春夏秋冬花祭 ―春の花は朧霞に溶けゆきて―

「好きです、先輩」

 わたしの口から、その言葉が零れ落ちた。

 かつん、と乾いた音がした。

 まるで、言葉そのものが地面に落ちて、粉々に砕け散ったみたいだった。

 美術室の、夜。
 わたしと先輩、二人きりだった。

 先輩は、まっさらなキャンバスが立てかけられた、イーゼルの前に座っていた。

 突然告げられた言葉に、目を見開いて、ただわたしを見つめている。

 長い、長い沈黙が、わたしたちの間に横たわっていた。

 その足元から、黒い靄が滲み出してくる。

 足首から、膝へ。
 膝から、腰へ。

 ゆっくりと、わたしの身体を呑みこんでいく。

——息が、苦しい。

 喉元に手を当てた、その時。

「……ごめん」

 先輩が、目を逸らした。

 ただ、それだけなのに、胸の奥が、ずきん、と痛んだ。

「……先輩」

 いつも追いかけていたその背中。

 それが、ひどく遠くに見える。

 いつも近くにいてくれた。

 写真のことを教えてくれて、困ったときには助けてくれて。

 高校生活一年目を、ここまで過ごしてこられたのだって、きっと、先輩のおかげだった。

 なのに。

「先輩」

 目の前が、ゆっくりと暗くなっていく。

 先輩の前のキャンバスが、気持ち悪いほど鮮やかな桃色に染まっていく。

 黒い靄が、わたしを覆いつくす。

 苦しい。

 いやだ。

 先輩、


——お願いだから、そんな顔をしないで。


「……ッ!」

 ばちり、と目が開いた。

 目の前には、いつも一緒に寝ているぬいぐるみの背中があった。

 つぅと、目から涙が零れ落ちる。

 胸が、まだ少し痛い。

「はぁ……」

 ゆっくり、息を吐く。

 夢だった。

 そうわかっているのに、身体はなかなか現実に戻ってくれなかった。

 わたしは目の前のぬいぐるみをぎゅっと抱きしめた。

「……ごめん、なさい……」

 ぽつりと、呟いた。

 だれに謝っているのか、なぜ謝っているのか、自分でもわからない。

 けれど、夢の中で先輩に言われた「ごめん」が、いつまでも頭から離れなかった。

 もし、本当にそうなったら。

 もし、わたしが先輩を困らせていたのだとしたら。

 もし、わたしの「好き」が、先輩にとって重荷になっていたのだとしたら。

——怖い。

 そう、怖いのだ。

 あれが、現実となるのが、怖い。

 考えれば考えるほど、胸の奥が重たくなっていく。

 わたしはぬいぐるみを抱く腕に、少しだけ力を込めた。

——先輩に、会いたい。

 ふと、そう思った。

 そのおかげで、少しだけ、胸が軽くなる。

 苦笑が、思わず漏れた。

「何言ってるんだろ、わたし」

 今、先輩に会いたいなんて。

 ただ、この嫌な気持ちを誰かに聞いて欲しいだけなのかもしれない。

 慰めてほしいだけなのかもしれない。

 そんな理由で先輩を呼び出すなんて、それこそ迷惑に決まっている。

 そう、思うのに。

 誰かに話したいという気持ちは、消えてくれなかった。

 助けてほしい。

 でも、心配はかけたくない。

 そっとしておいてほしい。

 でも、一人にはなりたくない。

 そんな自分の矛盾が、わたしは嫌いだった。

 また、涙が一粒だけ頬を伝った。

 それを、指先で拭う。

「……もう、止まってよ」

 自分に言い聞かせるように呟いた、瞬間だった。

 ぽろん。

 琴をつま弾く音が、静かな部屋に響いた。

 枕元を探ると、スマホに指先が触れた。

 掴んで、目の前へ持ってくる。

 スマホのホーム画面に、一件のメッセージが届いていた。

春樹(はるき):今から、夜桜(よざくら)を観に行かないか』

「……先輩」

 思わず、名前を呼んだ。

 まるでわたしのことを見ていたみたいなタイミングだった。

 今から夜桜を観に行くなんて、ずいぶん急な誘いだ。

 それでも。

海桜(みお):今から行きます』

——会いたい。

 断る選択肢は、もちろんなかった。

 なぜ誘ってきたのか。

 それを考える前に、先輩に会えることの喜びが、わたしの胸を満たしていた。