昨日に始業式が行われて今日、三年の教室であの紙がまた配られた。様式は去年とまったく同じだった。
担任も変わらなかった。それで来週の月曜までに出せということと、ちゃんと保護者と話せと言われた。
その日は真っ直ぐ家に帰った。夕飯のあと、母がテーブルに肘をついて調査票を眺めている。
「何になりたいかって、まだ分かんない。そこから始めると何も出てこないんだよね。ずっとそれで止まってるから、考え方を変える。だから、自分が楽しいと思えたことのほうから考えてみようと思う。何してるときが楽しかったかなって」
母は口を挟まずに聞いていた。
言葉にしてみると、間の抜けた話に聞こえる。将来を決めるにしては軽すぎるが、美月も最後は自分に聞いたと言っていた。正しいかどうかではなく、納得できるかどうかを。
春は指を折りながら数え上げた。夕菜から三者面談の話を聞いていたとき、翔が窓の際で自分が本気なのか分からないと打ち明けたとき、美月が母親に絵を見せた話をしてくれたとき。どれも自分の話ではなかったのにあの時間を長いとは思わなかった。
「人の話聞くの、けっこう好きかも」
「そうかもね。あんた、友達が来ると、自分の話をしないんだよね」
「そう?」
「そう。帰ったあとに、あの子こういうことがあったんだって、って報告してくるの。自分が何して遊んだかは、一回も言ったことない」
覚えていないのに、母は覚えている。
「じゃあ、調べてみよう」
母がテーブルの向かいから身を乗り出してくる。春がスマホで検索すると、心理学部、カウンセラー、公認心理師と出てくる。国家資格があることをそのとき初めて知ったし、大学院まで行かないと受けられないのもあった。
それに資格を取っても食べていけるとは限らないことも画面に並んで書いてある。
「これ、六年いるって」
「そうみたいね」
「高いね」
「高い」
「無理ってこと?」
「無理とは言ってない」
母は画面から目を離さずに言う。
「ただ、四年で終わらない前提で考えないとね」
十一時を回るころに母は先に寝てしまったが、春は日付が変わるまで調べていた。
土曜の午前中、調査票を机に広げた。
第一志望の欄には心理学科のある県内の大学の名前を書いて、第二志望には学部の名前が少し違うもう一つを書く。どちらもオープンキャンパスの日程まで確認してあった。
書いた字はいつもより少し大きかった。
進路希望の選択肢に戻って四年制大学を丸で囲み、残ったのは志望理由の欄だけだった。
ペンを持ったまま、しばらく動かない。書きたいことはあるのに、どれも途中で嘘になる。心理学を学びたいですと書けば、学んだあとどうするのかを自分で問い返していた。
書いては消し二度消して三度目にこう書いた。
『人の話を聞くことに興味があるので、心理学を学べる大学を志望します。将来何になるかは、まだ決まっていません。大学で学びながら考えたいです』
月曜の朝のホームルームで、調査票は後ろの席から順に集められていく。
放課後、下駄箱へ向かう途中の廊下で呼び止められる。担任が手にしているのは、見覚えのある紙一枚だけだった。
「相沢。ちょっと詳しく聞いとこうと思って」
差し出された紙を受け取る。三度目でやっと書けた三行は、人の手を通って戻ってくると、ずいぶん短く見えた。
「まだ決まってないって書いてあるだろ。去年は未定に丸をしていたけど、これも同じようなものじゃないのか」
同じだと言われれば、そのとおりではある。去年の秋も今も、この先どうなるかは分からないままなのだから。
「同じです。でも、去年の未定とは違います」
春はそう答えて紙を返した。どこが違うのかと聞かれたら、うまく説明できる自信はない。けれど担任は何も聞かず、受け取った紙を二つに折って胸ポケットにしまった。
「書き直せって言われるかと思いました」
「言わないよ」
「いいんですか、決まってなくて」
「よくはないな。でも去年は志望校の欄も空いていたけど今年は埋まってる。埋めたうえで決まってないって書いてある」
「はい」
「まあ、少しは前進しているな。行っていいぞ」
歩き出したところで、後ろからもう一言だけ飛んできた。
「秋にもう一回あるからな、これ」
昇降口までの廊下の窓は、三月に呼び出された日のようには曇っていなかった。
担任も変わらなかった。それで来週の月曜までに出せということと、ちゃんと保護者と話せと言われた。
その日は真っ直ぐ家に帰った。夕飯のあと、母がテーブルに肘をついて調査票を眺めている。
「何になりたいかって、まだ分かんない。そこから始めると何も出てこないんだよね。ずっとそれで止まってるから、考え方を変える。だから、自分が楽しいと思えたことのほうから考えてみようと思う。何してるときが楽しかったかなって」
母は口を挟まずに聞いていた。
言葉にしてみると、間の抜けた話に聞こえる。将来を決めるにしては軽すぎるが、美月も最後は自分に聞いたと言っていた。正しいかどうかではなく、納得できるかどうかを。
春は指を折りながら数え上げた。夕菜から三者面談の話を聞いていたとき、翔が窓の際で自分が本気なのか分からないと打ち明けたとき、美月が母親に絵を見せた話をしてくれたとき。どれも自分の話ではなかったのにあの時間を長いとは思わなかった。
「人の話聞くの、けっこう好きかも」
「そうかもね。あんた、友達が来ると、自分の話をしないんだよね」
「そう?」
「そう。帰ったあとに、あの子こういうことがあったんだって、って報告してくるの。自分が何して遊んだかは、一回も言ったことない」
覚えていないのに、母は覚えている。
「じゃあ、調べてみよう」
母がテーブルの向かいから身を乗り出してくる。春がスマホで検索すると、心理学部、カウンセラー、公認心理師と出てくる。国家資格があることをそのとき初めて知ったし、大学院まで行かないと受けられないのもあった。
それに資格を取っても食べていけるとは限らないことも画面に並んで書いてある。
「これ、六年いるって」
「そうみたいね」
「高いね」
「高い」
「無理ってこと?」
「無理とは言ってない」
母は画面から目を離さずに言う。
「ただ、四年で終わらない前提で考えないとね」
十一時を回るころに母は先に寝てしまったが、春は日付が変わるまで調べていた。
土曜の午前中、調査票を机に広げた。
第一志望の欄には心理学科のある県内の大学の名前を書いて、第二志望には学部の名前が少し違うもう一つを書く。どちらもオープンキャンパスの日程まで確認してあった。
書いた字はいつもより少し大きかった。
進路希望の選択肢に戻って四年制大学を丸で囲み、残ったのは志望理由の欄だけだった。
ペンを持ったまま、しばらく動かない。書きたいことはあるのに、どれも途中で嘘になる。心理学を学びたいですと書けば、学んだあとどうするのかを自分で問い返していた。
書いては消し二度消して三度目にこう書いた。
『人の話を聞くことに興味があるので、心理学を学べる大学を志望します。将来何になるかは、まだ決まっていません。大学で学びながら考えたいです』
月曜の朝のホームルームで、調査票は後ろの席から順に集められていく。
放課後、下駄箱へ向かう途中の廊下で呼び止められる。担任が手にしているのは、見覚えのある紙一枚だけだった。
「相沢。ちょっと詳しく聞いとこうと思って」
差し出された紙を受け取る。三度目でやっと書けた三行は、人の手を通って戻ってくると、ずいぶん短く見えた。
「まだ決まってないって書いてあるだろ。去年は未定に丸をしていたけど、これも同じようなものじゃないのか」
同じだと言われれば、そのとおりではある。去年の秋も今も、この先どうなるかは分からないままなのだから。
「同じです。でも、去年の未定とは違います」
春はそう答えて紙を返した。どこが違うのかと聞かれたら、うまく説明できる自信はない。けれど担任は何も聞かず、受け取った紙を二つに折って胸ポケットにしまった。
「書き直せって言われるかと思いました」
「言わないよ」
「いいんですか、決まってなくて」
「よくはないな。でも去年は志望校の欄も空いていたけど今年は埋まってる。埋めたうえで決まってないって書いてある」
「はい」
「まあ、少しは前進しているな。行っていいぞ」
歩き出したところで、後ろからもう一言だけ飛んできた。
「秋にもう一回あるからな、これ」
昇降口までの廊下の窓は、三月に呼び出された日のようには曇っていなかった。


