春夏秋冬花祭 ―春の花は朧霞に溶けゆきて―



 泣き続けていたせいで、少し頭が痛かった。

 でも、それ以上に気になっていたのは、先輩を困らせてしまったことだった。

——また、あれを繰り返したくなかったのに……

 さっきのことは、わたしが密かに抱えている悩みだった。

 嫌なことを思い出したり、強い不安を感じたりすると、固まってしまうことがある。

 いつも原因が同じというわけではない。

 だから、自分でもいつ起こるのかわからなかった。

 今回は直前に嫌な夢を見たから。

 きっとそれが、引き金になったのだと思う。


——先輩に、迷惑を掛けちゃった……。先輩、怒ってないかな。


 不安になって、そっと隣を見た。

 先輩は、わたしの手を握ったまま、黙って海のほうを見つめている。

 あのあと、先輩はわたしの手を引いて、公園のすぐ近くまである海まで連れてきてくれた。

 春の夜の浜辺には、人の姿が殆どない。

 遠くを誰かが走っているくらいだった。

 先輩とわたし。
 二人きりだった。

 いつもなら、それだけでうれしくなったはずなのに。

 今は、胸の奥が少しずつ、苦しくなっていく。


——先輩を困らせた。

——先輩に迷惑をかけた。

——先輩を悩ませた。

——先輩の時間を奪った。


 さっきのことを思い返すたびに、胸の中にあった靄が、少しずつ広がっていく。

 まるで、あの悪夢から目を覚ましたばかりの頃のようだった。

 ただ、一つ違うのは、今も先輩が、わたしの手を握ってくれていること。

 大好きな人が、側に居てくれること。

 わたしは、視線を下に落とした。

 やっぱり、握ってくれている。

 どうして、先輩はまだ手を離さないんだろう。

「ねえ、清水さん」

 先輩が、わたしのほうを振り向いた。

 名前を呼ばれただけなのに、身体が小さく震える。

「……大丈夫、僕は怒ってないよ」

 先輩は静かにそう言った。

 私の手を握ってくれる力が、少しだけ強まる。

「僕に合わせて、深呼吸をして」

 先輩がゆっくり息を吸う。

 そして、吐く。

 もう一度、吸って、吐く。

 わたしもそれにつられるように、呼吸を繰り返した。

「うん、上手にできたね」

 その声が、あまりにも自然で。

 まるでこうして、誰かを落ち着かせたことがあるみたいだった。

 だから、少しだけ安心してしまって。

 わたしの瞳から、再び涙が零れた。

「……どうしたの」

 先輩の声が、少し困っている。

「……なんでも、ないです」

 それでも、私は言えなかった。

 一つ心を赦してしまえば、言ってしまいそうだった。


——先輩を、困らせたくない。

——先輩に、この想いを言うわけにはいかない。


 先輩が、せっかく褒めてくれたんだから。

 わたしはそれを受け止めて、これからも頑張ればいい。

 そう、頭ではわかっているのに。

 なんでこんなに、胸が苦しいんだろう。


——どうせ、先輩は学校を卒業する。

 別れが、少し早かっただけだ。

 ただ、それだけなんだ。


 そうやって自分に言い聞かせても、涙は止まらなかった。

 片手は先輩に握られていて、もう片方はバッグを掴んでいる。

 両手がふさがっていて、涙を拭うこともできなくて。

 頬が濡れて、顔がどんどんぐしゃぐしゃになっていく。

「……あのね」

 先輩は、わたしの手を握りなおした。

 まるで、まだ離さないよ、と言うように。

 そして、その場にしゃがむ。

 目線が、近くなった。

「僕も、苦しかった時があるから、よくわかる」

 先輩は、少しだけ俯いた。

「誰にも言えなくて、その苦しみを抱え込まなきゃいけなくて……結局、涙しか出てきてくれないんだよね」

 その言葉は、どこまでもわたしに寄り添っていた。

 なんで、なんで、そんなにわたしのことをわかってくれるのだろう。

「話して、清水さん」

 先輩が、顔を上げる。

 先輩の瞳の奥に揺らめくものを、わたしはまだ理解できなかった。


——何を考えているんですか、先輩。

 なんでそんなに、わたしに寄り添ってくれるんですか。


「わたし……」

 思わず、言葉が漏れてしまって。

 慌てて、口を引き結んだ。

「清水さん」

「い、言えないです」

「言わないと、清水さん、つぶれるよ」

「でも、わたしの気持ちは」

「どんなことでもいい。言ってくれ」

 はじめて、先輩の声に懇願が混ざった。

 少しだけ強くなった声に、胸が大きく脈打つ。

 握られていた手にも、少しずつ力がこもっていて。

 先輩が願っていることが、伝わってきて。


「わたしの気持ちは、願いは……先輩を、傷つけるかもしれないんです」


——ああ、言ってしまった。

 一度口にしたら、もう戻れない。

 先輩、引いちゃうよ。

 困っちゃうよ。

 わたしはまた、先輩を困らせてしまう……

「……いいよ」

 焦って自分を責めるわたしとは反対に、先輩の表情は柔らかくなった。

 握る力が緩み、そして、もう片方の手まで伸ばして、わたしの手を包み込んだ。

「そのまま……話して」

 その言葉に背中を押されるように、わたしは口を開いた。


「……離れたくない、です」

 一度溢れたら、止まらなかった。


「離れてほしくないです」

「先輩、わたしは先輩のことが好きです」

「先輩のことが、好きなんです」

「でも、これでは先輩を困らせてしまう」

「先輩を苦しませて、悩ませて」

「恋愛という、重荷を背負わせてしまう」

「それが嫌なのに、胸が苦しくてたまらないんです」

「先輩、いやです、離れたくないです」

「ごめんなさい、自分勝手で、ごめんなさい」

「わたし、先輩のこと苦しませたくなくて」

「なのに、わたし、涙、とまらなくて」

「あの、先輩、わたし……先輩といると楽しくて」

「全部が幸せなんです、先輩と一緒に居ると」

「だから、一緒に居て、先輩に、笑ってほしくて」

「先輩の笑顔が、大好きで」

「こんなことを言われても、困っちゃいますよね」

「ごめんなさい、わたし……」


 涙をぼろぼろとこぼしながら、思いつくままに言葉を紡ぐ。

 何とかこの想いを、先輩に伝えたい。

 そう思うのに、身勝手な願いしか出てこなくて。

 だけど、なぜだろう。

 目の前にいる先輩の顔に浮かんでいる笑顔は、すごく優しく、あたたかいものに見えて。

「……清水さん」

「先輩、ごめんなさい」

「謝らなくていいよ」

 先輩は、そう言って、わたしの頭を撫でてくれた。

 ことさら優しく。

 壊れ物に触れるように、丁寧に。

 そのおかげだろうか、乱れていたわたしの呼吸が、少しずつ整っていった。

 胸の中にたまっていたものも、さっきいろいろ言ったからか、落ち着いてきていた。

「ありがとう」

 その言葉を聞いて、初めて気づいた。

 先輩が、泣きそうになっていることに。

「……全部吐きだしてくれて、ありがとう。辛かったよね」

 わたしの頬は、涙でびしょびしょだ。

 鼻水も混じっているかもしれない。

 どうしようと思っていたら、先輩が手を離した。

 そして自分のハンカチを取り出して、優しく拭ってくれた。

「先輩、汚いです……」

「知ってる。知ってるよ」

 先輩は小さく笑って、呟いた。

 一通り拭い終えて、ハンカチをたたむ。

 それを、先輩はじっと見つめた。

「……僕はずっと、こうしてあげたかったんだ」

 先輩は、ハンカチをしまったが、わたしと視線を合わせてくれなかった。

 少しだけ逸れた視線が、どこを見ているのかはわからない。

 先輩は少し深呼吸をして、わたしをまっすぐに見つめた。

「……僕を好きになってくれて、ありがとう」