春夏秋冬花祭 —夏の花は、不知火に結われて—

 車のドアを開けると、波が大きな音をとどろかせていた。

 紅羽はびくりと肩を震わせ、眉を下げて結俐を見る。

 結俐は少し考えた後、「ちょっと待ってて」と前置きをして、鞄を掴んで先に車から出た。

 これくらいの海風なら、紅羽でも歩くことはできる。

 六時は過ぎていても、夏であるせいか、まだ日は沈み切っていない。

 躓く心配も殆どないだろう。

 そこまで確認してから、結俐は車の中を覗き込んだ。

「紅羽、大丈夫。心配することは殆どないよ」

 そう言って、自身の手を差し伸べる。

 それでもなお、海の波の音に圧倒され、紅羽はためらってしまった。

「紅羽お嬢様」

 絵美が、紅羽のことを呼んだ。

「大丈夫です。結俐さんは、いつも紅羽お嬢様を守ってくれているでしょう。結俐さんのことを、信じてあげてくださいませ」

 紅羽は、はっと目を見開いた。

 弾かれるように、結俐を見る。

 結俐は海のほうを見つめていた。

 しかし、紅羽の視線に気づいたのか、すぐに振り向いてくれる。

 そして、その顔にはすぐに、笑顔が浮かべられた。


——そうだ。


 いつも、紅羽が結俐を見ると、彼女は微笑んでいる。

 紅羽が笑えば、結俐はさらに笑ってくれる。

「結俐さんなら、紅羽お嬢様をエスコートしきってくださいます。エスコートしてもらう側も、エスコートする側の方を信じなくてはなりませんよ」

 そこまで絵美は言うと、深く長く息を吐いた。

 そして、笑う。

 その瞳の奥に、淡い寂しさが揺れていることに、紅羽は気づいた。


——ああ、人はどうしてこんなにも、笑いですべてを隠してしまうのだろう。


 紅羽は一度、目を伏せる。

 そして、絵美にありがとう、と呟いて、結俐のほうを向いた。

 結俐は変わらず、微笑んでいた。

「……紅羽、行こ」

「うん」

 結俐が改めて差し出した手を、紅羽は取った。

 そして、車から出る。

 その途端、紅羽は慣れない下駄に足を取られた。

「ひゃっ」

「危ない」

 結俐は紅羽の腕を握って、紅羽が転ばないように支えた。

 二人の視線が、間近で交わった。

 どぉん、と波の音がおなかに響いた。

「大丈夫、紅羽?」

「う、うん……ありがとう、結俐」

「気にしないで。辛かったらすぐに言ってね。車に積んである車椅子使うから」

 結俐は紅羽の手を引いて、ゆっくりと歩く。

 その優しさに頼りながら、紅羽の瞳は揺れていた。

 彼女の頭に焼き付いた、先ほどの結俐の顔。

 支えてくれた彼女は、とても格好よくて。


——結俐。


 今まで考えたことがなかったことが、いくつも頭をよぎった。

「海、怖かった?」

「……え?」

 突然問いかけられて、紅羽は意味を測りかねた。

「最初、車から降りたがらなかったから」

 結俐は、こちらを振り向かずに続ける。

「絵美さんに何か言われて、降りてくれたみたいだけど」

「絵美との会話、聞こえた?」

 思わず、紅羽はそう尋ねてしまった。

「聞こえなかったよ。海の波の音、うるさかったし」

 紅羽は密かに、胸をなでおろす。

 そして、結俐の問いかけに応えていなかったことに気が付いた。

「……最初の答えだけど。海、怖いわけじゃなかった。ただ、大きな音に、圧倒されてしまったの」

 応えているうちに、紅羽は少しずつ俯いていく。

「そうだよね。紅羽はそういうの、苦手だもんね」

 その言葉に、非難されていると感じた紅羽は、おそるおそる、顔を上げた。

 結俐は足を止めて、紅羽を見ている。

 しかしその顔には、悪戯っぽい笑みがあった。

「こういうこともあろうかと思って」

 結俐は手提げ鞄から、小さなケースを取り出す。

「……なに、それ?」

「耳栓だよ」

 けれど、それは紅羽が知っている耳栓とは少し違っていた。

 耳元で揺れる飾りがついている。

「お洒落のアイテムとしても使えるでしょ。ずっとあげようと思ってたけど、渡す機会がなくてさ」

 結俐はそれをケースごと、紅羽の手に乗せた。

 そのケースはまるで、ジュエリーボックスのようだ。

「も、貰っていいの……? こんなに綺麗な物」

「もちろん」

 結俐は即答した。

 そして、再び鞄から何かを取り出す。

 それは、もう一つのジュエリーボックス。

 それを顔の前に掲げ持ち、口元をほころばせた。

「おそろいだよ」

「……結俐」

 嬉しそうな結俐を見て、紅羽も同じように口元をほころばせた。

 丁寧な手つきで耳栓を取り出し、自分の耳に嵌めた。

 すると、割れるように響いていた海の波の音が、少し和らいだ。

 結俐はにっこりと笑う。

「似合ってるよ」

 でも、その声は少し遠くて。

「……結俐の声、あんまり聞こえなくなっちゃった」

 思わず呟くと、結俐は紅羽の耳元に顔を近づけた。

「これで、聞こえる?」

 くぐもってはいるけれど、確かに聞こえる。

 紅羽は目を伏せて、そっと、結俐のほうに体重を預けた。

「聞こえる」

「……そっか」

 結俐は優しい手つきで、紅羽の頭を撫でてくれる。

 それに甘えながら、紅羽は大きく息をついた。

 結俐は紅羽の様子を見て、少し眉をひそめた。

 けれど、すぐにまた笑う。

「疲れたよね。早く、浜辺まで行っちゃおうか」

「うん」

 結俐は、そっと紅羽の背中に手をまわした。

 そして、紅羽の手を反対側の手で握ってやり、ゆっくりと歩いていく。