春夏秋冬花祭 ―春の花は朧霞に溶けゆきて―



 先輩は、静かにそう言った。

「さっきも言った通り、僕は、受験勉強に本腰を入れなくてはならない。だから……デートは、できない」

 その言葉は、胸を貫いた。

 けれどもう、涙は出なかった。

 散々泣いたせいなのかもしれない。

 ただ、少しだけ胸の苦しさだけが残った。

「いずれは、高校を卒業しなくてはならない、卒業した後、僕は大学に行きたい。……行けなくても、働く必要はある。だから、清水さんと一緒に居ることはできない。一年後は、ね」

「……そう、ですよね」

 わたしは、声を絞り出した。

 先輩は頷く。

「仕方ないです。わかっていたことですから……」

 言葉にしていくうちに、不思議なくらい、心が静かになっていった。

「わたしの、ただのエゴにすぎないことくらい、わかってます。さっきは勢いで色々言っちゃったけど……叶えようのない願いであることは、わかってるんです」

 なぜか自然と、笑みが浮かんで。

「それにわたしは、先輩の幸せを願ってますから」

 そう口にしたら、なぜかすとんと、その言葉はわたしの胸に落ちてくる。


——ああ、そうだ……わかっていたんじゃないか。


 先輩は、卒業する。

 いつまでもいっしょにはいられない。

 それをわたしは知っていたから……あんな夢まで、見たんだ。

 知っていることは、あたりまえだけど。

 わたしにとっては、特別なことだったんだ。

 先輩と離れるのが、怖かったから。

 さっきまで、感情に押し流されていたせいだろうか。

 今は、心がひどく静かで。

 そこまで、つらくはなくなっていた。


「でもね」


 先輩は、わたしをまっすぐに見たままだ。

 いまだに跪いたまま、わたしを見上げている。

 わたしは、先輩を見つめ返した。


「それでもいいなら」


 先輩は、ゆっくりと言葉をつづけた。

 その顔に、微かな笑みが浮かんでいる。


「彼氏として、あたりまえのことができなくてもいいなら」


 わたしは、息を呑む。



「僕は君と付き合うよ」



 わたしは、先輩の言っていることが信じられなかった。


 どこまでも、先輩は優しくて。

 どこまでも、自分を後回しにする人だった。


 わたしが望むままの言葉を言ってくれる人に、今まで出会ったことがなかった。

 だから、思わず、訊いてしまった。

「でも先輩、これから受験勉強があるんですよ」

 わたしは俯いて、ぎゅっとスカートの裾を握り締める。

「わたしとの気持ちに感情を割く余裕はないはずです」

「あるよ」

 先輩は即答した。

 わたしは、思わず勢いよく顔をあげて、先輩のほうに一歩踏み出す。

「なんで……なんでそう言い切れるんですか」

——わたしは……不安なんだ。

 先輩と離れるのは、怖かった。

 多分それは、先輩がいつもわたしに向けてくれる優しさのせいだ。

「いつも先輩は……わたしを、甘やかしてくれます」

 言葉が、零れ落ちていく。

「まるで妹をあやすように……なんで、そうしてくれるんですか。なんで、赤の他人だったわたしを……ただの後輩であるわたしを、そんな風に扱ってくれるんですか」

 何度も、問いを重ねてしまう。

 怖かった。

 一人ぼっちになってしまうことが、怖かった。

 さっきの、あの幼い声。

 あれは、わたしの声だ。

 わたしがひとりぼっちになることを怖がっていることを、教えてくれた。


「わたしは……わたしの願いは、ただのエゴです。本当に……先輩が、引き受けなくてもいい願いです」


 先輩は、危うい雰囲気を孕む人だった。

 出会った時から、そうだ。

 一突きしてしまえば、崩れてしまいそうな儚さを纏う人だった。

 でもそれに、わたしは惹かれてしまった。


「先輩、わたし……先輩がつぶれるのが、一番嫌です。先輩が苦しむのが、悩むのが、いやなんです」


 先輩は、目を見開いて、わたしを見つめた。


「僕は……っ」


 先輩が、急に表情を歪めた。

 わたしは思わず砂の上に膝をついた。

 先輩の、もっと近くにいたかったから。

 バッグを砂の上において、先輩の両手を空いた手で上から包んだ。

 先輩は、うつむく。

「……昔、救えなかった人がいたんだ」

 先輩の声は、掠れていた。

 肩が微かに震えていることに、わたしは気が付いた。

 先輩の指先は、冷たい。

 さっきまでの、わたしみたいだった。

「その人は、僕を責めなかった。清水さんのように、僕を心配して……自分を、責めていたんだ」

 先輩の独白は、わたしの胸に重く響く。

 わたしの手を掴む先輩の力が、強くなったような気がした。

「自分を責めて、苦しんで、でもそれを一人で抱え込んで……ある日、僕の目の前からいなくなってしまった」

 先輩は一度、言葉を止めた。

 何かを噛み殺すようにしばらく黙っている。

 わたしが辛抱強く待っていると、再び口を開いた。

「助けてって、そう言いたかったはずだ。一緒に居てって、そう願いたかったはずだ。でもその人は……決して、弱みを見せてくれなかったんだ」


 わたしの手に、暖かいものが落ちてきた。


 先輩は、泣いていた。

 わたしみたいに、声を上げる泣き方ではない。

 嗚咽を押し殺して、静かに泣いていた。


 きっと先輩も、今まで……ずっと、一人だったのだ。

 誰にも気づかれず、泣いていたんだ。


 その人だけじゃない。

 先輩も、誰にも言えなかった。

 苦しい、辛いと、叫べなかったんじゃないか。

 その人が居なくなった悲しみを……言えなかったんじゃないか。

「僕は……無力だった」

 先輩の声は、震えている。

 でも、わたしを見上げた。

 その瞳の奥に揺らめくものが、今度はわかった。


——それは、覚悟。


「だから、今度そういう人を……そういう、だいじな人を見つけたら。その人が、潰れそうになったら……助ける。そう、決めた」

 先輩は、苦しそうに笑う。

「……もう、失いたくないんだ」

「先輩……」

 わたしは、先輩を包み込むように抱きしめた。

 先輩が、寂しそうに見えた。

 孤独で、苦しくて……

 いつの間にか、さっきまで胸を締め付けていた苦しさは消えていた。


——ただ、先輩が好きだった。
  もっと、愛おしくなった。


 この人の側にいて、先輩を守りたい。

 先輩が孤独のままで、苦しまないようにしたい。

 そう、思えた。

「わたしは……その人みたいに、綺麗な心を持てません。わたしの願いは、先輩に押し付けるには汚すぎる願いです。ただのわたしのわがままです」

 先輩から体を離して、わたしは先輩を見た。

「先輩を、たくさん、たくさん悩ませてしまうものなんです」

「それでいいんだ。それでいいんだよ」

 先輩は笑った。

 お互い、泣き腫らした目だったけれど。

 わたしの顔にも、自然と、笑顔が浮かんだ。

「我儘でいいんだ。あの時の僕は、その我儘を引き出すことすら、できなかった……我儘を言ってくれたら、僕は君を救える。君を幸せにできる」

 先輩は、噛み締めるようにそう言った。

 わたしは、最後に、確認がしたかった。

「わたしは先輩に執着して、依存しようとしているだけです。その重たい感情を向けられて困るのは先輩で、先輩は勉強もあるのに、私の恋愛感情も背負わなくてはならなくなるんです」

 だいじょうぶですか。

 そう、問いかけずにはいられなかった。

 まだ、あの怖さは消えていない。

 先輩を困らせて、悩ませることは、絶対にしたくない。

 でも。

「大丈夫」

 先輩は、微笑んでくれた。

「好意を向けられるのは、嬉しいことだ。僕は決して、それを嫌だとは思わない」

 その声には、いつもの優しさが戻っていた。

 先輩も、落ち着いてきたのだろう。

「好いてくれている人がいるのに、なぜそれを拒む必要がある?」

 その言葉を聞いて、気づいた。

 先輩はいつも……わたしに、寄り添ってくれていた。

 わたしのことを考えて、わたしにとって何が一番いいのかを考えて。

 だからこんなにも、真摯に向き合ってくれている。

「僕は、君の味方で居たい。君を喜ばせたいんだ」

 さっきの先輩は、どこか別のところを見ていた、そんな気がした。

 でも、今の先輩は、ちゃんと、まっすぐにわたしを見つめてくれている。

「だって君は、僕の唯一の弟子で……大切な後輩だから。君と付き合うことは、僕にとって贖罪なんだ」

 知っている。

 彼の後悔は、さっきの言葉でよくわかった。

 でも……贖罪だとしても、嬉しいのだ。

「あの人を救えなかった……あの人の代わりを、君に押し付けようとしているだけだ」

 先輩がくれる優しさは、たとえ理由が何であろうと、わたしにとっては本物の優しさだった。

「僕も押し付けてるんだよ。だから……僕と付き合ってくれないか」

 先輩の愛の告白は、とっても素直で……どこか、歪んでいて。

 でも、きっとそれでいいのだと思った。

 こんなわたしたちには、お似合いなのかもしれない。

「……わたしなんかで、いいんですか」

「いいよ」

「わたし、たくさんわがまま言うかもしれません。写真見てくださいとか、コンビニに寄りませんかとか」

「それくらいなら構わないよ。息抜きになる」

「一緒に勉強しましょうとか」

「良い復習になりそうだね」

「一緒に帰りましょうとか」

「一人で帰るよりはいい」

「いいんですか」

「ああ」

「わがまま聞いてくれるんですか」

「聞くよ」

「私が彼女でいいんですか」

「君よりいい彼女はいないよ」

「本当ですか」

「嘘はつかない」

 先輩は、やっぱり先輩だった。

 わたしが大好きで……憧れた、先輩。

 優しくて、かっこよくて、我儘を聞いてくれて、甘やかしてくれて。

 後輩想いで、自分を少し蔑ろにして、儚くて。

 寂しそうで、苦しそうで、でも、誰かのために何かをしてくれる人。

「僕も君のこと、好きだよ。これは……嘘じゃない」

「ありがとうございます、先輩。わたし……先輩のこと、大好きです」

 お互いに、笑った。

「ありがとう」

「一緒に居てくださいね」

「ああ、もちろん」

「約束です」

「約束だ」


 わたしたちは長い間、二人きりで、浜辺で抱きしめあっていた。

 お互いの体温が、溶け合うまで。