春夏秋冬花祭 —夏の花は、不知火に結われて—

「……」

 紅羽は石の上に座ると、呆然と夜空を見上げた。

 もうかなり海の波の音にも慣れていたので、耳栓は外されていた。

 結俐はつけたままでいいと言ったのだが、もっと結俐の声をちゃんと聞きたいと、紅羽が願ったのだった。

「お疲れ様、紅羽。よく頑張ったね」

 結俐は優しげな声でそう言いながら、紅羽の隣に座る。

 そして、彼女の頭をそっと撫でた。

 紅羽は、結俐のほうに再び体重をかける。

 結俐は何ともないように、微笑んだまま受け止める。

「結俐」

「ん?」

「結俐は……」

 そこで、紅羽は言葉を切った。

 結俐は急かさずに待っている。

 けれど、紅羽は何も言えなかった。

 自分の手を見下ろして、握って、開いて。

「……疲れ、ちゃった」

「よく頑張って、歩いてくれたね」

 誤魔化した紅羽の言葉にも、結俐は何も言わず、そっと、彼女の頭を撫でてくれた。

 紅羽は、微笑む。

「結俐がね……ずっと引っ張ってくれたから、私は一緒に来れたの」

 紅羽は海のほうに手を伸ばした。

 その瞳には瞬く星のようなきらめきがある。

「結俐は、いつも……私に、見たことのない美しい景色を見せてくれる」

 結俐は、紅羽の髪を梳きながら、次の言葉を待つ。

「結俐と出会っていなかったら、私……こんな景色、知らなかった」

 紅羽は結俐を振り向いた。

 その顔には、小さな笑みがある。


「……ありがとう、結俐」


 その姿を見て。

 その言葉を聞いて。


 結俐の胸の奥で、何かが解けた。


 今まで何度も、飲み込んできた言葉が、もう、押し込められなかった。


——もう言ってしまおう。


 そう、思ったら、止められなかった。

 いや、もう、止めたくなかった。

「私……私もね、紅羽に出会ってから、全部……私の日常が、すごく色鮮やかになったんだ」

 結俐は、そう言葉を紡いだ。

 瞳に、うっすらと涙が滲む。

 紅羽は、彼女をじっと見つめていた。

 何も言わずに、真剣に、まっすぐに、結俐を見つめる。

「紅羽」

 結俐の声が、震える。

 いつの間にか、頭を撫でていた手は、強く握りしめられていた。

 紅羽はその手をそっと握る。

「結俐」

 言っていいよ。

 そう言うかのように、彼女は結俐の名を呼んだ。

 それに引き出されるように、

「出会った時からずっと、貴女は私のお姫様だった」

 ぽつり、と、独り言を漏らすように、結俐は語った。

「いつの間にか、貴女のことばかり考えるようになっていた」

 結俐の瞳から、涙が零れ落ちた。

 それでも、彼女は笑う。

 いつも浮かべていた笑みを、崩さない。

「どうしたら、紅羽は喜ぶのかな。何だったら、紅羽は嬉しくなるのかな。授業中も、休み時間の時も、ずっと。……考えていたんだ」

 紅羽の手を優しくほどいて、結俐は涙を拭った。

 でも、次々と溢れてくる。

 だんだんと、笑顔も保てなくなってきて。結俐の顔が、歪む。

「紅羽の友達は私だけ。そう思うと、嬉しくなった」

 それでも、結俐は紅羽から視線を逸らさなかった。


——たとえ、この関係が終わってしまうとしても。


 口に出してしまった言葉は、戻らないのだから。

「紅羽は何をしても、喜んでくれる。それで……私もこの世界にいてもいいんだって、そう思えた」

 紅羽は、何も言わない。

 いや、何も言えなかった。

 ただ、結俐を見つめるだけしか、できない。

「私ね、友達とうまくやれたこと無いんだ」

 自嘲するような響きだった。

 はは、と、乾いた笑いが結俐の口から洩れる。

 だんだんと、その表情が翳っていって。

「何が悪いのか、わかんないんだ。それなのに、いつの間にか遠巻きにされて……何も言ってもらえないまま、みんな離れて。それで、お終い」

 結俐は深く息を吸って、長く吐いた。

 結俐の手は、小刻みに震え続ける。

 涙も、止まるところを知らない。

「紅羽が」

 そこで、結俐の口は固まってしまった。

 何かを言おうとしているのは、紅羽も当然、わかっている。

 結俐は、紅羽を見つめ続けていたが、口を開けたり、閉めたりして……やがて、俯いてしまう。

 それでも、その小さな肩を震わせながら、必死に言葉を紡ごうと、


「紅羽が、……っ」


 でも、何かが彼女を押しとどめて、許してくれない。

「結俐」

 紅羽は思わず、そう声をかけた。

 そして、石の上に正座して、結俐のほうを身体ごと向く。

 そして、結俐の頭を抱きしめた。

「……っ!」

 びくっ、と大きく結俐が体を震わせる。

 でも、紅羽は抱きしめることをやめなかった。


——ずっと、結俐がしてくれたこと。今、返したい。


「教えて」

「紅羽が、いなくなったら」

 紅羽に引き出されるように、結俐は想いを吐露する。

「紅羽が居なくなったら、私……きっと何も、なくなっちゃう」

 その声は、掠れていた。

 結俐が、紅羽の浴衣を掴む。

 それはある日、悪夢にうなされていた紅羽がした仕草と、同じだった。


「怖かった……もし、貴女を傷つけたら、貴女が離れていっちゃう……そう、思って……」


「……結俐」


 紅羽は、結俐を抱きしめていた手をほどいた。

 呆然と、結俐を見つめる。

「紅羽……」

 なんども、結俐は紅羽の名を呼ぶ。

「あの……こ、こんなこと、言われたら……困ると、思う、けど……」

 結俐は石の上に視線をさまよわせていたが、やがて、おそるおそる、顔を上げる。

 こちらを見つめている紅羽と、視線が合った。

「私……」

 
 ひゅるるるる、どおん。

 夜空に、花火が咲いた。

 轟音が、二人の間を駆け抜ける。



「紅羽のことが、好きなの」



 零れ落ちた、その言葉を聞いて。

 紅羽の瞳から、一筋の涙が零れ落ちた。


 目の前に咲く花火も。

 打ち寄せる波の音も。

 全部、遠くなっていく。

 ただ一つ。

 結俐の言葉だけが、耳の奥でこだまする。

「私のことが、好き……?」

 紅羽は、思わず尋ねた。

 結俐は、とても答えられるような様子ではなかった。

 花火の光に照らされながら、結俐はぼろぼろとみっともなく泣いていた。

 でも、その様子で、紅羽にはわかった。

「……そっか」

 紅羽は、結俐を見つめた。

「ごめんね、紅羽……」

 結俐は、もう紅羽に縋ろうとしなかった。

 少し身を引いて、顔を背ける。

 両手で目を拭いながら、肩を縮こませながら、一人で泣きじゃくる。


 しだれ花火が、夜空を黄色に染める。

 それはまるで、火の雨のようで。

 結俐にも、紅羽にも、その光は降り注ぐ。


「私のこと、嫌いになる、よね……」


 結俐は、身体ごと別のほうを向いた。

——もう、紅羽のことを、拒絶しているようで。


「私……」

「結俐」

 紅羽は結俐の言葉を遮って、立ち上がった。

 一瞬立ちくらみに襲われるが、何とか耐える。

 そして、結俐の前へと歩いて行って、しゃがみ込んだ。

 結俐は、少しだけ顔をあげて、紅羽を見つめた。

 その顔は、いつも紅羽が見ていた結俐の笑顔とは、全然違った。

 子供のような、泣きじゃくっているその顔は。

 紅羽が初めて見る、結俐の本当の顔だった。


「……結俐は、勘違いをしてる」


「え……?」



「結俐だけが私のことを好きだったなんて、勘違い」



 紅羽は強く言い切った。

 それは、結俐と出会ってから……いや、生まれて初めて出した、はっきりとした意志が込められていた。

「結俐が来てくれる日が、楽しみだった。結俐が返ってしまうと、寂しくてたまらなかった」

 紅羽は結俐の手をそっと取った。

「結俐が私のためにしてくれること。全部、全部嬉しくて……」

 紅羽は涙をこぼしていた。でも、笑っていた。心の底から出た、嬉しさを込めた笑顔。


「だから、結俐だけが私を好きだったんじゃないよ。結俐と出会えたこと、本当に特別なんだ」


 結俐は目を見開いて、紅羽を見つめる。

「ひとりぼっちの部屋で、結俐を待つことだけが楽しみだったんだ。……結俐が居ないと、嫌だった」

 紅羽はだからね、と言葉を紡ぐ。

「結俐」

 紅羽は、結俐の頬に手を当てた。

 結俐は、その手をそっと握る。

 紅羽はふふっと笑った。

「だから、そんなこと、言わないで。謝らなくて、いいの」

 ね、という紅羽につられて、結俐の顔にも、微かな笑みが浮かぶ。

 紅羽はさらに嬉しそうに、微笑んだ。



「ねえ、結俐。結俐は……私とずっと、一緒に居てくれるよね?」



 その問いかけが、答えだった。

「……ありがとう」

 震える唇が、声をも震わせる。

 でも、結俐の顔には、満面の笑みが浮かんだ。

 もう、彼女を縛るものはない。

「それは、こっちのセリフだよ」

 紅羽は結俐に抱き着いた。

 胸の中が、暖かくなる。

 結俐が側に居てくれる。

 それは、紅羽にとっての幸せだから。



「紅羽」
「結俐」



 互いを縛るように、永久の約束をするように。

 心が欠けた者同士が、互いを慰撫するように。

 二人の少女は、交わりあった。


「大好きだよ、私の紅羽」
「うん……愛してる、結俐」


 それが、歪な形だとしても。


 世の常を、他を知らぬ少女にとって。
 牢の外を、友を知らぬ少女にとって。


 それが、二人にとっての愛だった。