春夏秋冬花祭 —夏の花は、不知火に結われて—

 真っ赤な太陽の光が、廊下の白い壁を染め上げる。

 かぁ、かぁ、と、遠くで烏が鳴いていて。

 結俐(ゆり)は一つ、ため息をついた。

 飴色の毛先を弄りながら、彼女が辿り着いたのは、一つの扉の前。

 結俐は、右手を持ち上げた。

 それを拳の形に変え、その扉に触れる。

 けれど、ノックはしない。

 そのまま十数秒止まっていたが、やがて、結俐は深く息を吐いた。

 ゆっくりと、その手が扉から離れ、下ろされる。

——こん、こん。

 小さなノック音が響く。

「はい」

 小さな返事が、返ってきた。

 その瞬間、結俐の無表情だった顔に、微笑が浮かんだ。

紅羽(くれは)

「……結俐」

 小さな声で、しかし確かに(いら)えがあったのを聞き届け、結俐はその扉を押し開けた。

 途端、目に飛び込んでくるのは、薄暗い室内。

 青白い光がシャンデリアから贈られて、部屋全体に冷たい印象を与えている。

 黒を基調とし、腕の立つインテリアデザイナーに整えられたであろうその部屋で、ひときわ目立つモノ。

 それは、部屋の中央に設置されている、真っ白なヴェールで覆われた、天蓋付きのベッドだ。

 結俐は静かに扉を閉めると、迷わずにそのベッドへと向かう。

 ベッド脇に鞄を置いて、天蓋をシャッと開けた。

「……来たよ」

 彼女が見つめる先。

 かけ布団の中には、まるで人形のような少女がいた。

 その少女は結俐の姿を認め、その美しく整ったかんばせに、微笑みをたたえた。
 
 彼女の白い髪は、細く柔い。

 寝ていたせいで癖がつき、ところどころ絡まっている。

 結俐はベッド脇に置かれていた椅子に腰かけ、何も言わずに、その髪を指で梳いた。

 紅羽の(あま)色の瞳が、結俐の撫子(なでしこ)色の瞳を向く。

「結俐……っ」

 結俐に手を伸ばしたが、その途端に、紅羽は咳きこんだ。

 結俐は紅羽の身体を片手で抱いて、もう片方の手で、彼女の頭を撫でた。

「起きる?」

「……うん」

 紅羽が身を起こそうと、肘をベッドについた。

 結俐はすかさず背中を支えた。

 そのままゆっくりと身体を起こし、ヘッドボードに背中が預けられるように、位置を整えてやる。

「ありがとう、いつもやってくれて」

「気にしないで。調子はどう?」

「ちょっと……喉が、痛いだけ」

 そう言って、紅羽は力なく微笑んだ。

 結俐の微笑が、微かに揺れた。

 眉が顰められ、唇が引き結ばれる。

 けれど、それはほんの一瞬だった。

 結俐は紅羽を抱いていた手をほどいて立ち上がる。

 そして、自分が持ってきていた鞄に手を伸ばして、何かを取り出した。

「これ、のど飴。いつものフルーツのやつ。はちみつが配合されているのも持ってきてるけど、紅羽ははちみつ、あまり得意じゃなかったよね」

「うん。……もらって、いいの?」

「紅羽のために持ってきたんだから、貰って」

 少し強い声だった。

 結俐はそのまま、のど飴を紅羽の手に握らせる。

 紅羽はそれを胸元までもっていき、何かを噛み締めるように、そっと握った。

 それを見て、結俐の表情がふっと緩む。

「カーテン、開けるよ」

「……あ、うん」

 紅羽の返事が、少し遅れる。

 いつものことだったのだろうか、結俐は気にすることなく立ち上がり、濃紺の遮光カーテンを開ける。

 すると、先ほど廊下で見た、真っ赤な夕陽が、部屋の中へ一気に差し込んだ。

「……っ」

 紅羽は声にならない声をあげて、手を目元にかざした。

 はっと結俐は振り向き、紅羽の元に光が届かない位置に立つ。

「ごめん、紅羽……急で、眩しかったよね」

「う、うん……でも、もう、慣れたよ」

 紅羽の声には、笑いが滲んでいる。

 けれど、結俐は笑えなかった。

 窓に向きなおり、遮光カーテンを僅かに引く。

 部屋に入る光が少しだけ弱くなった。

「紅羽、何か食べ物持ってこようか」

「あ……うん、結俐のご飯、食べたい」

「そう」

 結俐は、また笑って見せる。

 その口元がわずかに引きつっていることに、再びその身をベッドに沈ませた紅羽は、気づかなかった。

 結俐は、ベッドのほうに、視線を投げる。

「紅羽、無理してない?」

「うん、大丈夫。結俐を待つ間、休もうかなって」

「そっか」

 結俐は頷くと、手首にかかっていた髪ゴムを取り、長い髪をポニーテールにまとめた。

 そして、扉へ向かい、取っ手に手をかけた。

 けれど開ける前に、一度だけ立ち止まる。

「お粥とスープ、どっちがいい?」

「できたら、お粥がいい」

「わかった。ちょっとだけ、時間貰うよ」

 結俐はそのまま取っ手を握って、少しひねる。

 そのとき、

「……結俐」

 紅羽が、結俐を呼び止めた。

「……どうしたの?」

 結俐は振り返って、首をかしげた。

 紅羽はしばらく結俐を見つめていたが、やがてゆるりと首を振った。

 そして、いつものように微笑む。

「ううん、なんでもない。いってらっしゃい」

 紅羽は結俐に向けて、手を振った。

 結俐も優しく笑い、小さく手を振り返した。

 そのまま、扉を押し開け、廊下へと出ていく。



 ばたん。

 そう音を立てて、扉が閉じる。

 紅羽はしばらく、その扉を見つめていた。

 やがて、小さく息を吐く。

 手の中にあるのは、結俐が握らせてくれた、桃味ののど飴。


——桃は、紅羽が以前、結俐に好きだと話していた果物だった。


「結俐……」

 紅羽は一言、そう呟いて、のど飴をまた、ぎゅっと握りしめた。