春夏秋冬花祭 ―春の花は朧霞に溶けゆきて―



「もうすぐ、受験勉強をしないといけないからね。いつかは引退しようと思ってたんだ」

 先輩が、笑う。

「でも、清水さんのほかに写真をやっている子はいない。だから、清水さんが技術をきちんと引き継いでくれる、そうボクが思えたら引退しようと思ってたんだ」

 頭が少しずつ、白くなる。

「清水さん。君の写真はもう、十分、僕の写真を超えている」

 先輩は、笑っていた。

 その笑顔を見ることは、わたしにとって幸せなことのはずだった。

「僕の力を十二分に引き継いでくれて、ありがとう」

 ずっと、望んでいた言葉だった。

 先輩に褒められたい。

 先輩に認めてもらいたい。

 そのために、ずっと写真を撮ってきた。

 なのに。

「あ、ありがとう、ございます……」

——どうして。どうして、こんなに胸が苦しいんだろう。

 不安になって、わたしは、服の胸のあたりを掴んだ。

 先輩が、不思議そうな顔つきになる。

「……清水さん?」

 その顔を見て、気づいた。

 先輩に褒めてもらって、認めてもらう。

 それはまぎれもなく、わたしが望んでいたことだった。

 でも、それだけじゃない。

 わたしが思い描いていた未来では、先輩は側にいつづけてくれて、わたしを褒めてくれて、認めてくれていた。

——先輩と、一緒に居る時間が、何よりも欲しかった。

 それは、さっきあの夢から覚めた時、思ったことと一緒。

 あまりにもずっと思いすぎて、それを喪うなんて、考えたことがなかった。

「清水さん、どうしたの?」

 先輩の声が、少し遠く聞こえた。

「……なんでも、ないです」

「そうは、見えないよ。顔色が悪い。もしかして、体調悪かった? だったら、すぐに——」

「違います!」

 思わず、強い声が出た。

 先輩が、目を丸くする。

 その表情を見て、わたしは、息を呑む。

 違う、そんな言い方をしたかったわけじゃない。

『ごめん』

 先輩が顔を背ける、あの夢。

 脳裏に、よぎる。

「ごめん、えっと……」

「先輩は悪くないんです、本当に。ただこれは……」

 驚いただけ。

 勝手に、怖がっているだけ。

 ただ、それだけのはずなのに。


『先輩』


 夢の中でわたしが言った声が、蘇る。

 もし、先輩が引退してしまったら。

 卒業して、しまったら。


——先輩に、もう会えなくなる。


 そう悟った瞬間、世界から、音が消えた。


「……清水さん」

 先輩が、何か言っている。

 でも、聞こえない。

 いつのまにか、白い場所に居て。

 何も、見えない。

 自分の身体ですらも、見えない。

 身体が、自分のものじゃないみたいだった。


——怖いよ。


 夢だ。

 あれは、夢だった。

 現実には起こってない。

 ただ先輩が言ったのは、引退するっていうだけ。

 なのに、どうして。

 どうして、こんなに心細いの。


——嫌だよ。


 幼い声が、聞こえる。

 女の子の声だ。

 だれだ?

 だれが、そう言ってるの?

「清水さん」

 遠くから、先輩の声がする。

 でも、どこに居るのかわからない。

 だんだんと、苦しくなってきた。

 ひとりぼっちで、孤独で——


——ひとりぼっちは、嫌だよ。


 幼い声が言った言葉。

 なぜかそれが、より強く、胸を締め付けて。

 息も、しづらくて。

 苦しくて。


——せんぱい、助けて。


「清水さん」

 すぐそばで、先輩の声がした。

 途端に、止まっていた感覚が一気に戻ってくる。

 光、音、風、桜の香り。

「……っ」

 わたしは強く目を閉じ、それからゆっくりと開いた。

 いつの間にか、道からは少し離れたところに立っていた。

 そして、目の前には、先輩がいた。

 わたしの手を、握ってくれている。

 その表情は、いつになく真剣だった。

「せ、んぱい……」

 わたしの視界が、ぼやける。

 ああ、また泣いてしまう。

 泣きたくないのに。

 でもただ、先輩が目の前に居てくれることが。

 ひとりじゃないことが、どうしようもなくうれしくて……

 安心感に、包まれた。

「……おいで」

 先輩はそう言って、わたしの手を引いた。

 わたしは何も言えないまま、先輩と一緒に歩き出した。