水面に残らない

 翌朝。
 目が覚めると、昨日より少しだけ体が軽かった。
 部活を休んだことで、何かが解決したわけじゃない。
 陽菜のことを考えると、まだ胸の奥がざわつく。
 それでも、一日離れてみたことで、昨日まで頭の中を埋め尽くしていたものが、少しだけ遠くなっていた。
 私は制服に着替えて、いつも通り学校へ向かった。
 教室に入ると、澪がすぐに気づいた。

「紬、おはよー」
「おはよ」
「もう大丈夫?」
「うん。昨日休んだから、もう平気」
「よかったー」

 澪はそう言って、少しだけ笑った。

「でもさ」
「ん?」
「昨日、つまんなかった」
「え?」
「紬いなかったから」

 あまりにもさらっと言うので、私は一瞬、聞き返せなかった。

「なんかさ、いつもより静かだったんだよね」
「部活が?」
「うん。メニューきついし、みんな疲れてるし」

 澪は昨日のことを思い出すように、少しだけ首を傾げた。

「いつも紬がいると、くだらないこと言っても拾ってくれるじゃん」
「それ、褒めてる?」
「褒めてる褒めてる」
「絶対適当でしょ」
「ばれた?」

 澪が肩を揺らす。
 思わず、私も頬が緩んだ。
 昨日、私がいなかったことを、澪は特別なことみたいには話さなかった。
 ただ、いつもいる人がいなかったから、少し違った。
 そのくらいのこと。
 でも、その言葉が妙に残った。
 もしかして私は気づかぬうちに、部の空気を支えていたのだろうか。
 部活に行かなかった。
 だからといって、何か大きなことが起きたわけじゃない。
 練習はちゃんとあっただろうし、みんな泳いだだろう。
 それでも、いつもとまったく同じではなかったらしい。
 そのことが、少しだけ不思議だった。

「あ、先生来た!」
「うん」

 慌てて席に向かう澪を見て、私は席に座った。
 その日も、授業はいつも通り進んだ。
 昼休みも、澪とくだらない話をした。
 昨日までと同じように、笑い合った。
 そして放課後。
 私はいつものようにプールへ向かった。
 少しだけ緊張していた。
 たった一日だけど、休んでしまった。
 戻ってくることが少しだけ怖かった。
 プールサイドへ向かうと、珍しく陽菜が先に来ていた。

「あ、紬」
「お疲れさま」
「昨日さ、ちょっと困ったことがあって」
「え?」

 陽菜は鞄からノートを取り出した。
 私が持っているものとは違う、真新しいノート。

「タイム取ったんだけど、途中でどこまで書いたか分かんなくなって」
「え?」
「ほら、昨日のメニュー、種目多かったじゃん」
「ああ……」
「いつも紬のノート見ながらやってるから、昨日自分でやってみたら、思ったより分かんなかった」

 陽菜は少し困ったように笑った。

「だから、途中から先生に確認したんだ」
「……そっか」
「うん」

 陽菜はそれだけ言って、ノートを開いた。

「昨日の分、ここまで書いてあるよ」
「ありがとう」
「ううん」

 陽菜はもう別のことを考えているようだった。

「今日のメニュー、昨日と同じところあるよね?」
「うん。たぶんそこ、今日もタイム取ると思う」
「じゃあ、そこだけ先に準備しとこうかな」
「そうだね」

 私は倉庫を開けた。
 中には、いつもと変わらない道具が並んでいた。
 ビート板。
 パドル。
 ストップウォッチ。
 見慣れたものを目にすると、なぜだか心が落ち着いた。
 私はストップウォッチを手に取った。
 黒い画面に、何も表示されていない。
 ボタンを押す。
 ピッ、と音がした。

「紬、今日最初どこからだっけ?」
「えっとね」

 私はメニュー表を覗き込んだ。

「最初、五十メートル四本」
「了解」

 陽菜がスタート台のほうへ向かっていく。
 私はその背中を見送ってから、いつものノートを開いた。
 いつもと同じように、今日の日付を書く。
 ペン先を止める。
 陽菜は昨日私がいなくて少し困ったみたいだった。
 そして今聞かれたことにすぐに答えられた。
 それが、私が積み上げてきたことなのかもしれない。
 
 その日の練習も、いつも通りに始まった。
 私はスタート台に並ぶ選手たちを見ながら、ストップウォッチを握る。

「次、いくよー」
「はーい」

 ピッ。
 選手たちが一斉にプールに飛び込む。
 白い水飛沫が上がり、大きな波が生まれた。
 選手たちは華麗にターンし、戻ってくる。
 私はその姿を目で追いながら、ゴールの瞬間に合わせてボタンを押した。
 三十秒九二。
 ノートに書く。
 名前。
 種目。
 タイム。
 いつもと同じだった。
 少し離れたところでは、陽菜が今日の記録をまとめている。
 練習の合間にノートを覗き込んでは、何かを考えていた。
 たぶん、今日もグラフにするのだろう。
 昨日までなら、その姿を見るたびに胸の奥がざわついた。
 また、陽菜のほうがすごい。
 また、私にはできないことをしている。
 そんなことを考えていた。
 でも今日は、少しだけ違った。
 陽菜は陽菜でやっている。
 私は私でやっている。
 それだけのことなのかもしれない。
 
「紬、次のメニューってこれだよね?」

 陽菜がメニュー表を持ってこちらへ来た。

「うん。次、二十五メートル四本」
「了解」

 陽菜は頷いて、選手たちに声をかけにいく。
 私はその背中を見ながら、ストップウォッチを握り直した。
 陽菜はすごいと思う。
 それは、今も変わらない。
 たぶんこれからも、何度もそう思う。
 羨ましくなることだって、きっとある。
 それでも、あの子がすごいことと、私がやってきたことは、別の話なのかもしれない。
 私は陽菜の背中を見つめながら、そんなことを思った。