いしやーきいもー
授業中の静けさに似つかわしくない音が窓から舞い込んできた。教卓では黒板に書いてあることプラスアルファーの内容を先生が話している。騒がしさからか、眉と眉の間に線を作って。
その音を気にせず、生徒たちは黙々とノートにシャーペンを滑らせている。ただ一人を除いて。
その一人は目の前の席にいる女の子で。
「遥ちゃぁん。助けてよ、全然板書してなくて……」
チャイムが鳴り、束の間の休み時間が始まるのと同時にその人は懇願してきた。
「だったら、まずはその呼び方から直せよ」
いつもの文言。だから返ってくるのも同じようなことで。
「じゃあ、はるちゃんがいいかな?」
「ふざけるな!」
ぷいっと顔を窓に向ける。ガラスにむすっとした表情が映る。お願いなんて、絶対聞いてやらない。
「あぁ、りこったら。また遥ちゃん怒らせてるの?」
「違うの、遥ちゃんってば勝手に怒るんだよ? 口調も荒いしさぁ」
「いや、全部りこのせいだから。いい? 僕、生きてきた年数男やってるんだから」
女の子だと勘違いした人、ごめんなさい。普通に男子高生です。
「ほんと、二人とも毎度毎度同じやり取りしてて飽きないよね?」
「挨拶みたいなものだからね」
「まぁ、そうだな」
これには同意見。別に飽きも何もない。毎日友だちにおはよう、と挨拶するのに飽きると言っているようなものだから。
「というわけで遥ちゃん。ノート見せて」
「やだ。ぼーっとしてたりこが悪いんだから。焼芋屋が通ったことを恨め」
「ふん、いいもん! 遥ちゃんじゃなくても友だちがいるし」
目の前の椅子が動こうとする。それに合わせてりこが自分の手を僕の机から離そうとするから、とっさにノートの背表紙で彼女の指先を軽く突いた。
「なに?」
鋭利にさせた目でこちらを覗いてくる。怒っていて、でも知ってたみたいな顔で。
「昼休みにちゃんと写せよ」
ぶっきらぼうに僕はノートを差し出した。予想通り、りこは顔をしかめる。でもそれは僕の行動に驚いているからじゃない。
「なら最初から貸してよ」
「最初は貸さないつもりだったし」
嘘。端から貸す前提だった。
「じゃあどうして?」
「余計なことで煩わせたくないだろ、友だちに」
「つまんない理由。ほんとめんどくさい」
なんて言いつつ、りこはさっと僕からノートをさらう。今度こそ自席へと座る彼女を静かに見守った。それから早速彼女は僕のノートを開く。まずい、と思って注意しようとするも、チャイムは無情に鳴り響いて、完全にタイミングを失う。
ほどなくして先生が教室にやって来て、授業が始まる。なのにりこはその教科の道具を広げず、いつまで経っても僕の貸したノートから目を離してくれなかった。
だから釘を差しておいたのに。お昼休みに写せよって。
出したいため息をぐっと我慢する。今の時間にさっきのノートなんて写していたらこの時間の板書を逃すのだから。それが続いて、結局は全部のノートを見せることになる。
めんどくさいと言いたいのはこっちの台詞だ。でも、本当に面倒だとは思ったことがない。
だって。その先を考える前に思考を無理矢理授業へと戻す。ちゃんと先生の話を聞いて綺麗なノートを作らなければ。
今も僕のノートに気を取られているりこのために。
放課後まで駆け抜け、教室から出て行くりこを眺めながら自分も椅子から立ち上がる。何時間もいた部屋を出るけど、りこが歩いて行った方とは違う向きへ歩き始める。
階段を一階分上りまっすぐ通路を行くと、どこの学校にもある本溢れる部屋へと辿り着く。りこと帰る時間をずらすための場所。定位置に座り、予習復習をしていると無意識のうちに指が動いて丸印をつけていた。考えなくても分かる。
りこが分からなそうな問題だって。
説明できるように理解を深めないと、とその箇所は特に集中して勉強してしまう。途中石焼き芋の音が聞こえたけど、気にならなかった。りこなら気にしてただろうな、とある意味で集中は削がれたけど。
そろそろかな、と時計を見てやっぱり、と身支度を整え、図書室を出る。もはや平日のルーティンと化している。
玄関に差し掛かったところで足が止まった。いくつも貼られているポスターの一枚に目が吸い寄せられて。
『みんなでさつまいもほりに行こう!』
明らかに子どもを誘っているポスター。どうしてこんなのが高校にと思ったけれど、りこなら行きそうだなと、その様子を浮かべて笑いそうになった。本当に誘ってみようかな、なんて。
別にいいやと、通り過ぎようとしたところでそのポスターらしからぬ一文を見つけてしまう。
カップルでさつまいもを掘り、そのさつまいもを使って料理する人と、その人の作った料理を食べた人は結ばれると。
くだらない、と僕は今度こそ通り過ぎる。
なんとか時間通りの電車に乗ることはでき、運よく座れたからちょっと目を瞑ってみたけど、濃い夕陽が邪魔をしてなかなか眠れなかった。時折ガタン、と揺れる音がさらに睡眠の阻害を助ける。仕方なく電車の窓を覗くことにした。一秒一秒、確実に家へと近づく。りことずっと暮らしてきた街が。
一本早い電車に乗ったりこはちゃんと座れたのだろうか、座れたとしたらどの車両のどの辺りの座席だろうか。もしかしたら今僕が座っている席だったりして、と考える自分が気持ち悪くて、でもそんな自分を叱るのも飽きていて。毎日のことだから。
鈍感じゃない僕はそうなってしまっている理由を知っている。
りこが好きだから。
さすがに物心ついた頃ではないけれど、全校生徒が背負うあの変わったリュックを身につけていた時にはあったと思う。
どんなところが好きか、と訊かれると困る。頭や運動神経がいいとか、優しいとか、そんな明確なところではないから。そもそもそういう基準で僕は多分恋人を選ばない。
だから実のところ自分でもよく分かっていない。ただ、りこを見つければ今日はどんな表情を見せてくれるんだろうと胸を弾ませたり、目が合えば視線が離れる瞬間のことを恐れてしまったり。ちょっとでも僕の世界にりこがちらつけば、思考は彼女のことにしか働いてくれなくなるのだ。
この気持ちは何度も伝えようとした。でも叶わなかった。
今こうしてわざとりこより一本遅い電車に乗っているのがすべてを物語っている。
僕はりこの幼なじみでいなければならない。自分のために、りこのために。
だって、りこは僕のことを何とも思っていないだろうから。明確な理由あるわけじゃない。でも何か思ってそうな理由の方が見つからなくて。なら前者の方がまだ可能性がある。
お互い毎日同じ服を着る年頃になって、りこは僕と帰るのを避けるようになった。一緒に帰りたくないとはっきり言われたわけじゃない。でも放課後必ずりこは友だちのところへ行くから、そうなのだろうと察せた。制服を着る前までは一緒に帰っていたのに、という喪失感と諦めの濃い理解がその時身体を走った。
恋人に思われたくから、一緒に帰りたくない。
恋人に思われたくないのは、恋人になりたくないと同義だと、そう思ったから。
だから僕が想いを伝えたって、りこにはきっと届かない。それどころか今の関係が崩れるかもしれない。話すことさえできなくなるかもしれない。それこそ絶対に嫌だった。リスクを冒すくらいなら、はじめから何も言わなければいい。
心の中でひたすらそう唱えていた。
電車を降り、しばらく歩くと見慣れたコンビニが姿を現す。夕方がさらに進んで今や夜の一歩手前みたいな空色だから、余計にその建物が眩しく感じた。
ただの近所のコンビニ。それなのにどうしてか、手の汗が止まらない。どうしてって、分かりきってるのに。
迷わず中に入ろうとしたけど、その必要はなかった。
「遥、今日もお疲れ様」
「ほんと疲れたよ」
「誰のせい?」
「りこのせい」
ごめんごめん、と目の前のりこがおちゃらけた態度を取る。でもそんな些細な仕草で僕の身体はおかしくなってしまう。
思えばそうだった。先に帰ったはずのりこは、コンビニで待っててくれてそこからはいつも一緒に帰っていた。その時々で変わるのだけど、今日は私服だから一旦帰ったのだろう。
それに呼び方も変わる。ここではちゃん付けじゃなくて、そのままの名前で呼んでくれる。呼ばれるたび胸がくすぐったい。
どちらからともなく歩き始める。馴染みしかない住宅街、だけど日に日にその光景が眩くなっている気がした、と。
「遥、口開けて」
開けて本当にすぐ何かが入ってきた。綿棒と似た形と大きさのものに心当たりがあり、味わうと確信できた。
「どう、さつまいもの味する?」
「まぁまぁ」
「つまんない感想」
「悪かったな、つまんない理由につまんない感想で」
軽くそっぽ向けると唇にまたお菓子が刺さる。いじけないでよ、と子どもをあやすような態度に納得はいかないけど、結局は口を開けて食べた。しばらくそのお菓子特有のカリッという音を二人で鳴らしていると。
「ねぇ、今日遥の家寄ってもいい?」
「え?」
突然のことすぎて思考が追いつかず、つい間の抜けた声が漏れる。決してダメなわけじゃなくて、だから。
「ノート返したいし、勉強もしたいし。ダメかな?」
「いいけど」
低く小さく、でも思わずそう答えてしまう。距離が縮むと分かっておいて。胸の奥にある想いがまた大きくなると分かっておいて。
それでも話はどんどん進んでいき、最終的に僕の家でやることになった。家に入り、家族がまだいなくてほっとする。居間で勉強しようかとリュックを下ろしかけたけれど途中でやめる。りこが階段を上り始めていて。
まさか、と思った時には扉の開く音が聞こえた。
「つまんない部屋」
「掃除が行き届いた部屋って言ってくれないかな」
いきなり人の部屋に入っといて吐く台詞じゃない。しかも荷物を置いて学習机とは別のローテーブルのところに腰を下ろした。ここで勉強する気満々なご様子に、こっちは降参するしかない。
「あ、これありがとね」
「だからお昼休みに写せって言ったのに」
ノートを貸した直後に思ったことを指摘する。結局午前の授業分のノートを貸すことになったから。
「借りたものはすぐに返さなきゃでしょ?」
「そうだけどさ」
「なら、いいじゃん。とにかくありがと」
それからすぐにりこはノートや参考書やらを広げて勉強を始める。僕に反論する隙すら与えてくれず。それにいきなりお礼を言われたら責められないじゃないか。仕方なくこっちも勉強を始め、気づけばもうすぐ親が帰ってきそうな時間帯になっていた。
「じゃあ、そろそろ帰るね」
「送っていくよ」
「いいって。すぐそこだし」
「すぐそこだからだよ。遠かったらめんどくさいし」
僕の家で勉強した時は、たいていそんな会話をしながら、二人で短い夜道を歩く。遠かったらめんどくさいなんて嘘。りこの家がもっとずっと遠くだったらたくさんの時間を彼女と過ごせるのに、と思ってしまう。でもそしたら幼なじみじゃなくなっちゃうと肩を落とす。りこと幼なじみじゃない世界観なんて想像すらできない。
「あー、やっぱりこの学校の勉強難しいなぁ」
「そう思うならちゃんとノート写しなよ」
「次からは気をつけますよ」
すました顔でそう言うけど、次もあるんだろうなという妙な確信があった。反省の色がまったくない。
「遥はすごいよね。やっぱり頭いいんだね」
「そんなことないよ」
「あるよ。今日のノート見て改めて思ったよ」
なぜか急に褒められて困惑するばかり。機嫌を取らせて何かしてもらおうとか、そんな企みさえ浮かんでしまう。
そもそも僕はそんなに頭がいいわけじゃない。一応進学校と呼ばれる高校に通ってはいるけど、せいぜい真ん中くらい。
それでもやっぱり褒められるのは嬉しくて、無意識に頬が緩む。少しは夜が隠してくれるだろう、とちょっとの間だけその表情でいた。
それからすぐにりこの家に着いてしまい、じゃあねと声をかけあって別れる。明日も会えるという勝手な前提から生まれる軽い挨拶。
りこが家の前の階段を数段上りきるところだった。彼女の方から悲鳴が聞こえて。
「どうした?」
駆けつけると半泣きのりこと目が合う。暗闇だけど、その綺麗な瞳が赤くなっているように見えた。
「ここ」
微妙に揺れる人差し指が扉のそばに向けられる。りこの目の色は見えたのに、彼女が指さしているものは見えない。目を凝らして近づいてみると、奇妙な動きをしている何かが映り。
「あぁ、これね。そんな驚くことじゃないだろ」
りこが怯えている対象物を手でそっと包み込む。その生命が消えてしまわないよう、優しく。
りこの家の敷地を出て、雑草の生い茂る空き地へと小さな命を置く。振り返るともう家の中にいると思ってたりこがいて、再び緊張が息を吹き返す。
「ありがと」
「そんな幼虫くらいでビビるなよ。ほんと相変わらずだな」
そうは言うものの、そんなところも可愛くて。むっ、とりこが片頬を膨らませてさらに。今度こそりこは玄関まで無事辿り着くことができ、安心して僕も今来た道を引き返す。
昔のりこも虫で怖がってたなと思い出すと、また頬が緩んできた。変わらないところもあって、だけど変わったところもあって。
高校受験を意識し始めた頃からりこが勉強に励むようになったこと。りこは勉強が苦手で、だから僕たちが通っている進学校に行くはずはないと思ってた。
気になって一度本人に聞いてみたけど、頭良くてかっこいい男の子と出会えるかもしれない、という面白くない返事だった。
ほんと面白くない。
翌日、いつも通り教室で授業を受ける。先生の話を聞きながら、一生懸命ノートに書き写す。この努力が僕の望む方に報われないと分かっててやっている。それもこの席になってからは難しくなった。すぐ目の前がりこだから。
心が落ち着かないまま放課後になり、時間をずらすためにいつものルーティンをこなす。それから普段通りの時間に図書室を出た。全部がいつもと同じ。校舎を出てもそうだと思っていた。変わらぬ景色が、秋だから昨日よりも少し暗めの夕暮れが目に映るものだと。
確かに濃い夕陽をまぶした通学路はあった。だけどそれはあくまで背景で、それらを背景にしてしまう存在がまずかった。
沈みかけた太陽の光を髪飾りにしたりこがいた。
ううん、そうじゃない。それだったらむしろ嬉しかったのに。
学校の生徒に見つからないよう、一緒に帰らなければいけない。でも一緒に帰れるから。なのに、隣に人がいたから。
僕の学校の生徒。女性じゃなくて男性。それも同じクラスのハイスペックな人気者。
鶴巻実鶴巻実さん。
温もりを含んでいるはずの陽光が冷たい雨となって降り注いでいるようだった。
鼻と耳が拾いたくない香りと音を持ち帰ってくる。
「この焼き芋美味しいね」
「待ったかいあったな」
さつまいもが焼かれて甘さがむき出しになったような匂いが漂う。見たくない組み合わせの二人が小さくなってゆくにつれ、ありがたいことに匂いも弱くなっていった。背景すら変わり、自分がもと来た道を辿っていることに遅れて気づく。匂いが鼻から入ることはもうなかった。
足が向かっていたのは校舎で、中途半端な時間帯だからか生徒の誰ともすれ違わなかった。そのまま玄関に入り、掲示物が貼られている隅っこの方で立ち尽くす。暗い玄関から外を見ると眩しすぎて、今の今まで自分がいた世界とは思えなかった。その世界が似合うあの二人がいないはずなのに、向こう側を歩いて見える。
知ってた。分かってた。いつかこうなる日が来ることを。
でもそれが今日で、しかもあの実さんが相手だとは夢にも思わなかった。思いたくなかった。
これで恋人になりたいだなんて哀れな発想をすることはない。でもそう前向きに考えることはできなかった。
たった一瞬のことだったから、もしかしたらあれは夢だったかもしれない。そんな考えは朝教室に入ってすぐに消え去ってしまった。
りこの席に実さんがいて。二人が楽し気に話している。
行きたくないけど、近づかなければならない。自分の席がりこの真後ろであることにこの時は呪った。
「遥ちゃん、大丈夫?」
「なんのこと?」
りこの友人にそう訊かれてわざととぼける。それを信じたのか、友人は見たくない方をわざわざ指さす。今はちゃん付けされても気にならなかった。
「ほら、このクラスの優等生で人気者の鶴巻さんと仲良くなってるみたいでさ。だから遥ちゃんは大丈夫かなって」
「だからなにが大丈夫なの?」
「妬かないの?」
次に言おうとしていたことが言えなくなる。変な間ができる寸前で下手な笑みを浮かべて。
「何言ってんだよ、だいたいりこのこと、そんなふうに見たの一度だってないし」
ありがちな誤魔化しで何とか友人を説得させる。
ううん、友人じゃなくてきっと自分に説得している。
りこのことを何とも思ってない。昔からの幼なじみなだけ。
友人とやり取りを終え、席へと頑張って近づく。歩を進めるほど、二人の会話が大きくなる。
「じゃあ、今度勉強教えようか」
「え、いいよ。こう見えても私できるんだよ?」
嘘ばっかり。本命だからって見栄張って。
そんな感情が溢れたからか、椅子を引いた際思いのほか大きな音が出てしまった。二人に見られた気がしてすぐさま下を向く。
「おはよう」
男のものでない声にゆっくり顔を上げると、りこがじっと見ていた。おはよう、と何事もなかったように返すと。
「なんか今日不機嫌じゃない?」
「別に普通だけど」
自分に言い聞かせるように言った。本当は全然普通じゃないのに。
「あっ、もしかして私が鶴巻さんと話してたから?」
図星すぎて、なわけないだろと口走りそうになる。そんなこと言ったら余計怪しまれるだろうから。
「あぁ、鶴巻さんと話してたな。嘘ばっかついてたみたいだけど」
平常な心を保たせつつ、さっき思ったことをそのまま口にする。ちゃんといつもの調子で話せただろうからと心配しながら。
「嘘じゃないよ。ちゃんとできるもん」
「僕が教えてるからね」
恩着せがましいことをつい口にしてしまう。予想通り、りこが険しい顔になって。
「できるよ、遥ちゃんがいなくたって」
「あっそう。じゃあ、もう教えない」
ふいっとそっぽを向く。腹が立って。ちゃん付けで幼なじみサインを出しておきながら、僕にまで虚勢を張るなんて。幼なじみでいることすら否定されたみたいで。子どもっぽくてもそうせずにはいられなかった。
ちらっと黒目だけ元の位置に戻すと、りこも自分の席について正面を向いていた。
それからりことは口を利かなくなり、代わりにりこは実さんと話すように。これが幼なじみの宿命なんだ、そう割り切ろうにも本当は寂しかった。もう話すことさえ叶わないかもしれない、日に日にその可能性が膨らんでゆくようで。
それでも僕からは決して切り出せなかった。実さんは明らかにりこに好意を持っていて、いくら幼なじみでも男が好きな女の子の近くにいたら、気を悪くさせる。でもそれは実さんではなく本当はりこを想ってのこと。僕が近づいたことで実さんというせっかく来てくれた完璧な男の子が逃げてしまうのは嫌だ。何よりもりこの幸せを優先したい。
木にくっついていた葉が地上へと降り注ぐようになっても、二人の話し声が止むことはなかった。窓を眺めていても、耳は勝手に二人の音を拾う。嫌でも情報が入った。
さつまいもを食べて、勉強も一緒にしたらしい。どこでやったのだろう。まさか実さんの……と考え始めると頭が回ってきた。持っていたペットボトルを思わず傾けてしまう。光を含んだ水が制服を濡らす。一部分だけど、そこが下に着ているワイシャツにまで沁み込んで冷たかった。
ハンカチで軽く拭き、ペットボトルのキャップをしっかり閉じてから机に伏せる。最近の短い休み時間の過ごし方。自分で作った暗闇の中に耳まで閉じ込めて。二人の姿と声が見えないように。
肩に何か感触が伝わる。些細だったから気のせいかも、と伏せたままにしていたけど何回もそうされて顔を上げる準備をする。前の方からの感触だから、りこがやっている可能性が高い。
この間の仲直り、なんて自分に都合がよすぎる想像を一瞬でもしてしまった。もっと確率が高い話があるというのに。
『私、実さんと付き合うことになったよ』
本当の声だと思って、ゾッとした。でも、もうすぐそれも想像じゃなくなる。
「紅谷さん」
あまり呼ばれない自分の苗字の響きに顔を上げる。なぜか安心したのも束の間、今一番見たくない顔が目の前にあった。
「どうしたの?」
そう訊くしかない。わけが分からなくて。どうして実さんが僕に話しかけているのか。
「ごめん、急だったよね」
「ううん。気にしてないよ」
申し訳なさそうな顔をされるから、頷くこともできない。結局相手が不快にならない返事を並べた。
「あの、訊きたいあって」
何、とも言えず、ただ本題が放たれるのを待っていると。
「紅谷さんって薩摩さんのこと好きなの?」
またもあまり聞かないりこの苗字に目がくるくると回る。りこの姿があるかを確認するため。いなかったから一安心するも、今の動作で気持ちがバレていないかと内心焦る。それを隠すために。
「好きじゃないよ。幼なじみだし、そう見ようと思っても無理なんだよね」
片手を顔の前で軽く振って、大嘘をついてみせる。目の動きを上書きするくらいの言葉と振りで。それが効いたのか、容易く実さんは頷いてくれた。
「そっか、安心した」
「そう」
そう。この人、やっぱりりこに気があるんだ。
「今までの質問とか反応でわかると思うけど、僕薩摩さんのこと好きなんだ」
「そうなんだ」
やめてほしいな。好きって言った途端、顔赤くさせるの。本気さが嫌でも伝わってきて。
「それで、もう一つ訊きたいことあるんだけど。いいかな?」
「いいよ」
何も訊きたくないし、答えたくないけど、嘘つきな自分が勝手に喋る。
「薩摩さんってどういう場所が好きかな。昔行って喜んでた場所とか」
「デートってこと?」
目の前にある顔がもっと赤くなる。モテるだろう実さんは比較的女の子と絡むのも少なくないはず、と思っている。そのたびそうやって頬の色を変えているのか、それとも今回が特別……。
ゆっくり頷く彼に、僕は真剣に思い出す。りこが喜ぶ場所を。
分かっている。敵に塩を送ることだと。でも、そもそも僕は敵にすらなれていなかったんじゃないかって今さら思って。関係が崩れることを恐れて幼なじみという都合のいい立場をずっと守ってきた。そんな奴がりこを好きになって、ましてや恋人になることを夢見て、おこがましいにもほどがあるよね。
「さつまいもが好きだから……」
相手も知っている、ううん。相手の方が知っている情報で前置きしながら、早送りで思い出をめくる。どれも眩しくて、眺めれば眺めるほど、その中心にいる女の子を渡したくないという気持ちでいっぱいになった。でも、こんな卑怯な僕にりこが汚されるのはもっと嫌だ。光のアルバムの中に、やがて答えは見つかる。随分最近のページに。
「さつまいも掘りとか、いいんじゃない」
前、見かけたポスター。くだらないジンクスを隠しながら、りこと行けたらなと思っていたイベント。さつまいも好きのりこになら喜んでもらえると確信していた。
だからこそ、りこを好きになったこの人に教えるべきだと、綺麗な理由を作ってそう告げてしまった。
「え、そんなのあるんだ。具体的に教えて」
それから何文か話すたび軽く息切れするのを繰り返し、なんとか伝えきって実さんが去った時は、盛大に安堵の息をついた。
ううん、ため息の間違い。
その夜、ふわふわとした感覚に襲われた。倦怠感に抱きしめられているような。とにかく身体がおかしいというのだけは分かる。元気ぶるのもしんどくて、そのままの自分でいたらもちろん両親からは心配されて大人しく寝ることになった。
幸い明日は休日で予習復習をする必要はない。そもそもここ最近どちらも身が入らなかったけど。
一応熱を計ってみると思ったより高い数字が表示されていて、余計体調が悪化したように思えた。布団に入り安静にしていると、嫌な記憶が容易く浮かんでくる。飽きもせずに頭は、あの日二人で歩いていたところを僕に見せて。
恋人どころか幼なじみの座も危うくなった僕は、もうりこと関われないのだろうか。前みたいでいい。恋人になりたいなんて望まないから。
二人を思い出すほど、自分が勝手で弱気な人間になってゆく。それを病気のせいにするから余計にたちが悪い。
怠さのおかげで夜はすぐに眠れたけど、朝やお昼は時計がいつもの倍遅れて動いているよう。今頃二人はさつまいも掘りに行っているのだろう。そしてジンクス通り、結ばれて。
今頃二人は、を重ねること三日目。もう学校も始まってしまっている。流石に今日は病院に行ったけれどただの風邪らしい。風邪にしてはちょっと長いような気もするけど、学校に行くよりはマシだと思い、長引いてむしろいいのかもしれない。この数日味気ないお粥ばかりで、口も寂しくなっている。近頃の僕の日常と同じ味。
そんな現実から逃げるように、目を静かに瞑る。もう開けたりなんかしないで、ずっと夢の世界にいたい。悪夢は嫌だけど、少なくともその間はりこのことを考えなくていいから。
「ねぇ、遥。ほんとにこんなところにお芋なんてあるの?」
ランドセルすら恐らく担いだこともない、小さなりこが訝し気な表情を浮かべている。右眉が上がって、左眉は下がって。
「そんなの知らないよ、僕だって掘ったことないんだから」
さつまいも畑と先生が言っていたのに、今のところあるのは土と無駄に元気そうな緑色の葉っぱだけ。
「なぁんだ、遥も知らないんだ」
まだ幼いから知らなくても当たり前なはずなのに、恥ずかしくなってくる。馬鹿にされているようで。なんだか悔しくなって。
「この葉っぱはつるって言うんだよ」
さつまいもがあるかどうかの質問だったはずなのに、無理やり答えをずらす。僕のちっぼけな物知りを披露するために。
「そうなの! 知らなかった。すごいね」
そんな意図も知らず、りこが笑ってくれる。恋とか関係なく、僕はこの笑顔が大好き。飽きずにずっと見ていられる。
やがて芋を掘る時間になり、りこが一生懸命さつまいもを掘り始めた。すると。
きゃあ
甲高い声とともに僕の背中へりこが飛んできて、体操着を掴む。
「あぁ、やめろよ。体操着が汚れるんだけど」
別に気にしてないことを口にして、さも怖がっているりこを心配してないふうを出す。
「だって、土からなんかウニョウニョしたのが出てきたんだもん……」
綺麗な目の縁にりこは雫を浮かべていた。仕方ないなと面倒そうなふりをしつつ、思ったよりも大きかったイモムシをさつまいもとは違う土へ埋めてあげる。
「ありがと」
りこの目にもう涙はなく、代わりに満面の笑みが浮かんでいた。
「別に。早く掘れば?」
りこからのありがとうを素直に受け取れず、突き放した言い方になってしまう。本当はその笑顔を見れて嬉しいのに。
「うん、わかった!」
だけど僕の素っ気ない態度を特に気にもせず、りこは芋掘りを再開する。そうしてついに
「ねぇ、見て見て! 遥いた。さつまいも!」
「よかったね」
まるで親のような反応になってしまう。僕も十分子どもだけど、りこの方が遥かに幼く見えて。だって、さつまいもを動物がいたみたいに言うんだもん。左頬に土までつけて。
「どんな料理がいいかなぁ。スイートポテトもいいし、天ぷらもいいし、芋粥もいいし……」
料理名を口にするたび、指折りをして手をグーにしてゆく。その様子を見ているだけで楽しい。
ずっと見ていられる。永遠に見ていたい。
だからこれまで選んできたのに。想いを伝えてこの関係が崩れるくらいなら、ただ昔からいる奴、でいようと。だけど結局無駄だった。考えれば分かることだったのに。そういう人が現れたら、幼なじみは簡単に切り捨てられるって。分かっていたのに。
辺りの輪郭が失われてゆく。土もつるも掘り起こされたさつまいもも。そして今もまださつまいもの料理を挙げ続けている幼いりこも。
当たり前だ。小さい僕がする思考じゃなくなってる時点で、ここは夢の世界。急に視力が落ちたみたいに、今度はぼやけ始めると。
「でもやっぱり焼き芋かなぁって……遥泣いてるの?」
え……と声を漏らした直後、頬に生温い水が通った。そっか、ぼやけているのはこの液体のせいなのだと変な冷静さを発揮していたら。
「遥、どうしちゃったの? 遥、遥……」
りこが何度も僕の名前を呼んでくれる。今じゃしてくれないことに嬉しくて、その姿が夢と一緒に消えてゆくのが悲しくて、もっと泣きたくなった。
「遥」
今まで呼んでいたものとは違う種類の声が聞こえて、自然と目が開く。目が開いたということはここは現実なのだと自覚した時、覚えのある温度の水がまた流れた。今度は頬ではなくこめかみから頭の側面を通って。
「遥、泣いてるの?」
声のする方へ首を傾ける。夢と同じセリフで、夢と違う声。だけどこの声を知っている。
悲しいくらい、知りすぎている。
「りこ、どうして……」
「今日休んでたから、心配で」
「休んだの今日だけだし。そんな心配することないだろ、僕のことで」
りこがせっかく来てくれたのに。なのに、どうして僕は二言目に彼女が傷つく言葉をこぼしてしまうのだろう。
ううん、分かりきってる。だって。
「こんな男の部屋になんて入るなよ。りこは鶴巻さんが好きなんだろ?」
へ? と変な声を漏らしながら呆気に取られているりこ。図星すぎたのだろう。
「遥ちゃん遥ちゃん言ってるけど、僕男なんだよ。わかってる?」
くすっとりこが笑う。あぁ、今の一言かとすぐに思い当たる。笑わせたくて言ったわけじゃないのに。自分が男で、だから本命以外の男の心配するなよ、という意味で。
「やだよ」
くすり笑いの中に、りこはそんな単語を織り交ぜる。それは、僕のことを遥ちゃんという女の子として接することなのか、と困っていると。
「鶴巻さんと付き合うの」
「え?」
今度こそ本当に困った。唇に力をこめて、ぽかんとしないよう努める。未だ笑っているりこの言葉を待っていると。
「だって鶴巻さん、イモムシが出てきただけで大騒ぎするんだもん。しかも私の後ろで震えててさ。だからやだよ、そんな人と付き合うなんて」
「ふっ」
お腹ががくがく震える。声も漏れてしまった。
「あ、遥笑った」
「ごめん、だって完璧で何でもスマートにこなす鶴巻さんが芋掘りしてる最中に虫見つけて怖がってるの想像したら……ふっはは」
「ちょっと笑いすぎだよ。鶴巻さんかわいそ、ふふ」
人のこと言えないくらい、またりこが盛大に笑う。それからしばらく、二人で笑い合っていた。というか、久しぶりに笑えた気がする。
「よかった、さっきは泣いてたから」
「あっ」
そういえば目覚めた時、涙が流れて。今さらになって恥ずかしくなる。だって。
「遥が泣くの初めて見たから」
そう、今まで泣いたことなんてなかった。記憶にないだけであるとは思うけど、少なくともりこの前では。
「何か悪い夢でも見たの?」
興味津々で訊かれて、だけど流石にさっきの夢を正直に答える勇気もなく、一番笑いが取れそうな嘘を考えた結果。
「大量のさつまいもから足が生えて追いかけられる夢」
ふはっとりこがまたしても笑う。思惑通りの反応に自分も笑った。
あぁ、やっぱり。
「そりゃ、怖い。興行収入上位のゾンビ映画もびっくりだね」
「だな」
お腹を抱えてお互い笑う。やっぱり僕はりこが好きなんだ。
ずっとこうして笑っていたい。くだらないことでも、感動することでも。
ぎゅるる
お腹を使いすぎたからか、情けない音が響く。明らかに自分のお腹から。
「遥、お昼食べた?」
「そういえば食べてないかも。朝からずっと寝てたから」
「そっか。朝からずっと芋ゾンビに追いかけられてたんだね」
くすりと笑うと、りこは起き上がって。
「じゃあ、ちょっと待ってて。何か作ってくる」
そんな無理しなくても、と言う前にりこは部屋を出て行ってしまう。鼻歌まじりでご機嫌な様子。
力が抜けて、それに合わせて息を深く吐いた。だけど熱はなかなか逃げてくれない。
早くこの火照りを治したいのに。風邪で弱ってる自分を、りこにどきどきしている自分をこれ以上見られたくなくて。
りこが実さんと付き合わないと言った時、実さんには悪いけどすごく嬉しかった。まだこの関係を続けられるんだって。
だけど。
次はすぐに訪れるかもしれない。今回のでよく分かった。幼なじみのままでも、結局は関係が崩れてしまうことを。
想いを伝えるのも、そのままでもリスクが付きまとう。ずっと一緒にいたのに、僕とりこの関係はなんて脆いんだろう。どちらを選択すればいいのだろう。
りこと一緒にいたい。ただそれだけのことなのに、どうしてこんなに難しい選択肢ばかりなのだろうか。
「おまたせ!」
そんな僕の苦悩を知らず、出て行った時と同じ調子で部屋に現れるりこ。小さめのお鍋とよそうためのお皿、木製のレンゲをお盆に乗せて。鍋には見覚えがある。この数日命を繋げてくれているお粥の鍋。
正直お粥には飽きてしまった。でももしりこが作ったおかゆなら、と思いかけた時、部屋が白い湯気と甘い香りで満たされる。鍋のふたをりこが開けたことで。これは。
「芋粥だよ。ほら、さつまいもたっぷり」
「りこじゃないんだから」
まったく、と思いつつ笑いがこぼれる。目の前にあるお米みたいに、僕の顔も柔らかくなりすぎて。
いただきます、とちゃんと手を合わせてから湯気の立つそれを口に運ぶ。
「あつっ」
「大丈夫?」
「うん。美味しいよ」
芋粥は想像以上に熱くて、もしかしたら軽く上あごを火傷したかもしれない。歯で潰した瞬間のさつまいもの温度で。でもそれ以上に美味しかったから。心配してほしくないという想いで強がったわけじゃない。
「よかった」
実さんを笑っていた時とは違う笑みを浮かべるりこ。じっと食べてるところを見られるから、恥ずかしくて早く食べようとするけど熱さに敵わず結局ゆっくりになった。
「ありがと」
「え?」
心当たりがたくさんあるわけじゃなく、その真逆だから驚く。どうしていきなり。
「勉強、たくさん教えてくれて。それなのにこの間はあんなこと言って」
この間、と言われてそういえば喧嘩して口を利かなくなったんだっけと今さら思い出す。でもそれなら。
「僕の方こそ、意地になってごめん」
ごめん、という言葉だけで空気が重くなる。それを払拭するための言葉を探して。
「お見舞い、来てくれてありがとう」
りこと同じようにお礼を伝えると彼女はにこっと微笑んで。
「どういたしまして」
それから和んだ空気と一緒に芋粥を食べていると。
「ねぇ、遥」
「うん?」
「鶴巻さんに芋掘り勧めたの、遥でしょ?」
「違うよ」
「さっき鶴巻さんがイモムシで怖がってたって話した時、遥芋掘りでって言ってたんだよ? 私イモムシしか言ってないのに」
そういえば、と気づくも遅い。まさかそんな失態を犯していたとは。思考回路を鈍らせるから、風邪は恐ろしい。もちろんイモムシよりも。
「はい、言いました」
あぁ、どうしよう。どうして勧めたの、何で勝手にそんなことしたの、と責められたら。だけどりこは微笑んだまま、じゃあさと前置きしたかと思えば。
「それ、あの芋掘りで掘ったさつまいもなんだけど」
りこの人差し指がまっすぐ、今まさに僕が食べている鍋へと向かった。
全てを理解した時、僕はようやく見つけることができた。
これまで通り幼なじみでいるか、想いの全部を伝えて新しい関係を作るか、僕がすべきことを。
土の中で紫を見つけるように。



