水面に残らない

「これ、陽菜が作ったの?」

 顧問が、プールの入り口に貼られた一枚の紙を覗き込んだ。

「はい。昨日までのタイム、まとめてみました」

 陽菜が紙の端を指で押さえる。
 そこには、選手全員の名前と数字が並んでいた。
 日付ごとに引かれた線を目で追えば、どこが伸びて、どこでタイムが落ちたのかが、一目で分かる。

「すごいな。こういうのあると分かりやすい」
「本当ですか?」
「うん。練習にも使えるし、先生も助かるよ」

 陽菜の頬が、ふっと緩んだ。

「よかったです」
 
 その横顔を見ていると、私まで嬉しくなった。
 本当に、そう思った。
 陽菜が褒められるのは、嬉しい。
 だって、友達だから。
 なのに、胸の奥に小さなささくれが引っかかった。
 ほんの少し。
 気にしなければ、気づかないくらいの痛みだった。
 私はそれに、気づかないふりをした。

「すごいね」

 声に出してみる。
 ちゃんと、いつも通りの声だった。
 陽菜がこちらを向いて笑う。

「ありがとう」

 私も笑い返した。
 ちゃんと笑えている。
 なのに、自分の口元だけが、ほんの少し遅れてついてきたような気がした。
 手の中のストップウォッチに目を落とす。
 黒い画面には、さっき取ったばかりのタイムが表示されていた。
 三十一秒八四。
 私はその数字をノートに書き写した。
 選手の名前。
 日付。
 種目。
 タイム。
 いつものことだった。
 今日も、放課後はずっとここにいる。
 練習が始まる前に道具を並べて、タイムを取って、記録を書いて、足りなくなったものを取りに行く。
 練習が終われば、散らばった道具を元の場所に戻す。
 昨日もやった。
 一昨日もやった。
 その前の日も。
 たぶん、明日も同じことをする。
 そうやって繰り返してきた水泳部のマネージャーとしての毎日は、私にとってあまりにも当たり前で、わざわざ数えるものでもなかった。

「ねえ、これさ」

 陽菜が、私のノートを覗き込んだ。

「貸してもらっていい?」
「え?」
「グラフ、また更新したくて」
「ああ……」

 私は頷いて、ノートを差し出した。

「あのグラフ、すごく見やすいね」
「そう? よかった」
「私には思いつかなかったから、すごい」
「褒めすぎだって」

 陽菜は照れたように笑いながら、ノートを受け取った。
 その笑顔を見て、また胸の奥が少しだけ痛んだ。
 私は何も言わなかった。
 風が吹いて、入り口に貼られた紙の端が、ぱたぱたと揺れる。
 私はもう一度、ストップウォッチを握り直した。
 プールでは、さっき泳いだ選手の立てた波が、まだ水面に残っていた。
 白く砕けた水が、ゆっくりと広がっていく。
 さっきまで大きく揺れていた水面は、時間が経つにつれて少しずつ静かになっていった。
 やがて、何事もなかったように元の水面に戻っていく。
 私はそれを、ぼんやり眺めていた。
 ふと、思った。
 私が今日やったことも、こういうふうに消えていくのだろうか。
 誰にも気づかれないまま、私自身でさえいつか忘れてしまうように。
 そう思った途端、胸の奥に、また小さな痛みが走った。
 今度は、さっきより少しだけ深い。
 私は、その痛みの名前を考える前に、視線を逸らした。

「次、タイム取るよー」

 できるだけ、いつも通りの声を出す。

「はーい」

 選手たちがスタート台に並ぶ。
 私はストップウォッチのボタンに指を置いた。
 プールの水面が、またゆっくりと揺れ始める。
 ピッ。
 聞き慣れた小さな音が、いつもより長く、耳の奥に残った。