忘れられなかった。嘘が下手な人は、うまく笑ってごまかしたつもりでも、その前の小さな静止だけは消せないらしい。
 梅ののど飴は、思っていたよりずっと酸っぱかった。
 
 ◇ ◇ ◇

 小森が予備の電池を取りに降りていくと、入れ違いに誰かがドームに入ってきた。すらりとした長身。眼鏡の奥の目が、やけに真剣な光を宿している三年生だった。小脇に天体観測誌を挟んでいる。
「柊(ひいらぎ)環(たまき)。部長やってる」
 右手を差し出しながら、彼女は名乗った。
「陽菜が無理やり引っぱってきたんだろ、お前のこと」
「まあ、そんな感じです」
「あいつ、思い立ったら即行動だからな。悪い奴じゃないから、安心しな。わはは」
 本当に、笑い方が「わはは」だった。裏表のない物言いが、そのまま顔に出ている。
 階段を上がってくる足音がして、環先輩は電池を持った小森に手を振った。
「陽菜、電池あったかー」
「ありました」
 小森は笑って、また俺の隣に立った。さっきまでと何も変わらない声だった。
 その場にいない誰かの声を、当たり前のように再生してみせる女の子。
「先輩なら、たぶんこう言う」
 ——その夜から俺は、彼女がそう口にするたび、その言葉の向こうに、まだ名前も知らない誰かがいるような気配を感じるようになった。