終業式のあと、美術室の鍵は開いていた。窓が全開になっていて、テレピン油の匂いが薄い。美月は机の上で何かを広げていたが、それは紙ではなく大学のパンフレットだった。
春が入ってきたのを見て、美月が顔を上げる。
「ちょうど連絡しようと思ってた」
冊子の表紙では、母がテーブルに並べていたのとよく似た角度で学生が笑っている。よく見ると、情報デザイン学科と書いてあった。
「大学に行くことにした。でも絵はやめないで並行でやる」
秋の調査票に美月が書いていた専門学校の名前はそこにない。
「専門は?」
「やめたよ」
「やめたって、あんなに」
美月は椅子を一つ引いて春に座れと示した。春が腰を下ろすと、鞄からクリアファイルを出し、中の紙を三枚、春のほうへ向けて机に並べる。学費、四年間の総額、奨学金の返済額、卒業後の月々の支払い。どれも手書きで、定規を使った線が引いてある。
「これ、全部調べたの」
「お母さんと。二回やり直した」
数字は美月が前に言っていたものより大きい。四年のほうが長いのだから当然だった。
「でも、こっちのほうが高いじゃん」
「高い」
「じゃあ、なんで」
「専門行ってもなれないときはなれないから。絵の仕事って学校で決まるわけじゃないし、高校生でやってる人もいるし、美大出ても描いてない人もいる」
夢に近い専門学校へ行くのが正解なのだと、春は決めつけていた。
「だから、なれなかったときのことで選んだ。専門出てなれなかったら、二年と二百八十万がなくなるだけでしょ。大学はなれなくても大卒にはなるから」
「それ、逃げ道ってこと?」
「そう思う?」
四年通うことと二年でやることの、どちらがより本気なのか。それを測る目盛りを春は持っていなかった。
「あのさ、それって、どっちつかずじゃない?」
出てきたのはいちばん雑な言葉だったが、美月は笑った。
「そうかもね、どっちつかずかも。ほんとにそう」
紙を揃えてファイルに戻しながら美月は続けた。
「両方やるって、両方中途半端になるかもしれないし。実際そうなる人のほうが多いと思う」
「わかってて選んだの?」
「わかってても選ぶしかなかった。ていうか」
少し考えてから、美月は言い直した。
「じっくり考えて、それで納得できるか自分に聞いた」
「納得ね……」
「正しいかどうかは、わかんないから。でも、今の私にはこれが一番納得できる」
美月が立ち上がって窓を閉めに行った。
「あとさ。お母さんに見てもらった」
「絵?」
「コンテストに出すやつ。一枚だけ」
「なんて言われた」
「よくわかんなかったって。でも、けっこう長いこと見てた。それで、この絵の子はどこ行くところなのって聞かれた」
絵は歩いている後ろ姿を描いたのだと美月は言った。荷物を持っていて、少し先に橋がある。それだけの絵だ。
「それで、どこ行くの」
「決めてない。描いたときは、そこまで考えてなかった」
窓際から戻ってきた美月は、椅子の背に手をかけて立っていた。
「それで上手だねって言われなかったの、たぶん初めて」
「初めて?」
「上手だねって、見なくても言えるじゃん。ちゃんと見てなくても絵さえ置いてあれば言える。でも、この子どこ行くのは言えないでしょ。中身まで見てないと出てこないもん」
「美月、嬉しいの?」
「悪い気はしないね」
美月がパンフレットとファイルを鞄にしまうあいだ、春は座ったまま、さっきの言葉を思い返していた。
どっちつかずかもと美月は認めた。認めたうえで進んでいる。
春がずっと探していたのは正しいほうだった。正しいほうさえわかれば選べる。わからないから選べない。その順番でしか考えてこなかった。
美月はその順番を使っていない。正しいかどうかは保留にしたまま、納得できるかどうかだけで選んだ。
「春、鍵閉めるよ」
呼ばれるまで、春は椅子から立つのを忘れていた。
春が入ってきたのを見て、美月が顔を上げる。
「ちょうど連絡しようと思ってた」
冊子の表紙では、母がテーブルに並べていたのとよく似た角度で学生が笑っている。よく見ると、情報デザイン学科と書いてあった。
「大学に行くことにした。でも絵はやめないで並行でやる」
秋の調査票に美月が書いていた専門学校の名前はそこにない。
「専門は?」
「やめたよ」
「やめたって、あんなに」
美月は椅子を一つ引いて春に座れと示した。春が腰を下ろすと、鞄からクリアファイルを出し、中の紙を三枚、春のほうへ向けて机に並べる。学費、四年間の総額、奨学金の返済額、卒業後の月々の支払い。どれも手書きで、定規を使った線が引いてある。
「これ、全部調べたの」
「お母さんと。二回やり直した」
数字は美月が前に言っていたものより大きい。四年のほうが長いのだから当然だった。
「でも、こっちのほうが高いじゃん」
「高い」
「じゃあ、なんで」
「専門行ってもなれないときはなれないから。絵の仕事って学校で決まるわけじゃないし、高校生でやってる人もいるし、美大出ても描いてない人もいる」
夢に近い専門学校へ行くのが正解なのだと、春は決めつけていた。
「だから、なれなかったときのことで選んだ。専門出てなれなかったら、二年と二百八十万がなくなるだけでしょ。大学はなれなくても大卒にはなるから」
「それ、逃げ道ってこと?」
「そう思う?」
四年通うことと二年でやることの、どちらがより本気なのか。それを測る目盛りを春は持っていなかった。
「あのさ、それって、どっちつかずじゃない?」
出てきたのはいちばん雑な言葉だったが、美月は笑った。
「そうかもね、どっちつかずかも。ほんとにそう」
紙を揃えてファイルに戻しながら美月は続けた。
「両方やるって、両方中途半端になるかもしれないし。実際そうなる人のほうが多いと思う」
「わかってて選んだの?」
「わかってても選ぶしかなかった。ていうか」
少し考えてから、美月は言い直した。
「じっくり考えて、それで納得できるか自分に聞いた」
「納得ね……」
「正しいかどうかは、わかんないから。でも、今の私にはこれが一番納得できる」
美月が立ち上がって窓を閉めに行った。
「あとさ。お母さんに見てもらった」
「絵?」
「コンテストに出すやつ。一枚だけ」
「なんて言われた」
「よくわかんなかったって。でも、けっこう長いこと見てた。それで、この絵の子はどこ行くところなのって聞かれた」
絵は歩いている後ろ姿を描いたのだと美月は言った。荷物を持っていて、少し先に橋がある。それだけの絵だ。
「それで、どこ行くの」
「決めてない。描いたときは、そこまで考えてなかった」
窓際から戻ってきた美月は、椅子の背に手をかけて立っていた。
「それで上手だねって言われなかったの、たぶん初めて」
「初めて?」
「上手だねって、見なくても言えるじゃん。ちゃんと見てなくても絵さえ置いてあれば言える。でも、この子どこ行くのは言えないでしょ。中身まで見てないと出てこないもん」
「美月、嬉しいの?」
「悪い気はしないね」
美月がパンフレットとファイルを鞄にしまうあいだ、春は座ったまま、さっきの言葉を思い返していた。
どっちつかずかもと美月は認めた。認めたうえで進んでいる。
春がずっと探していたのは正しいほうだった。正しいほうさえわかれば選べる。わからないから選べない。その順番でしか考えてこなかった。
美月はその順番を使っていない。正しいかどうかは保留にしたまま、納得できるかどうかだけで選んだ。
「春、鍵閉めるよ」
呼ばれるまで、春は椅子から立つのを忘れていた。


