水面に残らない

 プールの水面が落ち着いた頃、その日のミーティングが終わった。

「じゃあ、帰ろっか」

 澪が鞄を肩にかける。

「うん。ちょっと待って」

 私はそう言って、もう一度プールを振り返った。
 さっきまで何人もの選手が泳いでいた水面は、もう静かになっていた。
 照明の光が、水面に細く揺れている。
 さっきまで、ここにはたくさんの音があった。
 スタートの合図。
 水に飛び込む音。
 選手たちの声。
 ストップウォッチの音。
 それから、私が何度も押した、小さなボタンの音。
 数字を確認して、ノートに書く。
 名前を書いて。
 種目を書いて。
 タイムを書いて。
 それを何度も繰り返した。
 でも、水面を見ていると、その全部が嘘みたいに消えている。
 今ここにあるのは、何もなかったみたいな静かな水だけだった。
 私は、前にも同じことを考えた。
 私がやっていることも、こうやって消えていくのかな、と。
 誰かに見られることもなくて。
 褒められることもなくて。
 誰の記憶にも残らないんじゃないかなって。
 あのときは、それが怖かった。
 陽菜が作ったグラフは、形として残る。
 数字が線になって、みんなの目に見えるものになる。
 先生が「すごい」と言ってくれる。
 後輩も「陽菜先輩、すげー」と言う。
 私は、それが羨ましかった。
 羨ましいと思う自分が嫌だった。
 陽菜は何も悪くないのに。
 私よりすごいことをしているのは、本当なのに。
 それなのに、陽菜が褒められるたびに、自分の中の何かまで否定されたような気がしていた。
 でも昨日一日だけ部活を休んでみて、少しだけ分かった気がする。
 私がいなかった昨日、練習はちゃんとできていた。
 みんなは泳いでいたし、部活もなくならなかった。
 それでも、陽菜は少し困ったと言っていた。
 澪は、私がいなくてつまらなかったと言った。
 たったそれだけのことだった。
 私がいなくても、世界は進んでいく。
 でも、何も変わらないわけじゃなかった。
 そのことが、少しだけ嬉しかった。
 私は、水面を見つめる。
 さっきまでここにあった波は、もうどこにもない。
 でも、波が消えたからって、最初から波なんかなかったことにはならない。
 私は、それを知っている。
 自分で見ていたから。
 自分で、何度もストップウォッチを押してきたから。
 誰かが覚えていなくても。
 誰かが「すごい」と言ってくれなくても。
 私がやってきたことまで、なくなるわけじゃない。
 ……たぶん、それだけで全部納得できるわけじゃない。
 やっぱり、褒められたら嬉しい。
 陽菜みたいに「すごい」って言われたら、きっと今だって羨ましいと思う。
 また比べてしまう日もあると思う。
 それでも、陽菜がすごいことと私がやってきたことは、たぶん、別の話なのだ。
 どちらか一方が認められたからって、もう一方がなくなるわけじゃない。
 そんな当たり前のことに、私は今まで気づかなかった。

「紬ー?」

 澪の声がした。
 振り返ると、少し先で澪がこちらを見ている。

「早くー。置いてくよ」
「待ってって」

 私は鞄を肩にかけ直した。
 水面に残るものは、もう何もない。
 それでも、私はそこから目を離し、澪の声のするほうへ歩き出した。