春夏秋冬花祭 ―春の花は朧霞に溶けゆきて―



 わたしは、待ち合わせ場所の桜の木の下で待っていた。

 クローゼットで最初に目に付いたのが、おろしたての真っ白なワンピース。

 それにクランチコートを合わせて、いつもの黒いローファーを履いてきた。

 バッグはファー素材でできたものを掴んだ。

 ありあわせの寄せ集め。

 でも、様にはなっていると思う。

 先輩はいつも通り写真を撮るだろうから、カメラとスマホは忘れていない。

 ハンカチと、ティッシュ、貴重品もある。

 ただ、急いで出てきたから、泣き腫らした目元まではどうにもならなかった。

 わたしは、後ろにそびえる大きな桜を見上げる。

 ライトアップされた桜は、綺麗だった。

 でも、昼間ほど明るくはない。

 これなら、先輩にもこの目はよく見えない……はずだ。

「待たせてごめん!」

 突然声がして、わたしは振り返った。

 先輩が荒い息をついて、わたしの目の前で膝に手をついている。

「大丈夫ですか、先輩」

「うん。い、意外と電車が混んでたんだ」

「先輩から誘ってきたのに、先輩のほうが疲れてますよね」

「それは、ごめん」

 そう恥ずかしそうに頬を掻いて笑う先輩を見ていると、気持ちが安らいでいくのを感じた。


——ああ……好き、だな。


 改めて、そう思った。

 先輩はじっと見つめられて、首をかしげている。

 わたしはあわてて、いつものように笑った。

「少し待ったおかげで、人も減ってきましたよ」

「そうだね」

 この公園には、大きな桜のほかにもたくさんの桜が植わっている。

 すぐそばには海もあって、昼間は人が多い場所だ。

 けれど、今は、夕食を食べに帰る人も増えているようだ。

「人が少ないほうが落ち着いて写真を撮れますよね」

「うん。清水さんも分かってきたね」

「あたりまえです。先輩と一年、一緒に写真を撮ってきたんですから」

 そう。

 わたしは、高校の芸術部に入ってからずっと、先輩に写真を教えてもらってきた。

 先輩に色々なことを教えてもらった。

 色々な場所に行った。

 いろいろな景色を撮った。


——先輩といると、いつも楽しかった。


「清水さん、この大きい桜と写真、撮ろうか?」

「あ……わたしはいいです。先輩こそ、撮りますか」

「うーん、僕も大丈夫かな。じゃあ、少し歩こうか」

 先輩は、わたしの様子について何も言わなかった。

 密かに、胸をなでおろす。

 余計な心配は、させたくない。

 わたしたちは並んで歩き始めた。

「こうして夜を歩くのは、冬以来かな」

「そうですね。今まで、夜を歩いたのは二回です。花火大会と」

「イルミネーション、だね」

「……はい」

 被せるように言われて、思わず笑ってしまう。

 先輩は優しい微笑みを浮かべた。

 それからは、ほとんど何も話さなかった。

 先輩が写真を撮るのを眺めたり、わたしが撮っているところを先輩に見てもらったり。

 先輩も以前なら口にしていたような細かなアドバイスもせず、ただ写真を見て、満足そうに頷いていた。

 歩き始めて、一時間ほど経ったころ。

 少し強い風が、桜並木を吹き抜けた。

 花々が揺れ、無数の花弁が夜空へ舞い上がる。

「おぉ……」

 先輩が、思わず声を漏らした。

 わたしは自然と、カメラを構えた。


——パシャッ。


 一瞬だけ訪れた桜吹雪を、写真の中に閉じ込める。

 先輩は気づいて、隣からカメラを覗き込んだ。

 わたしは少し明度を調節して、画面を見せる。

「……綺麗だ」

 先輩は、そう呟いた。

「ライトアップで照らされた桜にピントを合わせたんだね。そうすると、花弁にピントは合わない。でも、ぼやけている感じが、幻想的でいいね」

「そんなこと、あまり考えてませんでした」

「なら、なおさらすごいよ。清水さん、腕をあげたね」

 本当に、何も考えてなかった。

 先輩が声を上げた。

 他の人が見惚れた。

 それはつまり、それだけ、その一瞬が美しかったってことだ。

 ならば、その美しい瞬間を残そう。

 そう、思っただけだ。

「先輩が、教えてくれたんですよ」

「ん?」

「他の人にとって美しい景色は、写真にとると美しくなる。他の人の感情が大きく動いた景色は、写真に感情を残せるって」

 わたしの写真人生は、先輩と一緒に始まった。

 最初は気まぐれで選んだ道だった。

 でも、先輩がいてくれたから、わたしはここまで夢中になって、写真を好きになった。

 先輩に褒められたい。

 先輩に認められたい。

 ただ、その一心で。

「……それでも、ここまできれいな写真を撮れるのは、正真正銘、清水さんの力だよ」

「ありがとうございます」

 だからこそ、こうして褒められると、たまらなくうれしいのだ。

 わたしは、嬉しくて笑った。

 そんなわたしの頭を、先輩はいつものように撫でる。

 褒めるときの癖だと、前に教えてくれた。

 いつもと同じ、優しい手だった。

「だからこそ……僕はもう、安心して引退できる」

「……え?」

 かつん。

 言葉がアスファルトに落ちたような気がした。