放課後。
私はいつも通り倉庫を開けて、ビート板やコーンを運び出す。
「紬ー」
後ろから声がした。
振り返ると、水着に着替えた、部員の澪が立っていた。
「なに?」
「今日のメニュー、どんな感じ?」
「ああ。これだよ」
顧問から渡されたメニュー表を差し出す。
澪が目を落とした途端、あからさまに顔をしかめた。
「げ。これキツいんだよなー」
「際どいサイクルだよね」
「五十秒サイクルのところさ、マネージャー様の力で一分に変更してよ!」
「やだよ。先生にバレたら怒られるもん」
「ポテト奢るからさー!」
「んー……それは悩ましいな」
「悩むんだ」
澪が吹き出す。
「ポテトは大事だからね」
「そこは揺らがないんだ」
「もちろん」
私もつられて笑った。
こういうくだらないやり取りが、私は結構好きだった。
マネージャーだからといって、いつも真面目にしているわけじゃない。
部員と一緒になって笑うこともあるし、練習前にくだらない話をすることもある。
そうしているうちに、いつの間にか部員たちが集まり始めていた。
「ほら、もう始めるよ」
「えー、紬が一分にしてくれるまで待つ!」
「しないって」
「ケチ!」
澪が笑いながら、プールへ向かっていく。
「はいはい、早く行って」
「はーい、マネージャー様!」
背中を押すように手を振ると、澪が水の中へ飛び込んだ。
白い水しぶきが上がる。
「冷たっ!」
「自分から入ったんじゃん」
「思ったより冷たかった!」
また笑い声が起こる。
私は笑みの余韻を残したまま、ストップウォッチを握り直した。
部員たちの声が重なって、プールサイドが少しずつ騒がしくなっていく。
いつもの放課後だった。
私はノートを開く。
今日の日付を書く。
その隣に、種目を書く。
何度も繰り返してきた動作だから、手が勝手に動いた。
「じゃあ、次いくよー」
選手たちがスタート台に並ぶ。
さっきまでふざけていた澪も、今は真剣な顔をしている。
私はストップウォッチのボタンに指を置いた。
プールの水面が、ゆっくり揺れている。
さっきまで笑っていた声も、スタートの合図を待つように、少しずつ静かになっていった。
「よーい……はいっ!」
スタートの合図とともに、選手たちが一斉に泳ぎ出す。
再び水しぶきが上がる。
私は水の中を泳ぐ選手たちを目で追いながら、ストップウォッチを押していく。
ピッ。
掛け声
ピッ。
掛け声。
ピッ。
それを何回か繰り返していると、プールサイドの入り口から足音が聞こえた。
「遅くなってごめん」
振り返ると、陽菜だった。
「思ったより長引いちゃって……ごめんね」
「ううん。生徒会お疲れさま」
「紬もお疲れさま」
そう言って、陽菜はプールを見渡した。
私は再びストップウォッチに目を戻す。
「みんないつも以上に真剣だね」
「うん。大会近いから」
「そっか」
陽菜はそのまま、プールサイドをゆっくり歩いていく。
私はタイムを取りながら、その姿を横目で追った。
陽菜は練習に途中から来ることが多い。
それなのに、来るとすぐに周りを見ている。
何か変わったことがないか。
足りないものはないか。
そんなことを、当たり前みたいに探している。
私はいつもここにいる。
なのに、そんなふうに周りを見ることなんて、ほとんどできていなかった。
そう思った瞬間、胸の奥が小さく縮んだ。
私は慌ててノートに視線を戻した。
そのときだった。
「あれ?」
陽菜の声がした。
「先生、これってまだあります?」
「ん?」
顧問が顔を上げる。
「塩素。ここに置いてあるやつ」
陽菜が倉庫の中を指差した。
「ああ、あるけど……」
「もう結構少ないですよ」
私は思わずそちらを見る。
棚の隅に置かれた容器。
確かに、いつの間にか残りが少なくなっていた。
「本当だな。危なかった」
顧問が容器を持ち上げる。
「注文しとくか」
「はい」
陽菜が頷いた。
「よく気づいたな」
「この前より減ってたので」
陽菜は、さらりとそれだけ言って笑った。
「助かったよ」
「いえ」
ほんの数秒の会話だった。
誰も気に留めていない。
陽菜だって、もう別のことを見ている。
なのに、私はその場から動けなかった。
塩素の容器を見つめる。
毎日ここにいるのに、私は気づかなかった。
今日も。
昨日も。
その前も。
ずっと、この場所にいたのに。
「紬?」
陽菜に呼ばれて、はっとする。
「え?」
「次、もうすぐだよ」
「あ……うん」
私は慌ててプールを見る。
選手たちが、スタート台に戻ってきている。
「ごめん。……よーい、はいっ!」
ストップウォッチを握り直し、スタートの掛け声。
いつものように。
いつも通りに。
なのに、胸の奥だけが、どうしても追いつかなかった。
私はいつも通り倉庫を開けて、ビート板やコーンを運び出す。
「紬ー」
後ろから声がした。
振り返ると、水着に着替えた、部員の澪が立っていた。
「なに?」
「今日のメニュー、どんな感じ?」
「ああ。これだよ」
顧問から渡されたメニュー表を差し出す。
澪が目を落とした途端、あからさまに顔をしかめた。
「げ。これキツいんだよなー」
「際どいサイクルだよね」
「五十秒サイクルのところさ、マネージャー様の力で一分に変更してよ!」
「やだよ。先生にバレたら怒られるもん」
「ポテト奢るからさー!」
「んー……それは悩ましいな」
「悩むんだ」
澪が吹き出す。
「ポテトは大事だからね」
「そこは揺らがないんだ」
「もちろん」
私もつられて笑った。
こういうくだらないやり取りが、私は結構好きだった。
マネージャーだからといって、いつも真面目にしているわけじゃない。
部員と一緒になって笑うこともあるし、練習前にくだらない話をすることもある。
そうしているうちに、いつの間にか部員たちが集まり始めていた。
「ほら、もう始めるよ」
「えー、紬が一分にしてくれるまで待つ!」
「しないって」
「ケチ!」
澪が笑いながら、プールへ向かっていく。
「はいはい、早く行って」
「はーい、マネージャー様!」
背中を押すように手を振ると、澪が水の中へ飛び込んだ。
白い水しぶきが上がる。
「冷たっ!」
「自分から入ったんじゃん」
「思ったより冷たかった!」
また笑い声が起こる。
私は笑みの余韻を残したまま、ストップウォッチを握り直した。
部員たちの声が重なって、プールサイドが少しずつ騒がしくなっていく。
いつもの放課後だった。
私はノートを開く。
今日の日付を書く。
その隣に、種目を書く。
何度も繰り返してきた動作だから、手が勝手に動いた。
「じゃあ、次いくよー」
選手たちがスタート台に並ぶ。
さっきまでふざけていた澪も、今は真剣な顔をしている。
私はストップウォッチのボタンに指を置いた。
プールの水面が、ゆっくり揺れている。
さっきまで笑っていた声も、スタートの合図を待つように、少しずつ静かになっていった。
「よーい……はいっ!」
スタートの合図とともに、選手たちが一斉に泳ぎ出す。
再び水しぶきが上がる。
私は水の中を泳ぐ選手たちを目で追いながら、ストップウォッチを押していく。
ピッ。
掛け声
ピッ。
掛け声。
ピッ。
それを何回か繰り返していると、プールサイドの入り口から足音が聞こえた。
「遅くなってごめん」
振り返ると、陽菜だった。
「思ったより長引いちゃって……ごめんね」
「ううん。生徒会お疲れさま」
「紬もお疲れさま」
そう言って、陽菜はプールを見渡した。
私は再びストップウォッチに目を戻す。
「みんないつも以上に真剣だね」
「うん。大会近いから」
「そっか」
陽菜はそのまま、プールサイドをゆっくり歩いていく。
私はタイムを取りながら、その姿を横目で追った。
陽菜は練習に途中から来ることが多い。
それなのに、来るとすぐに周りを見ている。
何か変わったことがないか。
足りないものはないか。
そんなことを、当たり前みたいに探している。
私はいつもここにいる。
なのに、そんなふうに周りを見ることなんて、ほとんどできていなかった。
そう思った瞬間、胸の奥が小さく縮んだ。
私は慌ててノートに視線を戻した。
そのときだった。
「あれ?」
陽菜の声がした。
「先生、これってまだあります?」
「ん?」
顧問が顔を上げる。
「塩素。ここに置いてあるやつ」
陽菜が倉庫の中を指差した。
「ああ、あるけど……」
「もう結構少ないですよ」
私は思わずそちらを見る。
棚の隅に置かれた容器。
確かに、いつの間にか残りが少なくなっていた。
「本当だな。危なかった」
顧問が容器を持ち上げる。
「注文しとくか」
「はい」
陽菜が頷いた。
「よく気づいたな」
「この前より減ってたので」
陽菜は、さらりとそれだけ言って笑った。
「助かったよ」
「いえ」
ほんの数秒の会話だった。
誰も気に留めていない。
陽菜だって、もう別のことを見ている。
なのに、私はその場から動けなかった。
塩素の容器を見つめる。
毎日ここにいるのに、私は気づかなかった。
今日も。
昨日も。
その前も。
ずっと、この場所にいたのに。
「紬?」
陽菜に呼ばれて、はっとする。
「え?」
「次、もうすぐだよ」
「あ……うん」
私は慌ててプールを見る。
選手たちが、スタート台に戻ってきている。
「ごめん。……よーい、はいっ!」
ストップウォッチを握り直し、スタートの掛け声。
いつものように。
いつも通りに。
なのに、胸の奥だけが、どうしても追いつかなかった。
