水面に残らない

 教室に入ると、いつもと変わらない声が飛び交っていた。

「おはよー」
「おはよう」

 鞄を机の横に置く。

「紬、おはよ」

 澪が後ろから声をかけてきた。

「おはよ」
「昨日、コンビニ何買ったの?」
「え?」
「お菓子。結局何買ったのかなって」
「ああ……普通にポテチ」
「昨日ポテトの話してたから?」
「違うし」
「絶対そうじゃん」
「違うって」

 澪が楽しそうに笑った。
 つられて、私の頬も少し緩む。
 うん、いつも通りに話せてる。
 昨日のことなんて、なかったみたいに。
 少しだけ、ほっとした。
 学校に来れば大丈夫なのかもしれない。
 授業を受けて、友達と話して、昼休みにくだらないことで笑う。
 いつもの一日。
 それだけなら、きっと何も苦しくない。
 けれど、時計の針が進むたびに、少しずつ胸の奥が重くなっていった。
 
 昼休み。
 弁当を食べながら、何気なく時計を見る。
 十二時四十八分。
 まだ大丈夫。
 そう思った直後、頭の中に浮かんだ。
 ――あと数時間で、部活。
 箸が止まった。

「紬?」
「ん?」
「どうしたの?」
「いや、なんでもない」

 笑って、また箸を動かす。
 大丈夫。
 いつも通り今日も行けばいい。
 今まで毎日行ったんだから。
 そう自分に言い聞かせたけれど、ふと昨日の光景が頭の中に浮かんだ。
 顧問の声。
 陽菜に向けられた言葉。
 後輩の小さな声。
 そして、帰り道に流れた涙。
 胸の奥が、きゅっと縮む。
 私は弁当の卵焼きを見つめた。
 食欲が、少しだけなくなっていた。
 無理やりご飯を喉の奥へ押し込み、ほどなくして午後の授業が始まる。
 黒板の文字をノートに写す。
 先生の話を聞く。
 いつも通りにしているつもりなのに、頭の片隅にはずっと同じことが残っていた。
 放課後、どうしよう。
 行きたくない。
 でも、休む理由なんてない。
 熱があるわけじゃない。
 怪我をしたわけでもない。
 ただ、行きたくない。
 そんなことで休んでいいのだろうか。
 授業が終わる頃には、時計を見るのが怖くなっていた。
 そして、最後のチャイムが鳴った。
 教室が一気にざわめき出す。

「紬、部活行こー」

 澪が鞄を持って立ち上がった。
 私は一瞬、返事ができなかった。
 喉の奥が、きゅっと詰まる。

「……ごめん」
「ん?」
「今日、私……」

 言葉が出てこない。
 昨日までなら、何も考えずに「行こ」と言えたのに。
 私は一度、目を伏せた。

「今日、ちょっと体調悪くて……」

 自分の口から出た言葉が、妙に遠く聞こえた。
 嘘だった。
 ただ、心が少し疲れているだけだった。

「え、大丈夫?」

 澪の顔が曇る。

「うん。たぶん大丈夫。ちょっと休めば治ると思う」
「そっか……。じゃあ、今日は無理しない方がいいね」
「うん。ごめん」
「謝らなくていいって。お大事にね」

 澪はそう言って、鞄を肩にかけた。

「じゃあ、また明日」
「……うん。また明日」

 後ろ髪を引かれるような表情をした澪が教室を出ていく。
 私はその背中を見送った。
 責められなかった。
 引き止められもしなかった。
 ただ、「お大事に」と言われただけだった。
 それなのに、胸の奥が少しだけ痛んだ。
 私は、何をしているんだろう。
 罪悪感と自己嫌悪に陥る。
 でも、同時に。
 今日は、あのプールに行かなくていい。
 そう考えると、ほんの少しだけ肩の力が抜けた。
 教室に残っている生徒たちの声が、遠く聞こえる。
 私は鞄を持って、ゆっくりと教室を出た。
 いつもなら、ここから部活へ向かう。
 でも今日はまだ明るい空の下、校門を出る。
 自転車を漕ぎながら、何度も後ろを振り返りそうになった。
 誰かに見られている気がした。
 もちろん、誰もいない。
 家に着くと、制服のままベッドに倒れ込んだ。

「……疲れた」

 誰もいない部屋で呟く。
 部活に行っていないのに。
 何もしていないのに。
 それなのに、ひどく疲れていた。
 おそるおそるスマホを見る。
 部活のグループは、特に何も動いていない。
 私はホッと息を吐いて、画面を閉じた。
 そして、ふと時計を見る。
 いつもなら、今ごろはタイムを取っている頃だった。
 選手たちは泳いでいるだろうか。
 今は何のメニューだろう。
 ちゃんとタイムを取れているかな。
 そんなことを考えて、私は苦笑した。
 今日くらい、考えなくてもいいのに。
 でも、気づけばまた時計を見ていた。
 いつもの時間。
 いつもの部活。
 いつもの私。
 ただ今日は、その中に私だけがいなかった。