その日の練習が終わるころには、空はもう薄暗くなっていた。
選手たちがプールから上がり、シャワーへ向かっていく。
私は散らばったビート板を拾い集めながら、いつものように片付けをしていた。
「じゃあ、最後にちょっとだけミーティングするぞー」
顧問の声が響く。
部員たちがプールサイドに集まっていく。
私はノートを閉じて、少し離れたところに立った。
「まず、陽菜が作ってくれたこれなんだけど」
顧問が、入り口に貼られていたグラフを指差した。
その瞬間、胸の奥がわずかにざわついた。
「昨日までのタイムがまとまってて、かなり見やすい。自分のタイムがどう変わってるかも分かるし、練習のときに意識しやすいと思う」
「ありがとうございます」
陽菜が少し照れたように頭を下げる。
「こういうの、今後もできそうなときは頼むな」
「はい」
周りから、小さく拍手が起こった。
「陽菜先輩、すげー」
後ろの方から、ボソリと誰かの声が聞こえた。
そっと振り返る。
後輩が、隣の子に小さな声で話していた。
「生徒会長もやってるのに、こういうのも作れるんだ」
「ね。すごいよね」
その言葉が、強く耳に残った。
私は陽菜をチラリと見る。
陽菜は困ったように笑っていた。
「いや、そんな大したことじゃないよ」
「いやいや、助かってるから」
顧問が笑う。
また、みんなが笑った。
私も笑った。
たぶん、ちゃんと笑えていたと思う。
「……すごいね」
誰に向けたのか分からないくらい小さな声で呟く。
陽菜がこっちを向いた。
「紬?」
「ん?」
「どうしたの?」
「なんでもない」
私は無理やり口角を上げた。
「ほんと?」
「うん」
陽菜は少し首を傾げたけれど、それ以上は何も言わなかった。
荒く揺れている心の波を必死に抑え込んでいると、ミーティングがいつの間にか終わっていた。
「じゃあ、今日はここまで。気をつけて帰れよー」
顧問の声を合図に、部員たちが一斉に動き出した。
「紬、一緒に帰ろー」
澪が鞄を肩にかけながら、こちらを振り向く。
「あー……ごめん。私、コンビニ寄ってから帰る」
「コンビニ? 何買うの?」
「んー……ちょっとお菓子」
「じゃあ私も行く」
「いや、吟味したいからさ」
「そっか?」
「うん。先帰ってて」
澪は少しだけ私の顔を覗き込んだ。
「……分かった。じゃあ、また明日ね」
「うん。また明日」
澪が手を振って、先に歩いていく。
私はその背中が見えなくなるまで、笑って手を振り返した。
そして、誰も見ていないところで、ゆっくり息を吐いた。
……気づいた、かな。
少しだけ不安になった。
でも仲の良い澪にすら、今の自分を見られたくなかった。
苦しかった。
何が、と聞かれても、はっきりとは言えない。
ただ、とにかく胸が苦しくて仕方なかった。
陽菜が悪いわけじゃない。
先生も悪くない。
後輩だって、ただ「すごい」と褒めただけだ。
分かっている。
分かっているのに、胸の奥に溜まったものが、どうしても消えてくれなかった。
夕方の空は、薄いオレンジ色をしていた。
自転車の鍵を開ける。
サドルにまたがって、ペダルを踏み込む。
一回。
二回。
学校を出る。
いつも通る道だった。
なのに、今日はやけに長く感じた。
ペダルを踏むたびに、さっきの言葉が頭の中に浮かんでくる。
――陽菜先輩、すげー。
――生徒会長もやってるのに。
――こういうのも作れるんだ。
「……すごいよね」
誰もいない道で、ぽつりと呟いた。
自分で言って、自分で苦しくなった。
ハンドルを握る手に力が入る。
視界が滲んだ。
「……なんで」
慌てて目を擦る。
でも、止まらなかった。
涙が頬を伝って、耳のあたりまで流れていく。
私は自転車を漕ぎ続けた。
泣いているところなんて、誰にも見られたくなかった。
だから、止まらなかった。
赤信号で自転車を止める。
俯いたまま、袖で目元を拭う。
信号が青に変わる。
またペダルを踏む。
……今日だってちゃんとやったよね、私。
タイムを取った。
記録を書いた。
道具を出して、片付けた。
確かに、ふざけるときもある。
陽菜みたいに、プラスアルファのことも考えつかない。
でも、毎日ちゃんと、“当たり前”をやっている。
誰かに言われたからじゃない。
褒めてもらうためでもない。
ただ、明日も部活があるから。
明日もみんなが泳ぐから。
だから私は、今日もここにいた。
それなのに。
どうして私は、何もしていないみたいな気持ちになるんだろう。
どうして、私の“当たり前”は、何でもないものみたいに消えてしまうんだろう。
そう思った瞬間、胸の奥がぎゅっと縮んだ。
悔しい。
悲しい。
でもそれ以上に、そんなことを考えてしまう自分が、恥ずかしかった。
陽菜はすごい。
私だって、それを分かっている。
自分のやれることを探して、行動に移している。
紛れもない陽菜の努力だ。
なのに、羨ましいと思ってしまう。
私も褒められたいと思ってしまう。
そんな自分が、嫌だった。
涙で滲んだ道路が、街灯の光をぼんやりと伸ばしていた。
私はそれを見ないようにして、ただ家へ向かって自転車を漕いだ。
選手たちがプールから上がり、シャワーへ向かっていく。
私は散らばったビート板を拾い集めながら、いつものように片付けをしていた。
「じゃあ、最後にちょっとだけミーティングするぞー」
顧問の声が響く。
部員たちがプールサイドに集まっていく。
私はノートを閉じて、少し離れたところに立った。
「まず、陽菜が作ってくれたこれなんだけど」
顧問が、入り口に貼られていたグラフを指差した。
その瞬間、胸の奥がわずかにざわついた。
「昨日までのタイムがまとまってて、かなり見やすい。自分のタイムがどう変わってるかも分かるし、練習のときに意識しやすいと思う」
「ありがとうございます」
陽菜が少し照れたように頭を下げる。
「こういうの、今後もできそうなときは頼むな」
「はい」
周りから、小さく拍手が起こった。
「陽菜先輩、すげー」
後ろの方から、ボソリと誰かの声が聞こえた。
そっと振り返る。
後輩が、隣の子に小さな声で話していた。
「生徒会長もやってるのに、こういうのも作れるんだ」
「ね。すごいよね」
その言葉が、強く耳に残った。
私は陽菜をチラリと見る。
陽菜は困ったように笑っていた。
「いや、そんな大したことじゃないよ」
「いやいや、助かってるから」
顧問が笑う。
また、みんなが笑った。
私も笑った。
たぶん、ちゃんと笑えていたと思う。
「……すごいね」
誰に向けたのか分からないくらい小さな声で呟く。
陽菜がこっちを向いた。
「紬?」
「ん?」
「どうしたの?」
「なんでもない」
私は無理やり口角を上げた。
「ほんと?」
「うん」
陽菜は少し首を傾げたけれど、それ以上は何も言わなかった。
荒く揺れている心の波を必死に抑え込んでいると、ミーティングがいつの間にか終わっていた。
「じゃあ、今日はここまで。気をつけて帰れよー」
顧問の声を合図に、部員たちが一斉に動き出した。
「紬、一緒に帰ろー」
澪が鞄を肩にかけながら、こちらを振り向く。
「あー……ごめん。私、コンビニ寄ってから帰る」
「コンビニ? 何買うの?」
「んー……ちょっとお菓子」
「じゃあ私も行く」
「いや、吟味したいからさ」
「そっか?」
「うん。先帰ってて」
澪は少しだけ私の顔を覗き込んだ。
「……分かった。じゃあ、また明日ね」
「うん。また明日」
澪が手を振って、先に歩いていく。
私はその背中が見えなくなるまで、笑って手を振り返した。
そして、誰も見ていないところで、ゆっくり息を吐いた。
……気づいた、かな。
少しだけ不安になった。
でも仲の良い澪にすら、今の自分を見られたくなかった。
苦しかった。
何が、と聞かれても、はっきりとは言えない。
ただ、とにかく胸が苦しくて仕方なかった。
陽菜が悪いわけじゃない。
先生も悪くない。
後輩だって、ただ「すごい」と褒めただけだ。
分かっている。
分かっているのに、胸の奥に溜まったものが、どうしても消えてくれなかった。
夕方の空は、薄いオレンジ色をしていた。
自転車の鍵を開ける。
サドルにまたがって、ペダルを踏み込む。
一回。
二回。
学校を出る。
いつも通る道だった。
なのに、今日はやけに長く感じた。
ペダルを踏むたびに、さっきの言葉が頭の中に浮かんでくる。
――陽菜先輩、すげー。
――生徒会長もやってるのに。
――こういうのも作れるんだ。
「……すごいよね」
誰もいない道で、ぽつりと呟いた。
自分で言って、自分で苦しくなった。
ハンドルを握る手に力が入る。
視界が滲んだ。
「……なんで」
慌てて目を擦る。
でも、止まらなかった。
涙が頬を伝って、耳のあたりまで流れていく。
私は自転車を漕ぎ続けた。
泣いているところなんて、誰にも見られたくなかった。
だから、止まらなかった。
赤信号で自転車を止める。
俯いたまま、袖で目元を拭う。
信号が青に変わる。
またペダルを踏む。
……今日だってちゃんとやったよね、私。
タイムを取った。
記録を書いた。
道具を出して、片付けた。
確かに、ふざけるときもある。
陽菜みたいに、プラスアルファのことも考えつかない。
でも、毎日ちゃんと、“当たり前”をやっている。
誰かに言われたからじゃない。
褒めてもらうためでもない。
ただ、明日も部活があるから。
明日もみんなが泳ぐから。
だから私は、今日もここにいた。
それなのに。
どうして私は、何もしていないみたいな気持ちになるんだろう。
どうして、私の“当たり前”は、何でもないものみたいに消えてしまうんだろう。
そう思った瞬間、胸の奥がぎゅっと縮んだ。
悔しい。
悲しい。
でもそれ以上に、そんなことを考えてしまう自分が、恥ずかしかった。
陽菜はすごい。
私だって、それを分かっている。
自分のやれることを探して、行動に移している。
紛れもない陽菜の努力だ。
なのに、羨ましいと思ってしまう。
私も褒められたいと思ってしまう。
そんな自分が、嫌だった。
涙で滲んだ道路が、街灯の光をぼんやりと伸ばしていた。
私はそれを見ないようにして、ただ家へ向かって自転車を漕いだ。
